『あ、ぁあ、幽々子、嘘よね幽々子! いや、いやああああああああ、ぁあああああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!』
喉が張り裂けんばかりの号哭。
それは誰でもない、紫の叫び。
友を喪った、哀しみの叫び。
朱に染まった西行妖。私と萃香はただ佇む事しか出来なかった。ああ、違うな。不粋だと思ったのだ。永き時を生きる妖怪として、何度も失いを体験してきたであろう紫。普段は気丈に振る舞う紫が流した涙。そこに横槍を入れるのはやってはいけない事だと本能が理解していた。
故に佇む。俯く。黙祷す。
私も萃香も悔しい。歯を食いしばり、血が出るほどに悔しい。幽々子の自尽を止められなかった、幽々子の真の想いを理解出来ていなかった自分達が憎い。恨めしい。
けれどもう遅い。
後悔先に立たず。
『貴様ら、そこをどけい!』
だからなのかも知れない。この時ばかりは、横槍を入れようとする彼の従者の心情を汲み取る事が出来なかった。
『なんだ、妖忌よ』
『友人殿、そこを退けと言っておるのだ』
『ふむ、友人が側にいてはいけないのか。……妖忌よ、そんなに寿命を縮められたいか?』
『押しとおる!』
紫と萃香を背後に、私は妖忌の行く末を阻んだ。
この時の私は、苛立ちが強かったのだ。この従者に。
お前は知っていた筈だろうと。幽々子と最も近い位置にいながら、幽々子の気持ちを理解していなかったなどとほざく訳はないだろう……と。
刀を抜き、斬りかかってきた妖忌に向かって、私は全力を出した。
『魂魄奥義一の太刀。『
妖忌は斬った。〝私を斬るまでの時間を。〟それにより刀を振り上げ、私の肉を絶つまでの時間は短縮される。斬っていないのに、斬った矛盾。その技は千を超えて生きた妖忌が編み出した、本物の
コンマにも満たない時間の中で、私と妖忌は邂逅した。
『時を斬る……か。その妙技見事なり。だが、まだ遅いッッ!」』
妖忌は目を見開いた。自らが時を圧縮した中で、この妖怪は着いてきている。あまつさえ遅いとまで言い放ったのだ。
どんな方法を使ったのか。
それを考える時間なんて無い。迷いは剣筋に繋がる。迷いを抱いてはならないのだ。
『お嬢様の所まで行かせてもらう』
『神を舐めてはならない。……半人半霊風情が』
圧縮された時の中で、妖忌は逆袈裟懸けに刀を振った。振る瞬間、嫌な予感が刀の先から伝わり、痺れが手首をつんざいた。
嫌な予感。妖忌の経験から予測されるほぼ未来予知に近いそれは、ものの見事未来を読み当てる。
『なんだとっ!?』
刀が動かなかった。それは肉が斬れぬとか、骨が断てぬ次元ではない。
────そう、刀は届かなかった。蓮華の指によって。
蓮華は時を斬りながら進む刀を、人さし指と中指で挟んで止めたのだ。
有り得ない───との思いが反芻する。
漫画でよく見る指止め。実際それには卓越した技術と共に、掴む物体を〝視〟なければならない。
タイミングとルートを予測、一度で成功する為には更に観測も必要である。そして必須なのがピンチ力。いわゆる指の力というものだ。
蓮華は全てを満たしていたとは言い難い。しかし、彼女は結んでいたのだ。〝界〟を。
超小規模な結界ーーー『遅延』と『観測』を予測ルート上に展開。更に『加速』の結界を数十に渡って展開し、『干渉』と『強化』の結界も同じように展開されていた。
既に『界を結ぶ程度の能力』を使いこなしていた蓮華には、何の気もない、ただの簡単な作業と一緒であった。
レベルが、次元が違いすぎたのだ。
けれどそれを気付く為には、妖忌にとって遅すぎた。
『妖忌、刀を離すなよ』
この言葉が聞こえたと同時に、天地がひっくり返った。いや、天地ではない。自分だ。自分がひっくり返ったのだ。
亜音速で放たれた足払い。残像も見えぬ超高速。大気はその流れにここぞとばかりに乗って、暴れ、荒れ狂う。
妖忌は見切っていた。その足払いの威力を。そしてルートを。
経験則から為る五体がその足払いに警告を発し、緊急会費を敢行。〝上〟に飛んだのだ。故に天地がひっくり返っているのである。
もしあの足払いを喰らっていれば、もう従者の身ではなくなるだろう。
『良い回避だ。ま、その才能を別の事に活かしてくれ』
『な、何を───────』
蓮華はまるでその遊びに飽きたかのように、乱雑に刀を手放し放り投げる。
決して刀を離さなかった妖忌。その身は刀の行く方向に従い、西行邸に続く長い階段の下へと落ちていった。
『さぁ掃除は終わり。紫……決断してくれ』
『……ぅ、ぅう……グスッ……ひっ……ひっ……』
咽び泣くような声。悲痛を極めた泣き声は、こんな時に限って周りに溶けてくれない。
雨も、風も無く。誤魔化しの効かぬこの場にて、紫は決断に迫られた。
しばしの静寂は世界を支配する。まるでこの世界には誰もいないかのような……寂しく切ない静寂。
紫はおもむろにスキマへと手を伸ばした。中から出てきたのは鏡。その鏡は幽々子を映したかと思うと、白い霊のような物が産み出される。
『……これは幽々子の魂。彼女の魂が今、この現世に留まっている事で一つの境界が出来たわ。死んで意識の無い幽々子と、魂として意識の有る幽々子。その境界を操るの。そうすれば、仮初だけど幽々子は生き残る』
『それは……っ』
萃香が発した戸惑いの声。紫が何をするのか萃香には分からない。しかし彼女のやろうとしている事は理解してしまった。
彼女は禁忌を犯そうとしているのだ。
反魂。依代。魔の世界でも呪と呼ばれるその行為は、まさに神へ唾を吐きかけるような禁忌。
それでも彼女はやった。一心不乱に術を施した。
『……紫、私は貴女に従うよ』
術もほぼ終わり掛けた時、蓮華が紫の肩に頭を乗せて後ろから抱き着いた。
『さぁ紫、どうしたい? 私の能力を持ってすれば、ほぼ万物に対し干渉することが出来る。思いのままってやつさ』
それは神の囁き。悪魔ともとれる冷たい声。
けれど、蓮華も強がっていた。親友の自殺という、彼女自身が初めて経験する死に方。哀しみ。蓮華の心も、少しずつ壊れかかっていた。
紫に最後の判断を任せたのは、ただただ怖かっただけなのかもしれない。紫に判断を任せれば、責任は紫へと向かう。自分が背負わなくて良い。自分は無関係だと。そうやって言い訳をするために。
『……封印出来るかしら。西行妖を。依代と言っても、境界をあやふやにしただけ。亡霊となる彼女が生前の姿を見てしまっては、それはまた新たな死となってしまう』
『……そう、分かったよ』
蓮華は満開の西行妖に近づいた。触れずとも分かる。これは穢れそのものだ。生物が触れて良い代物じゃない。
蓮華は静かに界を結んでいく。だがそこには一つの迷いがあった。
西行妖を封印した時、また誰かがこの封印を解こうとするかもしれない。その中で最も大きな可能性を孕むのは、幽々子か、妖忌だ。しかし一度結んでしまった以上、妖忌が主を殺そうとは思うまい。
解くとするならば……幽々子か。
おおよそ予測が付いたのならば後は簡単だ。けれども蓮華には、界を結び、確実に封印出来る方法をどうしてもとれなかったのだ。
確実な方法とは。それは、『思い出』を内側に収縮させる事である。思い出が無くなれば、執着は生まれず、この桜への好奇心も無くなる。
だが、思い出を無くせば……自分との記憶も、全てが封じられる事となる。
食べ物を、美味しい、美味しいと泣きながら食べた幽々子。
悪戯っ子に仕返しをして、その罰の悪さに耐えられず、結局は仲直りをした幽々子。
星空を見て、想いを馳せる幽々子。
走馬燈のように思い出される日々。
『ぐっ……くぅ……ぅぅ…………』
不甲斐ない。弱すぎる。情に脆すぎる。
蓮華は神として決定的な欠陥があった。それは人に近い心を持っていた事だ。上から見下ろす、言うなれば恣意的観測を用いる神とは違って、彼女の見る目線は人と同じだったのだ。
────『
妖忌の持つ楼観剣が、蓮華の肩越しから大きく鎖骨を斬り裂く。
『妖忌ぃぃッッッ!』
萃香が叫んだ。それは鬼の形相。時を斬って、西行邸の蓮華を斬り裂いた妖忌に、萃香はただならぬ怒りを発する。鬼として、正面から叩き潰す事を信条としている萃香からしたら、妖忌の背後からの奇襲は卑怯と他ならなかった。
『萃香……もういいんだ』
今まさに萃香が飛び掛かろうとした瞬間、蓮華が待ったを掛ける。
『だって……そんな、こいつは……』
萃香が自分の行いの弁明をしようと妖忌を見る。そして蓮華に斬りかかった妖忌の様子を見て、萃香は口をつぐんだ。
……妖忌にはもう意識などなかったのだ。妖忌は半人半霊だとしても、彼の肉体は老体。蓮華との戦闘で無理を湛え、更に数百にも及ぶ階段からの落下と、蓮華の足払いによる身体と精神への負担が妖忌の意識を飛ばすに至った。
『意識無くして主に忠ずる。……こんな従者、私は見たことがないよ』
蓮華はそう、ぽつりと呟いた後、界を結び終えた。
内包されたのは、『春』。これでこの西行妖に春が訪れる事は無く、咲かない桜などつまらぬ物であって、幽々子もいつか飽きを覚えて興味を無くすだろうとの思惑を持ったゆえだ。
この封印を解くには春を集める他なく、幽々子にそんな発想とやる気が有るとは思えない。
『これで良いんだ……これで……』
桜が舞い散る最中、声に乗って春は消えていった。
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ああ、これか。
私は思い出として、この記憶を封印したのか。
いつかの焼き増し。
けれど確実に、私は進んでいた。
幽々子……。私の我が儘を許してくれ。
それじゃあ。
これでお別『────ありがとう』れ………え?
私が西行妖を封印する直前、声が聞こえた。
心地よい、優しい声。
右目を差し出し、思い出を捨てた私。
その声の主の感謝の言葉を聞いた時。
私はどこか……心の底で、本当に救われたんだと確信できた。
────────永き冬がここに決着したのである。