(1)
四日目の朝。
瞼を開けても部屋の中は薄暗く、束の間、時がわからなくなった。
起き上がり、カーテンを引くと、静かな雨粒が窓に打ち付けている。
激しさはないものの、これは止まない雨だろう。
瞳子は物憂げな表情で空を見上げた。
雨が嫌いというほどでもないのだが、祐巳さまと祥子さまも一緒にいるためか、瞳子の胸の内には、あの梅雨の日の罪悪感が自然とこみ上げるのであったーーーー。
「へえー!じゃあお兄さんを手伝ってるんだ」
「はい…兄は忙しい父に変わって私の面倒をみてくれていましたので、どこへ行くにも一緒だったんです。そしたら自然とお仕事にも関わるようになっていまして、アシスタントみたいなものです」
「私より年下なのに、尊敬するよ〜」
「そ、そんな大したことないんです!趣味みたいな感じで…、それ以外に楽しいと思えることがなかったですし…」
「なかった…てことは今はあるのかな?」
「リリアンに通い始めてからは、学園での時間も楽しめています」
「そっか、私としてはそう言ってもらえるとすごくうれしいよ」
「祐巳さんっあっっ!祐巳さ…まのお陰です!」
「ふふっ!リリアンの外では呼びやすいように呼んでいいよ」
「あ、あの…では、…祐巳さ…んと」
「うん!」
瞳子が勝気な瞳で見つめる先には、相好を崩して親しみ溢れる様子の祐巳さまーーーと、頬を赤らめ懸命に祐巳さまに応える少女、綾芽ちゃん。
なぜこんな状況になっているかというと、話は数時間前に遡るーーーーー。
「令たちは明日の昼頃に来るそうよ」
朝食を食べ終え、広間で寛いでいる時、祥子さまはそう言って食後の紅茶を口に運んだ。
「わー!志摩子さんや由乃さんたちもですかー?」
「ええ、令に電話で確認したら、向こうから日時を提案されたわ。
皆の予定を調整済みだなんて、完璧な確信犯よね」
「あははっ!令さまにお会いするのは卒業以来ですし、楽しみだな〜」
祐巳さまはいかにも嬉しそうに頬を綻ばせている。
「そうね、私も志摩子や由乃ちゃんたちと会うのは卒業以来だから、いろんな話を聞きたいわ」
「お姉さまは菜々ちゃんに会うのは初めてですよね。きっと由乃さんが張り切って紹介しますよ!」
「うふふ、楽しみね」
もちろん瞳子にとっても心弾む予定に、自然と気分も上がる。
二人の会話に和かに相槌を打って参加しながら、乃梨子は元気かしら?などと明日に思いを馳せていると、祥子さまが話を切り替えた。
「ところで、今日の予定なのだけれどーーー」
ーーーそして、その予定というのが、綾芽ちゃんを一日預かることだった。
高岡の兄妹は、私たちとほぼ同じ日程でこちらの別宅に滞在しているのだという。ただし、こちらを拠点にあちこち飛び回っているそうで休暇と言えるかは怪しいものだ。
普段は綾芽ちゃんも彼に伴うようなのだが、今日は連れて行けない場だとかで、暇を持て余すだろう妹のために小笠原家にお願いしてきたらしい。
あの高岡涼平という男は、祥子さまのお父さまと懇意にしており、祥子さまも面識はあるとおっしゃっていた。高岡と小笠原、ともに日本を支える財閥の人間同士、交流があることに不思議はないけれどーーー。
瞳子は何かの意図を感じずにはいられなかった。
ふと祥子さまを見やると、彼女は気にした風もなく相変わらず読書に興じている。
「…祥子お姉さま、少しよろしいですか?」
「どうしたの?瞳子ちゃん」
「つかぬ事をお伺いしますが、」
瞳子はどうしても気になって祥子さまへ訊ねることにした。
「…高岡さまは、祐巳さまのことで祥子お姉さまに何かおっしゃったりはしていないのですか?」
すると祥子さまは不思議そうに頭を傾けた。
「祐巳に?彼は祐巳とは面識がないし、お父さまとは違って私自身はお会いした時に挨拶を交わす程度なのよ?どうして?」
瞳子は先日の出来事を言うべきか否か迷った。
しかし言うにしても、具体的に何か困ったことがあるわけではないし、高岡が祐巳さまを気に入っているらしいなどと伝えたところで、祥子さまに何をどうしろというのか、瞳子にも分からない。
今はただ徒らに不安を煽るだけだと結論付けて、瞳子は曖昧に返事をした。
「いえ、綾芽ちゃんがリリアンですし、お話に上がることもあるのでは、と思っただけですわ」
「そう」
祥子さまは若干訝しげにしながらも、取り敢えずは納得したようであった。
気づけば、祐巳さまと綾芽ちゃんは更に会話が弾んでいて、綾芽ちゃんの「祐巳さん」が自然になっていたーーーー。
「あははっ!綾芽ちゃんってけっこう変わってるんだね!」
「ゆ、祐巳さん、笑わないで下さい」
「あは、はっ、ふぅー…。ごめんね!馬鹿にしてるんじゃなくて、感心してるんだよ!」
「あっ、えっえーと…私なんて、祐巳さんに比べれば全然面白みのない人間です…」
「…綾芽ちゃん。それって私のこと馬鹿にしてるよね」
「えっ⁈誤解です!私は祐巳さんのことは敬愛してます!」
「けっ敬愛って!あははは大袈裟だな〜もう」
楽し気に言葉を交わしながら二人が眺めているのは、綾芽ちゃんが持ってきた写真集だった。写真集とはいっても祐巳さま(盗撮)写真集なのだがーーー。
綾芽ちゃんが盗撮していたのはなんと祐巳さまの気づいた一回のみではなかった。その後はばれないよう細心の注意を払っていたのだという。
写真集が出来上がるほどなのだから大したものである。
「あの、私、ちゃんと謝らないとと思って、持ってきたんです…」
「本当にごめんなさい」
「なるほど、自首しに来んだね、偉い偉い」
「許してもらえますか?…あの、もし本当に駄目でしたらこちらは処分いたします…たぶん…うっ…します、」
「んーー、恥ずかしいけど、どこかの誰かさんも同じようなことしてるからな〜。黙認します!」
「!!っうう〜〜良かったです〜〜〜」
「っぷ!あはは…それにしてもコレ凄いねプロの写真集みたいだよ」
綾芽ちゃんの祐巳さま(盗撮)写真集はこちらからチラッと垣間見た限りでも相当レベルが高いように見える。
「あ、あの一応カメラマンとしてもやっていて…」
「えっ?本物のプロなの?」
なんと、プロみたいではなく、プロであった。
「と、といっても、気の向いた時だけで、そんなちゃんとしたものではないんです」
「充分すごいよ!!じゃあこれタダでプロの人に撮ってもらったってことだよね!得した気分〜」
祐巳さまは興奮気味に綾芽ちゃんに笑顔を向ける。
「祐巳さんならいつでも…。…あの、いつか、盗撮ではない写真集を撮らせて下さい」
その言葉に、瞳子は息を飲んだーーー。
「え〜恥ずかしいよ〜でもうれしいな、ありがとう」
祐巳さまは何にも違和感を感じていないようだったが、瞳子にはその言葉が彼女を絡めとる鎖のように感じられた。ーーー祐巳さまを連れて行かないでーーー。
二人の親しい光景を直視できなくなり、瞳子はひっそりと席を離れたーーー。
日が暮れ始めると、高岡家の使用人が綾芽ちゃんを迎えにきた。
綾芽ちゃんは私たちに丁寧にお辞儀をすると、去り際に「これからも仲良くしていただけますか?」と明らかに祐巳さまに向かって問いかけるーーー。それに微笑みと共に頷く祐巳さまを確認して、彼女は溢れる喜びを押し隠すこともなく心底満足気に帰って行った。
それを見てまた、瞳子の胸はつきんッと痛んだ。
(2)
夕食の席。
「……はぁ」
瞳子は無意識のうちに溜め息を吐いていた。
向かい合って食事をしている祐巳さまがそれに気づかないはずもなく、心配そうな眼差しを向けられる。
「瞳子?どうしたの??」
「なんでもないですわ!…食事中に申し訳ありません」
瞳子はしまった、と内心で焦る。
しかし、祐巳さまは見逃してはくれないーーー。
「溜め息をついた理由があるでしょう?何か気になることがあるなら、隠さないで話してほしいの」
ーー理由、理由ならある。けれど、己の幼い嫉妬心を本人に直接説明するのは恥ずかしいうえに、言われた方も困ってしまうだろう。
「いえ、お姉さま。少々疲れが出てしまっただけですわ」
「…瞳子〜〜?そんなので私を誤魔化せると思わないでね?」
この方は、普段間の抜けたようなことをなさるのに、どうしてこういう時ばかりは鋭いのだろうかーーー。
「勘ぐりすぎですわ。勝手に私を嘘つきにしないで下さいませ」
瞳子は少し突き放すかのように口調が強くなる。
「瞳子!私を馬鹿にしないでね、これでもあなたの姉なのよ!」
何を言ってもなかなか解放してくれない祐巳さまに、なぜ、嫉妬した上に叱られなければならないのだろう、と瞳子は段々と惨めな気分になり、つい鬱屈とした気持ちのままに想いをぶつけてしまうーーー。
「そうですわね!祐巳さまには私のことなんてなんでも見抜かれてしまうのでしょう!でしたら、言わずとも、私の嫉妬に気づくはずですわ!ああ、つまり、わざと綾芽ちゃんとの仲を見せつけていたんですわね!」
「瞳子ちゃん」
瞳子を冷静に戻したのは、祥子さまの冷えた声だった。
ーーーはっ、として祐巳さまを見ると、呆然とこちらを見つめていた。
「ごめんなさい…お姉さま…」
祐巳さまを傷つけたであろう己の浅はかさに居た堪れなくなり、瞳子は逃げるように席を立ち自室へと駆け上がって行ったーーー。
(3)
トントン、と部屋の戸を叩く音がする。
瞳子はハッと身を起こし、慌てて扉を開くーーーしかし、そこに居たのは瞳子の予想した人物ではなく、祥子さまであった。
「…祥子お姉さま」
「少し、いいかしら?」
「はい」
「祐巳なら今、お風呂に入っているわ。上がったらこちらに来ると思うわよ」
想い人とは違ったことへの落胆が態度に出てしまっていたのだろう。急いで取り繕ったつもりだったが、ふふっと笑われてしまった。
祥子さまの気遣いに瞳子も少しだけ心が軽くなった気がする。
瞳子は祥子さまを招き入れると、机の側の椅子を勧め、自分はベッドに座る。落ち着いたところで彼女が話し始めた。
「綾芽ちゃんのことを気にしているのなら、それは思い過ごしよ」
祥子さまは自信ありげに断言なさるが、瞳子は素直に言葉を受け取ることができない。
「ですが、あの子は祐巳さまと知り合って間もないというのに、すでにお互い信頼し合っているように見えましたわ!」
瞳子は余裕のなさから少し語義を荒げてしまう。
「それがどうしたというの?」
「は?」
「確かにあの子のことは祐巳も気に入っていると思うわ、」
その言葉を聞いた瞬間瞳子は思わず俯いてしまう。
「だからといって、あの子が私や瞳子ちゃんに取って代わる存在にはなり得ないのよ」
「祐巳にとって、大切な友人が一人増えるってだけよ。あなたは山百合会の皆や祐巳の級友にまで嫉妬するつもり?」
まさにその通りだった。瞳子だって、祐巳さまが友人と楽しげにしているところを見て微笑ましいと眺めれど、嫉妬することはない。
では、どうして綾芽ちゃんが相手だと心が締め付けられるのだろう。
「…祥子お姉さまの…言う通りですわ」
絞り出すようにしてそう答えると、彼女は呆れたように訊ねる。
「なぜ、そこまであの子にこだわるの?そういえば、お兄さまのことも気にしていたわよね」
ーーーそうだ。瞳子はあの子の兄の言葉が、存在が、恐ろしいのだ。
だから、綾芽ちゃんと祐巳さまが親しくするのを見るとまるであの男と祐巳さまの距離が縮まっているようで、どうしても嫌悪感を抱いてしまう。
瞳子が黙りこくっていると祥子さまは諦めたのか、最後にくぎを刺した。
「まあ、いいわ。けれど、この事で祐巳を責めるのは間違いよ。それから、あなたが自分を卑下することも。あなたの穴は私でも埋められないの。もちろんその逆も然りだけれどね」
「分かっていますわ」
瞳子が僅かに微笑んで了承するのを見ると、祥子さまは気遣わしげに部屋を後にした。
暫くして、祐巳さまが瞳子の部屋へと訪れた時には、瞳子はもう彼女に当たる気は起きなかった。
部屋に入った祐巳さまに真っ先に謝られたが、瞳子はそれにも遣る瀬無さを感じた。
祐巳さまは悪くないのだと己の否を謝罪して、瞳子の隣に腰掛けた祐巳さまと軽く談笑を交わす。
何事もなかったかのように振る舞えていたーーーーーはずだった。
ふ、と間が空いた瞬間、垣間見た祐巳さまの瞳は、力なく揺れていた。