「あんた……私を知っているのかい?」
「ええ、それは勿論ですとも! 偉大なる鬼の四天王様ですよね?」
彼女はそうハッキリと答えた。ハッタリではない。名も知らぬ目の前の天狗は、私の事をハッキリと四天王だと言い切ったのだ。
鬼についての文献はこの幻想郷に残されていない。よって今目の前に佇む少女は、鬼が地上にいた頃を知っている天狗というわけだ。
「天魔のお付き?」
「な訳ないでしょ。……そうですね、知らないと思いますし自己紹介でもしておきましょうか。私は射命丸文。清く正しい文々。新聞の編集兼記者です」
射命丸文。そういえば風の噂で聞いたことがある。一ヶ月に五度、人里で新聞を配る天狗。その内容は記者の印象に偏っており、信用性はほぼ無いと言われていた。
文々。新聞か……蓮華がいなくなる前にもそんな新聞があったな。この天狗は、かなりの年月を生きている天狗なのかもしれない。
「で、あんたは鬼の私になんかようかい?」
「いやいや、そんな恐い顔しないで下さいよーもう。私はただ良い記事が書けそうな種がこの近くにあるってことを嗅ぎ付けて、ここに来ただけですから」
「……種とは誰の事かハッキリと言ってもらって良いかな?」
「プライバシーですので」
「妖怪に人権があってたまるもんか」
「差別ですよ?」
「差別じゃない、区別だ。まず種族自体違うだろうに」
私をおちょくってクツクツと笑う文。
……全く、嫌だねぇ。
この天狗、実力を隠している。それも巧妙に。
飄々としながら、その視線は私の首をしっかり狙っていた。油断は出来ない。
それに一つ気掛りな点がある。
〝この天狗に私は勝てるのか〟……という単純明快な気掛りだ。まず文が現れた時、私にはその姿が視認はおろか感知さえできなかった。気が付いた時にはそこにいたのだ。
天狗は種族的に速度が速い。けれど大抵の天狗は鬼の反射神経、視認可能速度に於いてほぼ見切る事が出来る。意識していなくとも、私には感じる事が可能なのだ。
もし見えていなければ、先程の天狗包囲陣を打ち負かすことが出来なかっただろう。
まぁ見える事と感じる事は別で、更に躱す事となればもっと別だけど。
「そういえば鬼の萃香様は、犬走椛……という天狗を知っておられますか?」
……名前、知ってるじゃないか。こいつ。
私はこの天狗を警戒しながら質問に答える。
別に質問に答えなくても良いが、この天狗にだけは慎重にいきたい。なにせ文字通り今までの天狗と格が違うのだから。
「知らないね。どんな天狗なんだい?」
「紅葉柄の盾を持った、大剣使いの白狼天狗です。ついさっきこちらの集落に瀕死の状態で運び込まれました」
「……ああ、思い出した。そりゃ災難だったね。あんたの友達だったのかい?」
「……いいえ、友達なんかではありません。仲は結構悪い方ですよ。だから清々しています」
「おお、そりゃ良かった」
「でも、寂しいんですよねぇ」
私は後ろに手を回しながら、見えないように分銅をもう一つ萃める。いざという時の武器だ。
私が突然分銅を萃めたのは、一応理由がある。
その理由とは、鬼の直感から導き出されたもの。
鬼とは生粋の戦闘種族で、戦闘に関わる技術や才能は元から備わっている者が多い。故にその強さは、経験や能力に傾倒する傾向にある。
直感もその内の一つ。曰く相手との力量差を見極めたり、戦闘の流れを掴むためにも相手の初動や機敏を見抜く為に鬼が備えている能力だ。その直感が、けたたましく警笛を鳴らしていた。ーーー逃げろ、と。
私と文の力の差はかなり離れている。私の全盛期には遠く及ばないが、今の私ではかなり手に余る状態だ。
そして私の直感が告げる。文が戦闘態勢に入った……と。多分きっかけは白狼天狗の件。あそこでこの天狗の目の色が変わった。仲が悪いなんて嘘。本当は心から信頼しあった関係なのだろう。
「それで? ……あんまり時間も掛けたくないんだ。そこを退いてくれないかい?」
「おーっとっと。もう少しだけお時間を下さい。どうです? 私とお茶でもしませんか?」
「一人で茶柱でも立ててな」
「そんな殺生な。数分で終わっちゃいますよ」
「へぇ。『茶柱を立てる程度の能力』でも持ってそうだね」
「残念、惜しいですよ」
「惜しいんだ……」
身体の状態を確認。
切傷。身体全体に十数ヶ所。血は止まっている。
打撲。腹部や太腿、腕や身体の各部に数ヵ所ずつ。
咬傷。右足脹脛。傷は深く、かなり内部まで及んでいる。血はまだ収まっていない。
刺傷。右足の甲。貫通しており、靴には穴がぽっかりと空いている。歩きにくい事と機動力減衰の為、集中して治療中。
各部箇所に傷は見られるが、なんとか戦闘は可能そう。脚に力を萃める。いつ掛かってきても良いように、私は警戒を高めた。
「それで、椛の事なんですけど。アイツ、泣いてたんですよね」
「…………」
「不甲斐なさで心が一杯なんでしょう。あんな姿見たくありませんでした」
「…………」
「私はもう見たくないんです。悪夢に出そうですし」
「だから、仇討ち……って感じかい?」
文は勢いよく首を左右に振り、まるでどこか悟りを開いたかのような、諦めの混じった笑みを浮かべる。
「そんな高尚なもんじゃないです。私はただ文々。新聞を仕上げたいだけ。だからこそ、鬼が破れたって号外は一面になると思いましてね」
「私は鬼として知られていないんだ。それ以前に人里で鬼を知るものはいないんじゃないかな?」
「良いんですよ。妖怪の山の奴等だけでも分かってくれれば」
「不毛だ」
「不毛かどうか決めるのは私だよ、鬼」
様子がガラリと変わる。
本性を現したか……と自分勝手に決めつけるが、そういえば天狗ってのはこういう奴等だったな。久しぶりに会ったから忘れていたよ。
上の者には媚びへつらい。
下の者にはここぞとばかりに蔑みを向ける。
どこも間違っていない、ちゃんとした天狗の姿だ。
私は屈む振りをして、少しだけ靴を脱いだ。踵だけ半ば靴からはみ出ている状態だ。
分銅も既に持った。これで十分。逆に言えばこれしか無いんだけどね。
「私をどうするつもりだい?」
「そりゃあ決まってるわ。裸にひんむいて、十字架にでも縛り付けて、人里か天狗の館にでも展示しようかなって。鬼としての存在も広まるし、私も新しい記事が書けるし、どっちもwinwinの関係よね」
「残酷だね。それこそ天狗だ」
「褒め言葉だとーーー受け取って置きますよっっ!」
消えた。
そして次の瞬間、私の見ていた景色が切り替わる。さっきまで栄養分たっぷりの雑木林だった光景が、一瞬の内に岩肌へと変わる。
腹部への痛みから、喰らったのは突進か拳か。何れにしても文はかなりのスピードで私に攻撃を加え、私の身体を大きく吹き飛ばした……という事実は変わらず、結果どれだけ警戒していても、文の速度には直感でさえ追い付かないと確信した。
「ごっ……へ……ぇぷっ!」
体内の内容物が競り上がってくる。
速いーーーそして重い。嘔吐なんて情けないことは嫌でも見せたくなくて、能力を使い吐き気を疎める。
背後には岩肌。これは激突か。
私が身構えていると不意に横腹へと痛みが走る。
「ぐぅっ……っ……」
「余所見してて余裕がお有りで?」
速さが伴った蹴りを、思いきり横腹に叩きつけられた。文には然程筋肉が付いているとは思えない。しかしその速さを支える身体は、相当な鋼鉄そのものだろう。
私はその後も地面にさえ触れることも叶わず、文に嬲りものにされる。
「ほらほらぁ! 鬼ってのはこの程度!?」
深く、深く下腹部に文の足の先が突き刺さった。
意図せずして喉から呻きがあがった。
チクショウ、私でも分かる。この速さは凶器そのものであり、文を守る盾そのものだ。こちらが一方的に嬲られ続け、逆にこちらの攻撃は一切当たらない。
攻防なんて欠片も成立せず、蹂躙と呼ばれて差し支えるかどうか。
私はがむしゃらに、踵だけ半ば脱いでいた靴を思いきり飛ばす。鬼の純粋な脚力は、他の妖怪の追随を許さない。まさしく弾丸そのもの。大きさを考えれば、砲丸が弾丸のような速度で飛んだと言えば良いのだろうか。
私に再度追撃を加えようとしていた文は、直線上に加速を続けている。これでは避けきれない。
当たればそれで良し。躱す為に速度を緩めれば、そこを一気に攻める。
私は薄く笑む。私は空中で思い通りに動けないが、隠し持っていた分銅がある。これで白狼天狗の時のように絡めとれば、後はこちらのもんだ。
私はその瞬間を待った。奴が……文が止まる瞬間を。
私の靴は特に風の影響を受ける事もなく、ただ一直線に進んでいく。その威力たるや、然りとて文も無傷ではあり得ない。
文の速度を考えると、着弾時まで一秒もない。
さぁ選べ。受けるか、躱すか。
そのどちらも、お前の終わりだと知らずに。
そして靴は真っ直ぐ文に着弾。
ーーーーーーしなかった。
「はぁ?」
萃香が見えたのは一瞬。それも飛ばした靴が不自然に文を避けて曲がる瞬間。それはまさしく超常現象、靴が直前で曲がるなどと。
私が気の抜けた声を出すのも仕方のない事だろう。風の影響も受けていなかった。なにか仕掛けが施してあった事もない。では、何故?
ーーーいや、なんとなく分かった。〝風の影響を受けなかった〟、〝仕掛けも無かった〟。
……多分そうじゃない。逆だ。
これは推測の域を出ないが、多分文は能力を使ったのだ。それも一切悟らせず、高速で。
文は先程言っていた。『茶柱を立てる程度の能力』に惜しいと。
更に仮説だが、茶柱とは生半可に立つものではない。
時には風、時には強い芯……軸が必要だ。そして今起こった私の靴の不自然な方向転換。恐らく文の能力は、『軸をずらす程度の能力』または『風を操る程度の能力』ではないのだろうか。
これなら説明がつく。……まぁでも、天狗ってのはすぐに嘘を吐くからね。信用性はかなり低いが。
私はまた腹部に強い一撃を貰い、今度は吹き飛ばされる。吹き飛ばされた先は地面だ。空中での嬲りはもう終わったようだ。砂煙を上げて、私は固い地面に叩き付けられる。
「ゲホッ、コホッ、ふー、ふー……」
砂塵が舞い上がっている今なら、多分天狗はなにもしてこない。文は慎重だ。万全に万全を期す。何故なら奴は鬼を知っているからだ。鬼ってのは純粋に強い。今まで良い流れだったものが、ちょっとしたミスで大どんでん返しを喰らうなんてのはベタだ。
目標が確実に視界に入らないと、攻撃は一切しない。今少し戦ってみて、思ったことだ。
私は痛む身体を必死に動かして、砂塵の中を進んでいく。一旦身を隠さねば。これ以上のダメージは不味い。
ああ、歩きにくいなぁ。片方の靴が無いから尚更。いや、脱げば良いか。
その時、文を倒す良い方法が一つ浮かび上がった。しかし首を振って忘れる。その行為は騙し討ちそのものだからだ。
「私は……正面で勝つって決めてるんでね……」
そのまま歩いていくと、少し開けた場所に出た。
開拓でもしていたのだろうか。まぁ良い。今の私には丁度良いくらいだ。
私はその開けた場所の中央に陣取り、胡座をかいて体力の快復を待つ。右足の甲は靴下ごと血に濡れて、少し気持ち悪い。そしてこれを見られれば一瞬で理解されるだろう。私はここが弱点だと。いや、それで良いのだ。あの天狗は新聞記者をやっている身故、理解が速いだろう。そして必ず私の足を甚振ってくる筈だ。そこを突く。
ここから先は運否天賦。だが運くらい、天狗の速さを破れるのならば幾らでもくれてやる。
その間に身体の節々へ刻まれた痛みを消さねば。
「あやや? こんな所にいたんですか。探しましたよ伊吹萃香様」
来たか……。
「身体も痛そうで、なんとも皮肉ですね。今まで見下してきた天狗に下剋上をされるとは」
……奴の視線を見る。ああ、予想通り私の怪我に気付いたようだ。文の事だ。今頃優位に浸っているのだろう。機動力が無い鬼。危険なのは腕力だけ。しかし自分に速さを以てすればそんな危険など無いようなもの。
勝った……と心の中でほくそ笑んでいるだろうて。
「どうです? 負けを認めませんか?」
「ふぅ……」
「今なら土下座でもすれば、私の溜飲も下がるかもしれませんよ?」
嘘だ。溜飲が下がるだけで、後ろ手に構えているカメラは逃さないだろう。
「……すぅ」
「それとも私の嬲りものにでもなって、裸にひんむかれ──────」
「ごちゃごちゃ煩い! 私を怖がっているのか?」
天狗は小言を続けた。このままではダメだ。焦りを、怒りをこいつに与えねば。冷静になられると、狙い通りにいかないかもしれないからだ。
だからこそ、私は一喝した。
「なに?」
「止めを刺せば良いものを、口八丁で時間稼ぎ。ハッ、鬼への下剋上? その程度でちゃんちゃら可笑しいな」
「貴様……」
「さぁ、射命丸文!! そちらから行かぬなら、こちらから仕掛けてやろうぞ!!」
文は涼しい表情を崩さなかった。しかし私には分かる。今の文の心は、業腹で煮えくり返っている頃だ。天狗は下の者にはここぞとばかりに蔑みを向ける。そうやって見下していた相手から、逆に見下されたのだ。ここまでプライドを傷つけられて、笑顔でいられるほどこの天狗は聖人ではない。
「分かりました。止めがお望みなのですね。しかし私には新聞を発行するという仕事もあります。半殺しで勘弁してあげましょう」
「……………………はぁ」
「…………」
「この腑抜けが」
「お前ッッッッ!!!!」
とうとう本性を現した。
奴は即刻狙ってくるだろう。文が消える瞬間、見ていたのは私の右足だった。
ーーー全神経を集中させろ!!
ーーー直感で相手の攻撃の矛先を感じろ!!
ーーー目を瞑るな! ーーー怖がるな!!
ーーー奇跡を、掴めぇぇっっーーー!!
振り下ろされる踵。通称踵落とし。それは真っ直ぐに萃香の右足へと落ちていく。文は確実に破壊するつもりであった。その傷付き、血に濡れた右足を。
そして、文は気付く事になる。
「掴んだ」
「なっ──────!?」
自らの自信。誰にも追い付けないと自負していた、己の速度の敗北を。
萃香は直前で胡座を組み直し、肘と膝で文の足首を挟み込みように押さえた。鬼の全力を以て押さえられた足首。プチプチと何かが千切れるような音を聞きながら、文は絶叫する。
文はその速度故、何者かの攻撃によって傷付いた事が殆ど無い。その為か彼女は痛みに慣れていないのだ。
脳をつんざくような痛み。押さえられた足をグリグリと押し込まれる度に痛みは剣となり、文の身体を足先から順に切り刻んでいく。
目から漏れ出る涙は止まらず。
口から漏れる悲鳴も止まらず。
足と脳に痛みが津波のように襲い掛かり、身体全身には電流が迸ったかのような錯覚を受ける。
「離して、離してぇ……」
首を何度も振って懇願をするが、萃香は意地の悪い笑みを浮かべて更に力を強める。
身体が痛みで仰け反った。もう全身が痛い。
痛みの嵐に晒されている。
「どうだい? 格下だと思っていた鬼に下剋上される気分は」
「ぐぅ……く、……ふぅ……」
鬼は嗚咽を漏らす天狗を不憫とでも思ったのか、優しく足を解放する。
先程より一気に痛みが引いたからか、文の頭は元の冷静さを取り戻しつつあった。
(くそ、クソゥ! バカにして……っ!)
涙が滲む目を凝らしながら、歯を食い縛った。
自分を見下す鬼に対して、沸々と怒りが点っていく。それは痛みの不平等さから来る理不尽な怒り。なんで私がこんな目に……という吐き出しようもない、霧のように霞んで朧気な不満。
こんな気分は、数千年前にも一度味わった事がある。
文は天狗として自分の産まれた種族を誇りに思っていた。彼女が新聞記者をする上で、天狗の速さは必要不可欠だからだ。
とある昔、彼女はその誇りを汚される出来事があった。
天狗にとって天魔という存在は自分達が仕える絶対な王であり、アイドルや神のように信仰する程の神聖な立ち位置であった。
幼い頃の文も、当然天魔の事を慕い、憧れていた。天魔の存在と強さとは、まさに種族に於ける天狗としての誇りそのものである。
だがその幻想もすぐに壊された。
その世代の現天魔が鬼によって殺されたと聞いたときは、耳を疑ったものだ。
天魔を殺した者の名前は……もう覚えていない。覚えているのは、山の四天王と呼ばれた鬼の誰かが殺したということ。
怒りを覚えた。そしてもやもやとした言葉に出来ない不快感と不満を知った。
鬼は卑怯を嫌うということは知っている。
だが奴等は、天狗の生きる指針である天魔を殺した。その理由がどうであれ、相手の生きる指針そのものを消すなんて、それは卑怯そのものではないか?
天狗という種族のウィークポイントを狙った、紛れもない卑怯ではないのか? ……と、幼い頭で義憤に駆られたものだ。
久しぶりに思い出した。だから私は鬼が嫌いなんだ。
今目の前で私を傷付けた奴はなんだ?
鬼じゃないか。
鬼なんだ。あの、鬼なんだ。
射命丸文は普段力を抑えて生活している。全速力と言ってもそれは全速力ではなく、良くて本来の力の六割……といったところか。
文自体負けず嫌いが祟って、本気を出せばもう後が無いという思考が必ず片隅にある。
よって、彼女は本気を出さない。出さなくても自分に追い付ける奴なんて居ないのだから、出す必要さえ無い。……そう思っていた。
ムカつく。苛立つ。この鬼だけには負けたくない。
「どうだ。射命丸文。負けを認めるか」
「ふふ……な訳、無いじゃないですか……。勝つのは私ですよ」
痛みは引いた。どうしてか分からないけど、多分怒りに押し潰されたのだろう。
私に出来ることはもう殆ど無い。睨むか、精一杯の抵抗か。……だが、もう私にはそれで十分だ。
見せてやる、天狗の速さを。射命丸文の底力を!!
無事な右足に力を込める。
自分の能力である『風を操る程度の能力』を全力で応用、活用し万全を期す。
もう負けない。負けたくない。
天狗は思いきり地を蹴って、萃香に突進した。
音を置き去りにし、光の速度に接近する。
生物が再現出来る限界速度を優に越し、数mという短い距離を瞬間的な速さで翔び抜ける。
その速さはコンマにも満たない。秒間などでは測る事など不可能で、当然生物が視認できる事など確実にあり得ない。
自らを速さを纏った武器へと変換し、鬼打倒を目標に文は全速力を出した。
(勝つのは私だ。鬼を打倒するのは私だ……!)
萃香は反応できない。文にはそれがなんとなく理解できた。いや、理解できたからこそ、勝率の高いこの方法を使ったのだ。
例えば今まで速い物を見ていて、それより少しだけ遅いものを見ると、感じかたが違うらしい。実際はどちらも速いのに、目が慣れたお陰か反応出来るようになる。
だがその逆もあるだろう。目が慣れないからこそ、反応できない。
今までの文の出していた速度は三割も良いところ。本気の全速力を見たことがないこの鬼には、見切ることなど不可能。
故に防御態勢に入る間もなく、文は鬼と接触した。
勝った事を確信する。流石の鬼と言えど、光の速さに迫った人間大の物体に耐えることなど無理だ。
所詮勝つべくして勝った勝利。普段ならば虚無感に苛まれるそれは、今回だけは虚無感の欠片もなく、もっと別の感情。……そう、達成感に溢れていた。
「私の勝ちだ!!」
そして萃香は消え去った。
光速に耐えれる筈もない。かの鬼は耐えきれず四散したのだろうと勝手に決めつけた。
勝利が確定し、一瞬速度を緩めたその時。文の頬に拳がめり込んだ。
「ぐぇぁっ!!」
その拳は小さかった。
その拳は痛かった。
その拳は強かった。
「ーーーなっ、なんで─────」
拳を放った張本人である萃香は、大きく跳躍し、もう一度拳を振り上げる。
「鬼の直感、友から習った技術、天狗という種族の理解度。私にはその三つが有った。だからあんたは負けるんだよ」
萃香が使ったのは『
文の頭頂を基点として大気が切り裂かれていくと、空気は横に流れる。その影響力を受けた萃香は、空気に乗って文の突撃範囲から脱け出したのだ。
全速力も出した。それは全力だった。
しかし最後の最後、文は気付く。
(そうだ、そうだった。怒りに燃えて気付かなかった)
(いつもの私なら必ず行う行動、それを怠っていたんだ)
(〝情報収集〟。鬼には知識があった。私に足りなかったのはそれだったんだ)
どこか清々しい表情をしながら、一人の鴉天狗は鬼の拳によって地に沈んだ。