ああ、ダメだ。これでは弱すぎる。
萃香は美鈴との戦闘から逃げ帰った後、魔法の森の中で己の失態を悔やみに悔やんでいた。
あれは萃香の敗けであった。それは否定しない。しかし手加減されたこと。これだけは我慢ならないのだ。
今でも思い出す屈辱感。記憶に入れておくだけでも恥ずかしい。無意識に火照る頬をなんとか治めようと、もう一度湖に向かう。先の門番も湖に近付く程度なら許してくれるだろう。
今は夏の中盤を越えた頃。凍らされた湖は現在ではほぼ溶けてしまい、冬の頃より少しだけ水嵩を増しているかのように思える。
そんな湖で独り。パシャパシャと水が跳ねる音を響かせながら、顔を冷やす。
ふと顔を上げると、大きな光が灯る紅魔館とは対照的に、小さな光が灯されている半球上の氷の塊を見つける。
(あそこはーーー確か氷の妖精の住処か)
妖怪である前提で、寝所を探すというのも可笑しな話だが、やはり夜風は寒い。今が夏であろうともだ。萃香は寒さに身体を震わせながらも、能力で顔に付着した水滴を拭き取った。
(ちょっとだけお邪魔しようかね)
迷惑だと捉えられるかもしれないが、それで良い。恐怖心でも、鬼としての萃香の存在を広めれるのならば、この力の弱体化も防げるであろう。
妖怪の中には、恐怖心を食べ物に出来る存在が居ると聞き及んだ事がある。もし自分が恐怖心を食べ物に出来ていればなんとも楽なのであろうか。
妖怪を千切っては投げ、千切っては投げて戦かせれば、鬼という存在も維持され、更に腹も満たされるのだから。
萃香は手持ちの瓢箪を持ち上げ、勢いよく中身の酒を飲み干す。中に生息する酒虫の、酒の生成速度を上回る飲みっぷり。何処に行っても、鬼という生き物は酒が無いとダメなのである。
「ぷはぁー。さーってと、鬼がかまくらに着きましたよーっと」
小さな灯りが漏れるかまくらは、ほんのり暖かい暖気が外まで感じられる。そして外せないのが喧騒だ。件の氷の妖精が友人でも連れ込んでいるのだろうか。
「お邪魔ーーってあれ? 蓮華じゃないか」
萃香が呼んだ人物。意外と広さのあるかまくらの中で、端っこを陣取る桃色髪の付喪神。そして中央には氷の妖精であるチルノが居座り、彼女を囲むように三人の童女が座り込んでいた。
萃香が知る限り奥から大妖精、紅魔館現当主の妹フランドール・スカーレット、そして……初めて見るが地獄鴉の妖怪か。
「おー、萃香。どうしたの?」
萃香を初めて見る者は、否応なくこちらに敵意を向けてくる。楽しい時間を邪魔した者を、即刻排除足らしめんとする意思がひしひしと肌を叩いた。そんな剣呑とした雰囲気の中で、唯一知りあいである蓮華は暢気な声を上げながら萃香に聞いた。
「いやぁ野晒しで寝たくない性分なんでね。ちょっと寝所を貸して貰いに来たのさ」
「あー、ごめんね萃香。今日はフランちゃんと大ちゃんにチルノちゃん、そして新しい友達のお空ちゃんを交えたお泊まり会だから、萃香が余裕を持って眠れるスペースは無いんだ」
「そうか……。それは残念だ。それと、地獄鴉が地上に居るなんて珍しいね。不可侵協定は破られたのかい?」
萃香の視線は、地獄鴉である霊烏路空に向けられていた。萃香の知る範囲では、地獄に関する妖怪は萃香の同族である鬼や爪弾き者の妖怪を多数引き連れて地獄にーーー現在では旧地獄と呼ばれる場所で新しい生活を興じているハズだ。
紫と地獄の妖怪とで結ばれた不可侵協定。それは地上の者が旧地獄ーーー通称地底に侵入しない代わりに、妖怪らを殺す能力を性質として持つ怨霊の封印を任せるというもの。
萃香は当事者では無いため勘違いしているが、これは地上の妖怪が地下世界に侵入してはいけないだけで、意外と地下からの来訪は許されているのである。しかしその事に地下世界の住民は良い顔をしていないが。
「あんた、誰?」
「伊吹萃香だ。さっきそこの蓮華が私の名を呼んだハズなんだが、もう忘れたのかい? それとも察しが悪いか……どちらにせよ鳥頭かな?」
「なんだと!?」
萃香が口八丁に挑発を始める。それに乗せられてしまう空も空だが、どこかおかしい様子の萃香に蓮華が言葉を発した。
「ねぇ、萃香。なにか嫌なことでもあったの?」
それは分岐点であった。
端を発した心配の言葉。ここで萃香には、その言葉にすがるかはね除けるかの道を選べる権利が出来る。
もし今起こっている深刻な状況を告白したら?
友達思いの蓮華ならば、何を犠牲にしても助けてくれるだろう。それこそ人里を襲撃して幻想郷を追放される事態になってしまったとしても、彼女は私と共に運命を共にする。そんな奴だった、蓮華という人物は。そんな真っ直ぐな性格をしているから、昔の自分は蓮華になついたのであろう。
けれどそんな結末は許せない。鬼としてのプライドが断じて許さないのだ。
鬼は強い。そんな純粋なイメージが固着するほど、鬼とは強い存在なのである。そんな存在が、自らを犠牲にするような奴を巻き込む?
絶対にあってはならない。
鬼は他人に頼り、迷惑をかけるような下賎な存在なのではないのだから。
「いや、これがいつもの私さ。幻滅や失望するなら勝手にしていれば良い」
溜め込まねば。溜め込まねば。恨みを。怒りを。そして恐怖を。鬼という自分を維持するためには、存在を認めさせなければならない。最も効率が良いのは恐怖だが、最悪畏怖や尊敬でも可だし、敬う気持ちであっても何でも良い。
存在を認めさせれば、それだけで萃香の力は全盛期へと戻っていくのだから。
「そうなんだ……萃香、もし辛かったらいつでも言ってね?」
「ああ……」
「話しているところ悪いけど、私に暴言吐いたよね! 私、超傷ついた。謝って、謝って!!」
蓮華との話の折り合いが付くと、今度は先程の地獄鴉が話を蒸し返してきた。
萃香はそのしつこさに呆れ返りながらも、嫌々返答を返す。
「すまないな。だが事実を言って謝れとは。主義主張の境界ってのはあやふやだと思うねぇ」
「うっさいうっさい! 全然誠意が篭ってない!」
萃香は頭を掻いた。駄々をこねる空の瞳には大粒の涙が溜まり、大妖精やフランと言えばおろおろと現に戸惑っているだけだ。
「はぁ……さっさと寝所を寄越せ。これは鬼のお願いだ」
「それお願いじゃなくて脅しなんじゃ……」
大妖精が怖じ気づきながら突っ込む。だが萃香にとって聞くに値しない言葉だったので無視した。
次第に剣呑というよりも嫌な雰囲気が漂い始める。居心地の悪い、重たい空気だ。
そんな空気をぶち壊す存在が一人いる。その存在は萃香が来てからもずっと黙りこんでいたが、流石に見かねたのか立ち上がって口を挟んだ。
「ねぇ皆、あたいを忘れてない? 萃香って奴も、このかまくらは元々あたいの住処なんだし、喧嘩売るならあたいに売って。全力で買ってやるわ!」
そう自信満々に言い放ったのである。
「へぇ……あんた、強いのかい?」
「うん! さいきょーよ!!」
萃香はその可愛い顔からは想像も出来ないような、獰猛な笑みを浮かべる。
最強。そう聞いて、彼女に流れる鬼の闘争本能が疼いたのだ。
「じゃあちょっとだけ私と勝負しない? 勝負内容はそっちが決めたら良い」
「じゃあ弾幕ごっこね。あたい、妖精の中じゃあ負けなしなのよ!」
「ふんふん、井の中の蛙って言葉を聞いたことがあるが、さしずめ森の中の妖精ってところかな」
チルノはかまくらから出て、ポケットの中に入れてあったスペルカードを取り出し宣言する。
ーーー弾幕ごっこの開始の合図は基本的に当事者間で決められる。チルノにとって弾幕ごっこを承諾した瞬間こそが、弾幕ごっこの開始の合図であったのだ。
「凍符『パーフェクトフリーズ』」
チルノが使ったスペルカードは、チルノお得意のパーフェクトフリーズである。お得意であるだけに強化もされており、以前とは弾幕の密度が違っていた。弾は小さくなり、その分隙間が無くなるよう多く敷き詰められている。
「ハッ、面白い。符の参『追儺返しブラックホール』」
萃香もスペルカードを宣言する。
そのスペルカードは少し異質であった。まず弾幕が一切展開されない。不思議に思った蓮華ら面々は、次の瞬間そのスペルの恐ろしさを垣間見る。
放たれていた弾幕が動きを止めた。ぶるぶると弾が震える様子は、なにかに抗っているかのように見える。
「圧倒的密度の応用、ブラックホールに潰されな」
抗っていたのも束の間、すぐに弾幕は萃香のブラックホール内に吸い込まれてしまい、この場の弾幕は全て跡形も無くなった。
「なっ!? それすっごくズルいわよ!」
「狡いだと? 鬼の力を狡きに例えるか!」
萃香は目にも止まらぬ速さで肉薄、チルノの襟元を掴む。
「ならば鬼である私の、純粋な力を見せてやろう。萃符『戸隠山投げ』」
軽い身体のチルノは、弱体化しているとはいえ鬼の力を持つ萃香に勝てる訳がなかった。手足をばたつかせ必死に抵抗するも、萃香は襟元の手を動かさない。
そして大きく萃香が振りかぶる。狙いは霧の湖。全身を力が行き渡り、それを逃がすかのようにチルノを放り投げる。球を投げるとか、そんな次元ではない。まさに豪速。湖の水を切りながらチルノは霧の湖を横断し、更に奥の森にある大きな木にぶつかって止まった。
「一丁上がり」
「あんた!」
埃を払うように手をパンパンと叩いていると、かまくらの中から一部始終を見ていた大妖精が駆け寄ってきた。愛らしい顔に浮かぶ、怒りの形相。さっきの怖じ気はどこへやら。大妖精は萃香に詰め寄り押し倒した。
「チルノちゃんにあそこまでしなくても良かったでしょ?」
「弾幕ごっこをするんだろ? 他ならぬあの妖精が望んだことだ。お前なんかに非を論ずる権利なんてない」
「それでもっ……。それでもチルノちゃんはあなたを傷つけるような事は絶対にしなかった」
「相手がしなければこちらもしてはいけないと? はは、甘言だね。甘すぎるよ、あんた」
大妖精の問い詰めを、のらりくらりと躱していく。その様子が、更に大妖精の怒りを誘発する要因となった。
心なしかかまくらからも幾つかの視線を感じる。これは自分への敵愾心と怒りだろう。
これだけじゃ足りない。もっと、もっとだ。
「萃香」
親友が名を呼んだ。私は鬼との区別をつけるため、敢えてこう返す。
「蓮華。私は鬼の四天王、伊吹萃香様だ。敬意が足りないんじゃないか? あんたなんか、私にとって吹けば飛ぶような存在。実際に飛ばしてやっても良いけど」
「あんたねぇっ! チルノちゃんを傷つけて、お空を馬鹿にするだけじゃ飽き足りず、蓮ちゃんにも……ッ!」
「…………」
萃香は興が冷めたのか、掴み掛かっている大妖精を力ずくで退かし、森を飛び越えるかと錯覚するような跳躍で場から姿を消した。
残された者達も皆それぞれの反応を見せるが、重苦しい空気だけは同一である。
「なによアイツ!」
大妖精が怒りをかまくらにぶつける。それが突然だったためか、中にいたフランがビクッと身体を震わせた。
「大ちゃん、チルノちゃんを回収出来る?」
「アイツめ、アイツめ、……え? あ、うん、回収してくる。場所は覚えてるし」
大妖精が思い出したかのように瞬間移動をする。チルノの事になると、大妖精は行動が早くなるようだ。以前は迷惑がりながら付き合っていたのに、今では大きな進歩である。
「なにか……おかしい気がするんだよなぁ……」
背中を這いずり回るような不安と、何かが蠢く恐怖。
蓮華は萃香が放った言葉が、どうも本当だとは思えていなかった。