(1)
「…じゃあ、お母さんありがとう」
「みきさん、お世話になりました」
祐巳のお母さまの運転により、私たちが送り届けて頂いたのは
私立リリアン女学園高等部の目の前。
今日は学園祭のため、校門付近からは既に人々の賑わいを感じられる。
リリアンは、私たちにとっては内みたいなものなのだから、外出には含まれないだろうといった理屈で私と由乃は祐巳を連れ出している。
それに祐巳も瞳子ちゃんから誘いを受けたらしく、どうしたものか悩んでいたのだという。そういう時こそ私達を頼ってくれたらいいのに、水くさいのだからと内心寂しく思ってしまう。けれど、今の祐巳の不安定な精神状態を見てしまうとそれも仕方ないのかもしれない。
「なんだか、ドキドキするわね!」
由乃が興奮して言う。
その気持ちは私もよく分かる。けれど、私の心情は由乃や祐巳ほどには、分かりやすく表に出ないようだから、あまり悟られることはないのだけど。
「…OGとして、高等部の敷地にお邪魔するのは…初めてだものね」
背の高い門をくぐり抜ける間際、すぐそこにいた生徒の子にチケットの確認をお願いする。けれどもその子は私たちを見るなり目を大きく見開いて固まってしまった。「…ロ、ローズ…オブ………ローズ…」
ああ、祐巳のファンなのね。
「ど、どど、どうぞ!」と確認もそこそこに通されてしまった。
警備体制が緩すぎると少し小言を言いたくもなるのだけど、私はもう薔薇さまではないのだから、と思い留まる。
それに、祐巳が微笑みを向けるものだから、彼女は舞い上がってしまってそれどころではないようであった。
「…やっぱり、少しは祐巳を変装させるべきだったかしら」
そんな様子を見て、由乃が呟いた。
確かに、どちらにしろ私たち二人も一緒に居るのだから、バレてはしまいそうなのだけど、今よりは人目を集めなかったかもしれない。
ここで滅多な事が起こるとは思わないけれど、昨日の祐巳を見てしまった後だと、些細なことでも祐巳の負担になるのではないかと警戒してしまうのよね。
「…えっ?何言ってるの。私ちゃんと帽子は被ってきてるよ?」
……。そうね、瞳子ちゃんが誕生日にプレゼントしてくれたという帽子。朝、福沢家を出る前に祐巳が嬉しそうに教えてくれたから、覚えているわ。それに、白くてふわりとしたその形はとても祐巳に似合っている。けれどね、それは全く変装になっていないのよ祐巳。
歩みを進める度に視線が止まり、あちこちから上がる黄色い歓声。
私や由乃にも声は掛かるのだけど、断トツで多いのは祐巳である。
「ごきげんよう、祐巳さま」
「ロサ・キネンシス!これ受け取って下さい!」
祐巳は一つ一つに優しく丁寧に応えてしまうから、私も私もと、次々と人が集まってきてしまう。
ただ、ここには祐巳に悪意を抱く子なんて皆無という点では安心なのだけど——、祐巳はたぶん今、結構無理をして笑顔を振りまいている。
それに、様々な屋台や出店からの差し入れは流石にもう両手でも抱えるのが大変そう。
それを見て取った由乃が「ごめんなさい。色々と見て回りたいの。もう差し入れは十分よ」と。
その見た目の可憐さを最大限利用した雰囲気と声音を纏い、少女たちの庇護欲を煽る。それを受けて、申し訳ありませんと颯と進みやすいように距離をとる彼女たち。私は少々呆然と由乃を見てしまったけれど、…流石ね。近寄りがたいオーラを出すのは私も得意であることを思い出した。
意図して、由乃に倣い、外に立ち並ぶ屋台をようやく抜けきった時
「——お姉さま!」「志摩子さん!」
瞳子ちゃんと乃梨子がこちらへと駆け寄ってくる。
由乃が「菜々はなんで来ないのかしら、全く!」なんて怒っているけれど、担当の仕事があるのだろう。
というより、この子たちは、こちらに来る暇なんてあったのかしら。
「…乃梨子」
「あっ、違うよ!ちゃんと休憩時間なんだよ、今」
心配になって尋ねようとしたら、名を呼んだだけで、乃梨子が答えをくれた。この子は本当に私の考えを読み取るのが上手ね。
「お姉さま、来て、頂けたのですね…」
瞳子ちゃんが、目を細め優しい眼差しで祐巳を見つめていた。
「…瞳子……」
けれども祐巳は、眉を下げてどこか気まづげにしている。
いつもなら、祐巳の方から駆け寄って行ってじゃれ合う二人を拝めるのに。
——そのまま、清閑な雰囲気に覆われそうになった時……
ぱん、とすぐ側でこぎみのよい音が鳴る。
「じゃあ、瞳子ちゃんがいる事だし、しばらく別々に行動しましょうか!」
由乃が手を合わせて明るく宣言する。
祐巳はなんとなく頼りない目で私と由乃の方を見遣ってきて、気づいてはいたけれど、その方が祐巳のためだからと、縋られる瞳になんとか素知らぬふりをして「そうね」と私も由乃に賛同した。
こうして、私たちは一旦別れまた休憩時間が終わる頃に、三年椿組の前で集合ということになったのである。
「私は菜々の教室に行ってくるから!」
途中まで私と乃梨子と共に歩いていた由乃もそう言って離れて行った。
「ふふ、私も乃梨子とのデートを楽しむことにしようかしら」
乃梨子を見つめて言うと、彼女の顔は真っ赤に染まる。
乃梨子の妹を差し置いて独り占めできる機会を楽しまなければね、と私は祐巳のことが気掛かりでありながらも、一旦は姉妹水入らずの時間に集中することにしたのであった。
(2)
瞳子は、二人っきりになってからと言うもの黙りと隣を歩くその人に目を向けた。
表情に覇気がなくても、綺麗なことには変わりなくて、翳る瞳の奥に吸い込まれそうになる。
「…お姉さま、お会いするのはお久しぶりですわね」
「うん、ごめんね瞳子…」
週刊誌が出てから今日までの約一ヶ月。
今も、あまり目を合わせようとはして頂けない。
まるで私の一挙手一投足に怯えているかのような祐巳さまのお姿は、それを向けられて哀しいと思うより先に、脆く痛々しくて、見ていられない。
最初こそ、お忙しいと言う祐巳さまに対して、記事への対応もあるし、お仕事も精力的に取り組んでおられるようだったから、瞳子に割く時間もないのかもしれないと遠慮していた。
それが、どうも避けられているようだと気づくのにそんなに時間はかからなかった。祐巳さまは、演技がお下手だから……。
私が傷つかなかったと言ったら嘘になるけれど、そんな事よりも日々目に映る祐巳さまが儚くなっていくことが心配で心配で自分が挫けている場合ではなかったのである。
外に連れ出すのは不安があるけれど、リリアンならば、ここの生徒たち、特に二、三年生は、『ユミ』さま以前から祐巳さまを知っている。みんな祐巳さまのことが大好きなのだ。それを感じてもらいたい。
それにーー…。
瞳子が見上げた先にある白色の帽子…。
ちゃんと約束を覚えて下さっている。それならば、私は大丈夫だ。
「お姉さま!悪いと思うのでしたら、今日一日、しっかり穴埋めして頂きますよ。仕方ないので、それで許して差し上げます!」
多少強引に祐巳さまの腕を引く。
「…と、と瞳子!??ちょ、ちょっと待って」
突如として飛びついた私に、祐巳さまは慌てふためくけれど、待ってなんてあげられませんわ。私は一刻も早く、お姉さまにあのお日様の笑顔を取り戻してほしい。
祐巳さま、見ていて下さい。
瞳子だって、祐巳さまを支えられる存在になりたいのです。
貴女が、私に弱音を吐くことが出来ないのは、私がまだそこまで頼れる姿をお見せしてこなかった所為でしょう。
——だから、お見せ致します。
——貴女の繋いだ奇跡を。
——咲かせ続けている私たちを。
(3)
瞳子に腕を引かれ、まず連れて来られた場所。
それは、沢山の思い出が詰まっている、薔薇の館だった。
ただ、例年の学園祭時とはこの場所の様相が全く異なっていた。
「紅薔薇さま!ごきげんよう」
「まあ!祐巳さまもご一緒ですのね」
「紅薔薇姉妹を拝めるなんて運がいいわ」
「祐巳さまって、あの、伝説の……」
「祐巳さま!瞳子さん!」
この日は閑散としているはずのこの場所が…、
人で、溢れていた。
「どうですか?今年は学園祭時にも休憩スペースとして開放いたしましたの」
瞳子が横から説明を入れてくれる。
「もちろん、無人という訳ではありませんわよ。開放時間は山百合会の劇の準備時間まででして、その間は山百合会の内の誰か一人はこちらに滞在しております。……確か、今は…」
入り口の扉を開け、木を踏みしめる音の鳴る階段を一歩一歩登る。
下りてくる生徒とすれ違う度、挨拶を交わしながらも、重量に耐えられないのではないかと、内心冷や汗ものだった。
ビスケット扉を引く、すると、目の前に広がっていたのは——
「あら、ごきげんよう。祐巳ちゃん」
「…ロサ・キネンシス…?」
そこに優雅に座るお姿に、懐かしい記憶が蘇る。
「ふふ、違うわよ。今の紅薔薇さまはあなたの隣にいるでしょう?」
「…瞳子」
…そうだ。瞳子と、菜々ちゃんの妹だという一年生の子がいる。
それに…、
「曾孫まで立派に育っていてくれて、私も鼻が高いわね」
蓉子さまの周囲には、楽しそうに談笑を交わし合うリリアンの生徒たち…それだけではなくて…学園祭に訪れた人々の姿もある。
とても、嬉しそうに微笑まれる蓉子さま。
薔薇の館は、あのバレンタイン企画から、着実に、蓉子さまの描いた場所へと進化を遂げていた。
「祐巳ちゃん?何時までそこに立っている気?こっちにいらっしゃいな」
蓉子さまが私を手招きする。
呼ばれるに従って、お側の席に腰掛ける。瞳子は、少し離れて、訪れた生徒たちの相手をすることにしたようだった。
「蓉子さま…今日はどうして…」
しばらく、蓉子さまは、窓の外や室内を見渡しながら静かに紅茶を嗜まれているだけで、私に何かを話しかけるということもなかった。
そこには、穏やかで落ち着いた空気が流れている。
私は自分の問いに思い当たる節があるから、少し緊張していたのだけど……。
「……ふふ、毎年毎年、OGが訪れるなんて、そろそろ煙たがられちゃうかしら」
彼女は、そっと瞳を閉じたかと思うと、徐ろに口を開いた。
「そんなこと…ありませんよ」
「そう?…まあ、この薔薇の館なら、どんな人をも受け入れてくれるでしょうね」
確かに、蓉子さまも違和感なく馴染んでおられるし、私も居心地の良さは感じている。でも…蓉子さまが今日ここにいる目的は…きっと…。
「…祐巳ちゃん」
祐巳は、俯いて、ぎゅっと瞳を閉じる。
「…ありがとう」
責められることを覚悟して。…え?
「ふふ、私が、あなたを叱るとでも思った?」
…図星だった。…祥子さまとのことがあるから。
「私はね、祥子のことも、そしてこの光景にも、あなたに感謝しているのよ」
…なぜ?
「意味が分からないかしら?…ふふ、貴女達は少々突っ走りすぎてしまう所があるから、心配は尽きないのは確かだけれど…」
耳が痛い。やっぱり、この方にまで心労をかけてしまっている。
「でも、それは、お互いに本気で向き合っているからでしょう?」
それなのに、蓉子さまが向けるのは、慈愛に満ちた笑み。
祐巳は、理解が追いつかなくて、言葉が出ない。
「祥子の喜怒哀楽をここまで引き出せるのは、祐巳ちゃんくらいよ」
…でも、今の私がやっていることは、祥子さまを煩わせてばかりで、褒められるようなことではない。
「できれば、喜と楽の方を目に入れていたいけれど、それだけじゃ…きっと成長はないのでしょうね」
「…それは、どういう…」
どういう意味か気になった。
祐巳の凡庸な頭では、蓉子さまのお考えは中々飲み込めない。
「祐巳ちゃんなら、気づくことが出来ると信じているわ」
けれど、蓉子さまから確たる答えは頂けなくて、そのまま微笑みで言葉を躱されてしまった。
釈然としないまま、手持ち無沙汰に、目の前のカップに注がれた液体を見つめる。まだ、一つも口をつけていなくて、なみなみと注がれた水面に浮かぶのは、情けなく顰められた自分の顔。
「…まあ、なかなか隠居させてくれないのは、ある意味、私に対する孝行なのかしらね…」
ポツリと零された言葉、祐巳がえっ?と顔を上げると
「お姉さま、そろそろ次に向かいましょう!」
ちょうど、瞳子が真横から声をかけてきた。
蓉子さまの言葉に思いを残しながらも、瞳子に手を握られ、蓉子さまに手を振られて、薔薇の館を後にする。
その後も次々と各部活、同好会、クラスの展示、休む暇もなく、回れるだけ回るのだと言う瞳子の意気込みとともに足を運んだ。
各々の滞在時間は短い。
それでも、どこも暖かい雰囲気で私たちを歓迎してくれる。
瞳子が、リリアンの生徒たちと上下関係なく、ここまで打ち解けていたことに驚いた。
あの、強がりの仮面を貼り付けがちだった、瞳子がー…。
「…瞳子、すごいね。頑張ったんだね…」
瞳子は成長している。
私なんていなくても、強く、大きく…。
誇らしさと同時に宿るのは、耐え難い寂しさ。
そんな弱い自分が情けない……。
「…お姉さま、何を勘違いなさっているのか知りませんが、」
瞳子の眉がつり上がった。怒らせてしまったのだろうか。
「私がこうなれたのは、お姉さまの姿を見ていたからです」
え?
「祐巳さまに追いつきたい。祐巳さまに相応しくありたい。だから、私は必死で祐巳さまの後を追いかけているんですわ」
もう、言わなくても分かって頂けると思いましたのに!と瞳子が頬を膨らませて抗議してくる。
でも、私は、言われた言葉の衝撃が大きくて…。
「…え?わたし…?」
瞳子が顔を顰める。
「…何度も、言わせないで下さい。私が成長したというのなら、それは祐巳さまのおかげです」
そして、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
……そんな、だって、私なんて平凡で…何も特別なものは持ってなくて……
「…そろそろ時間ですわね」
茫然としたまま、また彼女に腕を引かれる。
立ち止まった場所は、椿組の前で由乃と志摩子がすでに私たちを待っていた。
瞳子は演劇部の準備へと行ってしまう。
「祐巳、何、ぼけーとしているの?」
「演劇部の劇を見るのでしょう?私たちも早めに体育館に向かった方が良いのではないかしら?」
未だ放心状態の私は、由乃と志摩子に促され、ほぼ無意識のままに彼女たちの進む方へと着いて行き、気がつけば体育館に到着していた。
「あら?あそこにいるのはお姉さまね」
「本当ね。令ちゃんと…げ、江利子さままでいる…」
そんな二人の声に、ハッと顔を向けると、前方の良い位置に蓉子さま、聖さま、江利子さま、それと、令さまが座っていらした。
「というか、あの三薔薇さま毎年いらしてると有り難みがなくならないかしら?」
「ふふ、今もあれだけ存在感があるのだから、その心配は不要でしょうね」
来ていらしたのは、蓉子さまだけではなかったのか…。
それと…一通り見渡して、お姉さまがいらっしゃらないことに安堵の息を吐く。
ただ、探してしまっている時点で、心の芯の部分では求めてしまっているのだと…祐巳自身も気づいてはいた。だから、ほっとしたはずなのに、胸がチクリと痛むのだ。
私たち三人は彼女たちの真後ろ、ちょうど三席空いていたところに腰を下ろした。
「や、祐〜巳ちゃん。やっと、驚異の忙しさから解放されたのかな?」
「…聖さま」
罪悪感が押し寄せる。
忙しいと言ったって、大学がない分時間には余裕もあった。
だけど、なるべくオフィスやスタジオにいる様にして、余計なことを考えないようにしていただけなのだ。
電話に出なかったのもわざとーー…。
「ごめん、冗談。なかなか話も出来なかったから、寂しくて、意地悪言っちゃった。でも、今日会えたんだから私はそれでいいよ」
そう言って、私の頭をそっと撫でてくれる。
心地いい…。つい、この手に甘えたくなってしまうのだけど、そんな資格はない。今の状況は、自分が招いたことだから。
「ふぅ、相変わらず強情だね…」
強情?そうだろうか。みんなが、周りが私に優しすぎるのだ。
「聖、あんまり祐巳ちゃんばかり構うと、志摩子がやきもちを焼くのではなくて?」
江利子さまが、にやりと面白がるように言う。江利子さまの態度からは、本気でそれを案じているようには感じられないけれど、私は少し不安になって志摩子の顔を窺った。
だけど彼女は、拍子抜けするほど、きょとんとする。
「はは、志摩子は私と似てるから、祐巳ちゃんに対する想いも言わなくてもなんとなく分かり合えるんだよ。私が志摩子に嫉妬しないように、志摩子もそんなこと微塵も感じてないだろうね」
私に対する想いとは何なのか気になるところではあるけれど、言葉を交わさずとも理解し合える域にいる二人は素直に凄いと思う。
「あ、始まりますよ」
令さまの言葉にハッとして、居ずまいを正す。
それとほぼ同時に、舞台の幕が開かれた。
演劇部の上演。主演の瞳子。目にするのは三度目だけれど、一昨年よりも去年よりも、年を得るごとに瞳子の演技には磨きがかかっている。感動した。知らず、舞台の場面に、演じる役に魅せられて、心が動く。周りの観客も物語に惹きこまれ、集中している。
瞳子の才能と努力のなせる技。
でも、この感覚は…どこか、私にも覚えがあるー…。
不思議な感覚と共に釘付けになっていると、あっという間に、盛大な拍手と歓声に見送られ、劇はフィナーレを迎えた。
「…瞳子ちゃん。…少し、祐巳を見てるようだったわ」
「ええ、…私も、思ったのよ…」
祐巳の両隣りからそれぞれ放たれた言葉。
由乃と志摩子。長年一緒にいる親友からのそんな感想に、私は間の抜けた声を上げてしまう。
「…へ?」
「本人には、まだ自覚がないのかしら?」
「まあ、そこは…祐巳だから…」
些かあきれ気味の二人。
だけど、私と瞳子は似ていないと思う。見た目も、性格も…。
山百合会の劇まではまだ一時間ほどあった。
けれど、どこかに移動して、またこんないい席を取れるとも限らないので、私たちはそのまま舞台上の催しを観賞していくことにした。
ブラスバンド部による演奏に、社交ダンス部による華麗な舞。
どれもレベルが高くて見ていて飽きない。
学園祭を見て回る内、祐巳はここ最近の憂いが薄れているのも実感していた。今日のこの賑やかで暖かい場所だけの事かもしれないけどとは思いながら。
そして、ついにお待ちかねの山百合会の出番。
幕が上がる。
私は、演目を聞いてはいなかった。
手元のしおりによると、題目は『薔薇姫』
「元は人魚姫か、考えたね…」
斜め前からの聖さまのつぶやき。
人魚姫……。すぐに見抜けるなんて流石だななんて感心してしまう。
でも人魚姫って、最後には愛ゆえに自ら泡となって天国に行ってしまう悲しい話ではなかったかな。たぶん、アレンジはしてるんだろうけど…。
そんな要らぬ心配を抱きつつも、劇に意識を向ける。
薔薇姫はある森の奥深くにある
「花の民の国」の王女。
花の民の国の宮殿には紅白黄様々な種類の薔薇が咲き乱れ
そこには、王とおばあさま
そして、六人の王女が暮らしている。
薔薇姫は六人の王女たちの末娘。
王女たちは十五歳になったら、人間の世界を見に行くことを許される。
薔薇姫がその歳になり、背中の羽で空を飛び、森を散策していた時、
人間界の王子が山の中で倒れていた。
それは、とても美しい王子で姫は彼に一目惚れをした。
このままでは誰に見つかることもなく死んでしまう。
姫は王子を抱き抱え、その羽で麓近くの街にまで運んだ。
しかし、王子が目を覚ました時
ちょうど通りがかった街の娘が心配そうに介抱していた。
自分を救ったのはこの子だと勘違いした王子。
薔薇姫は王子のことが忘れられず、地上で人間として暮らしたいと思うようになる。
そしてついに人間となるべく魔女にお願いしに行く。
その代償は、美しい声。
しかも、王子がほかの女性と結ばれると、その次の朝、
薔薇姫は空気に溶ける光となって消えてしまう。
魔女からもらった薬を飲んだ後、街の外れで倒れていた姫を
王子が発見して助ける。
王子は姫を妹のように可愛がるが恋愛の相手としては見てくれない。
そしてとうとう、王子の結婚が決まる。
相手はあのとき王子を助けたと思い込まれている娘。
薔薇姫は自分が救ったのだと言いたくても言えないことに絶望する。
そんな時、姉の薔薇姫たちが表れ、姫たちの髪と引き換えに魔女から預かった短剣を差し出し、朝日の最初の光が差す前に
王子の胸にナイフをつき刺せば、姫は薔薇の精の姿に戻れると伝える。
眠っている王子に短剣を構えるものの、姫は愛する王子を殺すことができず、自ら死を選ぶ。
部屋の窓を開け放ち、最初の光が差し込む中その身を投げ出した姫。
しかし、薔薇姫が空の中に消え行こうとしたその時
あたたかなお日様の光がその体を包み込み
天上から表れた天使たちがその周りを取り囲む。
そろそろ幕引きかと、思った、その瞬間——
『『『 ——— マリアさまの 』』』
———!!?
『『『 こころ それは あおぞら—— 』』』
一斉に、四方八方から響きわたる、声。
『『『——わたしたちを つつむ ひろい あおぞら——』』』
愕然と、何が起こったのか、暫し、困惑する。
え?!……でも、
これ…は……。
それでも会場を覆うあたたかさ、自然と心に染み渡る想い。
———とうこ。
「——凄いわね。…去年の祐巳ちゃんの想いが……山百合会の積み重ねたバトンが…しっかり、受け継がれているのよ……」
蓉子さまの重みのある言葉。
歌声で一つになる体育館。
それだけではなく、会場に入りきらず溢れ出した廊下からも。全校生徒の大合唱…。
瞳子が私に見せたかったもの…は、この光景
リリアンの少女たち皆んなが、皆んなで、見せてくれたもの……。
「私たちも混ざろうよ!傍観者なんて嫌だな」
そう言って、歌い出した聖さま。
そうね、と言って続く蓉子さま。いつの間にか、江利子さまや令さまも。
そして、そっと両肩に感じる二つの温もり。
「——祐巳」
由乃…志摩子——。
胸の痞えが、溜まっていた何かがツーーと頬を伝い、流れ落ちて行く。
「——うん」
息を吸って、それは本当に久しぶりに取り込んだ清らかな空気だった。
どこか色褪せて視えていた世界が、今はキラキラと光り輝いている。
澄んでゆく視界に映る、人々の表情、笑顔…。
なぜ、忘れていたのだろう。
歌の暖かさを、心躍る力を、大好きなこの気持ちを——。
『・・・、————っ』
(祐巳…!)
(祐巳ちゃん…!)
(祐巳さま…!)
『———マリアさまの こーころ それは ———』
体育館にお日様の光が射す——。
更に熱量を増し、あたたかさに包まれる会場。
本当に祐巳を愛し、歌声と魅力に惚れた人々が多くいる。
そんな彼ら、ファンが
待ち望んだ、愛と希望の響き。
それは、本来の『ユミ』がやっと垣間見えた瞬間だった——。
(4)
『薔薇姫』の結末はというと、姫の清く美しい心に感動した女神さまが、彼女に手を差し伸べ、声も姿も元のように戻して下さる。
その代わり、その美しい声と心で、人々に癒しを与えなさいと。
こうして薔薇姫は毎日、歌を口ずさむようになり、たまたまそれを耳にした隣の花の国の王子と結ばれ、幸せに暮らすのだ。
…めでたく、ハッピーエンドである。
昂ぶる気持ちと決壊した感情の波。
何も言わず、静かにそれを見守ってくれた仲間たち。
ようやく、少し落ち着いて
瞳子たちを出迎えようと体育館の隅に移動した時
「——祐巳ちゃん。会いたかったよ」
後ろからかけられた声に、パッと振り返る。
「…っ柏木さん!?…来ていたんですか?」
いつぶりだろう。
彼とは大学生になってから、まともに会った記憶がない。
「うん、ギリギリね。大合唱を拝むことは出来たよ」
わざわざリリアンに。
おそらく、彼を誘ったのか、もしくは彼の方から頼んだのかは分からないが、瞳子にチケットを貰ったのは間違いない。
——・・どちらにしろ、話しかけてきたということは、私に用があるのかもしれない。……祥子さまの、ことで。
それから、ちょっといいかな?と人の喧騒から外れようとする柏木さん。聖さまが彼に突っかかろうと威嚇するけれど、蓉子さまにそっと肩を抑えられ、仕方ないなとこちらを見遣る。
聖さまの私に向ける眼差しはとても優しい。
「祐巳ちゃんに、変な手出ししたら…許さないからね…」
柏木さんは、ハハッ怖いなあと全く恐れた様子も見せないで、それでも真剣な表情になり
「君たちと、さっちゃんに誓って」
とはっきりと言い切る。
そんなセリフに、祐巳の心臓はドクンと反応する。
——お姉さま・・。
柏木さんの後に続き、体育館の裏手、すぐ近くでは騒めく人々の気配を感じるのだけど、ここは死角になっているために気づかれることはない。
さて、と言う言葉と共にくるりと私に向き合った彼の態度は至極真面目で真摯なものだった。
「…僕だけじゃなくて、祐巳ちゃんも最近凄く忙しいようだったから、やっと話す機会が出来て良かったよー…」
確かに、柏木さんがどれ程時間が取れない状態なのかは分からないけれど、お姉さまの様子から鑑みるに彼がそれ以上の立場にあるのだとしたら、祐巳と時間を合わせる事などほぼ出来なかったであろう。
「瞳子に、感謝しないとね」
瞳子——。私を今日ここに誘ってくれたのは瞳子だった。
最初は、事務所の人たちも含めてきっと皆んなに心配をかけるから断ろうと思った。でも、瞳子があまりにも必死にお願いしてきて——。
「皆んなに率先して声を掛けたのは、瞳子なんだよ」
薄々、予感はしていたけれど、やっぱり、そうなんだ…。
——瞳子、本当に…ありがとう……。
胸に湧き上がる、愛しい想い。
「…瞳子の目的は、ちゃんと果たされたようだから、一先ず安心かな」
柏木さんが私に向けて安堵の笑みを浮かべている。
「…私は、本当に、視野が狭まっていたみたいですね…」
皆んなの気持ちも跳ね除けるほど、自分の世界に囚われてしまっていた。
「反省も必要かもしれないけど、それより祐巳ちゃんが前を向いてくれたなら、皆んなそれでいいんだよ」
柏木さんは気にするなという。
確かに、もう落ち込む姿を見せて心配させることはしたくない。
「…今日はね、もう一つの祐巳ちゃんの懸念をなんとか解いてあげたいと思ってね…」
私の懸念。歌手の道への不信以外に
……そんなのは、彼女のことしかない——っ。
「…君は、さっちゃんに負担をかけていると思ってるんだろうけど、それは違うよ」
やっぱり、お姉さまのこと。
でも、実際に祥子さまは私のために、自らを犠牲にしようとした。
「祐巳ちゃんが、さっちゃんや瞳子の存在が力になっているように、さっちゃんだって祐巳ちゃんがいるから頑張れるんだ」
それは、本来しなくていい苦労なんじゃないだろうか。
「君と出会う前のさっちゃんだったら、きっと今みたいに自らの意思によって、望む方向に成長しようなんてしなかっただろうね」
祥子さまの意思?なんの話だろう。
「小笠原の一人娘として、ただ言われるままに望まれるままに従って、応えて、いつかは親の決めた相手…昔だったら僕だね…と結婚して家庭に入る。それが、課せられた義務であり責任だと…」
財閥の一人娘。祥子さまの背負うものは祐巳には想像がつかなかった。でも……お姉さまに、自由がないなんて、そんなのは、嫌だ。
「それが、君のおかげで、今のさっちゃんは存分に自分の能力を発揮しようとしている。義務と責任だけに縛られるんじゃなくて、そこにはちゃんとさっちゃんの想いがある」
祥子さまの想い……。私は負担なだけではなかった……?
「…たまに、行き過ぎてしまいそうな時もあるけど、その時は周りが教えてあげればいい。さっちゃんは冷静になればちゃんと理解するよ……今回のことも……」
確かに、距離を取ったのは、私が逃げたかったからだ。
今なら、もっとしっかり向き合えるかもしれない。
「だから、祐巳ちゃんはさっちゃんの枷なんかじゃない。その枷を外す鍵なんだよ。さっちゃんを見放さないで」
———!!
祐巳の瞳に力が篭る。
「——私が、お姉さまを見放すなんて、あり得ません」
まだ、問題が残ってますが、祐巳ちゃんの心は一応復活しました。
私の中で、マリみては学園祭なんですよね。
だからきっと、学園祭のシチュエーションが好きなんです。
しかし飽きられてないか不安ですね…。