長かった一日が終わった。
ベッドの中で目を閉じてみても、全然寝つけないのは加賀の言葉が繰り返し問いかけてくるから。
どうして忘れているのかと、本当に思い出せないのかと。
「初めて会ったときのこと……」
この鎮守府に来る直前のことを思い返してみる。
俺はたしか、この鎮守府まで中々たどりつくことができずに、迷っていた。
「……」
そこで、この鎮守府とは真逆の街中で、ある女性と出会ったことは覚えている。
それが加賀だったのかと問われれば、そうだったような気もするし違う気もする。
はっきり言って顔までは覚えていない。
曖昧な記憶をなんとか呼び起こしつつ、俺はそのときのことを振り返ってみた。
たしか────
× × ×
「おかしいな……。鎮守府どころか海すら見当たらないんだが」
どこからどう見ても迷子だった。
いい歳した大人が迷子だなんてみっともない。
だがしかし、いつまでも恥ずかしがっているわけにはいかない。
覚悟を決め、俺は前を歩く女性に声をかけた。
「あの、ちょっといいですか?」
振り返ったその女性は俯きがちで、長く伸びた前髪のせいで顔はよく見えなかったが、口もとと鼻筋だけでずいぶんと美人であろうことが窺える。
桔梗の花柄がとても綺麗な青色の着物に身を包み、髪をサイドでひとつ括りにしているその女性は、手にしていた巾着をとさりと地面に落とした。
それを拾おうとした俺を見て、その女性は震えながら言葉を漏らした。
「てい……とく……」
「え?」
一瞬、なぜ俺のことを知っていたのかと疑問に感じたが、その答えはすぐに出た。
軍帽に軍服。今の俺の格好を見ればまあ海軍であろうことは察しがつくだろうし、袖の階級章を見れば一目瞭然だろう。
しかし、そんなに驚くことだっただろうか。たしかに街中では軍服を着ている人間の方が少ないが。
もしかしてあれか。いきなり話しかけられて怪しんでいるのだろうか。ナンパとか不審者だとか、そういう類のものに分類されたのかもしれない。
「いや、違うんですよ? 俺はべつに怪しい者ではなくてですね、道に迷ってしまっただけであり、ただ道を聞きたいだけなんですよ」
彼女が落とした巾着を拾って差し出しながら、慌てて弁明する俺を見て、彼女はきゅっと口を引き結んだ。
震える手で巾着を受け取り、もう片方の手で口もとを押さえる。
なんだ。吐き気をもよおす『邪悪』とでも言いたいのだろうか。
「どうして……」
そう、ぽつりと呟いたのと同時に、一粒の涙が頬を伝い落ちる。
声はずっと震えていて、わけがわからなかった。
泣くほど気持ち悪かったということか? 俺が?
「あ、あの……」
その涙に動揺して、おろおろとしていた俺を置き去りに、彼女は走り去って行った。
なにがなにやら、状況をまったくのみこめない俺は、遠ざかっていく彼女の背に向けて右手を伸ばし、「海ってどっちの方にあるんですかー!」なんて問いかけた。
もちろん教えてくれないどころか立ちどまってすらくれない。振り返ってもくれなかった。
× × ×
──結局近くにいた人に道を尋ねてなんとかここまでやってこれたのだが、到着するなり弓を向けられた俺は、つい先ほどあったことなど一瞬で記憶から消え失せてしまった。
服装は違っていたし、初対面の彼女はもっとこう、可憐で儚くて、なんというかかわいらしさもあったのだが、その人と加賀は同一人物だったのだろうか。
だとすると、それで、俺がそのことを忘れていたから怒っている?
──いや、そんなわけはない。
根底には、きっとべつのなにかがあるはずだ。俺が思い出せていないだけで、もっと、とてつもなく重要ななにかが……。
〝あなたは、青葉の知っている司令官じゃない〟。
〝提督には、たくさんのものを貰いましたよ〟。
〝……あなたは、初めて私と会ったときのことを覚えているかしら〟。
──記憶の一部が蘇る。
忘れてはいけないと、強く警告してくるようだ。
「……俺は遠い昔に、あいつらと出会っている……?」
いや、ありえない。
たしかに加賀とは一度だけ街中で出会ったのかもしれない。しかし仮にあれが加賀だったとしてもそれ以外では一切接点を持っちゃいない。
鳳翔さんや青葉もそうだ。
それなのにどうして、俺はそう思ってしまっているのだろうか。
わからない……。考えれば考えるほどに。
「……」
前髪をかき上げて、その手で目もとを覆う。
疲れが溜まっているのか、考えごとをすることには向いていないのか。脳みそが強制的に意識をシャットダウンさせようとしてくる。
まだ、眠るわけにはいかない。
ない頭で考えろ。彼女らの言動をこと細かに思い出して、ひとつずつ……紐解いて……。
彼女らが俺を忌み嫌う理由……。本当は、嫌われているのではないとしたら……?
嫌っているのではなく、怒っている……。
忘れているから? なにを?
思い出? 約束? なにか、
俺は────
「……」
眠りにつく瞬間というのは、往々にして意識できるものではない。
いつのまにか俺は深い眠りの底へと落ちていき、いつの日か……手を伸ばせば触れられるくらい近くにいた、あの日の光景を夢の中でえがき出していた。