修正したので初投稿です

絶賛ギャグものです

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古明地姉妹の一月戦争!

 地底にも雪は降る。最初に鬼たちが住み着いた頃、数百年以上前にはもう天気が存在していたと伝えられている。何故、誰が、どのようにして、またはいつ生み出されたかは定かではない。

 いつからか、ここには地上であぶれた嫌われ者たちが流れ着くようになった。空を捨てたのに雪に降られるとは皮肉な話だ。さて、わざわざ暗い地下に潜るのだから、やはり移住するのは相応の妖怪たちだ。悪かったり、尖ってたり、醜かったり、恐ろしかったり、様々な由縁はあれど、どうしようもなく厄介なヤツらばかり。

 そして、そんな何者よりもどうしようもないヤツがここにいる。

 「冬だ!雪だ!姉ちゃんに雪玉投げ放題だぁっ!」

 こいつだ。古明地こいし。何も考えていない、いや、姉を虐げること以外何も考えていない私の妹。

 「何入れようかな? オーソドックスに石かな? カラーボールとか入れたら面白いかな?」

 朝っぱらでもいっさいお構いなしに、バカみたいに大声でバカみたいなことを言う。その声は内にも外にも響いている。我が地霊殿の近隣トラブルの半分はこうして引き起こされるのだ!

 それから五秒も経たずして、いきなり爆竹が弾けたような音が飛んできた。そこでは部屋の扉を蹴り開けたこいしが靴底を見せている。わざとらしく頬を膨らませながらズカズカと部屋へ踏み込んでくる。

 「おい姉貴、雪が積もって無いよ」

 ああまた始まった。こいしはいつもこうして言い争いを呼びに来るのだ。

 「だからぁ、地底で雪が降るなんて有り得……るのだけど、地下の気温は安定しているから積もる程には冷え込まないの。」

 「そうなのかー」

 その十字をかたどったようなポーズは控えた方が良いと思う。バカに見える。

 「でさ、昨日も一昨日も一昨々日も、何日前なのか思い出せないくらいずっと前の日から同じことを教えてんだからさ、いい加減察しなさい」

 「同じじゃないよ。八回のうち三回は『い』抜き言葉を使ってたし、二回は『地底』と『地下』の順序が逆で、もう二回は両方『地底』だったし、その内一回は『い』抜きもやってたもん。」

 「そこまで詳細に覚えてたんなら余計に言わせるなよ!」

 「ごめんなさい。お姉ちゃんのかわいい妹はアホなんだ」

 ちっともかわいくなんかない。

 「へぇーそうですか。それはかわいそうに。」

 「うっわー! 姉ちゃん私をバカだって認めたなー! バカって認める方がバカなのよ!」

 「なんだその理屈は。第一、私はバカではなくアホだと……」

 「じゃあバカとアホの違い分かるの? 分かんないでしょ? チルノに言うと笑って流されるのがアホ、キレて氷ぶん投げてくるのがバカだよ。今更知ってたなんて言っても無駄だからね!どうせ見栄っ張りの嘘に決まってるもん」

 「そのチルノってのは何者なのよ。そんな聞いたこともない定義、いつ決めたの。何時何分何秒スキマ妖怪が何歳サバを読んだとき?」

 「今でしょ」

 「ネタが古い」

 こいしが地団駄を踏む。

 「もう!この姉貴、妹相手でも本気で言い負かしにくる。こんな大人気ない姉が居るところになんか居られない! 私家を出る!」

 ようやく諦めたか。こいしはヤケクソに雪玉かなにかを投げるふりをして後ろを向く。

 「扉は閉めていきなさい」

 「引き留めても無駄だよ!」

 「止めてないし」

 「私は決めたの。お姉さまの言うことは聞かないって。お姉さまに縛りつけられて、囚人のように暮らすのはもう嫌」

 「止めてないんだよだから」

 「姉さんとは分かり合えないことくらい最初から気が付いてたはずなのにね。アハハ、私ったらバカみたい」

 「いいからさっさと出てけ」

 こいしが突然俯いて喋らなくなる。

 「な、なによ、どうしたのよ」

 コロコロ態度を変えて、こいし一体どういうつもりなのか。やきもきする間が続く。するとまた突然、掴みかかってきた。

 「止めてよー!」

 「出て行けぇぇぇ!」

 結局力ずくで放り出してやった。

 「はぁ…………はぁ…………」

 いけない、朝から動きすぎた。めまいがして、前が見えない、頭がぐるぐるする。猫に対するネズミ、あるいは日光に対する吸血鬼のように私はめっぽう朝に弱いのだ。それはもう、動脈を切っても深紅の血が流れ出さないくらいには血圧が低い。

 「さとりさま、聞いてます? さとりさま」

 ああ心なんて読めなくていいから、血圧を操る程度の能力を持って生まれ変わりたい。それこそ吸血鬼とかなら困ることはないんじゃないか。

 「大丈夫ですか?」

 「ふぇ? あ、え、お燐か」

 このお燐という娘は、猫っぽいペットだ。あと赤い。そして彼女が私の部屋に入ることは滅多にないはずだ。なにゆえこの猫娘が訪れてきたのか知りたいのだが、今は心を読むのもつらい。

 「あなたは何にしにここへ?」

 「そりゃあもう決まっているじゃないですか。新年を迎えたわけですから、当然さとりさまに挨拶をしなければと」

 「へぇ、しんねん。……しんねん?」

 新年……新しい年? 正月?

 「あけましておめでとうございます」

 「えっ年明けたの?」

 「知らなかったんですかぁっ!?」

 尻尾を踏まれた猫のごとく飛び上がるお燐。

 「いや冗談でしょまさか」

 「旧都では徹夜組がおかしくなって大騒ぎしてますよ」

 嘘ではないらしい。モニタリングでもないのか。年越しらしいことはまだ一つもこなせていないのに。そばだって食べていない。晩は白飯と余り物のお漬け物だけ。

 「ちょっと待って。じゃあ私は年越しの瞬間どうしてたんだ?」

 一年の始まり、今後を占う上でも特別な意味を持つ瞬間だ。もし縁起の悪い行動をとっていれば一大事だ。

 「ねぇお燐、どうしてた!」

 お燐の肩を掴んで前後に揺する。

 「わかりませんよ~」

 間の抜けた声が返ってくる。住まいは同じでも顔を合わせる時間も少ないのだから、知る由もないのだ、わかっていたことだろう。無意味なことはやめ、自分の脳に問い合わせよう。さあ思い出せさとり。昨日の夜半、日付の変わるとき……

 「…………あ」

 「思い出しました!?」

 「めっちゃお腹痛くなってトイレで呻いてた」

 「それは大変でしたね」

 まるで他人事だ。

 「『大変でしたね』じゃないわよ。色々やりたいことあったのよ! 空中で年を跨ぐとか、運気アップのポーズするとか、いっそ年越しセックスとか……」

 「まあまあいいじゃないですか。バカな若者みたいなノリ、さとりさまは似合いませんよ」

 「それを言っちゃおしまいだけどさぁ」

 私はお燐から目を逸らした。アンティークの戸棚の上に煤けた日記帳が見える。

 「今からでも遅くないです。たくさん新年らしいことをして、お正月を楽しめばいいんですよ」

 「ああ、そういえば門松も出してないしお雑煮も食べてないわね」

 その言葉を聞いた途端、お燐の顔に光が差した。

 「私がお雑煮作りましょうか! 今ならおつけものも――――」

 「ダメよ」

 地霊殿ではかつて食中毒事件が三件起きている。その10割がお燐の手料理に因る。

 「食べさせてあげるから待ってなさい」

 まだ少しふらつくが仕方ない。お燐をキッチンに送ればここは「旧」地獄ではなくなってしまう。私は扉を開けて部屋を後にする……つもりだったのだが。

 「扉は? どこにいったのよ」

 「さっきこいしさまがそれっぽいものを運んでいたような」

 「ああ、あのときに……」

 蹴ってブチ壊したなこいしのヤツ。その上扉を直させないよう嫌がらせか。私が貧血で朦朧としている間に、好き勝手してくれて。

 「あいつめ。サードアイのコードでぐるぐる巻きにしてやる」

 お燐が少し引いた。

 我が地霊殿は樫の木を一枚板で切り抜いた豪儀なテーブルを備えている。ブタを丸焼きにして置くことさえ出来るのだが、その大きさを活かす機会はめっきり減ってしまった。

 お燐は食卓の隅に座っている。器を置いてやると、不思議そうに問いかけてくる。

 「さとりさまは食べなくていいんですか?」

 貧血でとてもじゃないがモノを食べる気分じゃない。

 「そうですか。食べれるときに食べて栄養を取っておくといいですよ」

 ペットに健康をアドバイスされてしまった。一応気を付けておこう、明日から。

  お燐は手を合わせて箸を取り、濡れたお餅を掴む。私の顔が歪んだのは、彼女の姿のせいではない。

 「お姉ちゃんお腹すいた! 今すぐお雑煮を食べないと健康が損なわれちゃうよ! 病名は餓死!」

 またこいつである両手でナイフとフォークを立ててテーブルを殴るこいし。

 「おめぇに食わせる雑煮はねぇ」

 「ひどいよお姉ちゃん。こいしは5時間何も食べてないんだよ」

 「夜中になんか食ってんじゃねーか」

 「そうは言いつつ2食分用意してるじゃない」

 いつの間にか雑煮がこいしの前に置かれている。

 「それは私が後で食べるために作ったの」

 「もー素直じゃないんだから」

 煽っているのかポジティブなのか、お餅みたいに頬を膨らませたこいし。手元では餅をナイフで切ろうとしている。

 「お餅っていうのは粘り強くていいね。なかなかに千切るのは難しいし、簡単には食われない。最後にもう飲み込まれるってところで喉に詰まって相手を殺せるし」

 「なに格言ぶったこと言ってんのよ。あんた餅を上手く切れないだけでしょ。箸で食べときゃいいのに」

 餅の粘り強さに苦戦するこいしは彫刻家のようにナイフの角度を変えては切り、という動作を反復していた。いっそ諦めて噛みちぎってしまった方が楽だろう。

 「あ、そうだ、こいしさま」

 お燐がなにやら思い出した様子だ。

 「うん? つけものなら要らないよ」

 「そうではなくて、あけましておめでとうございます」

 「そっかそっか」

 今はお餅だけが興味の対象であるらしく、こいしは口だけで適当に答える。

 「特にリアクションもないんですね」

 「うーんまあ、一年の刑は元旦にありって言うし、取り敢えず姉貴にどんな罰を下すか考えてはいるよ」

 ナイフをザクッと刺して、罪の無いお餅を処するジェスチャーをする。そっちの刑じゃないからな。

 「それとも正月だからそれらしいことをしろっての? だったら一緒に神社へ初詣に行こうよ。姉貴もお燐も暇だろうしさ。」

 「ええ、神社ですかぁ?」

 お燐は当惑の表情を浮かべ、箸が止まる。

 「待ちなさいよこいし。初詣だって?」

 「うん」

 「どうして神社になんぞ行かなくちゃいけないのよ。神なんてものを信仰するのは人間だけよ」

 「じゃあもう異教徒を殺したりコーラン燃やしたりしちゃダメだよ」

 「そんなことは一度もしていない。だいいち神社なんて地底に存在するはずないでしょ」

 「あるよ神社くらい」

 こいしは、また口八丁で私を妙な場所へ連れていくつもりなのだろう。三ヶ月前、SMバーに1人放り込まれた痛みは二度と忘れぬ。ひどい思い出だ。じっとり暗い部屋、ぼんやり光るロウソク、岩肌のようにざらついた三角木馬。趣味ではないけど攻めるしかなかった、攻められたくはなかったから……

 「古明地さとり、後生ムチは振らないわ……」

 「会話を成立させてよ」

 「ふん、とにかく神社など無い。それが結論よ」

 私が腕組みする中、こいしの口は折角切った餅をまとめて丸呑みにした。

 「お姉ちゃんは私が嘘つきだと言うんだね。構わないさ。でも、人を嘘つき扱いするならばそれなりの、リスクと覚悟を背負うべきだよ」

 「そりゃ嘘を言う方が悪いわ」

 「他人を信頼する為に契約書や担保が要求されるんだから、疑うにも同じであっていいじゃない。だからさ、ひとつ約束をしてよ。もし本当に神社があったら一緒に来るって」

 「あーはいはい分かったわ勝手にどうぞ。どうせ無いものは無いの。さっさと食べて片付けなさい」

 そそくさとこいしは食器を置き、席を立った。

 「よし決まり! 30秒くらいで支度しな」

 「何言ってるのよ。まさか神社があるはずないわよね? ねえお燐」

 何故渋い顔をする。やめてくれ。口を開かないでくれ。

 「さとりさま、それが、言いにくいのですが……」

 

 

 

 あった。

 地底に神社は存在した――――。

 まず目に入ったのは鮮やかな赤に煌る鳥居だった。そしてそれは見上げるほどに高い。また白い木材で建てられた社は、汚れや傷とは無縁であった。境内には屋台も出ていて、人が集まれるだけの広さがある。思ったよりも立派なものだなと感心してしまった。だが決して私の心の中に神は居ない。ソレに対しては蔑みとまではいかずとも、冷ややかな感情を抱いている。妖怪を作るは人の恐れであり、神を作るは人の畏れである。神を信奉するという行為が、我が身を滅ぼすやも知れぬのだ。そう思うといい気持ちはしなかった。

 それにしても、まさか地底に神社が建つ日が来ようとは。例の異変以降、地底は少しずつオープンになってきている。核エネルギーに惹かれた河童が毎月「技術協力」などというものの勧誘に来るし、いつの間にか街に新聞が普及している。とはいえ意外には変わりない。地底の行く末が憂慮されるが、ある種時代の流れを映し出しているとも言えるかもしれない。

 「なーにムスっとしてるの」

 「してないわよ」

 こいしが猫背になった私に声を掛けた。覗き込む妹の顔は楽しげで、遠足に出発する子供のようだ。しかしその零れた白い歯から湧きあがる感情は、悔恨。誤りではない。読んで字のごとく、悔しくて恨めしい。

 「お姉ちゃんは幸せ者だよ。外に連れ出してくれる家族が居るんだから」

 「あんたが言うなや」

 お節介甚だしい。こっちはいい迷惑なのだ。

 「なかなか混んでますね」

 お燐の発言の通り、境内は鈴なりの参拝客でごった返していた。人混みには近寄りたくない。下を向いて歩くものの、足元は光るような白い石ばかりで目が痛くなる。

 「お、あれは」

 こいしが参拝待ちの列に誰かを発見したようだった。ぴょんぴょん跳ねながら大きく手を振る。

 「おっす星熊さん、こいっしこいっし」

 星熊さん、というのは知り合いなのか? どうであれ公の場でそんなふざけた挨拶をされると、お姉ちゃん恥ずかしいぞ。

 「おーこいしちゃんじゃないか。相変わらずだね」

 振り返った女性の姿を見て私は驚いた。体格はこいしの倍近く筋骨隆々。さらに真冬だというのに半袖のシャツ一枚と、出で立ちは非常にエキセントリックだ。前髪を割いて突き出した角を見れば、彼女が鬼であることは直ぐに分かった。

 「今日はお姉ちゃんも来てるんだ」

 「へぇ、姉さんね」

 ああ、紹介なんてしなくていいのに。

 「というとあれかい? けちで引きこもりで冷たくてよく暴力を振るう邪智暴虐のあのお姉さんか」

 「ン゛ッ」

 鬼の視線がこちらに向く。咳払いをして辛うじてお茶を濁すと、こいしが鬼に言った。

 「大体あってるよ。でもあと貧乳が足りない」

 こいしめ、普段どんな話をして姉を貶しているんだ。サイズだって大して変わらないだろちくしょう。こんな紹介をされて滅茶苦茶強そうなムキムキマッチョの鬼の前に出てくる人の気持ちも考えなさいよ。

 「で、これがお姉ちゃん。ほら早く来てよ」

 「お、お燐……」

 呼び掛けもむなしく、お燐は猫の姿に変身して10歩後ろへ逃げている。さすがに獣を模しているだけあって危機察知能力が高かった。仕方がない。私はとぼとぼ前へ出る。

 「はっ、はい、えー」

 「はじめましてお姉さん」

 目の前に出てみると、やはり大きい。彼女は柔らかい笑顔をしているのに、まるで鉄の壁を相手にしているような感覚に陥ってしまう。

 「はー、はじめまして、あのですね、これはちがくて、あの」

 私は下から鬼の視線を伺う。鬼という種族はたいてい、豪快で大雑把な性格をしている。人情に篤く、酒をかっ食らうことが彼女らにとって最高のコミュニケーションである。血の気も多い。自分の正義を信じ、問題や気に入らぬものは力で解決を図る。

 さて、なにゆえ私は心が読めるのに、拙い精神分析を語っているのか。至極単純。怖いからだ。この鬼の心を読むのが怖いから。

 鬼はギラリと白く尖った歯を輝かせた。

 「ああ大丈夫、ケンカの相手を悪く言うなんざよくあることさ」

 締め付けられた心臓が解放される。笑顔を返そうとしてみるが、表情筋がコンクリートのように動かない。

 「妹が、ご迷惑を、おかけしています」

 「ああいやむしろ感謝してるよ、妹さんには」

 「そうなんですか」

 「デカい建築は久々でね。皆いつもは酒を呑むくらいしかやることがないから、良い気晴らしになったよ」

 「え、それだとまるで妹が建てさせたみたいですが……」

 星熊さんは目を丸くした。

 「妹さんに聞いてないのかい?」

 「言ってないよ」

 私が答えようとしたところに、こいしが割り込んで言う。何を言っていないのだ。事態を把握できない。

 「どういうことか説明しなさいよ」

 「こいしから紅白の巫女さんにお願いしたんだ。タダで信仰と賽銭が集まるって吹き込んだらソッコー快諾よ」

 あたかも日常の些事であるかのように語る様子に、私は呆気にとられてしまった。まさか私を引っ張り出す為だけにここまでの大仕事を為したのか?

 「ビックリしたみたいだねお姉ちゃん。でも序の口さ。こいしによる壮大な計画の第一段階なのだよ。ハッハッハ」

 呆れているのだよ。はっは…………ああ笑えない。

 「こいしちゃんはああ言ってるが本当のところ、最近喧嘩やいざこざが多くてな。外で酒を呑める場所が出来て親睦が深まればいいかなと。宗教ってのは心を安らかにしてくれるんだろう? それも都合がいいさね」

 「まあ、表向きはそういうことだね」

 宗教はアロマオイルとは違うんだから、教義も知らずでは効果はないだろうに……。飲み薬を塗って使うような、若しくはぶきを拾ってそうびしないような、もどかしい誤謬を彼女は抱いているのではないか。だが、当然私にそんな高説を垂れる度胸などなく、

 「いろいろ大変ですね」だなんて愛想笑いをするのが関の山だった。

 「うし。じゃあお姉ちゃんの子守りもあるからこの辺で。じゃーね星熊さん」

 そんな軽口を言って手を叩いたのはこいしだ。私も別れを告げることにする。

 「子守りしてるのはこっちよ。ではまた会う機会があれば」

 「おう。今度はうちの店にでも来てくれよ」

 星熊さんはでかでかと「悠々酒滴」という綴りが張り付いたTシャツの、豊満な胸を張る。後に明らかになるが、この造語が彼女のバーの名前らしい。しかしこの時の私にTシャツの柄は目に入っておらず、妹と「仲が良い」と思われていることをひたすら気に掛けていたのだった。

 

 「おみくじがあるよ。引いてみようよ」

 ずらりと算盤のように連なる参拝の列から離れて、妹はこぢんまりした一区画を指差した。紅白の幕の下にやたらと幅の広い木箱が置かれている。傍の立て札は達筆で「一回 百幻想郷ドル」と語っている。どうせ中身はただの運試しだろう。

 「100ドルあげるからお燐と引いてきなさいよ。私は興味ないわ」

 こいしの表情が突然暗くなった。

 「違う、違うよお姉ちゃん。こいしはお金が欲しいのでもオカルトな紙切れが欲しいのでもないんだよ。おみくじに一喜一憂する時間。そんな普通の姉妹の当たり前を、ごくごく平凡な思い出を望んでいるだけだというのに、お姉ちゃんは……」

 「ああ分かったわ、引くわよ。ごめん」

 「やったー! では始まります!」

 第一回 ドキドキ☆罰ゲームを賭けておみくじ運勢勝負~!!」

 「さっきの言葉撤回。お前、本当は罰ゲームやらせたいだけだな」

 「ドンドンドン! パフパフパフ!」

 「効果音を口で言うな」

 つけ上がるスピードだけは天才だ。甘やかしてやらなきゃよかった。

 「はーあ。そうだ、折角だしお燐も引いてきなさい」

 私は硬貨を指に挟んでお燐に差し出したが、様子が妙だ。お燐はモジモジとあか抜けない顔を上目遣いにして、手を合わせて願いを乞うのである。

 「さとりさま! その、あちらの屋台からふんわり美味しそうなにおいがやってきててですね。いやもちろん、あたいも立派ないち妖怪としてさとり様のお誘いを前に、まさか食欲に負けるなどということはありませんがえーと……」

 「……行ってきなさい」

 硬貨を数枚お燐に手渡すと、彼女は嬉しそうに猫耳をピンと張って屋台の方へ跳ねていった。こいしもこれくらい素直で可愛いげがあればいいのだが、

 「サシでヤり合うのはいつぶりだろうなア、姉貴よォ」

 これだからなあ。

 「で、罰ゲームで何をさせるつもりなのよ」

 「今日まで犯してきた罪を首に提げて3日間野晒しにする」

 「中世の処刑かよ。やらんわそんなの」

 「だったら運勢が悪かった方が一つ願いを聞くってことで」

 「さっきみたいな酷いのは無しよ」

 「はいはい、わかってますよっと」

 こいしはコインを投げ入れ、おみくじの溜め池へえいやと左腕を突き刺す。まるで湖底の泥を浚うようにして、熱心に箱の中をまさぐり続け。やがて不気味に笑い出した。

 「どこだぁ……? こいっ……。こい……っ、ワタシのダイキチ……っ!」

 カチリ、と何かが嵌まる音が聞こえた気がした。御籤の水面が急速にざわめく。抜錨。一枚の選ばれし紙片を掴み取った腕が、天を衝く。

 「デスティニードロー!」

 開かれた紙、指の隙間から覗いたのは『大』の文字。まさか、引いてのけたのか……!

 「くらえ! 私の愛と魂と、心と某と、猫も杓子も、奇跡も魔法も! これがすべてを込めた神の引きだぁ!」

 振り下ろした手の風圧に身じろぎながらもかろうじて結果を視認する。

 『大』の文字、そして――――

 『大凶』

 「プッ」

 「わ、笑うなー!」

 こいしは両手を挙げて怒ってみせるが、コントのような見事なオチを披露しておいてそれは無理な話だ。

 「あれだけ大見得切って大凶って。傑作よ、フフ」

 「まだわからないから! お姉ちゃんだって大凶かもしれないし」

 「大凶なんてそうそう出るもんじゃないのよ。さて何をしてもらおうかしら?」

 おみくじの箱から適当な一枚を引っ張り出す。大凶でなければ結果はどうでもいいが、一応中の文字は、と。

 大、大、大…………凶。

 「は?」

急に元気になったこいしに指を指される。

 「ほらでた! お姉ちゃん今最っ高にカッコ悪いよ! ねぇどんな気持ち? ねぇどんな気もう゛っ」

 (無言の腹パン)

 「『大大大凶』 ? なによこれ。ちょっと流行りに乗ろうとして前前◯世みたいに言って、結局乗れてないじゃない。おみくじだって一応神聖なものでしょうが。神道なめてんのか? なめてんだろ。ええいこんなもの!」

 「神聖なものを平気でガシガシ踏みつけるお姉ちゃん、私は好きだよ」

 「やかましいわ!」

 最早私の怒号などものともせず、こいしがニヤリと笑う。

 「それじゃあ罰ゲーム、やってみようか」

 「まだ、まだよ…………」

 諦めては駄目。こいしの嫌がらせを甘く見てはいけない。ここで負ければどんな屈辱を与えられるか分かったもんじゃない。

 「まさかノーカンだとかのたまうんじゃないよね?」

 「まだ私のバトルフェイズは終了してないわ!」

 私はポケットから財布を取り出し、こいしへ言い放つ。

 「こいし、あなたは詰めが甘かった。この勝負に、『おみくじを引けるのは一度まで』というルールは存在しない。つまり、私の財布に小銭が残っている限り! 私は追加でおみくじを引くことが可能だということ……! 姉の財力を前にひれ伏せぇっ」

 「いやいやいや、それはいくらなんでもセコすぎるよ! おみくじを何度も引く人なんて居ないよ普通!」

 我ながら大人げないとは思う。卑怯だと謗られても仕方がないだろう。だが、それでも私は、こう言ってみせよう。

 「勝った者が正義、負けた者が悪なのよ!」

 黄金色の500幻ドル硬貨を投入する。掬い取った御籤は五本。一気に方を付ける5連引きだ。

 「さあくらいなさい!」

 大凶! 幻想凶! 大大凶! 大凶! 末吉!

 勝った。こいしはお金をほとんど持っていないはず。内訳の散々ぶりはともかく、私は引いたのだ、末吉を。勝利を確信して、得も知れぬ高揚感が私を包んだ。オムレツが綺麗に返ったときや、一発で針に糸が通ったときの、初春の夜風が頬を撫でるような心地よくスカッとする感覚だ。罪悪感無し。私は得意満面になってこいしに御籤を見せつけてやる。

 「見なさいこいし、末吉よ、私の末吉……」

 だが反応が無い、いや、姿そのものが見当たらない。風見鶏のごとく左右に首を振って廻りを見回すも、馴染みの帽子は人混みの波に紛れ消えていた。要はまんまと逃げられたのだ。

 「こいしぃぃ! 出てきなさい、卑怯よ!」

 どの口が言う、という言葉がぴったりである。我ながら。試合に勝って勝負に負けるというヤツだった。

 梯子を外されて私が肩を落としているところにお燐が戻って来た。

 「あれ? こいしさま、屋台の方に行っちゃいましたけど」

 「600ドル使って何か食べた方がマシだったわね」

 あんなくだらない勝負に熱くなっていたのが途端にアホらしくなった。

 「さとりさまも屋台行きます?」

 「止めておくわ。これ以上無駄遣いしたくないし」

 「あ、もしかしていっぱい課金しちゃったんですか。600ドルってそういうことかぁ」

 「う、それはその……」

 私は羞恥に叩き付けられる。たかがおみくじごときに600ドルも突っ込んだ女がここ居ります。笑えよチクショー。

 「あんまり深入りしない方がいいですよ。勿体ないですから」

 ああやめて。優しい意見がかえって鈍器になるわ。お燐は追撃のつもりか、私の耳元に接近して続きを囁く。

 「ここだけの話、悪い噂を耳にするんですよ。おみくじに有り金全部溶かして自己破産したとか、精神崩壊した一つ目の妖怪が居るとか……」

 「待って、なにそれ。どんな奇跡が起きたらおみくじで破産出来るのよ」

 「あれを見てください」

 お燐が指したのはおみくじの料金が書かれた立て板だ。改めて見ても特に不審な点は見当たらない。

 「料金設定は至極妥当だと思うけれど。それとも、これに呪いでも掛けてあると言うのかしら。……もっと下? 『小さな文字を読め』、か」

 よく目を凝らすと、そこには投入されているくじの数の割合が示されていた。それは業界用語で言う「確率表記」というものらしかった。

 大吉:1.0%

 中吉:3.0%

 小吉:4.0%

 吉 :12.0%

 末吉:20.0%

 その他:60.0%

 「うわ……」と思わず声が漏れた。一般的には凶以下はごく僅かで3割程度は大吉を入れておくのが相場ではなかったか。たしかに大吉の当選確率は甚だしく低い。とはいえ、生活を破壊してもなお引き続けるまでの魅力がこれにあるとは到底思えない。

 「これだけでも十分酷いですが、本当の恐ろしさは1%の先にあるんです」

 「1%の先?」

 「なんと大吉には一から十番までのパターンが存在するんです。それぞれ内容が異なっており、ナンバリングも付いています。さとりさまの末吉や凶にも割り振られてますよ」

 「ホントだ」

 見出しの「末吉」の真下に漢数字で「二十三番」と印字されていた。

 「結果、その十種を全て集めようという、ツワモノが現れ始めました。そして確率に悪夢を見るというワケです。特に六番が凶悪で、未だに当たり報告が挙がっていないとか。いつしか『幻の六番』と呼ばれ、手に入れれば願いが叶うなんて都市伝説まで生まれちゃいました」

 なるほど収集欲と希少価値を利用したビジネスということか。もはやモノの用途や価値は問題では無い。値の張る宝石だって、稀少なだけで結局はただの光る石なのだから。さらに当事者には、誰よりも早く引いてやらんと競争意識も芽生えるだろう。

 ともすれば馬鹿が数人引っ掛かっても可笑しくはないか。俄には理解しがたいが。

 「まさかこのシステムもこいしが?」

 「ははは、有り得ませんよ。こんな恐ろしい商売、思い付くのは巫女か悪魔かくらいでしょう」

 「まあそうよね」

 さすがに考え過ぎか。

 「そういえばあなた屋台で何か食べるんじゃ無かったの?」

 「え? ああこれのことですか」

 一度キョトンとしたお燐が、掲げたのはビードロに似た袋だった。中には朱色の金魚が2匹。しかしそれよりも、次の発言に驚かされる。

 「煮たら美味しそうだと思って」

 時折、心を読んでも考えが分からないことがある。それが今だ。焼きそばやりんご飴にいか焼き、おいしいもの選り取りみどりな中で何故金魚? その赤い魚、食べられるの?

 「ううっ……」

 変なものを想像したせいか、またお腹が痛くなってきた。

 「お手洗いの場所とか……知らないみたいね」

 「実際に来たのは初めてでして。探しましょうか?」

 「自分でやるから大丈夫よ。私は行ってくるから、後は自由にしてていいわ」

 「はい了解しました!」

 恭しく敬礼をするお燐。一度は手を振って別れようとしたが、体を引き戻した。どうも何かが引っ掛かる。私の腸がいっそう強くアラートを発信した瞬間、それが言葉に変わった。

 「今朝、おつけものがどうとか言ってなかった?」

 「ああ! そういえばあたい特製のおつけもの、キッチンに置きっぱなしでした」

 「あ゛っ」

 私の昨日の晩ご飯は白飯におつけもの。

 白飯に、おつけもの。

 おつけもの…………。

 ついに判明した。大晦日の夜、そして今この瞬間、私を苦しめている腹痛の正体が!

 「あたいオリジナルの漬けだれを使った自信作です! 材料に生ガキと鶏刺しと――――

 「それ以上言わなくていい」

 能力故、私は続きを読み取ってしまったが、あまりにも刺激が強過ぎる為文字起こしは控えさせていただく。

 

 私はおみくじブースを離れ、参拝の列の方向に戻った。お腹が獣のようにギュルギュル鳴いている。探すといってもあのケチな巫女のこと、ご親切にトイレを設置してくれるかは怪しいところである。とはいえ家のトイレへも、お腹に配慮すると10分は見込まないといけない。出来ることならここで済ませたい。

 列の最後尾付近に星熊さんの姿を見つけた。その巨大な体躯と目立つTシャツのおかげで一目瞭然だった。先の会話ではたしか彼女は建築に関わったのだったか。少し怖いけれども、聞いてみるべきだろうな……。

 「あのーすみません星熊さん」

 私が恐る恐る声をかけると、星熊さんは鎖をじゃらじゃら言わせて振り返った。アルコールの臭いが温い風に付いてきた。

 「ん、こいしちゃんのお姉さんじゃないか。どうかしたのかい?」

 「お手洗いはどこにありますかね」

 星熊さんがばつが悪そうな顔に変わった。何か悪いことを言っただろうか。人にトイレの場所を聞くことはマナー違反だったっけ。

 「実はここがお手洗い待ちの列なんだ」

 「えっ、参拝するんじゃないんですか」

 私は驚いて行列の始点を目で追い掛けた。妖怪たちが待つ先は本殿に至る直前で折れ曲がっていた。信心深いものだと少しだけ感心していたのにそういうオチか。

 「昨晩は落成記念も兼ねて皆で夜もすがら酒盛りをしてね。あれよあれよといううちにヒートアップして、飲み比べまでおっ始まってなあ。まあ飲めば出るのが自然の摂理、それがこのザマさ。いやぁ年越しだからってハメを外し過ぎたな」

 星熊さんは反省の色のない苦笑いをする。来年もきっと同じことが起こるのだろう。

 「待ち時間、長そうですね」

 「ああ。今から並ぶとなると20分はかかるかなぁ」

 「20分!?」

 絶望的な数字に愕然とする。

 「そんなに驚くことかい? それともあんたも福女レースに出る気だったとか? 並んでるやつらはみんな出れなくなっちまったけどな」

 福女レースというものはよく分からないけれど、あいにく世間話をする余裕は持ち合わせていない。積極的に関わりたくなるような語感もしない。

 「あまり興味ないですね」

 「そうかそうか。確かに、見た目にもアウトドアは似合わなそうだ」

 「ええまあ……。ここは諦めて帰ることにします」

 「おう、じゃあ気をつけてな」

 「今日は重ね重ねありがとうございました」

 星熊さんに軽く一礼して、私は踵を返した。トイレが無いならまだしも、鬼たちの宴会のせいで埋まっているとは予想外だった。不運というよりとばっちりだ。この長蛇の列は彼女らが後先考えずに飲み散らかしたツケ。これこそ酒によってコミュニティを形成した酒社会の弊害……

 いや違う。それは今考えるべきことじゃない。嘆いている暇があれば早く家を目指すべきなのだ。私は首を振った。右足に感情を踏みつけて、左手に臍を抑えながら石畳を進む。まずは取り急ぎこの神社を退出しておきたい。こいしに絡まれないうちに。

 その時だった。

 「いよいよ始まります! 第一回!ドキドキ☆福女レース~!!」

 機械で拡張された、靄がかった声が境内を駆け巡った。

 機械を通そうともこの声だけは忘れるべくもない。間違いなくあいつの声だった。

 

 「あいつ」こと古明地こいしは本殿に席を構えていた。鬼の一人が持参した足の不安定な長机と、形のバラバラな椅子を2つ並べた、急造の実況席だ。湯呑みのお茶を慎重に啜って、再びマイクに語りかける。

 「実況は私古明地こいし。解説は、福を恨んで不幸で飯を食う、妬みソムリエの資格を持つ水橋パルスィさんでお送りします」

 「なんで私が解説を……」

 「時間が迫ってますので、簡単にルール説明をさせていただきます」

 「聞けよ」

 「出場者の皆様には福女の権利を賭けてレースをしていただきます。神社をスタートして、地霊殿の前で折り返し、再び神社に帰ってくるとゴールとなります。見事一着でフィニッシュされた方は、福女としてありがた~い神様の祝福を受けられます。ついでに副賞で歌舞伎揚も付きますよ。飛び入りもオッケーです!是非軽い気持ちでご参加ください」

 「気軽に、だよ」

 「もうスタートするんですけどね」

 「聞かないなあ、話」

 「それではピストルの音でスタートです。この中に弾丸が一発だけ入っています。私と水橋さんで交互に撃って弾が出た方が負けです」

 「全部空砲だよ。ゲームの趣旨変わってんじゃん」

 「はいスタートぉ!」

 

 パァン!

 このけたたましい炸裂音がレースの始まりを合図し、同時に私の戦いの始まりをも示していた。レースの出場者と覚わしき者たちは今私の目と鼻の先を走っている。目的地まで同じ、地霊殿だ。つまり、私は体よく参加させられてしまったのだ。

 そしてもう一つ別の人影に気がついた。宙で逆さ吊りになった土蜘蛛だった。糸のレールをスライドして走者を追い掛けている。彼女が何らかの手段で状況を伝達しているようだ。勿論あの実況席へも。

 きっと今も見ているんでしょうね、こいし。私が腹痛に襲われるのも、くだらないレースを企画したのも、全てあなたの策略の内ってわけ? ゲームマスター気取って、高いところから私の駆けずり回る姿を眺めて楽しんでいるのでしょう。見てなさい。あなたの思惑を暴き、同じ土俵に上がらせてやるわ。

 届いているかはわからない。だが私は土蜘蛛の方を睨み付けた。

 

 「では出場者を紹介していきましょう」

 「まずはキスメ選手。桶を使った殺人ローリング走法で優勝を目指します」

 「おめでたくも何でもなくなるから死人だけは出すなよ」

 「続いて火焔猫燐選手。干支の争いでは敗れましたが今度こそ猫の意地を見せられるか!」

 「そんな大層なレースじゃないだろう」

 「本家博霊神社からの出張参戦、高麗野あうん選手。宴会では二度リバースしました」

 「すごいフラフラしてるよ大丈夫か」

 「私の姉、古明地さとり選手。性格の悪さは水橋さんに匹敵します」

 「おい」

 「オホン、失礼しました。水橋さんには遠く及びません」

 「逆だ逆!」

 「最後はマラソン三姉妹です。趣味は落書きだそうです」

 「落書きねぇ。……って、誰だよ」

 「知りませんか? マラソンが得意で有名なOちゃん、Pちゃん、Rちゃんの三姉妹です」

 「知らないし、Qちゃんにどちゃくそ便乗してるじゃんか……」

 「選手紹介も済んだところで、それでは水橋さん、レースの展望をお願いします」

 「序盤、中盤、終盤、隙の無い走りをしたひとが勝つんじゃない? 適当だけど」

 「全くわからないそうです」

 「そうやっていちいち腹立つ発言が出来るのは逆に妬ましいわ」

 「『妬ましい!』一本入りましたーぁ!」

 「はぁ。付き合ってられん。ところで、選手のスカートがやけにめくれてるわけだ。つまりそっち方面で盛り上げようって考えてるわけ?」

 「いえ!スイスイ飛んでいかれると勝負がつまらないので、強力なダウンフォースが吹く結界を張っているのです。副作用として動くと衣服に多少の風が入り込んでしまうようですが」

 「そんな便利な結界よく――――」

 「ご都合主義にケンカを売るものから消されていく、というのはモンスターパニック映画のセオリーですがどう思われますか」

 「――――おっと何かぶら下がってるなー」

 「第一の障害、パン食いゾーンですね」

 「風のせいか、各選手苦戦してるみたいだなー」

 「全員横一線でしょうか、いや高麗野あうん選手が食い付きました!さすがワンコだキャッチが上手い」

 「ベロベロに酔ってるときはあんまり食べない方が……」

 「ああっと口を押さえています、気持ち悪そうです」

 「あーやっぱり。これはあれが出るよ。出る。恋符マスターリバース。」

 「下を向いて、一回えずいて、」

 「あーいった」

 「酸だーっ!出ました黄色いナイアガラ!これじゃシーサーというよりマーライオンですね」

 「ヤツは狛犬だし、シンガポールの人に謝れ」

 「リバースを尻目に、さとり選手が遅れてやって来ました。パンには見向きもしません」

 「ちょっと待って、反則ではないの?」

 「まあパンを取らなきゃいけないなんてルール無いんですけどね」

 「だったら狛犬さんの体を張った芸は何だったんだよ!」

 「あれは芸というよりゲエって感じでしょう」

 「これ以上イジるのはやめてあげなよ……」

 「さあ各選手ようやくパンをゲットした模様です。さとり選手の後に続きます」

 「ほらー狛犬さんショックで立ち直れなくなってるじゃん」

 「…………競争に犠牲は付き物です」

 「かわいそうに」

 「さあ、レースが動きましたよ!何かが飛び出しました」

 「あれは……桶だ」

 「桶! キスメ選手です! ついに出ました。桶に入り猛スピードで転がっていく、あれこそ殺人ローリング走法です!」

 「果たして中身は大丈夫なのか」

 「さあ速い速い!ぐるぐる回る妖怪ドラム式洗濯機!風が吹けば桶が転がる!勢いそのまま、第二の障害、ジャンプ台に差し掛かります!」

 「この風でジャンプ台は意味無いんじゃない?」

 「キスメ選手のスピードなら分かりませんよ! さあ行け!月まで届け、不思議な桶!飛んだぁぁぁっ!」

 「うわっ、行った」

 「風をものともしない弾丸ライナーで飛んでいきます!これなら行けるかもしれません。多くの人々が追い掛けた大空への夢、多くの命を奈落へ突き落としてきた自由の世界、その境地へ。月は出ているか、太陽に身を焦がせ。空飛ぶ円盤正体見たり、キスメの桶は天を衝く!」

 「わあ危ない!」

 「……天井に突き刺さりました」

 「そりゃ地下だもん」

 「そうですね。気を取り直して、先頭集団は間もなく折り返し地点に差し掛かります!」

 

 

 

 私はまさに青息吐息だった。地霊殿に転がり込み、トイレの扉を這うようにして目指した。遠い。足が摩れるほど往復してきた家の廊下が何倍にも引き伸ばされて感じられる。

 そしてようやく、辿り着いた。その無機質な黒い板切れは、後光を背負い、私には楽園への扉に映った。飛びついて迷わずノブを回す。私のアルカディアがそこに待っている。

 「やった……勝った……!」

 私の前方には6畳程度のスペースが広がっている。こんなにも部屋は広かっただろうか。戸棚に机にベッド、床には本が縦に積まれている。こんなにも物は多かっただろうか。便器やトイレットペーパーはない。随分と見飽きた感覚がある家具の配置だ。

 「って、私の部屋じゃねーか!」

 叫んだ瞬間、茶色のアレが顔を出した。

 「うあああああっ」

 ギリギリ。やつは引っ込んだ。辛うじてお尻のバルブを閉め直し、古明地家当主の社会的尊厳は死守された。

 思えば朝、部屋のドアを外したのもこいしだ。やられた。私が出た後で扉をすり換えたのだろう。あの時から仕込みが始まっていたとなるとますます末恐ろしい。

 隣に私の部屋の扉があった。位置的にも中身は本物のトイレで間違いない。

 迷わずノブを回す。今度こそ私のアルカディアがそこに待って……

 ガキン。

 あ、ああ……!手元で金属がぶつかり合った。冷たいドアノブに冷たい汗が染み付く。鍵だ。

 「ちょっと!誰か居るの!」

 自室に鍵を設けたことが仇となった。私は扉を叩き割らんばかりにノックする。それこそ近隣トラブルを招くような大声が出ていたと思う。

 「わたしです。お空です」

 返ってきた声はどこか悲しそうだった。

 「お空なの? お願いだから早く出て!」

 「ダメです。開けられません」

 お空は頑なに拒む。普段はこんなこと有り得ないのに。

 「どうしてよ!私は可及的迅速に不特定多数の視線から恥部の露出を保護し且つ、公衆衛生を維持する機構が備わった環境で排泄を行うことが能わない場合、社会的地位や名誉に深刻な影響が齎される危機に瀕して…………、いやあなたにも分かるように言えば、うんこがもれそうなの!」

 「ごめんなさい。でもさとり様の部屋にはどうしても入れられないんです」

 「だからどうして入れないのよ!」

 どうしても私は声を荒げてしまう。

 「この部屋に呪いが掛けられてるからさとりさまだけは絶対に通すなって……」

 「こいしか!? こいしに言われたのね!」

 「そうです」

 あいつ……!いったいどこまで私を苦しめれば気が済むんだ。

 「そんなの嘘よ嘘。呪いだなんて何の証拠もないじゃない。そもそも私の部屋じゃなくてトイレなのよ」

 「だってさとり様の部屋が、呪いで便器みたいなものがポツンとあるだけの狭い部屋に変えられてるんですよ」

 「それをトイレって言うのよ!」

 「ううっ、ごめんなさい……」

 扉の向こうから鼻をすする音が漏れ……いや、聞こえてきた。

 お空は素直過ぎる。見え見えの嘘なのに信じてしまうところも。泣きながら約束を必死に守ろうとするところも。感情が混線してもはや何に対して謝っているかも分かっていないのだろうが、それでも彼女なりに私の為を想って反抗しているのだ。どこまでも優しい子。そんなお空に追及を続けるのはあまりにも酷だ。

 「でもこっちだって社会的な生死が掛かってんだよおおおお!」

 なりふりなど構っていられるか。トイレに入れるのなら神だって信じてやる。

 「そ、そうよ。呪いの内容は聞いてないでしょ? 実は大したものではなかったわ。えっと、鼻毛の伸びるスピードが倍になるとかで」

 「いいえ。それも聞きました。顔が森近霖之助そっくりになる呪いだって」

 「なっ」

 あの森近霖之助だって……?「森近霖之助の顔になる」これはポル・ポトの虐殺を語るよりおぞましいことだ。惨い、惨すぎる。私は一度だけソレを見たことがあるが、一瞬で昏倒した。不細工なんて生易しい表現ではまるで足りない。こいしよ、いくら何でもやりすぎだ。純朴で無知なお空には刺激が強過ぎる。

 「もういいわ、私が悪かった。ごめんね」

 駄目だ。

 もし私がこの場を押し入って、呪いを心配したお空が森近霖之助のことを調べたら……そんな想像をするともう、扉に触れることが出来なくなった。私の肛門よ、好きなだけ私を罵ってくれ。意気地無し、偽善者、屁理屈、腐れ外道、頭でっかち、バカ、アホ、おたんこなす。……貧乳はやめろ。私は本能に反してでも、お空の笑顔をぶち壊すことだけはできないのだ。

 しかしお腹はなおも私を責めたてるかのように痛みを増す。便に慈悲の心などはない。一刻も早く、ドンドン腸壁を押す茶色い暴走列車の宛先を見つけねばならなかった。

 残された選択肢は少ない。

 灼熱地獄のマグマに放り込むか? 他のペットに見られでもしたらアウトだ。

 トイレを借りられそうな家を探す? 正月早々トイレを借りに走るなど恥でしかないし、誰が在宅しているかも分からない。

 自室なら見られることはない? それじゃ漏らすも同然だろう。

 「ハハ、ハ……」

 渇いた笑いが込み上げてくる。

 来た道を引き返すことは難しい。一度捨てた選択肢を選び直すには非常に勇気がいる。まるで決断を褒める言葉のようだが、他に打つ手が無いときは、ただただ悲惨なだけだ。

 神社に戻る。それが唯一このクソッタレのゲームを生き残る道だった。待機列も私が辿り着く頃には消化されているはずだ。さすがに公共のトイレはこいしも占拠しないだろうし、本人は実況席で手を出せない。成算はあった。

 だがタイムリミットは迫っていた。お尻の筋肉が少し震え始めている。コルク抜きが直腸でキリキリ回っているような嫌な感覚が継続して、一瞬でも油断すれば力が抜けてしまいそうだった。我慢できてもあと10分が限度だろう。

 だからこれは片道切符の決死行。神社に間に合うか間に合わないか、結末はたった二つの最後の戦い。一歩踏み出してしまえばもう、家で漏らした方がマシだなんて暢気なことは言えない。なんとしても尊厳を守りきる。いや、こいしの計略に打ち勝ちたい。こいしに負けたくない。汚い地べたでのたうち回る私の前で、ふんぞり返るこいしの鼻を明かしてやりたい。

 私は決意で満たされた。

 

 

 

 「地霊殿に到着したのは、地底の子供たちに大人気!マラソン三姉妹です」

 「だから誰なんだ」

 「地霊殿の目の前で立ち止まりましたね。どうしたのでしょう。服の中を何やら探っていますが、あっ、塗料を取り出しました、趣味の落書きでしょうか? それぞれ赤青黄の三色です」

 「あんたの家だろいいのかよ」

 「芸術点次第かな。この三色となると、描こうとしているのはルーマニア国旗でしょうか」

 「そんなの言われても絵面が思い浮かばないよ。言葉じゃ伝わりにくいわ」

 「なるほどそうでしたか。ルーマニアよりこっちの旗の方が分かりやすかったですかね。そうかがっ――」

 「そっちのネタはダメだって、ほんとに」

 「そうこうしているうちにさとり選手が地霊殿を出てきました。お腹をさすっていますが、ナニをしていたのでしょうか。まさかあの短時間で孕んだというのか!」

 「…………」

 「えー失礼しました。トップは依然火焔猫選手ですが追い付けるでしょうか。今後の展開に注目です。後半戦も面白くなりそうですねぇ水橋さん」

 「…………」

 「水橋さん?」

 

 

 

 ジャンプ台を乗り越えると、お燐の背中が見えなくなっていた。無事にゴールへ向かってくれただろうか。福女の称号、そんなものは必要ない。私にとってはふくを懸けたレースではなく、うんを懸けたレースなのだ。

 少し歩くと猫の代わりに狛犬の娘がいた。砂漠で行き倒れた探検家のように、うつ伏せで力尽きている。全身をアルコールに蝕まれているのだろう。苦しそうに砂を握って、「うぅ」だの「あぁ」だの呻いている。鬼式歓迎術の洗礼はあまりにも厳しすぎた。

 「もうやだよぉ……甘酒が良かったよぉ……」

 かわいそうに。初夢が酒に沈んで見る悪夢とあってはさぞ辛かろう。

 「ごめんね。アイツらが滅茶苦茶で」

 一声だけ掛けて、私はその横を通り過ぎる。助けてやりたいのは山々だが、道程は先を急ぐ。まもなくパン食いエリアだ。そこを越えればゴールはすぐそこだ。大丈夫。このペースなら間に合う。自分を勇気づけながら進んでいく。

 「さとりさま!」

 お燐? 神社へ行ったのでは無かったのか?

 「さとりさま!とにかく気を付けてください!あの方がやってきます!」

 声の出所を追うと、お燐はコースを外れ、民家の軒下で座り込んでいる。血色は悪くなく、怪我を負った様子もない。

 「どういうこと? いきなり気を付けろと言われても困るわ。あの方って誰?」

 「それは――――」

 

 心を読む程度の能力。相手の想像していることを言語化して読み取る力。読み取る言葉は音声でも映像でもなく、文字としてニューロンに直接伝わってくる。ただし時として強い感情は「色」を持つことがある。情報が色を伴って伝わるのだ。色ペンで書いた文字を目で見るようなイメージでいい。

 今回は緑。冷たく血の気の引いて、ふつふつと毒気を帯びた緑色だ。

 妬ましい。

 伝わる感情は彼女の瞳と同じ色。嫉妬の炎の緑色だった。

 「申し訳ないけど、ここは通せない」

 立ちはだかったのは水橋パルスィ。解説者のはずの、こいしと一緒に実況席にいたはずの、彼女が何故。

 また、こいしか? またこいしの差し金なのか!?

 

 妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。

 

 心を探ってはみたがこの一点張り。思惑は読み解けないまま、彼女はつらつらと、身の上話を語り出す。

 「堪えられなくなったんだ。焼き付くほど妬ましかった。あんたたちがレースをしている楽しそうな姿が」

 「どこが!? 土に突き刺さったり吐瀉物撒き散らしたりするレースのどこが楽しそうなの!?」

 水橋さんは明らかに動揺して肩を尖らせた。

 「え……まあ少なくともあんたは――――

 「楽しいわけあるか!『クソ』と悪態も出そうなくらいしんどいわ!」

 「だ、だとしてもそこの猫耳! 猫耳は楽しんでるはずだ! 妬ましい!」

 「あのー、せっかく準備してくれたイベントに対して申し訳ないですけど、あたいもずっと独りで走ってたしいまいち張り合いが無いっていうか……」

 「じゃ、じゃあ……そそうだ!」

 「粗相はまだしてません!」

 まったく、いきなり何を言う。とんだ失礼だ。

 「そうじゃない。あのなんだったか、落書きしてる三姉妹居ただろ。 あれは間違いなく楽しんでるさ! 妬ましい!」

 「そいつらはレースを放棄してるじゃない」

 水橋さんは動かなくなった。最後の希望を失って、数秒間黙り込まざるを得なくなった。そして、吹っ切れた。

 「ええい、とにかく私には楽しそうに見えたんだ! その上カミサマに福まで貰って、皆にちやほやされて、ついでに歌舞伎揚も食べられるだなんて我慢ならない! 妬ましい!」

 「もうなんでもありね……」

 「一番福だけは私が貰う。だからここで待ち伏せをして、出場者の皆さんにはリタイアしてもらうことにした」

 ゆっくりと、水橋さんが距離を詰めてくる。そもそも私はレースに興味はないのだ。見逃してもらうようにはできないのか。

 「私は福なんていらないわよ。私に必要なのは清潔なトイレとお尻を拭くものだけ。…………あと、あればウォシュレット」

 「信じられないね。あんたには酷いことをする。汚い手だとは自分でも分かっているつもりだよ。でも気が済まないんだ。大丈夫、一瞬で済むから」

 「何をするつもり?」

 暴力か? 弾幕か? どんな手で来る。どうすれば出し抜ける。腸内環境は逼迫している。相手にしている時間なんて無いってのに!

 「さとりさま!パンツです!」

 叫んだのはお燐だ。

 「茶色じゃないわ。ふざけないで、今真剣に考えてるの!」

 「大真面目です! あの人はあたいたちのパンツを奪い取って動けなくするんですよ!」

 なるほど、パンツを盗られて、それで見られないように座り込んでいたのか。合点がいった。……とはならないだろう普通。

 「そんなことある? 履いているパンツを奪うって軽くミッションインポッシブルよ?」

 ところが、水橋さんは首を振る。

 「猫耳さんの言うとおりだよ。一瞬でも両足を浮かせたのなら、私は完璧に脱がせられる。その昔、あざとくパンチラを演出している女どもが妬ましくて身につけた技術だ」

 理解はしたが理解できない。水橋さんは満足そうにして、つらつらと計画を話し始める。

 「このコースには風の仕掛けがある。おかげで少しでも動けば、簡単にスカートが捲れてしまう。パンツ程度なら良くても中身は見せられないだろ? 全員を行動不能にしたところで、私が悠々ゴールするって算段だ。勿論、パンツはレースが終わればちゃんと返すよ」

 「私には時間が無いの!」

 そんなもの待ってはいられない。確実にダムは決壊する。○ンコか○ンコ、どちらで死ぬか選べというのか!

 「いいよ、実力行使だ。強気に反抗するあんたは妬ましい。その見透かす眼も妬ましい。あア、妬ましいなア」

 怪しい笑顔がじわりじわりとにじり寄ってくる。口からは涎が垂れて、雨粒のように地面を濡らす。やはり変態か? 私がたまらず後ずさりするその刹那。

 「てめぇのパンツは何色だーッ!!」

 緑眼の怪物が私に飛び掛かる。

 「っ!」

 咄嗟に避けようとしたが寸前で思いとどまる。さっきの発言、裏を返せば、両足が浮かないとパンツは奪えない。足を地面に縫いつけておけば、

 『スライディングで足払い』

 神経に電流が流れ、相手の思考が頭に刻まれた。不味い!

 「それが狙いか!」

 砂を弾く靴底をギリギリ飛び退いてかわした。だが、立ち直りが早い。

 『フェイントを掛けて左から』

 次の一手が来る。フェイントの間に狙いの反対側へ回り込む。ここで反撃を、

 『反転し、腕を掴む』

 「くそっ」

 反撃の隙がない。幾ら心が読めても、便を我慢している鈍い身体では、スピードで追いつけない。このままでは押し切られる!

 『突進。再び足を狙う』

 『右へ跳躍する』

 『めくれたスカートの裾をとる』

 「ぐっ」

 波状攻撃に屈し、ついに私はバランスを崩してしまう。ビリジアンの瞳はその好機を見逃さない。すぐさま魔の手が迫る。

 『直線最短距離でパンツに手を掛ける』

 「あああああ!」

 倒れるように転がることでかろうじて凌げたが、次の手は――――

 「獲ったァ!」

 タッチの差で、立ち上がるのが間に合わなかった。すきま風。すぐに股の間からスースーした物足りなさが感じられた。目の前の右手に白い下着が握られている。私のパンツだ。私と一年を共に過ごした相棒が、敵の手に堕ちたのだった。

 「さとりさまぁぁぁぁ!」

 お燐がこの世の終わりとばかりに金切り声を上げる。

 「悪かったよ手荒な真似をして。もう少しだけ待っててくれ」

 疲労か興奮か、水橋さんは息を切らしながら、あろうことか謝罪を入れる。勝ち誇らない謙虚な姿勢に応じて、私も丁寧な調子で言葉を返す。

 「このくらい大したことじゃありませんよ。妹の悪戯に比べたら可愛いものです。でも最後に1つだけ忠告があります」

 「忠告?」

 彼女の足元を指差し、私は告げる。

 「ゲロ踏んでますよ」

 彼女はおもむろに目線を下げていく。黒い艶めいた靴、その下。

 「うわあああっ!」

 吃驚して飛び上がった瞬間、石英のように滑らかな白のパンツを私の右手が奪い返した。その場で履き直す。水橋さんの靴を汚したのはパンを食べて吐いた高麗野あうんの胃液。たまたま近くにあったので誘導させてもらった。

 「あーもう! 汚れるのは嫌いなんだ。帰ったら丸ごと洗ってやらなきゃ。臭いも取らないと。やっぱり福だけは貰わなきゃ腹の虫が治まらないな」

 水橋さんは不快感をあらわに汚物を踏んだ足を振る。私の腹の虫も治まりそうにない。

 「真のハンターはまず足元を警戒するのよ」

 「ああ、油断したよ。だがまた脱がせてしまえばいい。ゲロの位置は覚えた。二度同じ手は食わないよ」

 「その言葉、そっくり返すわ。二度同じ手は食わない。お燐! 水橋さんを押さえつけて!」

 「で、でも……」

 「猫形態よ! 猫の体ならどこを見られても放送倫理に反しない!」

 お燐は特殊な変身能力を持っている。元は獣だからこそ、人の姿と猫の姿、2つの形態を自由に行き来できるというものだ。

 「そっか、それなら!」

 「させるか!」

 水橋さんは慌てて地を蹴り、風を切る勢いで私のスカートへ手を延ばす。だが一手遅い。

 「みゃーみゃみゃみゃみゃっ!」

 白布に指先が届く寸前。一匹の黒猫が強靭なバネを見せ、その顔に覆い被さった。延ばした手はスカートの外で空を切る。

 「なっ何だこれ」

 突然視界を奪われた水橋さんは混乱し、光を求めて右往左往している。

 「お燐! 後は任せたわ!」

 ニャウ、と短い鳴き声が返ってきた。怪物の嫉妬に私のケツ意が勝った瞬間だ。道は開けた。私のペットが身を挺して切り開いた道、黒猫の勇姿を背に、私はその道をがっしり踏みしめて走り出す。私が神社に辿り着く。それで戦いはすべて終わる。

 なおも争う一人と一匹を置き去りにすると、行く手を阻む障害はもう存在しなかった。あとは耐えるだけ。私は今にも爆発しそうな爆弾を抱えながら、遮二無二走り続けた。ひたすら前へ、前へ。それからは自身を失って、何が何だかわからなかった。あの、優しい丸みを帯びた便座のシルエットだけが脳裏で燦々ときらめいていた。

 

 「あ。」

 ふと気がつくと、真っ赤な鳥居が頭上にあった。私のアルカディアへの入口が門戸を開いて待っている。本殿への石畳はがらんとして、ここはネズミーランドかと見まがう程長かった列は、跡形もなく消え去っていた。

 苦しかった。括約筋は痙攣し、膝はガクガク震え、目がチカチカして、あげく吐き気までする。腹は痛いなんてものじゃない。ゴリラだ。腸で群れをなしたゴリラがウホウホナイトフィーバーしている。茶色のバナナと一緒に森へ帰ってくれ。頭がどうにかなりそうだ。私の体はボロボロだった。散々たる有り様。しかし、それでも精神だけは、ピカピカした希望に満ち溢れていた。

 

 トイレは空いている。

 

 天気の誕生、究極エネルギーの発見、トイレが空いている、この三つこそ地底三大奇跡だ。

 「ハハ、ハハハハハハ……」

 喜びからか安堵からか、肚から意味不明な笑いが溢れだしてきた。口のボルトが外れ、開きっぱなしで戻らない。すると、境内からざわめきが聞こえてきた。私はそんなに変な顔をしているだろうか。

 …………まあ、いいだろう。トイレに入れるならどうだって。さあ私のアルカディアがそこに待っている!

 「よく走った!」

 「えらいぞー♡」

 「お前がナンバーワンだ!」

 「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!」

 「詫び石は勘弁してやる!」

 心なしか称賛されている気がする。いやまさか、ね。私が他人に讃えられたことなんて殆ど無いんだから。極限状態の耳でははっきりと聞き取れないけれど、おそらく野次でも飛ばしているのだろう。

 「貧乳だけど頑張ったな!」

 「誰が貧乳じゃボケ!」

 さっさと行こうか。私のアルカディアがそこに……止めておこう。これを唱える度に邪魔が入ったような記憶がある。余計なことは考えず、落ち着いて数歩進めばそれだけで。

 「やっ、やった……」

 扉だ。今、私は扉の前に立っている。世界で一番開けたい扉。頭の中で、金管の雄大な響きが広がり、「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節が奏でられる。ゆっくりと持ち手を引いた。楽園と私とを隔てていた最後の壁は、道を譲った。軋み一つ立たなかった。その瞬間、心の底にへばりついた最後の不安が洗い流され、オーケストラの旋律がクリアになる。ああ、こんなに簡単だったんだ。その部屋は、驚くほど容易に、有り得ないほどあっけなく、私を受け容れたのである。

 追い求めてきものは、眩い光の中で待っていた。

 「けっ、和式じゃん」

 

 ふらふらの足でトイレを出た私を出迎えたのはお燐だった。

 「おめでとうございます!」

 笑顔で私を祝うお燐。何かめでたいことなんてあったか。

 「ああ。あけましておめでとう」

 「あけまして……って違いますよ、優勝したじゃないですか。さとりさまが福女ですよ」

 福女、そんな企画もあったなあ。

 「さとりさま、大丈夫ですか……? 顔も真っ青ですけど」

 「ついさっき大丈夫になったわ。年明け早々一年分のエネルギーを使い果たした気がするけど」

 心配御無用と笑ってみせる。ウヒ、ウヒヒヒ。

 「駄目そうですね……」

 「駄目だわ」

 お燐は心苦しそうに唸った。『何か出来ることはないかな』と私を気に掛けてくれている。何もしなくてもお燐はさとりダム防衛の立役者だ。彼女はもう十分私を救ってくれた。馬鹿な主のことは放って、正月を楽しんでくれればもうそれでいい。

 「あ、そういえば! 元気を取り戻すのに丁度良いのがありました」

 それでも手を差し伸べるのが火焔猫燐という少女だ。彼女はポケットを洗いざらい掻き回したあと、その一つへ指を滑り込ませ、おもむろに腕を持ち上げた。指の間に透明な小瓶が引っ掛かっていた。

 「特製スタミナドリンクです!」

 「と、特製……?」

 ひと目見ただけで察した。絶対に飲んではいけない。なにせ数分前トイレで見たモノと同じ色をしているのである。

 「あたいが一晩煮込んで作りました!」

 何を? とうっかり尋ねてしまいそうになったが、水際で言葉を飲み込んだ。要らぬことを聞いた前回の反省は活かされた。

 「ガソリンや重水素も入っててエネルギー満点です!」

 「そうね、エネルギーが強すぎて爆発しそうね」

 勝手に言われちゃ仕様がない。

 「さあどうぞ!グビッとイッちゃってください」

 得意気な表情そのままに、お燐はねばつくその液体を差し出した。グビッと逝っちゃうかもしれない。受け取っていけない、と警告するかのように体が震え出す。

 「で、でも、あなたが飲む為に作ったんでしょう? かなり手間が掛かってるみたいだし、貰うワケには……」

 「いえいえ遠慮はいりません。これは元々レースに備えて用意したもので、結局必要なかったですから。むしろこんな余り物でさとりさまのお役に立てるのならハッピーです」

 「そう。あー気持ちは嬉しいけど、その……」

 うまい口実が考えつかず言い淀んでしまう。

 火焔猫燐は正気だ。ただ知らないだけなのだ。心を読めるからこそ、彼女は100パーセント純粋な善意で、掌の上の劇薬を勧めていると分かる。いつだってそうだ。私の為を想っている。こんな私に対してでも愛情を捧げてくれる。だからペットにした。庇護下に置き、危うきから守ることを私は誓ったのだ。その心やさしき一人の女の子を、泣かせることなど出来ようか。今まさに主に毒を盛らんとしているという残酷な真実を、告げることなど出来ようか。

 私は試されている。飼い主として、保護者として、親として、その器の大きさを。自らの胃と彼女の心、どちらに穴を開けるのか。

 

 

 

 「そしてさとり選手がそのままゴールし、見事、栄えある福女と相成りました。さて、水橋さんは残念ながら3着に終わりましたが、レースをふり返ってみていかかでしたでしょうか」

 「悔しい……」

 「悔しい!」

 「悔しい……」

 「悔しい! だが、それでいい!」

 「何様だよお前」

 「お腹が減るのは生きてる証拠、だから私たち走ります! PちゃんRちゃんOちゃんの3ピースユニット、マラソン三姉妹です!」

 「だから誰なんだよそれ。腹が減ったらまずは飯を食べろ」

 「ええ、そうですね。白熱したレースになりましたね。」

 「何を受け取った『そうですね』なんだ」

 「この後は表彰式が行われますが、私たちはこの辺で失礼させていただきます。実況は私古明地こいし。解説は水橋パルスィさんでお送りいたしました。ありがとうございました」

 「……ありがとうございました」

 「それではスタジオにお返ししまーす」

 「どこに返すんだよ、ニュース中継かよ」

 「また来年お会いしましょう、よいお年を!」

 キーンとハウリングの音が耳を引っかき、マイクが切れた。椅子からは一仕事終えた充足の笑顔が見える。こいしは周囲に幾ばくか挨拶をして席を立った。

 「あ、お姉ちゃん」

 そしてすぐさま机の程近くで佇んでいる私を発見した。

 「すごいよお姉ちゃん、優勝おめでとう! 特に最後のバトルは大会史に残る名勝負だったよ」

 「そう」

 「この実況席の横でこれから表彰式だよ」

 「そう」

 「ところでお姉ちゃんが持ってるそれ、屋台の方で配ってた甘酒だよね? 私たくさん喋ったから、ちょうど喉が渇いてたんだ。もらっちゃうねー」

 「そう」

 こいしは私の手から湯呑みを一つ掠め取って、私の瞳の奥をじーっと見つめる。

 「どうしたのお姉ちゃん? リモコンで殴られたみたいな顔して。私にあげるつもりは無いって? ははっ、そういってしっかり2つ持ってきてるじゃない。素直じゃないなあ」

 腰に手を当て、こいしは甘酒をグビッと気持ちよく飲み干してしまった。「くぅー効くねぇ!」なんておどけて笑い、軽くなった湯呑みをからから振った。

 「随分いい飲みっぷりね。そんなに渇いてるなら私の分もあげるわよ」

 こいしの瞳がパァーッと輝いた。

 「うわお姉ちゃんやっさしー! 聖人! 天使! ヒカ○ン! それじゃあお言葉に甘えていただきます」

 こいしは仰々しく手を合わせる。私の手元に残った甘酒をいちいちオーバーに交換すると、瞬く間に胃に流し込んだ。終わりに上を向き、縁に引っ掛かっていた雫を長い舌先に落とす。とうとう飲みきった。最後の一滴まで、余さず飲んだ。

 「ありがとう、こいし」

 「え?」

 こいしはまだ、理解できていないようだった。

 「欲深く私の分まで飲んでくれて、ありがとう!」

 「え、どういうこと? 何でそんなに嬉しそうなの? 自分の性格の悪さに絶望してついに頭がおかしくなったの? 大丈夫だよ本当に水橋さんほどではないから!」

 自分が今、地獄に足を踏み入れたことを。

 「ふふーん、人を煽っている余裕があるかしら。さっきの甘酒にはね、お燐特製スタミナドリンクが混ざっていたのよ。これがどういうことか、貴女には分かるわよね?」

 吐き捨てた私の言葉に、こいしは身体中の血が全て抜き取られたかのように青ざめて、唇を押さえた。

 気持ちいい。私の精神の奥深く、闇の底に封印されていた原始的な感情が呼び起こされた気がした。仕返しを決めた。ただそれだけのことに、トイレにありついたときとは比べ物にならない無上の快感があった。私の中で目覚めるサディスティックの魂。勝手に頬が緩んでいく。

 そんな私の心を垣間見たか、こいしは私に糾弾の声を上げる。

 「お姉ちゃんひどい! 鬼畜!悪魔!ヒ○ル!」

 だが私にだって言いたいことは沢山ある。返す刀で怒りの丈をぶつけてやる。

 「いいや、貴女には言われたくないわ。トイレを潰し、腹痛に苦しむ私を20分も走り回らせた。社会的に死ぬ瀬戸際だったのよ! あそこでパンツを奪われていたら、私は今頃どうなっていたか……!」

 対してこいしは、白々しく驚いたような素振りをした。

 「ああ! そうか! お姉ちゃんは福じゃなくて、トイレを求めて地霊殿まで行ったってことか!レースに出るつもりは元々無かったんだ。どうりでキャラじゃないなと思ったよ」

 「とぼけないで。神社を建てさせたのも貴女。私を連れ出したのも、お空を使ってトイレを封鎖したのも、くだらないレースを企画したのも、こいし、貴女の仕業よ。ああやっと分かったわ。そもそも、おつけものを私が食べるように仕向けたのだって、きっと貴女なんでしょう!」

 「勘繰り過ぎだよお姉ちゃん!そこまで綿密な計画ができたらそれこそカミサマだよ。お空に立てこもって貰ったのは、お腹の調子が悪そうだからちょっと悪戯しようと思っただけなんだ。長い間拘束するつもりも無かったし。ただ家を出るとき、お空にひと声掛け忘れてただけで……」

 「『忘れてた』? 苦しい言い訳ね。そのくらいで私は騙されないわ」

 こいしの言い分は取って付けたこじつけだ。今までも私はこいしの巧みな話術で罠に嵌められてきたんだ。もうその手には乗らない。

 「で、でも、神社のトイレが激混みすることまでは読めないでしょ!それに、レースを運営してるのは鬼の人達だよ!」

 「そんなもの証拠にならないわ! 土下座をして謝るまで許さないわよ!」

 「だけどお姉ちゃんだって私にヤバい薬飲ませたんだからおあいこでしょ?」

 あくまでも自分は悪くないと言い張るか……!

 「おあいこだぁ? 全ッ然違うわ。貴女にはトイレという名の絶対安地が与えられている。私には無かった。こたつでぬくぬく寛いでいるおっさんからミカンを奪うのと、ダンボールハウスで凍えるおっさんからミカンを奪うの、どっちが罪深いか! 天と地ほど違う」

 「喩えがよくわからないし、どっちも同じ窃盗罪だよ!」

 「おっさんの前でも同じことが言えるか? えぇ?」

 「もーう怒った!お姉ちゃんには慈悲の心というものが無いの? やっぱり水橋さん以下だ!地底一の悪だ!幻想郷の癌だ!」

 「貴女は暗い部分の全てを私に押しつけ、己を善だと嘯くのかしら。汚れた仮面を被って闘う正義のヒーローが悪の化身よりも優れていると? いいや違うね。悪を自覚する悪の方がよっぽど立派で清々しいだろう!」

 「開き直らないでよ! ええい、屁理屈!腐れ外道!頭でっかち!バカ!アホ!おたんこなす!」

 「ハッ、喚け喚け。とうとう単純な言葉しか使えなくなったか情けない」

 「この貧乳!」

 「誰が貧乳じゃあ!どの口が、いやどの胸が言う!貧乳はあんただって同じよ!」

 「同じじゃないよ!全ッ然違うね!私はAAだけど姉貴はAAAだもん!」

 「AAAの方がどう見たってスコア上だろ!DJ$チェだろ!」

 「まな板工場め!かなりまな板だよ!まな板にしちゃうよ!」

 「まな板なめるな、まな板は平らであることこそステータス、半端な膨らみなど邪魔なだけ!」

 「ああ、じゃあお姉ちゃんの乳首剃り落とすよ。そこの出っ張り邪魔なんだよね」

 「それは残しておいてるの!私はイチゴを最後まで取っておく派なんだよ!それを勝手につまむ奴らの横暴が、このストレス社会の誘因になっているのよ判らないのかァ!?」

 「お姉ちゃんのはイチゴじゃなくてレーズンでしょ」

 「なっ、立派なマシュマロ苺だバカ!」

 「バカって言ったなー!バカって言う方がバカなんだよ!」

 「バカって言う方がバカって言う方がバカよ!」

 「バカって言う方がバカって言う方がバカって言う方が――――

 

 表彰式の予定場所で突如繰り広げられた姉妹喧嘩。いつしかそこには、境内にいる殆どの妖怪が集まっていた。尚も不毛な争いは続く。延々と、延々と。その醜い一部始終を捉える衆目に、私たち姉妹が気づくことは終になかった。

 

 

 

 「うわああああああああ!!」

 覚醒した視界はベッドの上にあった。体の内側から北風が吹くような寒気がする。寝間着の袖は汗がじっとり。ようやく意識がはっきりし始め、自室の景色に色がついた。

 夢か。

 恐ろしい悪夢だった。具体的には、賢者を自称する扇子持った胡散臭いおばさんに、肛門と壁をくっつけられた。その内容もさることながら、ましてやこれが私の初夢だ。縁起はきっと悲惨なことだろう。有識者に聞くまでもない。

 「はぁ~」

 身体は例のごとく貧血気味で、当然寝覚めも悪い。このまま寝ていようか。自堕落が私を手招く。しかし、ずるずる一日を無駄にするのもどこか後ろめたいので、仕方なくベットを這い出した。

 

 暗い自室から廊下に出た。どうにもモヤモヤ気持ちがすっきりしない。体調のせいでもあるが、起きてからというもの、ずっと何かが頭で引っ掛かっているのだ。痒いところに手が届かない。思い出したいモノが思い出せない。もどかしさから身を捩るように、出力のいまいち上がらない頭を働かせる。夢の中の出来事か、昨日の喧嘩か、あるいは――――

 ガチャリ、と隣のドアが音を立てた。

 部屋からのそのそ現れたのは大きなクマ、を目に貼りつけたこいしだった。昨日の私と同様に、トイレで夜通し貸し切りパーティをしたらしい。顔色は悪く、いつもの明るさが消えていた。

 目が合った。

 「うぉー」

 途端、新鮮なお肉を嗅ぎ付けたゾンビのようにフラフラの歩みで私に詰め寄ってきた。文句の一つも言われるだろうと身構えたが、思いがけず彼女は泣きついてきた。

 「つらかった……」

 間違いなく、心の底から絞り出された言葉だった。私はやさしく抱き締め、宥めてやった。

 「大丈夫よ。わかるわ、あなたの苦しみ」

 こいしは私の胸の中でとびきりの笑顔を見せた。

 「お姉ちゃんだいすき」

 「私もよ、こいし」

 とどのつまりは愛が一番。家族はお互い愛し合うべきで、喧嘩は何も産まないのだ。

 「抱かれ心地はちょっと壁っぽいけど」

 「あァァ!? 誰が壁みたいな胸じゃ!」

 胸をいじる者は親でも殺す。怒号にビクリと30センチ跳ねたこいしは、しどろもどろに釈明する。

 「お姉さま違うの! 違うんだよ! なんか、あまりにも定点で眺めすぎてトイレの壁がトラウマになっててさ」

 いくらなんでも壁がトラウマってそれは……

 「そう壁よ!壁!」

 やっと思い出したぞ。引っ掛かっていたこと。夢でも見た壁のこと。

 「お姉ちゃんあんまり大声出さないで」

 「泣き言を言っている場合じゃないわ。うちの壁に落書きがされたままなのよ。誰かも知れないあのクソ3人組に。」

 「マラソン三姉妹だよ。Rちゃん、Pちゃんと……Q? Sだっけ?」

 「誰なのよそれ。まあ何だっていいからサッサと確認しに行くわよ!」

 こいしは不満を露わにする。

 「えー、私も行くのぉ?」

 「当然よ。ふざけたレースを企画したあなたにも責任があるんだから」

 嫌な顔をされようが、そうでなくては私の気が済まない。

 「えぇー……」

 その場にへたり込んで渋るこいし。だが問答無用。うなだれる首根っこを私はひっ掴み、引き摺って廊下を進んだ。

 

 玄関を出てすぐ、それは見つかった。偶然か必然か、私が夢の中でお尻を繋げられた場所とぴったり同じ位置だった。

 怪作、という表現が相応しいだろうか。細部にまでわたる精緻な筆遣いは、描き手の確かな実力を感じさせる。そして目に写るものを鮮明に切り取る感性。重厚な塗りを生み、写実派の印象を受ける。その絵としての完成度には畏怖すら覚えた。

 「気持ち悪いほどよく描いてるね……」

 こいしがポツリ、と呟いた。

 「吐き気がするくらいの大作だわ……」

 認めざるを得ない。たがだかペンキの塗料でここまで描き上げる例の3人組の才能を。だが、彼女たちは才能をドブに捨てた。昨日の一本糞より醜い最悪の題材を選んだ。本当に人の顔であるのか疑いたくなる醜悪、極めてなにか生命に対する侮辱を感じた。身の毛がよだつ、本当におぞましい、おぞましい顔だ。不細工なんて生易しい表現ではまるで足りない。

 そう、そこに描かれていたものとは。

 

 森近霖之助の似顔絵だ。

 

 姉妹は互いを見つめ合い、やがて観念し、笑いあった。

 「「う゛ぇっ」」

 私は吐いた。

 こいしは2回吐いた。



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