(1)
「リハーサルとは、見違えたわね」
生収録をなんとか終えた安堵とともにスタジオの隅、お姉さまの元へと急いで向かおうとしていた——。
正直、出番の直前に祥子さまに励まされた後は、もうほとんど私の意識は祥子さまへと向いていた。それは、身につけた『これ』と、離れた位置から見守るその存在そのものへ。
だから周りが見えていなかったのだと気付いたのは、かけられた声に驚いたあとだった。
「…!…莉音…さん…」
「あら、見に行くって言ったでしょう?リハも覗いたのは、ついでよ」
莉音さんの指摘は、私の驚きの理由とは違っていた。
確かに、聞いたし、覚えていた。それどころか、私がこの収録を殊更に意識したきっかけ……。にも関わらず、本当に忘れたというか、優先順位のはるか彼方へと飛んでしまっていたのである。
なんとなく罪悪感を抱いてしまい、言葉に詰まる。
「?…すごいわね。この短時間で何があなたを変えたのかしら?」
その表情に浮かぶ不可解。けれどそれは、祐巳の反応がないからであって、放たれた言葉に付随するのは純粋な好奇心。
「——それは、」
「——祐巳」
答えようと、開きかけた口が、問いへの言葉を紡ぐことはなかった。
つい数瞬の間、莉音さんへと向けたその意識は、耳を揺らす心地よい振動とともに、また、彼女だけのものとなった。
「っ…お姉さま」
ああ、その存在が近づいてくる。その距離が縮まるほどに、神経が、細胞の一つ一つが、歓喜に打ち震えるのが分かる。
祐巳は、待ちきれずに駆け出した——。
「…なるほど、ね」
背後で零された、意表の後の理解。その呟きさえ、祐巳の耳にはもう入ってはこなかった。
「一緒に帰りましょう?」
送るから乗って行きなさい?と祥子さまが言う。
祐巳は、即座に頷きかけて、はたと辛うじて思い至った。いつも自分のお世話をしてくれている彼女のことに。
「…あ」
目線だけで探す。
すると案外すぐに、というより収録後からずっと祐巳のそばにいたのだが…マネージャーは見つかった。
「よろしいですよ?その方なら信用出来ますし、社長からも聞いておりますので」
祐巳が一応訊ねようと言葉を発する前に、彼女は察してくれたようであった。
三人で楽屋まで戻り、帰り支度を急いで済ませる。
スタジオの出口で、黒塗りの車に乗り込む祥子さまと私を見届けたマネージャーが別れの挨拶の前に来週の予定を確認する。
ホームページ様の写真撮影と今後の活動の打ち合わせが週初めにある、と。
それに了承し、車が動き出したところで、やっと一息ついた。
「…ふぅ」
吐き出した息とともに、体が弛緩し、開放感と気だるさが同時にやって来る。やはり、緊張していたらしい。
「祐巳…」
祥子さまが、心配そうに覗き込んでくる。
大丈夫?という言葉とともに、祐巳の顔にかかる髪を掬って耳へかけ、晒された頬に添えられる手。
祐巳の体温よりやや低く、気持ちがいい。
「…はい、お姉さまの、おかげです」
祐巳は、目をつぶり、その感触を堪能していたのだが、祥子さまに応じるため、ゆっくりと瞼を開き、そのすぐ近くにあったお顔を見つめ返す。真摯な想いが、真っ直ぐに伝わるように。
「……無理、していない?」
……。祥子さまに、心配をかけてしまった。
確かに、祐巳は祥子さまに救われた。今日、あの場に祥子さまが現れなかったら…、想像するのも恐ろしい。でも違う、本来は、祐巳が、安心させなければいけないはずだった。その絶好の機会だった。その事にたった今まで思い至らなかった不甲斐なさに呆れる。
これでは、本末転倒。
祐巳は、己を鼓舞する。まだ始まったばかり。今はまだまだ頼りないし、それが情けない。……でも、きっと、いつか——!
「——お姉さま。私は大丈夫です」
不安を拭って差し上げたくて、無理にでも微笑みを浮かべる。
いつかこの言葉が真実となるように。実感を伴って発する事が出来るように。胸には大きな誓いを込めて。
「…そう」
祥子さまはどう受け止めたのだろう。
鋭い方だから、ただでさえ分かりやすい祐巳の下手な誤魔化しなど見抜いている可能性が高い。
「そう」は肯定でも納得でもなく、私の言葉を聞いている、というただの意思表示。
束の間、落ちた沈黙。
一度身を引いて、祥子さまが座席に正しく座り直す。
祐巳は名残惜しく、その横顔を見つめる。
彼女の瞳は、前を見据え——、
けれどそこに写しているのはフロントガラスを隔てて広がる景色ではない気がした。漠然と、ここではない、その先を——
「祐巳、今すぐには無理だけれど…私が卒業するまでには、」
『あなたを、迎えに行くわ——』
(2)
その週の土曜日。
私は正午より一時間ほど前に家を出て、いつもの通りの道順で、いつもの通りバスに乗り、M駅前で乗り換えて、いつものバス停に降りる。そしていつもの通り、向かうのは大学——ではなくて、立ち止まったのは高等部の敷地の前。
背の高い門はくぐり抜けず、そのちょうど境目から、三年間、祐巳の人生において、一番濃密で色鮮やかであった期間。私にとって大切なものとそれを守るための指針をも示してくれた。
——そんな、マリアさまのお庭を見遣る。
まだホームルームか掃除の時間帯、こちらへと向かってくる生徒はいなかった。
——卒業式以来。
懐かしい、と思う。たった一カ月とちょっと。けれどその感覚は、そこがもう祐巳にとっては過去の場所であることを教える。
私の居場所は、今とこれから。
『あなたを、迎えに行くわ——』
あの、言葉の意味は、何だったのだろう…。
その時の祥子さまの強すぎる瞳と、放たれる気に圧倒された。
結局、よく分からなかったのだけど、その場面が頭から離れない。
迎えに来ていただけるということは、何処かから祥子さまの元へという事なのだろう。祥子さまのお側にいられるのは望むところだ。
けれど、今までも、そしてこれからも、祐巳はずっと側にいるつもりだった。そのための選択として、歌手にもなっている。
だから、迎えに来ずとも、共に歩いていけるはず……。
もしかして、祥子さまにとっては違ったのか…?
サワサワと木の葉を揺らす風の音が、胸に騒めきを呼び寄せる——。
それに呼応するように、周囲の気配もざわざわとしたものに変わった気がした——
タッタッタッタッ
「…っ!お姉さま!」
ハッと、思考が霧散し、急激に視界が広がる——。
「私が!ご自宅にお迎えに参りますと言っておいたでしょう!」
どうやら、それなりの時間が経過していたらしい。
気づけば、私の待ち人が、怒ったように…けれどその下に、焦りと心配、不本意とでも言うような隠しきれない嬉しさを潜ませた、そんな様子で、ギリギリ走るまでには至らない、それでもここでの嗜みとして許される最大限のスピードで私の元へと向かってくる。
「——ふふっ、ごきげんよう。紅薔薇さま?」
私は、その愛しい存在へ。
いたずらが成功した達成感と、予想以上の反応が見られた満足感。それらを含んだ笑みを携えて、ここでの相応しい挨拶をもって迎えた。
(3)
「…だって、瞳子にとったら二度手間でしょう?」
私の詰問に祐巳さまは毛ほども気にした様子もなく、あっけらかんと応えた。
その二度手間を分かっていながら提案した理由にどうして考えが及ばないのだろうか。
「だって、M駅から一駅の商店街に向かうのなら、待ち合わせはM駅でいいじゃない?駅だと見逃す可能性もあったから、高等部まで来ちゃったけど」
来ちゃった、ではない。
掃除中、「祐巳さまがいらっしゃる!」なんて耳にした瞳子は、門まですっ飛んできたのだ。
気が気ではなく慌てふためく様子に、同じ担当場所の子たちは、私の分の掃除も引き受けてくれた。後日埋め合わせをしなければならないだろう。
けれどそのおかげで、帰宅のピーク前、祐巳さまがリリアンの生徒に囲まれる前に、連れ出すことに成功した。
まあ、瞳子がその姿を認めた時でさえ、周囲には結構生徒がいて、うっとりとした視線を集めていた。誰もが門をくぐり抜けずに直前で足を止め、にも関わらず誰も彼女に声をかけない。いや、かけられないといった状態。
その物憂げな表情、ここじゃないどこかに想いを馳せる儚さ、それらに魅入られ、見惚れていた。
侵してはいけない、と。
瞳子自身そんな想いに囚われそうになるのを意志の力でねじ伏せ、祐巳さまを呼んだのだ。
そんなこんなで、現在は目的地付近の喫茶店。
商店街の裏道のかなり奥まった場所に存在し、レトロで落ち着いた雰囲気の穴場スポットである。
しかし、一駅とはいえ、ここに来るまでの電車の中や道中で注がれる視線に、変な輩が近づかぬよう周囲に警戒を発信していた瞳子は、すでに疲れ切っていた。
コーヒーを一口啜り、息を吐き出す。
「いいですか?お姉さま——」
「お姉さまがこれまで通学の際や、大学構内である程度平穏な生活を送れていたのは、そこが通い慣れた場所で、見慣れた面々に囲まれていたからです」
通学時間に多少のズレこそあれ、大学部は高等部に隣接している。
昔からずっとリリアンに通っておられた祐巳さまにおいて、その通学路で出会う人々というのは見知っている人がほとんどなのだ。
大学構内でだって、その学生の一割ほどは高等部から内部進学の方々。
だから、祐巳さまを知る人たちによって、ある意味守られ、配慮もされていることだろう。騒いでいるのは外部入学の一部の学生たち。
その環境を、世間一般に当てはめてはいけない。
だと言うのに、この方といったら、変装もしないは、帽子すら被ってこないは、その上、集まる視線には無頓着。
せっかく、瞳子が自宅へ迎えに行った際に変装の指導をしてから出掛けようとした計画も、この方が無駄に気をまわしたおかげでパー。
溜息が出るのも許してもらいたい。
「…?でも、今も大丈夫だったじゃない?」
「お姉さまが気づいていらっしゃらないだけなのと、私がいたからですわ。…まさか、そのまま一人で出歩いたりしてませんよね?」
瞳子は一抹の不安がよぎり、否定が返ることを望んで尋ねた。
「…そういえば、最近は忙しくて、学校の往復以外はいつもマネージャーと移動してたなあ〜」
つまり、偶々そうだっただけで、機会があれば気にもせずやっていたということか。
瞳子は頭を押さえる。
「お姉さま。せめて軽く変装くらいして下さい」
その言葉とともに、瞳子は持ってきていた手提げ鞄から、綺麗な袋でラッピングされた物体を取り出す。
「…瞳子?」
それを両手で丁寧に掲げ、祐巳さまへと差し出す。
先ほどまでの呆れ顔は仕舞い、浮かべるのは、大好きなこの方への純然たる想い。
「…お誕生日、おめでとうございます。少し、過ぎてしまいましたけど、受け取っていただけますか?」
祐巳さまの反応に対する期待と不安が入り交じる。
「——ありがとう瞳子。私も、生まれてこれたこと、そして瞳子に会えたこと、すごく嬉しいよ」
パァ と、ふいに向けられるお日様の笑顔。
そしてその台詞にも、思わず赤面してしまう。
そんな瞳子にふふっと声を上げ、そのまま袋を開いてゆく祐巳さま。
「あっ。ぼうし」
選んだ動機は、祐巳さまの変装のため。
なのだけど、それはつば付きの白いコットン素材のもので。
本当はもっと顔全体をつばが覆って、色も暗めなものを選ぶつもりだった。でも、祐巳さまを思い浮かべながらだったからか、手に取ったのはこれで…ほとんど目的の用途は成さないであろう。
「瞳子がくれたものなら、これからちゃんと身につけなくちゃね」
けれど、この方に絆されてしまった私は、
どうしても厳しさに徹することは出来ないのだ。
「約束ですよ、お姉さま」
それは、とても幸福な時間。
学校ではもうどんなに探しても祐巳さまの姿は見られない。
その代わり、というように。
テレビや街中で目にするようになった、手の届かない祐巳さま。
そんな時、どうしても堪えきれない寂しさが溢れ出すけれど
その度に、電話やこうして二人きりでお会いする祐巳さまが瞳子を包み込んでくれる。暖かく、綺麗なその心で。
「ずっと、一緒にいて下さいね」
「もちろんだよ。瞳子」
なんというか、切ないんです今回。
祐巳の歌手編は、大まかなプロットはあって、最低でも過去編の二倍ほどの分量になると思われます。
しかも、それも第1章で、そこから私の気持ちが持続すれば第2章が始まる予定です。
なので、長い目で行く末を見守っていただければ幸いです。