(1)
「社長、先ほどから事務所への問い合わせがすごいようなのですが…」
「ああ、そうだろうな」
『ユミ』はアイドルとして売り出したい訳ではない。
本人の能力でアーティストとして大成してくれることが高岡と事務所全体の方針だ。
だから、恋人がいようがいまいがそれ自体は特に問題はない。
しかし、記事にあげられている噂の相手が不味かった。
男性アイドルグループのメンバーに人気イケメン歌手、バンドのボーカル。
音楽業界で最近勢いのある若手ばかり。
そうなると、どうしても共演する機会も多くなる。
もちろんどこの事務所も既に否定しているものの、相手方は単なる噂の内の一人なのに対して、こちらは一人で複数の相手。
『ユミ』に恋人がいるかもしれないということへのショックもあるのだろうが、それよりも恋人候補だと噂になった人物たちの熱狂的なファンからの嫉妬がひどかった。
「来月までの予定では、誰かしらと共演のある歌番組も複数受けてしまっていますけど…よろしいのですか?」
「……。ユミに聞いてみるよ」
週刊誌が出ることは事務所側も早々に分かっていたため、早朝に祐巳を呼び出した後、今日はオフィスで大人しくしている様にと指示を出していた。
小笠原のご令嬢がその後すぐにこちらへ訪れたことも報告を受けているし、許可を出したのも自分だ。だが、今祐巳が何をしているかまでは分からない。
と言っても、だいたい居そうな場所は限られるため、高岡は自ら話しに行こうと腰を上げた。
朝、見た限りの彼女の様子だと大丈夫そうではあった。
出来るなら、噂なんて気にせず今まで通りにした方がいい。
祐巳の歌う姿は、人の心を動かせる。それを見せ続ければ、すぐにこの話題も沈化することだろう。
「ユミは…今どこにいる?」
「オフィス内のスタジオだと聞いていますが」
「分かった」
高岡は、案外楽観視していた。
ただ、一つの不安要素を除いては——。
……祥子さんとは、ちゃんと話し合えただろうか……?
「………ユミ」
祐巳は高岡の秘書が言っていた通りの場所にいた。
そこに置いてあるキーボードの前に腰を掛け、ぼーっと音を奏でている。
ポロン…ポロンポロン…と。
「…アヴェ マリア か…」
静謐な室内。拙くも神聖な音色…。
祐巳の姿は、まるで幻かのように淡く、儚く、そこに存在していた。
このスタジオでキーボードを叩く祐巳の姿。
それ自体はここ最近ではよく目にする光景だった。
祐巳は、歌詞を書いてからというもの意欲的に音楽と向き合っている。頭に浮かぶメロディーやイメージを人づてに創るもどかしさを感じていたようだったから、作曲を勧めてみた。
もちろん今はまだ全然だけど、講師をつけて思うままにやらせていた。悪戦苦闘しながらもその表情は生き生きとしていて、祐巳の未来に大いに期待を抱かせるものだった。
祐巳が音楽を楽しんでいること、自ら成長しようとしていることが嬉しかった。
…俺が見たいのは、目の前のこんな消えそうな姿じゃない。
——何か、あったんだな祥子さんと。
高岡は、己の嫌な方の予感が当たってしまったことに思わず頭を押さえた。
「ユミ!」
先ほどより大きな声で呼ぶと、祐巳はやっと手を止めてこちらに顔を向ける。今、気付いたとでもいうように。
「…たかおかさん…?」
「——何があった?」
目があっているはずなのにその瞳はぼんやりと陰り、焦点が合わない。
「————」
答えない祐巳。
まあ、祥子さんとの間の問題なら、俺なんかを立ち入らせてくれるとも思わないが…。
「…しばらく、仕事休むか?」
本来こんな事を言うつもりはなかった。
既に受けているものに穴を開けたりしたら、今後の『ユミ』の信用に関わるし、噂が本当だという証明と取られる危険がある。
それでも——、
こんな祐巳は見ていられない。
無理に出せば、壊れてしまいそうだった。
——しかし、祐巳はそこでハッと目を見開いた。
「———!出ます!お仕事、させて下さい!」
それはもう必死に、頼み込む彼女。
予想外の反応に俺は驚いて、一瞬言葉に詰まった。
「…わからないんです…いまは、これしかないんです…」
祐巳が消え入りそうに小さく溢した声。
だけど、その切実な縋るような様子に、俺は不甲斐なくも頷いてやることしか出来なかったのだった。
(2)
祥子さまを見送った後、しばらくは車が消えた方を見やり、その場から離れられないでいた。
「距離を置きましょう」…。自分から言っておいて、未練がましくも動けない私。きっと、祥子さまを驚かせてしまったであろうその言葉。けれど、今の私が側にいたら、お姉さまは、心配のあまりにご自身を顧みなくなってしまう。それに、祐巳自身も、どうしたらいいのか、何が正しいのか分からなくなってしまっていた。
距離を置いて、冷静になる期間が必要だと思った。
信じたはずのものが脆く崩れ去りそうな感覚に怯えた。恐かった。
だから……答えを、知りたくなくて……。
…逃げたんだ……わたしは……お姉さまから…!
気づけば、ポケットに入れた携帯がひっきりなしに鳴っていた。
「……瞳…子」
表示されていたのは、もう一人の最愛の存在。
彼女も、週刊誌を見てしまったのだろう。
画面を見つめる。
一度音が止んで、またすぐに、鳴り出す。三度ほど繰り返して、四度目……。
「……」
「——ッ!お姉さまッ!!」
ああ、やっぱり、物凄く心配をしている。
「…瞳子、私は大丈夫だから」
「——!本当ですか?!」
「本当だよ。だから、私のために心を砕かないで…」
瞳子はこの時期、学園祭の準備で忙しいはずだ。
こんなことで煩わされないでほしい。
「…じゃあ、忙しいから、切るね」
まだ追い縋ろうとする瞳子が何かを尋ねる前に、鋭いあの子に余計な負担をかける前に、取り付く島もなく会話を切る。
「ッ……分かりました、また、連絡いたしますわ」
「…うん、また」
ほっと、とりあえずは安堵する。
普通にしてなきゃ、普通でいなきゃ、せめて。
今、あの子に「ほら、見たことか」とこの道を否定でもされたら、私はもう立っていられる自信がない。
そして——また、鳴り出す規則的な音。
何度も何度も。
由乃…志摩子……聖さま…環…蓉子さま…また、由乃…
私は、無意識にその電源を切ってしまっていた。
その後、高岡さんに「仕事を休むか」と尋ねられたけれど、
愚問だった。
今、私から歌を取ったら、本当に全てを失ってしまう。
何も得られず、後悔しか残らず、この先に光も見えないのに。
歌から離れるという判断はできなかった。今はまだ。
休んだりなんかしたら、更に心配をかけてしまうことだけは明白だったから、せめて仕事を平然と熟す姿くらい見せないといけないだろう。
祐巳は、その後も、九月に入ってからも、以前と変わらずテレビや雑誌に出続けた。
出たのは音楽関係のものだけ、仕事中に不躾な質問をされるということは幸いにもない。
けれど、それは、音楽と関わりがないからというよりむしろ
祐巳の、纏う空気のためであった—•••。
その淡く灯る光は、泡沫の夢のように触れると消えるのではないか、束の間の奇跡を侵そうと思える者は錚々いなかったのだ。
それでも、そんな雰囲気を解さない者も中にはいる。
休憩中、移動中、無遠慮に首元のそれに寄せられる視線。
俗っぽい笑みを浮かべて、何か問いたげなその態度。
そして、何よりも祐巳を疲弊させたのは、嫉妬による苦情だ。
「見せつけるな」と。
当然、周りの人々は祐巳にそれらを見せないように隠した。
そうまでしても、止むを得ず本人の耳や目に届いてしまうこともあるのだ。
いっそ外してしまおうかとも思った。でも、それだけは、最後まで、本当に耐えられなくなるその時まで、してはいけないことだと祐巳の心が警鐘を鳴らしていた。それは祐巳と祥子さまが繋がっていると感じられる唯一の証だったから。
そんな日々をなんとか耐え過ごしていたある日。
雑誌の撮影を終え、スタジオから出る移動中だった——。
「『ユミ』さん——」
その声が届くと同時に胸に湧き上がる嫌悪。
「……何のご用でしょうか」
固まった祐巳を背に庇い、その男と私の間に立ち塞がるマネージャー。彼女の声は硬く冷たい。
「ははは、そんなに警戒される覚えはないのですがね〜」
本当に、何の用があって話しかけてきたのだろう。
早くこの場から離れたい。
「今日は、そちら方にとって良い話を持ってきたのですが…」
その言葉とともに男の口角が厭らしく吊り上がった。
「結構です」
取り合う気配を微塵も見せず、マネージャーは私の手を引いて男の横を過ぎ去ろうとした——が、
ガシッと、横を通る間際反対側の祐巳の腕が掴まれた。
「『ユミ』さん。私の番組にさえ出て頂ければ、今の状況からすぐにでも脱することが出来ますよ」
「…え?」
反応したのは別に男の話に興味を持ったからではない。
腕を掴まれたことに驚いたからだった。
けれど、その人は何か勘違いしてしまったようで。
「視聴者の同情を集めれば良いのです。…良い返事をお待ちしておりますよ」
祐巳の耳元に顔を寄せ、胡散臭い薄笑いと共に囁いた言葉。
ただでさえ悪かった祐巳の顔色が蒼白に変わった。
「いい加減にして下さい!」
激怒するマネージャーと、可笑しげに立ち去る男。
……祐巳は、キシキシと軋む心の叫びをどこか、他人事のように聞いていた…。
(3)
「…祐巳ッ!あんたどんだけ心配したと思ってんのよ!」
訪れたのは、何度目かになる福沢家。
先日やっと連絡のついた祐巳。彼女の休日を聞き出した私は、同じく祐巳を思い憂いていた志摩子とともに、福沢家の祐巳の部屋へとお邪魔している。
興奮して問い詰める私に対して、志摩子は諫めようと顰めた顔を向けてくる。
しかし、止められない。
こっちは死ぬほど気がかりだったのだ。それは志摩子も同様なはず。
「ごめんごめん!忙しかったんだって本当に〜!」
祐巳は慌てて取り繕うけれど、半分本当で半分嘘と言ったところだろう。
だって、顔に罪悪感が滲み出てしまっている。
「いつ電話しても出てくれないし、家にかけても仕事でいない上に出るのは毎回祐麒くんよ…私、ずいぶん彼と親しくなった気がするわ」
祐巳を困らせたい訳ではない。彼女には笑顔でいてほしい。
だから、批難の中に冗談もこめる。
「私も…祐麒さんと大分打ち解けたと思うのだけれど」
志摩子もその意図を汲んだのだろう。
皮肉を織り交ぜた冗談。祐巳に笑ってほしい。想いは共通だ。
「…祐麒が毎回家の電話に出るのは…わたしのせいなの…」
え?
私たちの期待とは裏腹に、彼女の表情には陰が差し、声音が落ちた。
「…たまに、家にかかってきちゃうから…電話、」
ハッとした。…そうだ、あの記事のあとかかって来るようになった電話なんて碌なものであるはずがない。祐麒くんはきっと、祐巳や福沢家のご両親を思い遣って、自分が盾になっているのだろう。彼だって、傷つくはずなのに。
言葉を失う私と志摩子…。
その様子に気づいて、祐巳が慌てて笑顔をツクル。
「あっあのね!大丈夫だよ!今はもうおさまってきているから…」
「それより、ごめんね。外に遊びに行けなくて」
事務所から止められているらしい。
外に出る際は必ず両親か、事務所の者を同伴するようにと。
当然だろう。私たちもその方が安心できる。
これまでだって、無防備すぎやしないかと心配していたし、
今の話を聞く限り、嫉妬に狂ったバカが何かしでかす危険もあるのだから。
「何言ってんのよ!三人でお泊りなんて初めてなんだから!むしろ良い機会になったわ!」
「ふふ、そうね。そのまま明日は乃梨子たちの学園祭を見に行けるなんて、とても楽しい二日間だわ」
もしかしたら、わざとらしかったかもしれない。
殊更に明るくしようと意識した。けれど、言葉の内容に嘘はない。
だいたい、ここ最近私たちが目にしていた祐巳といったら『ユミ』だけだったのだ。寂しさを感じたし、それ以上に心配した。
歌番組や雑誌の際、今までとは雰囲気が一変していた彼女。
魅せるのは、今にも儚く消え入りそうな姿。
歌声に滲むのも切なく悲しく胸を突く痛み。
今までの『ユミ』の愛と希望に満ちた輝きはなく、しかしある種その危うさが人々の意識を絡めとる。嫉妬は受けても『ユミ』の人気が依然高いのはそれが原因だろう。
けれど、そんなものは刹那の輝き、いつその不安定な均衡が崩れてしまってもおかしくはなかった。
ゴシップ記事だけで、祐巳がこんなになるとは思えない。
絶対、他に何かがあった。
祐巳にとって根幹を揺るがす何かなんて、——••
祥子さま——か、瞳子ちゃん、もしくはその両方だと簡単に予想がつく。
そして、それは恐らく、祥子さまの方に基因しているのだと先日ほぼ確信していた。
祐巳と電話が繋がらないとなった私(というか皆んな同じ行動に出たのかもしれない)は、本人の次に祐巳のことを知っていそうな人物に連絡を取ろうとした。もちろん、祥子さまだ。
けれど、電話に出たあの方は、茫然とただ「…ごめんなさい」とつぶやくのみで、とてもではないが、問い詰めたり、話を聞き出したりできる雰囲気ではなかった。
令ちゃんにも「祥子を責めないで」と止められてしまった。
それならば、と瞳子ちゃんに連絡を取ってみれば、彼女も困惑を隠せない様子で、何があったのか分からないのだと言う。祐巳には大丈夫だと踏み込ませてもらえず、祥子さまには祐巳をお願いと懇願されたのだとか。
瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで蚊帳の外な状態に思い悩んでいるようでもあった。
菜々によると、山百合会の仕事はしっかりきっかり熟しているようなのでそこまで心配もしていないけど。
まあ、そうでないと困るのだが。祥子さまにはきっと蓉子さまが世話を焼くだろうし、今一番祐巳の支えになれるのは、悔しいけれど私たちではなくて、瞳子ちゃんだから。
祐巳は今日からしばらくは仕事が入っていないのだと言う。
心身を休める良い機会だ。
せめて、明日。
瞳子ちゃんとだけでも、元のように心安らかに過ごせれば祐巳も元気になってくれるだろうか。
祥子さまは…令ちゃんが声をかけても、お忙しくて時間が取れないようだったから。祐巳も来ることは知らせていないから、たぶん意図して避けた訳ではないと信じたい。
というか!こんな湿っぽいの私は嫌よ!!
「祐巳!!今日はせっかくなんだから、夜更かしして秘密の女子トークよ!」
由乃は拳を突き上げて思いっきり叫んだ。嫌な空気は吹き飛ばしてやるという意気込みとともに。
「……由乃、そんな大声で叫んでは、秘密でも何でもないわ…」
志摩子の的確な指摘にあっと口を押さえる。
ふっふふ…ふ。
でも、祐巳が笑っている。まだいつもの微笑みには足りないけれど、それでも無理をしていない祐巳の笑い声。
それなら結果オーライだ。
私はふふんとこっそり志摩子に目配せした。
志摩子は眉を寄せて微妙な顔をしたかと思うと、急に吹き出した。
ぷっ、ふっは、ふふふ、ふぅ。
彼女にしては珍しい。まあ、予期せず親友二人を楽しませたんだから、良くやったというところよ。由乃はそんな自分が誇らしく、思わず顔には笑みが浮かぶのであった。
和やかな時間。
これなら、近いうちに祐巳も復活するだろう、そんな予感を感じていた。
電気を茶色にして、そんな祐巳をからかって、ひとしきり笑い合って寝付いたところまでは。
——深夜。
苦しそうな、呻き声に目が覚めた。
ハッとして起きあがると、志摩子も同じように体を起こしていた。
二人の視線が絡む。
え?——と。
「……ぅ…ぅうぁ…ぉ…ねぇ…さま…」
愕然と、祐巳の方を見遣った。
胸のあたりを掴んで、苦しげに布団の中で縮こまる祐巳。
急いで枕元により、顔を覗き込む。
苦しげに眉を寄せて、その額には汗が浮かんでいる。
「…ゔ…ん…」
『祐巳!!』
私と志摩子の声が重なっていた。
「……ぅ…あ、え……?どうした…の?二人とも」
目を覚ました祐巳は、自分がうなされていたことに全く気づいていなかった。もしかして、茶色じゃ寝られない?なんて明後日のことを訊ねてくる。
「…祐巳、一緒に寝ましょう?」
「…へ?なんで?」
「そうね、私たちの布団を二枚寄せれば三人でも狭くはないわ」
「祐巳だけベッドなんて狡いわよ!早く降りてきなさい」
そんな風に多少強引に、祐巳を私たちのあいだに挟んだ。
これで、祐巳の異変にすぐに気づくことができる。
手をつないで温もりを届けることができる。
祐巳はもう、限界なのかもしれない。
彼女の綺麗で無垢な心は、芸能界に軋みをあげている。
「祐巳、私たちはどんな祐巳でもずっと側にいるわ…忘れないで」
すぐに眠りについた祐巳に言葉が聞こえたかはわからない。
それでも、これは私と志摩子の揺るぎない想いだ。
繋いだ手から気持ちだけは伝わるように、
そんな願いとともに、私たちは微睡みのなか意識を手放したのだった。
(4)
……プルル…プルルルルル
「…はい」
『ああ、祥子さん。君に、伝えたいことがあって』
「……はい」
『ーーーーーーー…………』
「…ええ、私もその件については動いています」
『…そう、ありがとう』
「いえ、祐巳のためですから…」
『……』
電話越しの彼は私に対して、何か言いたげだった。
「……なんでしょう」
『…いや、君に一番のぞむことは…本当は…』
「…失礼します——」
祥子は通話を切った。
男の言わんとしていることは何となく分かる。
けれど。
私には私にしか出来ないことも確かにあるのだ。
今は気にしている暇はなかった。
少しでも向き合うと、固めた決意が崩れてしまいそうだから。
「——祐巳。もう少しだけ、待っていてね…」
暗さに磨きがかかっております。
祥子さまも言っておられますが、もう少し辛抱下さい。