(1)
「今日はもう疲れたでしょうから、早く休みましょう」
別荘に帰り着くなり、祥子さまはそうおっしゃった。
瞳子もそれに異論はなかった。正直、今のこの雰囲気は気まずい…。
一晩ゆっくりと休めば、翌朝にはまたいつもの通りに楽しく過ごせているかもしれない。
気になることは多々あったが、その時に何気なく訊ねればいい——。そうしたら、普段通りの祐巳さまがこちらの不安などなかったかのように笑って返してくれるかもしれない——。
そうだ、これはそんなに深刻になることでもないのではないか。
瞳子はそんな風に自分を納得させて安心した気になっていた。
———この時は。
「おはよう」
………。
「おはようございます。お姉さま」
なんだろう…。祐巳さまの様子が昨日よりおかしな気がする。
「…あの、どうかなさいましたか?」
「…ぇ?何もないよ…?」
——いや、反応も鈍いし、明らかに声にいつもの元気がない。
それに、瞳がわずかに潤んで焦点も怪しい。目じりも眉尻も下がって…なぜか、頬が少し赤い……
心なしか体がぶれてフラフラと——–ん?ふらふら?
そう思った瞬間だった、
——ッガターーン
「ッ——!! お姉さま!!!」
祐巳さまが倒れられたのは。
瞳子は慌てて祐巳に駆け寄り、その体を支え起こす。
熱い…っ!
「お姉さま!聞こえますか?」
ぐったりとして朦朧としているが意識はあるようだ。瞳子の呼びかけに小さく反応が返ってくる。「…ぅぁ」
呼吸は荒く、おでこに手を当てるとさらに熱かった。
…大丈夫…落ち着いてっ…!
瞳子は祐巳が倒れたことに動揺する気持ちをなんとか抑え込み、浅いながらも医者を目指して頭に入れた知識をもとに冷静に対処しようとする。
…たぶん…ただの風邪ですわ…。
急いでこちらへとやってきていたキヨさんに指示を出す。
「風邪の症状だと思いますが、一応お医者さまをこちらにお呼びしてください」
小笠原家ならば、緊急事態に備えて別荘地付近の医者を抱えているはず。
そうして、電話をかけ始めたキヨさんを確認すると、庭仕事をしていた源助さんを大声で呼ぶ。
「源助さん!こちらにお布団を用意してください!!」
この顔ぶれで二階の部屋まで運ぶのは不可能だったため、一階の和室に布団を用意させ、そこになんとか祐巳さまを横たえる。
温度計で熱を測ると38度を超えていた。——苦しそう…。
酷く汗をかいていたので、キヨさんとともにタオルで体を拭きながら寝間着へと服を着替えさせる。
氷枕を用意して、おでこに冷えたタオルをのせる。
——水分は後で意識がはっきりされたら取らせよう…。
そうして漸く一息つこうかというところで祥子さまが起きてこられた。
「…?…祐巳——!どうしたの!?」
ショックを受けている祥子さまに掻い摘んで事情を説明する。
そうこうしている内にお医者さまが到着されたので、すぐさま部屋へとお通しし、キヨさん、源助さん、祥子さま、私の皆んなが集まり診察の様子を見守る。
「………。風邪、ですな。…今は眠っているようだが、少ししたら目を覚ますでしょう。処方した薬を飲ませて、あとはこまめな水分補給。このまま安静にしていれば熱もすぐに下がります。……そう心配しなさんな」
私たちのあまりにも固唾を呑んで緊張した様子に、——ふっ。と愛好を崩される。昔から小笠原家を見てきた初老のお医者さまは祥子さまの方を見やると感慨深げに話し出した。
「お嬢さまがここまで取り乱すのは初めてお目にかけましたぞ!」
すると、祥子さまもようやく緊張が解れたのか「はぁー」と息を吐き出してそれに答える。
「ええ、祐巳は私にとってかけがえのない妹ですから」
お医者さまはそれに「ほぉっほぉっ」と嬉しそうに笑ってから、詳しい説明を始めた。
「症状を見る限り、夏のウィルスにやられた訳ではないじゃろう。冷やしすぎや乾燥が原因でも起こるのじゃが、生活習慣は乱れておらんかった様だし、免疫力が下がっておるのは、何か心因的なものが原因かもしれんのう」
その言葉に、瞳子と祥子さまの二人は一瞬ギクッとして体が固まった。
心当たりは、ある———。
そんな二人を少し訝しんだものの「では、私はこれで失礼いたしますぞ」と言ってお医者さまは立ち上がった。
玄関まで見送りに出た私たちを振り返ると、去り際に思い出されたかのように言う———
「そうそう。悩み事は口から吐き出すだけでも楽になるものじゃよ」———と。
布団に横たわる祐巳さまを見つめながら瞳子は後悔していた。
自分の感情を優先させて、祐巳さまの気持ちを顧みなかった…。
なんとなく分かってはいたのに見て見ぬ振りをした…。
そんな風に自分の不甲斐なさを恥じていると、隣に座って瞳子と同じ様に祐巳さまを見つめていた祥子さまが口を開く。
「明日までに、せめて熱だけでも引けばいいのだけど」
「そう、ですわね」
今日はこちらに滞在する最終日。
明日の午前中にはここを出る予定だった。あまりにも酷い様なら動かせないが、できれば祐巳さまも自宅でゆっくり療養された方がいいだろう。それに、夏休みといえど祥子さまは忙しい身だ。祐巳さまのためなら多少の無茶は平気でなさるだろうが、それでは祐巳さまが気を使ってしまう。
「…私のせいね」
祥子さまがポツリとこぼす。
「…いえ。私のせいでもありますわ」
そんな静かなやりとり。どちらから切り出すのか、今話すべき内容は一つしかない。それはお互いに分かっていたし、このまま避けることはできなかった。それは祐巳さまのためにも——。
……ふぅ、そう言って話し始めたのは祥子さまだった。
「祐巳は、あの人と契約したいのかしら?」
あの人。名前を出さずとも分かりきっている。
「それは、どうでしょうか」
…でも、否定はできない。
「そうね、そこまでは祐巳自身も分からないかもしれないわね」
祐巳さまは悩んでいる。だから、その言葉が正しいのだろう。
「この前の話、覚えてる?…林での」
林…。祐巳さまの話をした時……。
「祐巳は何かを掴みたいのかもしれないわね。新たな環境で。自分の力で」
………祐巳さまが望んでいること。
「これは、祐巳にとってはチャンスなのかしら………」
祥子さまは言いながら、お顔はとても寂しそうで——。
本当は認めたくはないだろうに。懸命に祐巳さまの気持ちに寄り添おうとしている。
「…祐巳が、今後あの人と関わろうとしても——」
けれど、瞳子はまだ祥子さまほどに大人になることはできない。
「邪魔はしない、わ」
「——祥子お姉さまっ!」
瞳子は思わず声を上げてしまった。
「もちろん、見張りはするわよ」
「あの人が少しでも変な真似をしたり、祐巳を傷つける様なら容赦しないわ」
そんな言葉をかけられても、今の瞳子にとっては、一番の味方に裏切られたかのような、一人だけ置いて行かれたかのような、そんな気分に陥ってしまうだけだった。
「…ぅ…ン」
私たちの話し声が聞こえたのだろうか、祐巳さまが身じろいだ。
「祐巳?」
祥子さまがすぐさま声をかける。
「…ん…ぉ姉…さま…?」
祐巳さまはだるそうに目を開けて声の方へと意識を向ける。
喉が渇いているのだろう。声が少し掠れている。
「祐巳、あなた風邪で倒れたのよ。心配したわ」
そう言いながらそっと祐巳さまの体を支え起こすと水分補給のために用意していた水をコップに注ぎ、祐巳さまの口元へと持ってゆく。
「喉が渇いているでしょう?飲んで」
祐巳さまは、ぼうーとしながらも祥子さまの言葉に促されるようにして水を口に含む。
祐巳さまがこくりッこくりッと小さく飲み込むのを確認しながら、祥子さまはゆっくり、ゆっくりとコップを傾ける。
祐巳さまが飲みやすいように、丁寧に。
「もう大丈夫」という風に首を横にふったのを見ると、ポケットから白いシルクのハンカチを取り出して、祐巳さまの口もとに優しく当て、ほんの少しだけこぼしてしまった分を拭いてあげる。
「祐巳、辛いでしょうけど、薬を飲まないといけないから何かお腹に入れてちょうだい。おかゆでいいかしら?」
祐巳さまがこくんっと肯首すると、祥子さまはいったん祐巳さまを寝かして、キヨさんのもとへと向かった。
おかゆを待つ間、部屋には祐巳さまと瞳子の二人きりになる。
「…とう…こ。どう…したの?」
瞳子はハッ——と思わず目を見開いた。
そこにはまるで瞳子を労わるかのような優しい眼差しを向ける祐巳さま。
自分が辛いときに、この方は私の心配をしている。
瞳子の感情の揺れにどうして気付いてくれるのだろう。
申し訳なく思いながらも、それでもやはりうれしかった。
祐巳さまは何があっても私を蔑ろにはしない——。いつも私のことも考えてくれている——。
「お姉さまが心配なのです。早く元気になってくださいませ」
自然と心からの笑顔を返すことができた。
この先の不安は確かにある。けれどそれは一人で思い悩んでいても仕方がないことだ。今は祐巳さまとの時間を大切にしよう——。
夜になる頃には、祐巳さまの熱もだいぶん引いていた。
これならば、明日には問題なく帰路につけるであろう。
瞳子も祥子さまも徹夜で看病しようとしていたのだが、「何かありましたら私がお呼びしますから」とキヨさんにものすごい剣幕で止められ、それでも引き下がらないとみるや
「お嬢さま方が体調を崩されれば、祐巳さまはさぞ嘆かれるでしょうね」
———と、私たちにとっては、ほぼ脅迫にあたる言葉を投げられ、しぶしぶ部屋へと向かって就寝したのであった。
(2)
翌日の朝は早かった——。
学校のある平日よりも早く目を覚まし、急いで準備を整えると、階下に駆けおりる。
キヨさんと源助さんへの挨拶もそこそこに祐巳さまが休む和室へと向かう。
そこで、まだ寝ているであろう祐巳さまを思い、いったん落ち着く。
そして、そ———っと襖を開いていく、
————祥子さまがいた。
……瞳子はがっくりとうなだれる。負けた、と。
というか、なぜこの方がこんなに早く起きているんだ。おかしいでしょう。いつもはわざわざ起こしに行ってもすんなりとは目を覚まさないというのに!
起きてからもしばらくは、ぼけーっとしているというのに!
瞳子の落胆は、だんだんと祥子さまへの怒りへと変わっていた。
それなのに祥子さまは、瞳子に気づくとシーーッ!とそれはそれは穏やかな笑顔で迎え入れ、そのまま祐巳さまの方へと顔を戻すと、見ているこちらが恥ずかしくなるほど、深い深〜い愛情のこもった瞳で祐巳さまの寝顔を見つめるのだ。
瞳子の毒気も抜かれてしまう。
その後、しばらくして目覚められた祐巳さまは、目を丸くして瞳子と祥子さまを交互に見やっていた。
かと思うと、飛び起きて——。
「い、今何時ですかーーーー!??」
と叫ばれた。
おそらく、いや絶対これは瞳子のせいではない。その隣の祥子さまが完璧に朝の身支度を済ませ、低血圧はどこへやら、爽やかな顔を向けているからだ。
「祐巳、元気になったようね!良かったわ!」
そうしてニッコリと微笑む祥子さまは嫌になる程、清々しかった。
回復したとはいうものの、病み上がりに無理をさせるわけにもいかないので、嫌がる祐巳さまのもろもろの朝の支度を手伝い(ここは祥子さまと以心伝心の協力プレーを発揮した)、荷物も私たちでまとめる。
そして、帰り支度が済んだ時、見事なタイミングで黒塗りの車が別荘の前に停まる。
「では、世話になったわ。キヨ、源助」
「ええ、私どもも楽しかったですよ、またお待ちしております」
「あの、迷惑をおかけしてごめんなさい。今年もありがとうございました」
風邪を引いてしまったからだろう、祐巳さまが申し訳なさそうにしている。
「いいえ、祐巳さまがいらっしゃると私も元気をもらえますのよ?」
「ふふ、祐巳は人に元気を与えすぎて、自分が弱ってしまったのかもしれないわね」
「ええ!?」
祥子さまのそんな言葉に祐巳さまは驚いた顔をする。けれど、案外的を得ていると瞳子は思った。
「そうですわね。ちゃんとご自愛なさって下さい。目が離せなくて大変ですわ」
「瞳子まで…」
しょげる祐巳さま。
そんな様子に場は和むのだから、やはり間違ってはいない。
「瞳子さまも、またいらして下さいね」
「はい、ぜひまた。本当にお世話になりましたわ」
瞳子も沢村夫妻へと別れのあいさつをする。
この一週間、本当にお世話になった。自分の別荘でもないのに快適に過ごせたのはキヨさんと源助さんの細やかな心配りのおかげだ。少しの寂しさとともにめいいっぱいの感謝を込めた。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
最後にかけられた言葉と、見えなくなるまで振り続けられる手。
瞳子も、祐巳さまも、祥子さまもあたたかな気持ちに包まれて別荘地を後にしたのであった——。
なんだかんだとあったのだが、振り返ればとても充実していた。
祐巳さまと祥子さまとこんなにも時間を共有して、一緒の思い出を作れたのは、幸せなことだった。
———帰りの車内。
通りすぎる緑と澄みきった青空。
そこから溢れるキラキラとまばゆい光。
側には大好きな祐巳さまと祥子さま。
外の景色も瞳子の気持ちも晴れ渡っていた——。
「祐巳、気になるのなら高岡さまとお話ししてもいいわよ」
そんな言葉を聞くまでは。
別荘地編ようやく終わりましたね!長かったです…。
次回は過去編祐巳視点が入ります。場面はちゃんと進みます。