***
一郎の朝は早い。日の出るころには起きていて、さっさと家事に取りかかる。洗濯機を回し、煮物をつくって昼の弁当、夕餉にする。その合間に朝食を食べたり、洗濯物を干したりする。
一連の家事が終われば、登校までは執筆の時間だ。頭の働く午前中は、執筆作業のゴールデンタイムなのである。
しかし、ここは南の楽園である。
三食おやつ付きの、夢のリゾートなのである。一郎のするべき家事などありはしない。
そのようなわけで、一郎は、気ままに小説でも書こうかなとラウンジへやって来たのだが、先客が居た。
「むむむ……」
と唸りながら、原稿を読みふけっている和装の少女。ムラマサである。
ソファーに腰掛け、時にはにこにこ笑顔で、時にははらはらと緊張をたぎらせ、原稿に夢中になっている。
「早いね。いつから起きてるの?」
と声を掛けるも、梨の礫である。彼女は、声の届かぬくらい深く原稿に集中していたのである。
そこまで彼女を虜にする作品とくれば、ひとつしかない。
「ああ、マサムネ先生の原稿か」
なんとなれば、和泉マサムネ以外の作品を「つまらない」と一蹴する彼女である。きっと、マサムネから未発表の原稿か、ひょっとしたら書き下ろしをもらっているのだろう。
一郎は向かいにソファーに腰掛け、
一郎もまた、ムラマサに負けず劣らずの小説狂いなのだ。その生活は、基本的に小説が全てに優先する。唯一の例外は、この気持ちの良い作家仲間たちと、姪っ子のような幼馴染みだけである。
「あれ、ムラマサ先輩に一郎先生」
という声が聞こえた気がした。
キリの良いところまで書いてから顔を上げると、マサムネがいた。
「やあ、マサムネ先生。おはよう」
「ああ、やっと気付いてくれたか。ムラマサ先輩も一郎先生も、小説に夢中なんだもんな」
「作家にとっては褒め言葉だね。それに、マサムネ先生にとって、ムラマサ先生のは特に嬉しい反応なんじゃないかな」
「まぁ、な」
マサムネは照れくさそうに頬を掻いた。
ムラマサを虜にしていたもの。それは、一郎のにらんだ通り、マサムネの未発表原稿だったのだ。
「そりゃ嬉しいよ。お蔵入り原稿でこんなに喜んでくれるんだからな」
「ムラマサ先生の気持ち、僕も分かるな。好きな作家の文章なら、それだけでご飯三杯食べれちゃうからね」
「文章がおかずかよ!」
などと四方山話に笑いの花を咲かせる二人であったが、突然、
「あの、さ」
とマサムネが複雑そうな顔で切り出した。
「なんていうか、友達と気まずくなった時って、どうしたら良いかな」
「気まずいとは?」
思案顔のマサムネは、言葉を探すかのようにゆっくりと、一語々々紡いでいった。
「その、もっと仲良くなろうとしてくれた人がいて、でも、それはダメなんだ。俺はそうなっちゃいけない。でも、そいつとは今まで通り、仲良くバカできる友達でいたいんだ。これって、都合の良い話だよな。だから気まずくってさ」
それが何を指すのか、一郎にはぴんときた。エルフは「勝負を決めるわ」と言っていたのだ。
「なるほど。エルフさんに告白されたんだね」
「っ」
マサムネは驚き、やがて、観念したようにぽつぽつ語り出す。
「俺さ。そう言ってもらえて、嬉しかったんだ。実際、あいつは格好良いし、何度も惚れそうになった。でも、俺には何より大切な、たった一人の人がいるんだ」
申し訳なさそうな、そして苦しそうな表情。
それは思ったまま、感じたままの、素直な彼の心境だった。和泉正宗という少年の、生真面目さ、誠実さの現れだった。そんなだから、一郎はマサムネのことを恋敵だからと憎むことができないのだ。
一郎は、やさしく微笑んだ。
「気にすることないさ。きっと、エルフさんなら今まで通りにして欲しいって思ってるだろうし、実際にそう言ったんじゃないかな。それと、自分に惚れさせてやるとかね。覚悟してなさい、今に振り向かせてやるんだから、とかなんとか」
「すげぇ、ほぼそのまんまじゃないか!」
大げさに驚くマサムネに、一郎は。思わずくすりと笑ってしまう。
「だから、マサムネ先生は今まで通りで良いんだよ。きっと、朝ご飯食べるときにはもう、昨日までのエルフさんさ。ただ、ちょっとばかし積極的かもしれないかもね」
なんでもかんでも、ゲームのような真剣勝負にこだわるエルフである。恋と戦争は手段を選ばぬという言葉があるが、エルフの場合は、恋も戦争も正々堂々たる真剣勝負で全てを決すべきだと考えているに違いない。
「エルフさんは、納得してるよ。納得した上で、マサムネ先生に挑んで、挑み続けるんだ。君に勝つか、すっかり満足しちゃうまでね。だから、マサムネ先生は、自分の思いの通りに行動すれば良い。それが、エルフさんの望みだと思うから」
「……そう、だよな。強いもんな、エルフは」
マサムネは、ぼんやりと中空を眺めて、それから、まっすぐ一郎を見据えた。
その面からは、すっかり迷いの霧は晴れていた。
「ありがとう。気が楽になったよ。そうだよな、俺が変に気にしたって、エルフのやつが喜ぶわけじゃないもんな。むしろ、俺も本気を出さなきゃだ。俺はエルフに負けられないし、俺たちのラノベをアニメ化させるっていう大勝負に勝たなきゃいけないんだ。やってやるぜ!」
などと話も一段落ついた時である。
「あー、おもしろかった!」
年相応の、弾けるような幼い声と共に、ムラマサが顔を上げた。
自然と、二人の視線も引き寄せられる。
二人の無遠慮な視線を受けて、とびきりの笑顔に彩られていたムラマサの顔は、たちまち羞恥の色に染まることとなった。
「ふっ、二人ともいつからここに!?」
「俺はちょっと前から」
「僕はずっと前から」
「こ、声くらい掛けてくれれば……」
「掛けたんけどね」
「ムラマサ先輩ってば、集中力すごいから」
「ふ、不覚ぅぅ! マサムネくんに見られるなんて! ぜったい、ぜったい変な顔してた!」
「気にすることないじゃないか。大好きな小説を読むなら、当然の生理現象だよ」
「生理現象ってのは言い過ぎけど、変な顔なんかじゃなかったぞ。それにさ、そんなに一生懸命読んでくれるなんて、物書き冥利に尽きるな」
「そ、そう言ってくれるのなら、これはこれで良かったのか?」
うんうんと唸りながら、なんとか自分を納得させようとするムラマサである。
実際、マサムネの好意的な反応は救いであったと見える。顔を火照らせながらも、彼女は、なんとか気を取り直してみせた。
「そ、それよりっ! 君たちはずいぶんと朝が早いんだな」
「ずっと起きて、『銀狼』の続きを書いてたんだ。ムラマサ先輩に読ませてあげるって約束したからな。土曜日はいつも”寝ない日”だし、小説書くの面白くなっちゃってさ」
「君もか。実は、私もそうなんだ。今だって、ずっと起きて、君からもらったお蔵入り小説を読んでいた。感想はまた考えがまとまってから話すが、すごく面白かったぞ。ああ、どうして人は食べたり眠ったり、面倒なことをしなくちゃ生きていけないのだろうな。小説だけ書いて読んで暮らしたいのに!」
と嘆息するムラマサである。
一郎とマサムネは、顔を見合わせて、どちらともなく笑った。
「気が合うな、俺もそう思うよ。一週間ずっと小説書いて暮らしてたいぜ」
「まったく同感だよ。それでも厄介なことに、睡眠は大切なんだな、これが。三日経ったあたりから、書けば書くほど、文章はだんだんひどくなるんだ。人間には適度な休憩が必要ってことだね。だから二人とも、そろそろ一寝入りしてきなよ。もう何時間もしないうちに、また一日が始まるから」
「三日までは連続執筆できるのかよ……」
「流石に私もそこまではしないぞ……」
苦笑するマサムネであるが、その拍子に、欠伸が口元からこぼれた。
「俺はそろそろ寝ようかな。これ以上は書けそうにないし」
「私は、君が書いてくれるなら何日だって徹夜ができるぞ。なんなら、君が書くのを傍で見守っていてもいい」
「止めて! なんか怖いからそれは止めて!」
***
その後、徹夜していた二人は仮眠を取った。
それでも、二人の眠りは浅かった。マサムネは、エルフという名の美少女に起こされるというマンガのような体験を強制されたし、ムラマサは、エルフの見事な夕食に対抗すべく、朝食をこしらえるという難事に挑んだのだ。
「朝食だから簡単なものばかりだが、私もエルフにそう引けをとるものではないと知ってもらいたくてな」
「美味しいよ、ムラマサ先輩。簡単なものだなんて、とんでもない!」
「たしかに、これが簡単なら、世の中の大半の朝食は犬のエサか何かですよ」
「僕の朝食なんかは、食事ですらないかもしれないね」
ちょっとした旅館の朝食のようである。それも、食事に力の入った旅館のそれである。
そんなライバルの戦闘力を肌で、もとい舌で味わうこととなったエルフは、しかし、嬉しそうに、
「ふふっ。ムラマサもなかなかやるじゃないの。やっぱりこうでなくっちゃ、面白くないわ!」
などと嘯いていた。
一郎の見立て通り、愉快な彼女の愉快な脳味噌は、いつだって対戦ゲームのように世界を見ているのだ。
エルフは、一同が食事を終えた頃合いを見計らって、声を張った。
「注目! これが今日の日程よ」
予定表。そう銘打たれた紙を、エルフはでかでかと取り出し示してみせた。
一言で言うなら、それは、遊びで構成されていた。
「まずは涼しい朝のうちに”妖精の森”の探索ね。これは、私の作品『爆炎のダークエルフ』の冒頭部の舞台となった聖地よ。誰も訪れたことのない聖地を巡礼できることに、感謝の祈りを捧げなさい」
片足を軸にくるりと一回転。妖精のように舞い踊りながら吟じあげる。かと思えば、片手を突き上げて熱く宣うた。
「午後は自由行動。各自、この神秘の島を堪能しなさい!」
彼女の頭のなかでは、どのように一日を楽しくすごすか、綿密なシミュレーションが成されているに違いない。きらきらと輝くその面は、しかし、すぐに絶望に彩られることとなる。エルフの後ろに立つ影が、無慈悲な宣告をしたからである。
「却下だ。皆さんには、今日は仕事をしてもらいます。特に山田エルフ先生は、締め切り目前の仕事が山積していますので」
言うなり、エルフの示した日程表にボードマーカーで無慈悲な修正を入れる。
一言で言うなら、それは、仕事で構成されていた。
「比較的涼しい午前の時間は、最も頭が働くゴールデンタイムです。各自、仕事に取り組んでください。昼食は、まぁ予定通りで良いでしょう。午後は、腹ごなしに自由時間を過ごしていただき、それから仕事に戻ります。なお、自由時間の間も、山田エルフ先生だけはずっと仕事をしてもらいます」
「ちょっと兄貴、わたしだけ一日働き詰めじゃない! わたしにだけ厳しくない!?」
たまらずエルフが悲鳴をあげたが、いくら泣けど喚けど、現実は動かない。机上に築かれた仕事の山は消えはしない。
「当然だ。ゲームとアニメの監修に、原作小説発行の前倒し。どれも締め切りまでもう何日も残っていない」
「ああ、それは仕方ないね。確かに遊んでる場合じゃない」
「エルフさん、締め切りは絶対ですよ」
いつもはエルフに甘い一郎も、今回ばかりは見放した。
大人しい獅童も、胸の内には小説に対する燃えたぎるような熱意を秘めている。静かに、けれどもぴしゃりと言い放つ。
そして、過激なのはムラマサだった。
「締め切りを守らぬ者は、生爪を剥がれるべきだ」
そういう彼女の指には、いまだに包帯が巻かれていたから、恐ろしさはいっそう際立つ。やると言ったらやる。そういう凄みを、見る者に感じさせた。
「おい、エルフ。それヤバくないか」
エルフの身を案じたマサムネが、前言撤回しろと言い募るほどであった。
「そもそもどうして、そんなたくさんの仕事を受けようと思ったんだ」
「だって、バンナムのプロデューサーに『とらドラ!』の竹宮先生は一週間で仕上げてくれましたよって言われたのよ。よりにもよってクソゲー量産機のバンナムごときにそんなふうに言われたら、負けれてらんないじゃない」
「だから、コレは計画性が皆無なんだ」
呆れた口調のクリスである。その瞳は、どういうわけか、一郎をじっと見据えていた。
「まぁ、エルフさんならできるでしょう。そう思ったから、担当のクリスさんも許可を出したんですよね」
「私もそう思ったのだがな。まさかよりにもよってこんな時期に、暢気に旅行なんぞを企画してくるとは思わなかったんだ……」
苦虫をかみつぶしたような顔をする。鉄面皮のクリスにしては珍しい感情の発露が、エルフの焦燥感を煽った。
「えっ。ひょっとして、わたし、本当にヤバい?」
助けを求めて、エルフは左右を見回した。
右を向けば、マサムネが険しい顔で頷きを返す。左を向けば、獅童が苦々しく首を振る。そして、ムラマサは包帯の巻かれた指をわきわきさせていた。
「し、仕方ないわね。兄貴の提案を呑むわ」
流石のエルフも、顔を青ざめさせる。
まさに地獄へと我が身を踊らせつつあることを悟ってしまったのだ。垂れる糸の一筋もあらば、藁にもすがる思いで手を伸ばしたに違いない。
そんな折りの、
「エルフさん、僕も手伝うよ」
という一郎の提案は、まさに天佑である。しかし、それを、エルフは払いのけた。
「要らないわ。これはわたしの仕事よ。作家はね、自分の
エルフは静かに、けれども怒りさえ宿した琥珀の瞳で、じろりと一郎を睨みつける。
思わず一同は息を呑んだ。
それまでのにぎやかでお気楽なエルフと同一人物だとは思えぬほど、それは、真剣な声音と表情だったのだ。
けれどもただ一人、一郎だけは怯まなかった。
彼は飄々と言ってのけた。
「たしかにその通りだよ、エルフさん。書き下ろしや紹介文、アニメやゲームに出すキャラクタの再現度のチェック。そういうのは本人がしなくちゃいけないだろうね。でも、仕事はそれだけじゃない。例えば、世界観や細かな設定のチェック。これくらいなら、僕がしても問題ない筈だ。――是非、僕にさせて欲しい。僕ならできる」
一郎とエルフは、無言で睨み合った。
こういうとき――作家としてのプライドを賭けた”真剣勝負”をするとき、エルフは打算を抜きに心の赴くままに行動する。
だから、彼女の心を動かすことができるのは、利を語る計算高さではなく、真っ正面からぶつかってくる不器用な誠実さなのだ。
果たして、一郎の想いはエルフに届いたと見える。エルフは、ふっと嘆息すると、不敵な笑みを浮かべて宣うた。
「いいわ。そこまで言うのなら、あなたを試してあげましょう! わたしが『爆炎クイズ』を出すから、見事全問正解してみなさい。いいこと。全問正解じゃないと、任せてなんかあげないんだから」
そしてクイズが始まった。
一郎を席に座らせる傍ら、自らは仁王立ちであれこれと質問を投げかける。
ときに腕を振りかざして熱心に、ときにポーズを取ってキャラに成りきって。ひどく真面目に、そしていっとう楽しそうに。
やがて、エルフは、満足そうに頷いた。
「どうやら、イチローもわたしの
「いやさ、ファンの認定試験じゃなくて、仕事の話だっただろ!」
機嫌良く宣うエルフに、マサムネが突っ込む。
「うっさいわね。もちろん分かってるわよ。それくらいの上級下僕じゃないと、わたしの作品を任せるなんて到底できないってことよ。――それじゃあお願いね、イチロー。ひとつのミスも許されないから、そのつもりでね」
「もちろん。子に対する親の想いを踏みにじるようなことは絶対しないさ」
「兄貴もいいわね」
「良いだろう。一郎先生も私の担当だが、こちらは、既に第一巻の仕事を終えている。スケジュールには大分余裕がある。――ご迷惑おかけします、一郎先生」
「そんな。僕が好きでやってることですから」
そうして、一郎が紙面の山を切り崩しにかかったのを合図に、一同は仕事に取り組みはじめた。
マサムネは
流石のエルフも、しばらくは大人しく仕事に取り組んでいたが、元来が自由気まま、感情と衝動で行動する気質である。幾許もしないうちに、集中力の限界が訪れた。
「もう無理! 無理よ駄目よ無茶よ! 息抜きにみんなでちょとだけ遊びましょう。兄貴も、ちょっとくらいお目こぼししてくれたっていいでしょ。ね?」
これがいつもの四人であったなら、押し切られてしまっただろう。獅童は押しに弱い善人だし、ムラマサは我関せずと原稿に向かうも、マサムネを餌に釣られてしまったに違いなく。マサムネも、なんのかんので流されてしまう程度にはエルフの色に染まってしまっていた。
エルフに甘い一郎は、しかし、この時ばかりは違った。
彼は、エルフの提案を一顧だにすることなく、きわめて冷徹に尋ねた。
「エルフさん。ここの設定なんだけど、ちょっと教えて欲しいんだ。作中で明言されてない部分で、エルフさんの頭の中にしかない設定だと思うんだ」
「えっ、ええ。それね。それは――」
エルフは反射的に応えてしまう。
さすがに自らの作品ということで、すぐさま答えを導き出すエルフであるが、驚きのあまり喉につまらせたそれを吐き出すまでには、一拍の時を要した。
一郎には鬼気迫る感があった。
いつもにこにこ微笑の絶えない顔は、一文字に唇を引き結ぶ無表情で。いつもは優しい声音も、抑揚がなく平坦である。
ふだん穏やかな者ほど、怒ると恐いという。
一郎は、怒っているわけではない。けれども、相手を顧みず、己の行動によって周囲を威圧する有り様は、怒りと何の違いがあろうか。
声には、底冷えするような迫力が伴い、エルフに向けられた瞳は、どこか虚ろである。黒曜石の瞳は、現実を映してはいたけれども、彼の意識はもっと別のもの、脳裏に広がる小説の世界に没頭していたのである。
「小説を書いてるときの一郎先生に近いですね」
「でも、小説を書くときはもっと表情豊かじゃないか。にこにこしてたり、にやにやしてたり。今の一郎先生は、なんていうか、仕事する機械?」
「きっと感情を小説の世界に置いてきたんですね」
「おお、恐ろしい。人間、ああは成りたくないものだな」
「……ムラマサ先輩も他人のこと言えないけどね」
「なっ!?」
そんな一郎に気圧されてか、大変珍しいことに、エルフは静かに仕事に取り組んだ。
ときおり沈黙に絶えかねて、無駄口をたたこうとするのだが、それが一郎にきっかけを与えるらしい。
「エルフさん。ここも教えて欲しいんだけど」
「はいぃっ!」
何度かそういうやりとりが続くと、すっかりエルフは黙り込んで、半泣きになりながら仕事に没頭することとなった。
そんな二人を、クリスは満足げに頷きながら見守るのだった。
「なんてこと、神も仏もいやしないの!?」
というエルフの嘆きを対価に、作家の面々は、しばらくは己の仕事に集中することができたのである。
そう、しばらくは。
「もうこんな時間か。私はしばらく席を外すが、決して怠けないように」
と言ってクリスが姿を消したのを皮切りに、エルフが顔を輝かせる。
エルフは、マサムネに向き直り、声を潜めて言った。
「ふっ、悪は去ったわ。というわけで、ちょっとだけ遊びましょう。そうね、そのPC上で、こっそり一緒にソリティアでもしない?」
秘密を囁くかのような、ひそかなエルフの声。
吹き込んでくる怠惰の風に、マサムネは首を傾げた。怠惰の悪魔エルフは、一郎が封じていた筈である。それがどうして、こうして自由を謳歌しているのか。
「ソリティアって……お前、そこまでして遊びたいのかよ。っていうか、一郎先生は?」
「しっ! イチローは集中してるから、邪魔しないようにこっそりね」
ふと見やれば、一郎は相も変わらず仕事に没頭していた。虚ろな瞳も相変わらずである。
変化があったとすれば、その作業の仕方であろう。彼は、書類の山から書類を手繰って読んでは、審査済みの山へと還してゆく。精密機械のように素早く的確にその作業をこなす合間に、付箋を貼っては、何かを書き込んでいるようなのだ。
いったい、一郎は何をしているのだろうか。
そう思った矢先である。
「エルフさん」
「ひゃいっ!?」
底冷えのする声。
エルフは反射的に身を竦ませて返答した。それは、けだし本能の成せる業である。雪崩をうって押し寄せる仕事の津波から、すこしでも我が身を守ろうと、防衛本能が身を竦ませたのだ。
「さっき教えてもらった設定と照らし合わせたり、何度か原作を見返したりしたんだけど、どうしても判断の付かない部分がある。こればかりは、僕にはどうにもできない領域だ。エルフさんに見てもらいたい。――これだよ。いちいち訊くのも悪いから、付箋を貼ってまとめておいた」
「こ、こんなにたくさん?」
エルフは、あちこちから付箋の飛び出した書類の小山を呆然と見やった。エルフの目には、それは、理不尽な怒りに身を膨らませたハリセンボンのように映った。
「これでも、大分減らしたんだけどね」
一郎の虚ろな瞳の差し示す先には、書類の山々が峰を連ねている。
「えっと、ちょっと今は疲れたっていうか、一休みして、後にしない?」
「ああ、もちろん。それじゃあ、僕は仕事を続けておくから」
「やっぱり、こんなになってもイチローはイチローね。話が分かるわ!」
とエルフが喜んだのも、束の間のことであった。
エルフが気を緩め、机に身を投げて駄弁っている間、その山はどんどん嵩を増していった。どんどん仕事の増えるのを見せつけられて、エルフは休んだ心地がしない。
そうこうしている間に、クリスが帰ってきてしまった。
「ほう、ちゃんと仕事をしていたのか。これは感心だ!」
顔をひきつらせて机上を眺めやるエルフを、クリスは賞賛する。
「仕事してたっていうか、惚けてただけですよ……」
呆れ半分、哀れみ半分でマサムネは真実を告げたが、クリスは上機嫌である。
「なに、遊んでいないだけ進歩があったというものだ。ふむ、どうやら一郎先生のお陰らしいな。仕事も、すっかり片付きつつある」
「これのどこが片付きつつあるっていうのよ!」
エルフは悲鳴を上げたが、クリスは冷静である。冷徹であるとも言えた。
「一目瞭然だろう。これだけあった仕事が」
と右に指さすのは、威容の連なるアルプス山脈で、
「たったのこれだけになった。どうだ、ありがたいことだろう」
と左に指したのは、霊峰富士である。
「そりゃそうだけど、でも、まだこんなに……」
固まるエルフを、クリスが促した。
「一郎先生には感謝の言葉もない。――さぁ、山田先生、次はお前の番だ。さっさと仕事にとりかかれ」
エルフは、それが毒棘でもあるかのように、おっかなびっくり手を伸ばし、けれども引っ込める。
当然、クリスは見咎めた。
「やれ」
「で、でも」
エルフはすがるように一郎を窺った。
自分に甘い彼なら、なんとかクリスを言いくるめてくれるに違いないと思って。
ところが、一郎はエルフを見てはいなかった。瞳にぽっかり空いた虚ろの穴で以て、すべての仕事を呑み込んでやるとばかりに、次なる書類の山に取りかかっていたのだ。
「やれ」
再びの催促。
ついにエルフは膝を折った。
「はぃぃ……」
***
そうして朝の仕事を終えた後は、バーベキューである。
缶詰から解放され、自由の砂丘へと躍り出たエルフは、それまでの鬱憤をぶつけるかのように網の上を取り仕切った。
焼き肉奉行の誕生である。
「ちょっと、そこ! まだ半生じゃない。手を付けるのは早いわ」
生焼けに手を出す者のあらば、厳しく取り締まり、
「だいぶ焼けてきたわね。ほら、お皿を出しなさい。マサムネにイチローに、ムラマサに獅童もよ」
肉が焼ければ平等に分配してと、甲斐甲斐しく世話を焼くのであった。
「一郎、あんたさっきから椎茸ばっかり食べるじゃない! そんな変なのつついてないで肉を食べなさい、肉を」
マイペースに箸を進める一郎である。
そんな一郎をのぞき込み、その瞳に虚ろの穴が穿たれていないことに、ほっと安堵の息を吐くエルフであった。
「椎茸も美味しいと思うんだけどね」
「え……。だってこれ、菌なのよ。信じられないわ。このひだひだ、いったい何の為にあるの?」
すっかり調子を取り戻したエルフは、気の置けない仲間たちとの、楽しい食事を満喫する。
食後のデザートはスイカであった。
それは前日のスイカ割りの成果である。スイカ割りに夢中になってしまったエルフが、後先考えずに大量にこさえてしまったのだ。おかげで、この島に滞在している間は、スイカには不自由しない。
そのスイカは抜群に美味しかった。厳選された一品なのだろう、みずみずしさと良い甘さと良い、庶民のスーパーマーケットで売られているものとは大違いだ。スイカとはかくも美味しいものなのかと、四人は驚嘆したものである。
とはいえ、食べ過ぎれば飽きがくる。なにせ、三食毎度のデザートに加えて、食間のオヤツなのである。度を超していた。
唯一の例外は一郎で、彼は、いまだに目を輝かせてスイカを手に取っていた。
「なんて美味しいんだろう、氷スイカ!」
端的に言えば、スイカの添えられたかき氷である。見た目からして、シャリシャリと涼やかだ。
氷をそのままノミで削ったかのような、荒々しい大粒のかき氷。きんきんに冷えているのだろう、結露をまとった大切りのスイカが、でかでかと添えられている。
大胆で素朴な、昭和のにおいが立ちのぼる。
「縁側の一畳台に腰掛けて、夕涼みに氷スイカを頬張る。幼いころは、よくそうしたもんだよ。これが最高のごちそうだったなぁ」
「はぁ、一畳台に氷スイカですか……。マサムネくんは知ってます?」
獅童には、話の半分も理解できなかったと見える。げっそりした様子でスイカを頬張りながら、マサムネに尋ねる。
「昔のものってことだけは分かったけどさ、いつの時代の話だよ。まさか明治、大正じゃないだろうな。一郎先生、爺臭いし」
「ははは、大げさだなぁ。その頃は炊飯器も冷蔵庫もなかったって話だよ。一度に大量のご飯を竈で炊いて、竹で編んだ
まるで、祖父母の昔語りでも聞くかのような、懐かしそうな顔をする一郎である。
「……なんでやたらと詳しいんだよ」
「こいつのレトロ趣味はともかくとして、あんた達もスイカ食べなさいよ。ほら」
「その、俺もそろそろお腹いっぱいっていうか」
腹をさすって満腹ポーズを取るマサムネであるが、それで引き下がるエルフではない。むしろ喜々としてスプーン片手ににじり寄った。
「遠慮せずに、ね? ほら、あーんして。あーんよ、あーん。ほら、ねぇ、ほぉらっ!」
「やめろよ、土砂崩れになったらどうするんだ! 雨降りで地盤が緩んでるんだぞ!」
「はは……僕はそろそろごちそうさまです」
「マサムネくん、私も先に別荘に帰ることにする。後からゆっくり来るといい」
「あっ、ずるいぞ獅童くん! ムラマサ先輩も助けてよ!」
苦笑いしながらそっと席を離れる獅童とムラマサを、マサムネが叱責する。
その隣では、一郎がにこにこ笑顔でスイカを啄む。
「まぁまぁ、マサムネ先生、エルフさん。美味しく食べれる人が、美味しく頂くのが一番だよ」
「そうよ。だからあんたも美味しく食べなさい」
「そんな無茶な!」
こうして好き勝手に振る舞ってストレスを発散したエルフであった。顔は輝くばかりに晴れわたり、声は弾み、楽しいことはこの上もなさそうである。
しかし、それも長続きはしなかった。
「さぁ、山田先生。仕事に戻りましょう」
仕事モードに入ったクリスの堅い声音が、エルフを現実へと引き戻す。
「イヤよ。これからビーチで遊んだり、妖精の森を散策したりする予定なんだから」
「その予定は変更された筈ですが」
「……ど、どうしても仕事しなきゃダメ?」
「どうしてもです」
「こ、こんなところにこれ以上居られないわっ。わたし、もう逃げるっ」
「そうはいきません」
咄嗟に逃走を図ったエルフを、クリスが捕まえる。
「お、鬼っ! この鬼編集!」
「鬼で結構。山田先生に仕事を完遂してもらう為なら、喜んで地獄の獄卒となりましょう」
四肢をふりまわして暴れるエルフは、そのまま仕事部屋へと連行されるのだった。
そんなこんなで、五人は丸一日かけて仕事に取り組んだ。
その取り組み様は、編集者のクリスを大変喜ばせるものだった。
「一郎先生のお陰です。今日一日で、いったい何日分の仕事が片づいたことか。可能であれば、作家業に加えて山田先生の監督業もしてもらいたいくらいだ」
「わ、わたしは御免よっ。あの時のイチローときたら、人間を見る目をしてなかったんだから。まだ兄貴の方がマシなくらいだわ」
「えっ、そんなに酷かったかな」
「酷かったわよ! もう二度と一緒に仕事をしたくないと思えるくらいにはね」
「なっ……」
エルフは、真正面から向き合ってくれる相手を好む。先刻の一郎は、その真逆であった。エルフを小説の設定辞典のように見ているかのようだった。
そういえば、打ち上げ会でエルフを描写したときも、似たような様子であったかもしれない。血の通った人間ではなく、単なる描写の対象として見ているかのような、虚ろの瞳をしていた。小説狂いの一郎は、小説が絡むと人が変わってしまうのだ。そのようにエルフは思った。
「そんなのイヤよ……」
もやもやとした何かが、胃のあたり、おなかの奥にわだかまる。
それを振り払うかのように、エルフは声を張った。
「とにかく! これだけ頑張ったんだから、明日は一日自由に遊んでいいわよね!」
「そうだな。この調子を維持できるとは思えないが、それを計算に入れても、納期には間に合う。――良いだろう。明日一日、自由にするといい」
エルフはぱぁっと顔を輝かせる。
「本当? ほんとうにその嘘本当? 言ったわよ、前言撤回なんてダメだからねっ」
***
その夜、エルフと一郎は、二人でガーベラに出ていた。
緑のカーテンから吹いてくる風の、青いにおいが心地よい。
「今日はありがとう。色々あったけど、お陰でなんとかなりそうよ」
「いや、こちらこそ何と言うか、ごめん……」
エルフの発言がよほど堪えたと見える。一郎は、肩を落として沈んだ様子だった。
それは、エルフが初めて見る、一郎の弱りきった姿だった。この大人びた少年は、怒ったり悲しんだりといった、負の感情を表に出さないのだ。
エルフは、勝手に口元が緩んでしまうを感じて、ぷいと後ろを向いた。
「いいわ、今回だけは許してあげる。でも、覚えてなさい。あんたはいつだって、エルフちゃんを蔑ろにしちゃあいけないんだから」
「はい、善処します」
「政治家みたいなこと言うんじゃないの! 必ずそうしますって言うのよ!」
「はい、必ずそうします」
「よろしい」
エルフは上機嫌に振り返る。
「明日はね、今日できなかったことをするの。妖精の森の探索に、海での自由行動よ。二度目のスイカ割り……は止めておくとして、今度は泳ぎに挑戦するのも良いかもね」
「三泊四日の日程にしておいてよかったね。二泊三日なら、ほとんど仕事で終わってるところだったよ」
「……そうね。”勝負”どころじゃなくなるところだったわ」
エルフは、神妙な面持ちで一郎に向き合った。
「イチロー。悪いけど、明日は日中、あなたと一緒にいることはできないわ」
その一言で、一郎は全てを察した。
エルフもまた、一郎が己が胸中を察したことに気づく。気づきながらも、宣言した。
「もう一度、勝負をかけるわ。正真正銘、最後の勝負よ」
これはケジメなのだ。どこまでも不器用で、どこまでもまっすぐなエルフの、彼女なりの誠意なのだ。
「そう……分かった」
一郎は踵を返す。話は済んだと思ったのだ。
その背を、エルフの声が呼び止める。
「それが済んだら、もう一度だけ二人になってあげる」
一郎は答えない。ただ黙って頷いて、そのまま歩き去った。
風が、吹いている。
エルフは、風の吹かすに身を任せ、じっと物思いにふけるのだった。
***
そして迎えた三日目の朝である。
仕事で忙殺された一日を取り戻そうと、朝からエルフは意気込んでいた。
「今日こそ、この日程でいくわよ!」
再び取り出したるは、遊び一色の日程表である。
それは、昨日の焼き直しであった。
唯一にして最大の違いは、部屋の片隅にたたずむクリスからのお咎めが無かったことである。
もちろん、エルフは調子づいた。
「……と最初は思ったんだけどね。いくらわたしの名作『爆炎のダークエルフ』の舞台となった聖地だからといって、ただ歩くだけじゃあつまらないわ。もちろん、いずれ世界を支配する超傑作の聖地を巡礼できるだけで、五体倒地して感謝を捧げても到底足らないくらいに名誉なことよ。でも、物事は、もっと楽しむことができる。それが人の知恵よ」
まるで、人の営みを俯瞰する哲学者のように、仰々しくエルフは語る。
「エルフのやつ、何言ってるんだ」
「さぁ……」
「またいつものアホが始まったのだろう」
三人の反応がいつもの通りなら、一郎の反応もまたそうであった。
「道理だね。良いものはそれだけで素晴らしいけど、でも、もっと良くすることができる。流石、エルフさん」
調子の良い相の手を受けて、エルフは、気持ち良さそうに言葉を継いだ。
「でしょう? だから、ウォークラリー大会にしましょう。二人一組になって、それぞれのチェックポイントを通過しながら、ゴールを目指すの」
「二人一組か……」
不満そうに呟くムラマサに、エルフが耳打ちする。
「ムラマサ、あんた分かってるんでしょうね。これまでさんざんお膳立てしてあげたんだから、約束は守ってよね」
「やっぱりそういうことか! だが、ダメだ。まだマサムネくんと特別親しくなれていないもんっ」
拗ねるムラマサに、エルフはぴしゃりと言い放つ。
「うっおとしいわね。あんたが悪いんじゃないの。聞いたわよ、せっかく二人きりにしてあげたのに、したことと言えば、お蔵入り小説をねだったり、書き下ろして書いてもらう約束をしたりと、小説のことばっかりじゃない! あんた、本当にやる気あるの?」
「だって、仕方ないじゃないかっ」
などと声を潜めて話し合う二人であったが、やがて、一応の決着を見たらしい。
「それじゃあ、お待ちかねの組分け発表よ!」
エルフは高らかに告げた。
「ちっ、仕方ない」
「あの、どうかお手柔らかに……」
不機嫌なムラマサと、おっかなびっくりの獅童。
「力いっぱい楽しむわよ!」
「楽しむのはいいけど、変な道歩いて迷子になったりしないよな」
やる気をみなぎらせるエルフと、不安そうなマサムネ。
そして、
「のんびり行きましょうか」
「ああ」
マイペースな一郎と、寡黙に答えるクリスの三組である。
「それじゃあ、どきどきわくわくの自由散策のスタートよ!」
という合図を皮切りに、三組は各々の方角へと歩を進めた。
「クリスさんも、ウォークラリーに参加するんですね」
「ああ。プロの作家とはいえ、君たちは未成年だ。保護者として同行させてもらっている。うっとうしいとは思うが、ご容赦願いたい」
一郎は笑いをかみ殺す。
真面目が服を着て歩いているかのようなクリスは、豪放磊落なエルフのちょうど真逆で、そんな二人が血を分けた兄妹であるということが可笑しかったのだ。
「もっと楽にしてくださいよ。昨日は、妹さんのお兄さんと友人と言いましたけど、クリスさんとはもっと私でも仲良くしたいと思ってるんです」
そんな一郎に気づいた様子もなく、クリスは、照れくさそうに微笑を返す。
「そう思ってくれるのなら、ありがたい。私も、君とは親しく付き合いたいと思っていた」
二人はゆっくり言葉を交わしながら、森を進む。
「とは言え、何を話したものか。恥ずかしながら私は口下手で、趣味らしい趣味もなければ、これといって相手を喜ばせるような話もできない。できる話と言えば……仕事の話で申し訳ないが、すでに頂いた一巻の後の展開について話がしたいのだが、良いだろうか」
生真面目なクリスの、それが精一杯の仲の深め方なのかもしれない。
そして、そのやり方は、実に一郎好みだった。
「大歓迎ですよ。僕にとっても仕事は趣味でもありますし」
一郎は嬉しそうに微笑んだ。
思い出すのは、前世で最も長いあいだ、己が相棒役を務めた担当編者のことである。彼とはよく仕事の話を肴に、酒を酌み交わした。
その縁は、鈴木一郎として新たな生を受けた瞬間にとぎれてしまったけれども、素敵な思い出として今も胸に残っている。
目の前の青年とも、そんな関係になれたら嬉しい。そのように一郎は考えている。
そんな心からの想いが面に滲んだのだろう。
一郎の笑みを見るや、クリスは完全に肩の力を抜き、艶やかに微笑んだ。
鉄面皮はたちどころに崩れ、その下から現れたのは、春風のようなやわらかく爽やかな微笑みだった。
こうして二人は和やかに、そしてどんどん遠慮なく、あれこれと小説について意見を交わし、ますます信頼を深めていった。
クリスにとっての一郎は、筆力のある若手作家という印象であったが、それは、ただちに上方修正された。予め想定した巻数に合わせて俯瞰的に物語の骨子をつくりあげるストーリー力は、まさにベテランのそれであったし、一話々々を盛り上げる構成力もまた熟練の技であった。
そんな一郎にとってもライトノベルは初めての分野であり、業界の動向や読書の傾向といったビッグデータを背景に理路整然と道を示すクリスは、一郎にとって頼もしい軍師のような存在となったのだ。
「妹は、ラノベで世界を支配すると言っている。限りある
クリスの真摯なまなざしを受けて、一郎も笑顔をひっこめた。
「それは素敵なことだと思います。そして、難しいことだとも」
クリスは頷いた。そして、神妙な顔で口を開く。
「兄バカだと笑われるかもしれないが、アレにはそれができるかもしれないと思っている。そして、それは、私の夢でもある」
クリスは淡々と、しかし、だんだん熱く語る。
「私もまた、廃れつつある小説界をどうにか復活させたい。いや、今まで以上に盛り上げたいと思っている。けれども、それには妹だけの力では足りない。一郎先生。君の力が必要なんだ」
クリスは、氷の瞳にかすかな熱を宿して、一郎をまっすぐ見据えた。それは、炎を閉じこめた氷の瞳である。
「山田エルフが、メディアミックスの力をふるってどんどん人をラノベの世界に引きずり込む。そして、鈴木一郎の”読ませる文章”に触れ、文章を読む楽しさを知り、どんどん読書の幅を広げていく。――君たちは両輪なんだ。読者をつくる山田エルフと、読者を育てる鈴木一郎。ふたり揃ってはじめて、私の夢は前に進める。どうか、私と共に歩んではくれないか」
いまやクリスの炎は、氷をすっかり溶かして気炎をあげ、一郎をひと呑みにしてしまうかに思われた。
一郎は、己が不明を恥じた。
真反対の兄妹などとは、とんでもない。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。二人は共に、とびきり壮大で楽しい夢を持った、似たもの兄妹だったのだ。
「くふ、くは、くはははっ!」
我知らず、一郎は笑いだす。
奇しくも、それは、彼の妹によってラノベの道へと
「素敵な夢ですね。そして、実に僕好みだ! どうか、その夢の実現に一枚噛ませてもらえませんか」
「そう言ってくれるか。共に歩んでくれるか。是非もない。私の、いや、私たちの夢を叶えよう」
どちらからともなく、二人は拳を合わせた。
この瞬間、二人は夢を同じくする同士と成ったのだ。
***
そうしてウォークラリーが終わると、昼食をにぎにぎしく楽しみ、午後の自由行動となった。
エルフとマサムネ、そしてムラマサの三人は海遊びを満喫し、一郎と獅童は海のながめつ潮騒を楽しみながら、のんびり執筆作業に精を出したのだった。
最後の夕食もまた豪勢なものだった。それは、エルフが腕によりをかけてつくった地中海料理である。驚くべきことに、昨日とおなじカテゴリでありながら、メニューが重複していないのだ。
一同はエルフのレパートリーの豊富さ、底知れぬ料理の腕前を褒めたたえ、エルフはますます機嫌良く自慢話に給仕に料理の追加にとくるくる働いた。
「美味しいなぁ。こんな料理を食べれるだなんて、何度でも生きてみるもんだなぁ」
「ほんとうに、良いですよねぇ。でも、敢えてひとつだけリクエストするなら、お酒が欲しいですかね。ワインが合うのはもちろんですけど、日本酒だって意外といけると思うんです」
「獅童先生。未成年の前だから、ほどほどにね」
「まったく、大学生はだらしがない」
などと話しながらも、料理から目を離せないでいる一同である。
だからだろうか。それに気づけないでいたのは。
いつの間にか、エルフとマサムネの姿が消えていたのである。
一郎の他に、気付いた者はいない。ムラマサは、マサムネの書き下ろし小説に夢中になっていたし、獅童はお酒をちびちびやっていた。
「えっ。獅童先生、お酒飲んじゃったんだ」
「お酒を希望されたから持ってきたのだが、そうか、獅童先生はお酒に弱いのか」
一郎の呟きを耳敏く聞きつけたクリスである。
「ええ。弱いうえに、絡み酒なんです。酔わないようにペースを作ってあげるか、さっさと酔い潰すのがベストでしょうね」
「そうか。水を持ってこよう」
言うなり、クリスはピッチャーを取りに行く。が、既に遅きに失していた。
「クリスしゃん、このお酒も美味しいれすよ! このお酒のお米はねぇ――」
「そうか、そうか。ところで、水も一杯飲んではいかがかな」
覚えたてのうんちくを垂れ流す獅童を適当にいなしながら、水を勧める羽目になるのだった。
そんな二人を横目に、一郎は、見るともなしに森を見やった。
「そうか。勝負をつけに行ったんだね」
風が吹いた。青いにおいがする。
屋外のガーベラである。緑の蔓棚のつくる木陰の許、海に沈みゆく太陽の絶景を楽しみながら、一同は食事を摂っていたのだ。
一郎が眺める森も、夕焼けの緋色をまとって、燃えるかのようである。
それは、今にも消えいりそうな昼という炎の、最後の瞬きである。緋色の炎がすっかり絶えたとき、夜がやってくるのだ。
「夕陽が沈む……」
感嘆の声が漏れた。
それはあっという間の出来事だった。
森の緋色がひときわ強くなったかと思うと、すぅっと、まるでロウソクを吹き消すかのように、足許から緋色が掻き消えた。
夜がやってきたのである。
今やすっかり夜に沈んだ森から、やがて、ひとつの人影が現れた。
マサムネである。
「お帰り、マサムネ先生」
「あっ、ああ。一郎先生か」
動揺した様子のマサムネである。ただならぬ何かがあったのは、傍目にも明らかであった。
「ご飯はもう満足かな? デザートもあるよ」
「いや、スイカはちょっと……」
一郎がいつものように微笑みかければ、マサムネもほっとして、脱力した苦笑を返した。
その時である。
「あたっ」
ひた、と額をたたく感触があった。
雨である。
「スコールだ! みんな、撤収だ。別荘に帰るんだ!」
マサムネが叫ぶが早いか、たちまち雨は叩きつけるような豪雨となった。
そこからは慌ただしかった。
一郎は酔っぱらった獅童に肩を貸し、クリスとマサムネ、そしてムラマサは両手に食器を抱えて、別荘へとひた走る。
皆が雨に濡れた身体を温めるなか、ただ一人、一郎はずっと森を見ていた。
そんな一郎を気遣う、クリスの声。
「一郎先生、ひとまず片づいた。君もお風呂に入って、温まるといい。いくら夏とはいえ、濡れ鼠では身体に悪いからな」
「クリスさん。エルフさんはまだ、帰っていませんよね」
「……どうやら、そのようだ」
「探しに行ってきます」
「場所は分かるのか」
クリスは、一郎を心配する気持ちが無いではなかったが、言っても無駄だと観念した。
かたく一文字に結ばれた唇が、決意の固さを物語っていたのだ。
「おそらくは森でしょう。マサムネ先生が森から帰ってきた」
「……マサムネ先生を責めるな。彼も気にしていた。できれば迎えに行きたいと。だが、今は会わせる顔が無いとも」
一郎は微笑む。
「生真面目だなぁ。マサムネ先生らしいや」
傘を取って玄関を押し開く。
駆け出そうとした一郎の背に、クリスの声がかかる。
「妹がいるのは、昼間の集合地点だ」
「あの湖……。ありがとう、クリスさん」
降りしきる雨の中、一郎はひたすらに駆けた。
ようやくたどり着いた場所は、湖である。
ここもまた、
エルフはそこに居た。
雨に打たれるに任せて、立ち尽くしていた。
ほっそりと頼りないその背中に、一郎は声をかける。
「エルフさん」
「一郎……」
エルフが振り向いた。
いったいそれは雨なのか、それとも涙なのか。エルフは上から下まで濡れそぼっていた。
一郎は傘を差し出す。
エルフは首を振って固辞した。
そして、一郎が何か言うよりも早くに、ぽつぽつと語り出す。
「あーあ。見事にフラれちゃったわ。ねぇ、ちょっと聞いてくれないかしら」
一郎も、傘をしまって同じように雨に打たれながら、黙って耳を傾ける。
ここまで駆けてくる間に、一郎もすっかり全身びしょ濡れになっていた。
ふたりの濡れ鼠は、雨の打ち据えるに身を任せ、見つめ合う。
「前も言ったけど、アイツには好きなやつがいたのよね。アイツは、もう何年もずっとその娘のことが好きで好きで、話はおろかろくに姿を見ることすらできなくても、それでも想い続けてきたそうよ。一途よね。結局、わたしはアイツのそういうところに負けて、そして、今日も勝てなかったのよ」
その顔に悲壮はない。雨上がりの空のように、からっと晴れ渡っている。
まるで雲の姿を語るかのように、エルフは、のんびりと言葉を紡ぐ。
「考えてみれば、当然なのよね。だって、わたしは、アイツのそういう一途なところが好きになったんだから。だったら、わたしに転ぶはずが無いじゃない。どうして分からなかったのかしら。わたしの”
エルフは、木の根にそっと腰をおろす。
両手を伸ばし、うーんと背伸びして、からりと笑った。
「なんだか、すっきりしちゃった。もう、すっかり満足よ」
その隣に、一郎も腰掛け、同じように雨に打たれながら、そっと囁きかける。
「ねぇ。約束を覚えてるかな」
「約束?」
「今日、マサムネ先生と二人きりにしたら、時間をくれるっていう約束。今、その時間が欲しい。君と二人の時間が欲しい」
「勝手にしなさい」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「ひゃぁっ!」
一郎は、エルフを後ろから抱きかかえた。
少年とはいっても、一郎も男である。ちゃっかりお腹に回された腕は、思ったよりもごつごつしていて、否が応でも男女の性差というものを感じさせた。
エルフは、思わず身を堅くするが、
「夏とはいっても、身体を冷やすのは良くないよ」
一郎の優しい声音に、やがて力を抜き、そっと背を預けた。
気付いてしまったのだ。
一郎の腕は、決して離すまいとエルフのほっそりとした腰にぎゅっと回されていたけれども、腕を結ぶ両の手は、壊れやすい宝物にでも触れるかのように、優しくそっと、エルフに添えられていたのである。
エルフを求める強い想いと、エルフを大切にする一途な心。それら二つのあたたかな気持ちが、一郎の掌からじんわりと滲んでくるような心地がした。
ほのかな熱が胃の下のあたり――下腹部のいちばん奥まで達したとき、エルフは、己の身がカッと熱を帯びるのを感じた。
覚えがある。
いつの間にか、一郎と言葉を交わすたびに感じるようになっていた、よく分からないあの気持ちだ。今や、その正体は明らかである。
「やっぱり、そういうことだったのね」
「ん? 何が、そういうことなのかな」
エルフはくすりと笑って、肩越しに振り返る。
「あんたって、わたしのことが好きで好きでたまらないのね」
「ああ。小説より大切なものができるだなんて、自分でも驚きだよ」
「嘘つき。あんた、わたしより小説に夢中になってたじゃないの」
「これは手厳しい」
それが本当に弱りきった声だったから、エルフは思わず笑ってしまった。
それから、ぴんと人差し指を立てて、大上段に宣うた。
「あんたに一度だけ、チャンスをあげるわ」
「チャンス?」
「この島から出て、離ればなれになって、そして再び会ったとき。その時に、わたしに告白するチャンスをあげる。といっても、プロポーズとか、まだそういうアレじゃないんだからねっ」
「ははは。分かったよ。プロポーズとかそういうアレじゃないんだね」
「ちょっ、笑ったわね! 今のでハードル上がったわよ!」
と叫ぶエルフも、やがて、堰を切ったように笑いだす。
やがて、どちらともなく笑いが収まる。
エルフは真面目な声音で言った。
「いいわね。イチローらしい、考え得る最高の告白にしなさいよ」
「それは困った。本当にハードルが高い」
「ふんっ。エルフちゃんは安くないんだから。どうしてもわたしが欲しかったら、死にものぐるいで精進することね」
「分かった。せいぜい死力を尽くすよ。楽しみにしておいて欲しい」
「楽しい告白を期待してるわ」
二人は、雨が去るまで暫しの間、そうやって座っていた。
***
その翌日、五人の作家は南の島を後にした。
この浮き世離れした島を離れ、それぞれの気忙しい日常に戻っていったが、ただ一人、そこに加わらなかった者がいた。
エルフである。
エルフは、そのまま日本を離れ、帰ってこなかったのである。
20,094文字
なんとか一話に収まりました。収めたとも言います。長い!
延びに延びて焦りながらも、ここにきて、あわやクリス・ルートに行きかねないようなクリス推し。
どうしてこうなった。好き勝手したからだ。
あとはエピローグを残すのみです。
エピローグは、数日のうちに投稿します。