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エルフのいない日々が過ぎていく。
南の島での三泊四日を共にした五人の作家は、空港で別れた。
より正確には、四人と一人の二手に分かれた。
「これから我々は、海外の実家に顔を出すので」
と言うクリスに、エルフは渋い顔をして、しかし大人しく後に続いた。
エルフがさも大儀そうに語ったことには、
「実家に行ったらずっと仕事をさせられるから、気が重いのよ。やんなっちゃうわ」
とのことである。
そのようなわけで、エルフ一人がクリスを供に海外へと旅立ち、四人はそれぞれの生活に戻っていった。
マサムネは妹の世話をしながら小説を書く日々を送り、ムラマサは書いて読んでの合間に寝食をすませるという不健康な暮らしぶりである。
一番健全なのは獅童であった。彼は社交性のある大学生であったから、作家業の障りにならない程度に同期の友人と遊んだり、夏期休業中におこなわれる短期集中講座に出席して学問を修めたりしていた。
一郎はといえば、マサムネやムラマサと似たようなものである。何もなければ、日がな一日小説を書くか読むかしている。唯一の例外は、幼馴染みがやってきた時だった。
「クラスの友達皆でカラオケに行くんですけどー、一郎くんも行きませんかぁ?」
甘ったるい口調で話しかけてくる幼馴染みに、一郎は苦笑を返す。
「クラスの友達皆ってことは、つまりクラス全員ってことだよね」
「それが、悔しいことに、一人だけ友達になれてない人がいるんですよー。和泉ちゃんっていって、一度も学校に来てない子なんですけどね。なんと! おにーさんが小説家なんだって!」
よく知る人物像が意外なところから飛び出して、一郎は、おやと思った。
「ひょっとして、和泉マサムネ先生かな」
「え。一郎くん、知り合いなの?」
驚いたのはめぐみである。
本名をそのまま筆名にするのは、珍しい。もしマサムネと直接知り合っていなければ、この名は出てこない筈なのだ。
「つくづく世間ってものは狭いね。マサムネ先生は、最近仲良くなった作家仲間の一人だよ。他にも、ほら、この前ここで酔いつぶれてた獅童先生とか」
「あー。あの酔っ払いのおにぃさんですか!」
めぐみの脳裏に、青い顔でゾンビのように呻く大学生作家の姿がよぎる。
大仰に「なるほど、なるほど」と頷く彼女に、一郎は問うた。
「それじゃあ、マサムネ先生の妹さんが、めぐみの同級生なわけだ。僕はまだ会ったことないんだけど、どんな子なのかな」
「えっとー、なんて言うか……とっても可愛いえっちな娘!」
めぐみはちょっと考えて、やがて、ふさわしい言葉を見つけたとばかりに顔を輝かせた。
「へぇ」
一郎は感心した。
イラストレーターとしての彼女は、ネット上では卑猥な言動と扇情的なイラストで知られる、あのエロマンガ先生である。
それがネットのみならず、実生活においても「えっちな」と形容される性格をしているとは驚きである。
驚きといえば、めぐみについてもそうである。
マサムネの妹はなにやら複雑な事情を抱えているらしく、その存在そのものが、マサムネのこさえた秘匿の簾の向こうに隠されている。
その簾を取っ払って素顔を拝んだというのだから、めぐみの社交性と行動力には驚くべきものがあった。
「めぐみって、時々すごいよね」
「そうかな? えへへ。よく分からないけど、ありがとっ」
めぐみは花の咲くような笑みを浮かべた。
そして、にこやかに提案する。
「それじゃあ、カラオケに行こうよ!」
「行かないよ。よく知らない上級生が突然やって来たら、皆気後れするだろうに」
「そんなことないですよー。一郎くんのことはよく話してるから、皆よく知ってるし、むしろ会ってみたいって言ってるよ?」
「いったいどんなことを話したのか不安だね……」
兎にも角にも、騒がしい幼馴染みにお引き取り願った一郎である。
そうしてめぐみが去り、一人きりになると、とたんに部屋は閑かになる。
ひとりで椅子に座り、ひとりで小説を書く。その間じゅう一言も発しない。まるで機械になったかのように、黙々と手を動かす。
何十年と慣れ親しんできた筈のそれが、どこか物足りない。
カタカタと、
そうした、ふとした時にぽつねんと響くひとりの音が、どうしようもなく物悲しかった。
ほんの数ヶ月前までなら、気にならなかった。
五十余年の人生において、小説だけがほんとうの喜びであり、苦悩であり、楽しみであり、友だったのだ。
生まれ変わって鈴木一郎となり、少しだけ持ち物が増えた。めぐみという姪っ子のような幼馴染みに引っ張られ、前向きに学校生活に励み、新たな遊びを覚えた。けれども、いつだって一郎の一番は小説であり、本を読む喜びや、原稿と向き合う静寂を愛していた。
幼なじみが部屋にやってきた時でさえ、それは変わらない。一人閑かに小説と向き合うこの時間は、何者も寄せつけぬ、至福のひとときだったのだ。
だというのに、どうしたことか、今はこの静寂が物足りない。
エルフの声が聞けないことが、エルフの姿が見えないことが、耐え難い。
「どうにも参ったね。まさか自分がこんなになるだなんて。本当、エルフさんには敵わないなぁ」
一郎は嘆息した。
まるまる一つの人生を通じて鍛え上げたはずの己の度し難い性分を、エルフは易々と塗り替えてしまったのである。
「さて、どうしたものかな」
と思案する。
こんな時、愛しい人はどうするだろうか。
などと考えれば、すぐに答えは出た。
決まっている。気心知れた仲間と、共に時を過ごすのだ。
***
扉を開くと、すっかり見慣れた顔が現れた。
「お邪魔します」
「あ、これ手みやげです」
「ほう。獅童のお菓子か。それは楽しみだ」
行儀良く入ってきたのは、マサムネと獅童である。その後ろから、ムラマサが無遠慮に上がり込んでくる。
ひとり居の小さな庵である。当然、玄関も狭い。三人は、窮屈そうにひとりずつ靴を脱いで、順番に部屋に上がった。
「一郎先生の部屋に来るのは久しぶりだな」
「そうですね」
「シドーくんも来たことあるの?」
「例の打ち上げ会の後、話の流れで寄らせてもらうことになりまして」
と答える獅童の視線が、とある方向に吸い寄せられる。そのたどり着く先は、かつて彼が日本酒を見いだした棚であった。
「獅童先生、残念ながら今はストックは無いよ。この前空けたので全部なんだ」
「あ、いえっ、そういうワケじゃないんですよ!」
獅童は手を振って誤魔化す。
子供にお酒を催促するような真似をした自身を恥じ入るように、頬を掻いた。
「何のストックが無いって?」
マサムネはよく分からない、という顔をした。
「な、何でもないんです、本当に!」
「そうだね。マサムネ先生にはまだ早いかな。もう二三年したら、その時にね」
「はぁ……」
おそらく、ろくでもないことだろう。最近マサムネが気付いたことには、獅童は押しに弱く酒癖が悪いなど意外とだらしのないところがあるし、一郎はそもそもエルフと一緒になってバカをやるのが大好きという、非常識な一面がある。そんな二人が、わざわざ隠し立てするようなことである。知って得することはあるまい。
マサムネは有耶無耶にされることにした。
「それより、本題に入ろうぜ」
言うなり、マサムネは鞄を広げた。そこから取り出すは、大量の紙束と冊子。夏期休暇課題である。
「それにしても、ナイス・アイディアだよ、一郎先生。勉強会をしようだなんてさ。きっかけが無いと、これに向き合うのはしんどかったんだ」
「たしかにすごい量だ。高校生というのは、大変なのだな」
和装の美少女ムラマサも、着物と柄を合わせた和風かばんを広げる。そこから取り出した冊子は、マサムネのそれより遙かに少ない。
マサムネはため息をついた。
「まったくだぜ。教師ってのは、高校生を殺すつもりで宿題を出してるんじゃないのか。小説も書かなきゃいけないし、正直、そんな暇無いんだよなぁ」
「きっと、彼らなりの愛ですよ」
珍しく毒づくマサムネを、獅童が宥める。
しかし、マサムネは相当鬱憤が溜まっていると見える。
「いらねぇよ、そんなもん!」
と吐き捨てると、今度は、心底参った様子でぼやいた。
「……俺さ、諸事情で成績を落とせないから、宿題が増えてテスト範囲が広がると困るんだよ」
「大丈夫、心配いらないよ」
一郎は微笑む。確かな自信をにじませるその笑みは、見る者をほっと安心させる、貫禄の笑みだ。
案の定、マサムネは飛び付いた。
「一郎先生、何か秘策があるのか」
自信満々な一郎は、しかし、にこりと微笑んで獅童に投げた。
「もちろん。何故ならここに、有名大学在籍のインテリ作家、獅童国光先生を召還したからね。きっとテストのヤマとか、ポイントとか教えてくれる筈さ」
獅童の所属する大学名が明らかになると、マサムネは、驚きの声をあげた。
「えっ、マジであの大学なの!? それは凄い。頼りになるよ、シドーくん!」
「そ、そんな大層なものじゃありませんよ」
キラキラと信頼の眼差しを向けるマサムネに、思わず照れる獅童であった。
もちろん、ムラマサは嫉妬した。
「マサムネくん、是非私にも頼ってほしい! 私は君となら、難問に挑み苦悩を分かち合うのも、やぶさかではないぞ!」
「えっと、その、結構です。俺は地獄の道連れじゃなくって、救世の聖の方が欲しいので」
「なっ!?」
などと、いつものように騒いで勉強会を始める四人であったが、そこからが違った。
なにせ、エルフが居ないのである。
マサムネとムラマサは課題にすっかり集中し、獅童は、静かに原稿に向かっている。彼らは、元来が生真面目な性質だったから、エルフという邪魔者がいなければ、ひたすらやるべきことに打ち込むことができたのだ。
ややもすると、すっかり会話は絶えてしまう。
マサムネも学校の成績は、悪くないどころか優秀であるといって差し支えない。獅童に教えを乞うことは希だった。また、ムラマサは負けず嫌いを発揮して、手が止まってしまっても、決して諦めようとはしなかった。
しわぶきひとつない、静寂。
早々に課題を終わらせてしまった一郎は、とたんに手持無沙汰になる。
しょうことなしに、ぐるりと部屋を見回した。
マサムネは課題冊子にシャーペンを走らせ、ときおり頷いては、頁をめくっている。ムラマサは鉛筆で何事か書き込んでは、消しゴムでこすり、また鉛筆を取る。獅童は
紙をめくる音に、消しゴムのこすれる音、紙を掻く黒鉛の音に、鍵打の音――部屋は、さまざまな音に満ちていた。
もう、一郎は一人ではない。ひとりの音はもうしない。
けれども、物足りない。
たった一人――エルフが欠けてしまっただけで、どんな音、どんな声さえも色褪せる。それはさながら、気まぐれな雨に降られた砂漠の花が、日照りのなかで雨を待ち続けているかのような心地であった。
ひどく物悲しくなって、一郎は、手慰みに本を取った。
シンプルな装丁の、一冊の本。まるでそれが、想い人のよすがでもあるかのように、優しい手つきで、そっと背表紙を撫でていた。
そんな時である。
一郎の携帯電話が突然歌いだした。底抜けに陽気なメロディが鳴り響く。
果たして、それは、エルフからの着信を告げる調べであった。
ほとんど反射的に、一郎は携帯電話に飛びついた。
『イチロー? あんた、今どこにいるの?』
息を弾ませるエルフの声。
久方ぶりの声、息づかいを耳にして、一郎は我知らず頬が緩んだ。
「自宅だよ。エルフさんこそ今、日本に?」
『よしっ。そのまま動くんじゃないわよ。外出禁止ね! いい? じっと待ってなさい!』
答えも聞かずに一方的にまくしたてると、そのまま通話は断ち切られる。
一郎は笑った。相変わらずの突拍子のない行動が、愉快で嬉しかったのだ。
そんな一郎に、マサムネは奇妙なものを見た、とでも言いたげな視線を向ける。
「なぁ、今のエルフか?」
「みたいだね。どうやら、ここに来るらしい」
「え。ここって……一郎先生の部屋にか?」
「ここで勉強会するって連絡、エルフさんに回してましたっけ」
訝しがるマサムネ達が何事か口にするよりも早くに、それはやってきた。
トンテンカンと金属の階段を蹴りつける足音。
それは、アパートの外階段を駆け上がる誰かさんの足音だ。一分一秒が待ち遠しいとでも言うかのようなもどかしさを、聞く者に感じさせる。
一郎は嬉しくなって、玄関へと駆けた。後ろで何か声がしたような気がするが、まるで耳に入らない。
カギを開けると同時に、勢いよくドアが開く。引き戸でなければ、一郎を強打していたに違いない。
ドアの開ききるのも待ち切れぬとばかりに、半開きの隙間から、少女が飛び込んできた。
エルフである。
白磁の頬を上気させ、金糸の髪のたなびくのもそのままに、一郎の胸へ飛びつかんばかりに駆け寄って、
「イチロー!」
一郎を見るや、ぱぁっと顔を輝かせた。
一郎の肩越しに、目を白黒させる面々を認めるも、早々に一郎に向き直る。
エルフは、騎士を従える姫君のように悠々と、そして無限の信頼を込めて、そっと囁いた。
「イチロー、ちゃんと考えてあるんでしょうね」
「もちろん。世界に一つだけの、最高に面白い恋文をしたためたよ。僕の想いを余すとこなく綴ってある。どうか受け取ってほしい」
と一郎が差し出せば、エルフは花のほころぶように微笑んだ。
「ええ。よろこんで」
それは、シンプルな装丁の本である。
表紙には、タイトルと一郎の著名が簡素に刻まれている。カバーもなければ、イラストもない。きっと挿し絵だって無いはずだ。
けれども、上質の紙を束ねる製本は丁寧で、これ一冊の為だけに印刷所を利用したのだということが見て取れる。
世界にただ一つだけ、ただ一人の為だけに作られたその本は、このように銘打たれていた。
――転生作家は美少女天才作家に恋をする。
5,557文字
これにて完結です。
たくさんのご感想、ご意見、評価をありがとうございます。大変勇気づけられました。
この後、「あとがき」という名の拙作語り、元ネタ解説、書き手としての振り返り(備忘録)を投稿します。
よろしければお付き合いいただき、突っ込みなり何なりいただければ、嬉しくて楽しくて小躍りすると思います。
また、今後は、気の向いたときに後日譚を書いたり、R-18に挑戦してみようと思います。
完結までのお付き合い、ありがとうございました。