(1)
その日、祐巳はもう小一時間は自室のベッドの上で唸っていた。
うーん、…うーん、うーーー。
祐巳には分からなかった。『社長』という人物には一体どの時間に電話をかければ適切なのか。何時でもいいとは言われたけれど、何時でもいいはずがあろうか?と。その手にはずっと子機が握り締められている。
お父さんやお母さんには尋ねられなかった。きっと過剰に反応されると思ったから。
——時刻は十時。
…おやつの時間…!今しかない!
考えすぎてショート寸前だった祐巳の頭はとっさに浮かんだその思考に飛びついた。もう半ばやけくそである。
…プルルル…プルッ
えっ?!
予想以上に早い反応に心の準備が追い付かない。
『あ、祐巳さん?』
しかし、祐巳が混乱し言葉に悩んだのも数瞬。
「あ、えと、はい?なんで分かったんですか?」
「はは、それはね。俺のプライベート用の携帯番号を知ってる人物は限られてる。その中で俺が知らない番号からかかってくるなんて祐巳さんくらいしかいないからだよ」
『社長』の説明に祐巳は納得した。
『それで?何か用があるんじゃないの?』
その言葉に、ハッと思い出す。電話の目的を——。
『気になるのなら高岡さまとお話ししてもいいわよ』
祥子さまの言葉が脳裏に浮かんだ。
——私は気になっていたから電話をかけたんだ。
高岡と出会ってから祐巳はずっとモヤモヤしたものを抱いていた。けれどそれが何なのか自分でも分からなかったし、祥子さまや瞳子が彼にいい感情を持ってないことには気づいていたから、むやみに関わってはいけないと思っていた。
でも、それでもこうして結局連絡を取ってしまっているのは、祥子さまに後押しされたのも大きいけれど、祐巳が自分の気持ちを無視できなかったから。
今日は確かめるんだ!自分自身を。
祐巳は決意のこもった声で答えた。
「高岡さんとお話ししたいと思いまして」
『じゃあ、明日の十時に俺の会社に来てくれる?あ、本社の方ね』
高岡との電話はその言葉で終わった。
正直、祐巳は電話でも良いと考えていた。まあ、会って話せるのならその方がいいかもしれないけれど、それにしても、こんなにすんなり時間が取れるとは思っていなかったのだ。
祐巳が返事をする前に切れたため、言われた日時に会いに行くしかないのだろう——と、決意を固めて翌日に備えたのであった。
(2)
…うあーーー、すごいなーー。
『株式会社ユニゾンプロダクション』
祐巳が住所を頼りに、なんとか地図で調べ上げ辿り着いた先には27階建てのビル。
名刺を見ると、5•10•21•22•24•25•26階と記されているから、きっとこれらの階のどこかへ行けばいいのだが、こういう場合はまずは受付だと思い案内板を確認する。
受付は5階にあった。
しかし、ビルの中に一歩踏み入れると自分があまりにも場違いな気がして体が竦んでしまう。周囲にはスーツを着た大人たちが颯爽と行き交っている。こんなところにただの高校生でしかない自分がいていいのだろうか。
——どうしよう。
そんな風にキョロキョロしていると、背後から肩を叩かれた。
振り返って驚く。
「…ッ!高岡さん!」
「よく来たね。祐巳さん」
26階にあるという社長室まで、その社長自らの案内を受けながら、そして周囲に若干の驚愕を与えながら、祐巳は高岡の説明を聞いていた。彼は祐巳のことをわざわざ待ち構えていたらしい。碌な説明を与えなかった祐巳がどんな様子でここに現れるか見たかったそうだ。
またこの人は、わざとか……。
こういうことをするから、祥子さまと瞳子に嫌われてしまうのに。
祐巳が胡乱な瞳で見ていることに気づいたのか、高岡は笑った。
「でも案外時間通りにたどり着いてたから驚いたよ」
なんのフォローだ。祐巳はますます不貞腐れる。
「はい、ここが社長室!どうぞ?」
しかし、目的の場所へと着いたため、祐巳は慌てて表情を引き締める。今日は真剣に話をしに来たのだ。こんなに軽そうに見えても社長である高岡に、ここまで時間を割いてもらえることはそうそうない事だろうから。
——さて、と意気込んで重厚な扉の中へと踏み出すと
ジロリッとした視線に刺された。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
そこには綺麗なお姉さんが机の上で作業していた。
祐巳は入ってすぐ人がいたことに驚いた。
「社長の我儘でスケジュールが押しているんですから、これ以上はやめて下さいよ?」
その声は鋭く剣が含まれていた。
言葉は高岡に向けたものだが、その目は祐巳を凝視している。
…こわい。
高岡はハイハイという風に応えると、「この奥だよ」と部屋にあるもう一つの扉へと祐巳を促した。
応接用の革張りでゆったりとしたソファに腰を下ろす。
座り慣れていないため、なんだかそわそわとしてしまう。
「ははっ!祐巳さんこのソファ似合わないね」
また、高岡に笑われてしまった。
でも高岡にだってこのソファはそんなに似合ってないと思う。
「高岡さん!笑わないで下さい!今日は真剣なんです!」
すると、その言葉を待っていたかのように高岡の表情がゆるやかに変わった。
「——うん、分かってる。きみは何を話しに来たの?」
…何を。
私は何かを話しに来た。その何かはきっと大切なことだ。けれど祐巳はその何かが分からなくて、だからここに来た。
祐巳が話出せないでいると、高岡が口を開いた。
「じゃあ、俺の想像を先に聞いてくれる?」
ハッと高岡を見やる。それを合図と取ったのか高岡は語り出した。
「祐巳さんにとって今一番大切なものは祥子さんと瞳子さん」
だよね?と首を傾げた高岡に祐巳は頷く。
それは迷いようもないことだったから。
「でも、このままだと大人になるにつれて二人との距離は離れて行ってしまう」
祐巳の心臓がドクんッと脈打つ。
「それは環境や立場の話で、あの二人は全く気にしないと思う」
——胸が、いたい。
「けれど、祐巳さんは違う」
——涙腺が、言うことを聞かない。
「開いてしまう心の距離はそう簡単には埋められないだろうね」
——涙が…溢れた。
「きみは二人と胸を張って並びたい。そのための自信がほしい」
祐巳は静かにその言葉を受け入れる。
でも、その方法が分からなかった。そこに現れたのが高岡だったのだ。
「俺は、好きなものに一途になれる、その姿勢が好きなんだ」
「それは人を惹きつける。誰もがそうありたいと願うのに、いつしか失ってしまう気持ち。たいていの奴は今の環境に甘んじる。自分に言い訳してね」
高岡の言葉は祐巳の頭にすっと入ってゆく。
今の自分じゃいけない。今のままでは…。
「この世界に入れば、私はそうあれますか?」
その言葉は自然と口に出していた。
「それはきみ次第。俺はチャンスを与えるだけ」
…私次第。それは当たり前かもしれない。高岡に頼って流されているようでは意味はない。自分の力で手にしなければ今までと何も変わらないだろう。
「けれど祐巳さんは、俺のバックアップなんてなくても祐巳さん自身の力で成功をつかめるよ。そう確信したから誘ったんだ」
「それなら、高岡さんの元でなくても良いのですか?」
祐巳は頭に浮かんだ疑問を口にする。
「いや。俺は一番側でそれを見ていたいし、そこに俺のプロデュースが加わったら無敵だから言ってるんだよ」
高岡は大胆不敵にニヤリと笑んだ。
「見つけたのは俺だ。今さら他のとこ行きますなんて言わないでくれよ」
そんなかなり自分勝手な言葉にも祐巳は嫌な気はしなかった。
「分かりました。その時はこちらにお願いします」
祐巳の気持ちは、ほとんど定まっていた。けれど、ここですぐに約束することはできない。家族に、それから、祥子さまと瞳子に——祐巳の、大事な人たちに。まずはちゃんと伝えなければ。大切なものを守るために決めた道に、守るべきものの気持ちを置き去りにしてはいけない。
祐巳はしっかりと高岡を見据えた。
その瞳からはもう涙は流れていない。代わりに、強い意志の炎が揺らめいていた。
「連絡をまってるよ」
最後に見せた高岡の微笑みは、彼の本心からのものだと素直に思えた。
高岡は、いいと断ったのに帰りもビルの出口まで付いてきた。
そして例のごとく注目を集める。
祐巳はなるべく意識しないようにして、やっと解放されることに安堵した。
「高岡さん、今日はありがとうございました」
そうして帰ろうとした間際。
高岡がささやく。そっと、祐巳にだけ聞こえるように。
それはなかなか掴めないその男の本質を、少しだけ、垣間見せてくれた気がした。
『俺は、高岡の本家の長男としては落ちこぼれなんだよ』
『俺に期待して敷かれてたレールを自分から外れたからね』
———『でも俺は今の自分が好きなんだ』———
(3)
自宅に戻った祐巳は、真っ先に祥子さまへと連絡を入れた。
「お姉さま、聞いていただきたいことがあります」
『……そう』
些かの間、沈黙が落ちるが、届いた祥子さまの声はひどく落ち着いていた。
『わかったわ。今週の日曜日、時間を取れるかしら』
「はい」
それに了承すると、時間と場所を指定される。
『午後の一時にリリアン女子大学の正門前で』
高校生活最後の夏休みも後半にさしかかり——。
午後の日差しはギラギラと眩しく、
蝉が最後の大合唱とばかりに命の灯火を燃やしている。
もう少しすれば、木々の緑も色褪せて、今度は紅く色づくのだろう。
時折、気づいたかのように木の葉を揺らす風の音——。
祐巳は瞳を閉じる。
すると、頭に浮かぶのは姉と妹の顔ばかり。
驚いたこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと。
色んな情景が溢れ出す——。
二人との出会いが祐巳の人生を彩っていた。
ああ、こんなにも私の中は二人で満たされているんだ…。
「—— 祐巳」
その声は祐巳の耳へと真っ直ぐに届いた。
瞳を開けると、先ほどまでより鮮明で美しい祥子さまがいた。
「——お姉さま」
祐巳は、求めていたその存在へと手を伸ばした——。
「私のマンションへ行きましょう」
その言葉に従って、祥子さまについて行く。
二人の手はしっかりと握られていた。
「ここよ」と、歩き始めて20分ほどで。
洗練された外観ながら、歴史ある穏やかな風景と美しく調和している建物。それを見ただけで、そこに住む住人の品がうかがえるようだった。
祥子さまが一人暮らしを始められたことは聞いていたが、訪れたのは初めてて、祐巳は少しだけ緊張していた。
「祐巳?何を惚けているの。入るわよ」
そんな風に促されて、慌てて気を取り直す。
たどり着いた祥子さまのお部屋は、外観同様、やはり洗練されていて、余計なものは置かれていないためか、ただでさえ広い空間がさらに広く感じられた。
けれど、だから、リビングに置かれていた写真立てに、祐巳と祥子さま、二人で写った写真があるのは、とても目立っていた。
それを認めた瞬間、顔が緩むのを止められない。
「あら、気づいたのね」
「はい、私の部屋にも同じものがあります」
「ふふ、それはうれしいわ」
和やかな会話を交わしながら、進められた席へとおとなしく座る。
祥子さまはキッチンの方へと向かわれた。
「祐巳はミルクティーでいいかしら?」
その声にハッとする。
「お姉さま!私が淹れます!」
「ここは薔薇の館ではなくて私の部屋よ?あなたは今日はお客様」
そんな風に止められてしまう。けれどよく考えてみれば、使い勝手も分からない人さまのお家でお茶を淹れようなど、余計に手間を取らせるだけだった。
手際よく二人分を用意して戻ってきた祥子さまは、カップをテーブルに並べると、椅子に腰をかけ、静かに祐巳と向き合った。
「祐巳。心の準備は出来ているわ」
緊張している祐巳を気遣ってか、祥子さまは穏やかに、安心させるように言う。祥子さまの本心は分からない。本当は反対なのかもしれない。でも、これは祥子さまとずっと一緒にいたいから、いつまでも隣に立って歩いていたいから、決めたこと。だから、ちゃんと伝えて認めてもらわなくちゃ。
「お姉さま、私——」
「挑戦してみようと思います」
祐巳が目を逸らさずに祥子さまに言い切ると、何に?とは問うこともなく、「そう」という呟きのあとで、少し顔を俯けたかと思うと、喉がわずかに上下して——、言われた言葉は———
「応援するわ」
であった——。