一人の男がいた。
ごく普通の、平凡な男である。
朝が来たら麻布のベッドから起き上がり、素朴な麦かゆを口にし。
昼になれば、青銅のクワを両手に田畑を耕す。
そして、日が沈めば硬いパンと干し肉が申し訳程度に入った薄味のスープを貪り食べ、冷たい小川で水浴びをしてからそのまま麻布のベッドへと戻る。
現代日本に住み慣れているであろう人には、なんら窮屈きわまりない生活ではあるものの、中世ヨーロッパの暗黒時代を生きた者からすれば、なんら常識から逸脱していない、ごく普通の幸福な生活。
だが、それは一瞬にして崩された。
砂場に建てられた粗末な砂山が、そよ風で吹き飛ばされるかのように。
夜空が茜色に染まる。
無数の赤色が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめき、しかしそれはどんどん大きくなっており。
田畑や家を燃やし尽くし、さらには生えていた雑草や無造作に積み重ねられた俵をも燃料にして、より多くの物を灰に返してやろうと、炎は大きく火柱を上げた。
男は、呆然とした振る舞いで立ち尽くす。
その手は堅く握り締められており、ただひたすらに怒りを押さえ付けていた。
数日前、この地を治める貴族の息子が男の家へと訪れた。
急な来客に、男は急いで貴族の息子を出迎えたが、そこで貴族の息子は、男に対してある要求をする。
「俺にこの田畑のすべてを寄越せ」
何とも傲岸不遜な物言いではあるものの、このご時世、このようなことはごくごく当たり前だ。
曰く娘を一晩貸せ、曰く心臓を寄越せ、曰く裸になって村中を走り回れ。
男はこれらの"貴族の要求"を見聞きしたことはあるが、まさか自らの元にやってくるとは思ってもいなかったのだ。
されど、おとなしく渡すわけにはいかない。
この田畑が無くなれば明日から何をして生きていけばよいのか。代用品として獣を狩ろうにも今の季節は冬であり、とても狩ることは出来そうにない。
そこで、男が出した答えは、至極簡単な物であった。
誰でも思いつくが故に、誰でも使うことができる言葉。それは
「申し訳ないですが、その要求を受け入れることは出来ません」
この国にて、貴族に対して刃向かうということは、確実に死を意味する。
だが、どの道死ぬことになるのであれば、男は躊躇せずこの選択肢を選んだのであった。
その結果が、これである。
男の頬に火の粉が飛び付くが、男は気にするような素振りも見せず、堅く握り締めすぎたせいで深く爪が食い込み、皮膚を破って血を垂れ流した手をさらに強く握り、静かにこう呟いた。
「当たり前のことが、当たり前ではないのか」
その後、男を見たものはいない。
ただ、そこには真っ赤に燃える炎と、茜色の夜空に浮かぶ深紅の月だけが揺らめいていた。