ぷらいべったーに投稿したターレルです

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帝国敗戦から数年後のレルゲンさんの話。ターニャさんはすでにこの世にはいません。


ウヰスキーに咲いた薔薇

 終戦後、行方知れずになっていたアーデルハイト・フォン・シューゲルから渡したい物があるという連絡を貰った。敗戦からの復興も鈍足ながら進んでいる矢先、戦犯を受けた私が収監先からようやく出所できた数日後のことだった。

 元帝国軍技術開発部主任技師の彼は、ターニャ・デグレチャフしか扱うことが出来なかったとされるエレニウム九五式を開発した人物だ。

 

「おはよう」

 

 変わらぬ朝が私の掌に、一滴の冷たさを落としてきた。敗戦から数年経とうとも、色彩のない風景がいつも通りに私の朝になっている。窓を開け、返答のない灰色の雪に挨拶をする。

 白濁りの呼気が眼前を満たしたが同時に愛煙を恋しく思った。禁煙には成功しているが、それもいつまで続くか分からない。

 今日は、度数の合わなくなった眼鏡を新調する予定を立てた。冷水で顔を洗い、目覚めの常温シャンパンを喉に流し込めば眠気は逃げてくれる。

 外出の準備をしていると、黒猫が何処からか入り込んでいたことに気付き、何時もの場所に置いてある皿にミルクを注いだ。

 私が飼っているわけではない。他所で飼われているらしく、首輪のリボンは見るたびに色が違う。三日に一回はこの部屋を訪れて、勝手に狭い寝台を温めてくれている。その礼にミルクを与えているが、一向に懐いてくれる気配は無かった。

 一度、気まぐれに名を呼んでみたことがある。なんとなくだった、ターニャ・デグレチャフと猫の方へ声を掛けたのは。しかし猫は鍵尻尾をゆるりと動かしただけ。もう一度、今度はターニャ、と呼んでみると、猫は私の方を見たのだ。

 振り向いたその目の色は、青空のパレットが映り込んだのか、彼女の目の色にそっくりだった。今では時々、ターニャと呼ぶとしぶしぶ鳴いてくれるが、甘えて擦り寄ってくることはない。顔の知らない飼い主に忠実なのだろう。

 

「今日は、出掛けるのは止そうか」

 

 シャツに紺色のセーターを羽織り、臙脂色の外套に手を掛けたところで、私は今日の外出を中止した。猫がミルク皿を空っぽにしたことを確認し、ベランダから外へと追い出す。視線を感じたのだ、その猫を追い出せと、奥の書斎から。

 狭い書斎に空気を取り込もうとドアを開けていたのだが、ドアの奥に居る彼女は、今日はご機嫌ななめのようだ。初雪だ、猫も寒いのだろう。

 書斎へ入り、ドアを閉めた。早朝でもほの暗い光を一切遮蔽させた部屋は、彼女の唯一の生きる場所となっている為、私以外の人間を入れることはここ何年もしていなかった。

 

「君がここに来て、もうすぐ六年が経とうとしているよ」

 

 眠る彼女の前へ腰掛け、電気スタンドを点ける。朱色の淡い光に照らされた彼女がぼんやりと現れた。ひどく冷たい、ドーム型のガラスケースに入れられた彼女が、いつもと変わらず、私にみずみずしい色を迸らせてくれていた。

 人間の体内の血は約六年で新しくなるという。彼女も、肢体をめぐらせていた青い老廃血老廃血(ふるち)が役目を終えた瞬間、また新しい彼女へと生まれ変わるのだろうか。

 待てども待てども一向にその兆しは無いのが事実ではあるが、私はその、ターニャ・デグレチャフという人物の肉体が朽ちずに、私の眼前で未だ美しく咲き綻んでいることを、ただ一人知っているのだ。

 

『生前の彼女に、死んだ際は遺体を好きに解剖していいという許可を貰っておったのだよ』

 

 数年ぶりの再会を果たしたシューゲル氏は私にそう言いながら、彼女が生前大事にしていたとされる古いロザリオと、今はもう光を灯さない彼女にしか扱えなかったエレニウム九五式を私の手に乗せた。

 心のどこかで、彼女はもうこの世には居ないのだと思っていた。別れ目には会えなかったが、互いに軍人で、あまつさえ彼女は前線を舞い踊るエースオブエース。それなりの覚悟はしていた。しかし、実際その事実を他者の口から知るとなると、それはまた別だった。

 帝国の敗戦が決定した直後、ターニャ・デグレチャフは呆気なく死んだ。病死だったと聞いている。

 その功績と栄光を尊重し、動きを止めた小さな心臓は、シューゲル氏の管理下で、半永久的に保存されることになったらしい。まあしかし、それを合衆国が許可するはずもなく、結局はシューゲル氏が彼女の心臓を持ち去って逃げ、追われている身だという。

 それ以前に彼の人ならぬ技術は今後も脅威となることは明確だ。再会した数週間後に憲兵が私の元を訪れたが、すでにシューゲルの足跡はこの国にはどこにも無かったそうだ。

 死してなお縛られるなど彼女はさぞかし嫌がるだろうな。冷めた珈琲を出しながらそう目の前のサイエンティストに言ってみたが、彼女は君に会いたがっていたからね、とまるで世間話の延長線のように言い放ち、ミルクをもう少し頼むとオーダーした。

 やめてくれ。他者の口から出ると、憶測が混じり実際の感情とはほど遠くなるのだ。あの化物がそのような人間的なことを思うはずがないと、勝手に決めつけていた私への罰なのか。手に乗せられたロザリオと宝珠が急に怖くなり、私はその日以来、二つの遺品には触れられなくなった。

 彼女の遺体から取り出された心臓は、血脈や鼓動の機能を失ってなお、彼女の並はずれた魔力が現存し、防腐処理などしなくても腐敗せず形を保っているとシューゲル氏は言う。

 そんなことあり得るはずがない、と突飛の反論をした私の目の前に、分厚い防護布から取り出されたガラスケースが置かれる。一瞬、その中には熟れすぎた薔薇(そうび)薔薇が鎮座しているのかと思ったが、そうではなかった。

 

『これを預ける。いつ枯れるか分からないからね、やはり君の側がいいだろうと思って』

 

 ガラスケースの中身から、私は目が離せなかった。今すぐにでも動きを再開してもおかしくないほどに、思わず感嘆の息を吐いてしまうほど綺麗で、水底の泥に沈むほどに冷ややかな、とても小さな彼女の心臓が、プリザーブドフラワーの専用ガラスケースの中で眠っていた。

 それから約六年、私はこの預かり物と共に暮らしている。ささやかながら安定した職にも就き、何度か恋人らしい女性も出来たが、書斎で眠る彼女の心臓の方が一等に大切だった。

 頭がおかしくなったか、そう言われれば、そうかもしれない。シューゲル氏はせいぜい長くても二年ほどで枯れるとは言ったが、彼女は今日も私の為に生きてくれている。

 欺瞞か、そう問われれば否定できず、静かに頷いてしまうだろう。

 沈黙を続けるガラスケースに触れるが、けして私の体温には馴染んではくれない。

 

「ターニャ、今日こそは、これを開けられる気がするよ」

 

 もう一つ、シューゲル氏に渡された物、それは、かなりの値が張る年代物のウヰスキー。死に際の彼女から預かったと言う、琥珀色の液体が瓶の中でどぷりと揺れている。

 キッチンに戻りグラスを二つ用意して彼女の前に戻ると、先ほどよりも、小さな薔薇は電気ステンドに映えているように見えた。

 薔薇の花弁は戦場であっても麗らかに脈打つのだ。鮮血たる色彩を、いつ来るか分からない最期の熱がほろろと曝露する寸前まで、膨隆し、萎れ、朽ちて、そして私の手の中で新たな命になる。たとえそれが、君が遺した花弁であっても。

 咽び泣けと、喚き散らせと、誰もが情けを盾にして手を振るのだ。滾々と沸き立つ虚しさは、消化もせず、昇華も出来ず、永遠に私の手の中に残っている。

 君の居場所は死してなお、此処しかないのだ。捲った睦語の続きは、白紙のままでいい。誰も読まずとも、君の血滓で出来たインクの匂いは私だけが知っていればそれでいい。誤魔化すなと言われたが、所詮は人間だ、私もいずれ朽ちて死ぬ。

 窓越しの雪空は私を置いて四季を巡らせていったが、気付けば、同じ季節がまた私の背後に迫っている。

 瓶の蓋を開け、グラスに注いでスタンドの灯りに反射させる。鼻腔をくすぐる甘くて苦い匂いと、グラス越しに見た彼女の薔薇が今にでも枯れそうな気がしてしまい、私の舌よりも先に書斎のカーペットがウヰスキーを味わってしまった。

 きっと次の年も、そのまた次の年も、ただただ、同じ薔薇の花弁を愛でながら時を過ごし、情けない私はいつまでもウヰスキーを飲めずにいるのだろう。

 

 

 終わり

 



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