去っていく加賀と赤城の背中を見送ることしかできない自分が心底嫌になる。
悔しくて、情けなくて、血が出るほどに強く拳を握った。
そんな俺の手を、隣からそっと鳳翔さんのあたたかな手が包みこんで、彼女は心配そうに俺を見つめながら苦笑した。
「あの子たちが自分の気持ちを整理するには、まだ早すぎたのです。頭ではわかっていても、心がそれを許さない。どれだけ強く決意しても、感情は揺れ動いてしまうから……。でも大丈夫ですよ。あの子たちも本当は提督を認めています」
「そう、ですかね……」
いつもだったらその言葉に、どれほど救われていただろうか。
でも今は、加賀のあんなにも寂しそうな
「やっぱり俺なんかじゃ、誰も、なにも……」
「僕は救われたよ」
「……」
少し気恥ずかしそうに胸の前で両手を弄りながら、頬を染めて、でもまっすぐにこちらを見つめてそんなことを言ってくれる。
買い被りだと、そう言ってやりたい。
時雨が思っているほど、俺はなにもしていない。
「僕は提督に救われた。提督が提督で、本当によかった」
「……俺はなにもしちゃいないだろ。今までだって、なにひとつしてこなかった」
「夕立に会わせてくれたじゃないか」
「それは、俺じゃなくてもできたことだ。俺にできることなんて、他の誰にでもできることで……それに、結果でしかないんだ。夕立が生きていてくれたから、それで時雨が救われただけで、俺のおかげなんかじゃない。俺なんかいなくても、きっと君たちはどこかで巡り会って、それで──」
とまらない。
こんなことは間違っているのだと、そう理解しているはずなのに、こんなときほど饒舌になってしまう。
責め立てられたいわけでも、失望されたいわけでもないのに、自分を落とす言葉だけは次から次へとあふれ出てくる。
──ああ。そんな目で見ないでくれ。
そんな────信頼しきっているような、優しい瞳を俺に向けないでくれ。
それは俺なんかにはあまりにも──
「どこかの誰かじゃないよ。夕立を……泣いている僕を見つけてくれたのは提督だ」
俺を見つめる時雨の瞳があまりにも眩しくて、つい目を逸らしてしまう。
最初からずっとそれが欲しくてがんばってきたはずなのに、心の奥底では、誰かに認められることは怖いことだと感じていた。
信頼されればされるほど、それを裏切らないようにと自分を見失ってしまうから。
認められた自分を、信頼された自分を演じようとしてしまう。
寸分
そんな俺だから、きっと加賀も赤城も、青葉たちだって……心を開いてくれないのではないだろうか。
「──初めて時雨と意見が合ったわね。そうよ。提督は、ひとりで泣いていた私のことも見つけてくれた」
不意に、それまでだまって聞いていた荒潮が口を開いた。
「誰にも見せられなかった。ずっと、ひとりきりで泣いていた。けれど提督は、私に泣いてもいい場所をくれたじゃない」
そう言ってやわらかく微笑して、俺の瞳の奥を覗き込むように、しっかりと見据える。
初めて目をあわせたときと180度違うその瞳は、涙腺を強く刺激した。
「私も──あなたに救われた」
瞬間、視界がぼやけて荒潮の顔がよく見えなくなる。
涙がこぼれ落ちないよう下唇を噛みしめ、必死でこらえた。
「やめてくれ……。俺に、そんなことを言ってもらえる資格はない……」
「気持ちを受け取るのに、資格が必要なの?」
うしろからかけられた声に、初めて出会ったときとまったく違うその優しい声に、また涙がこぼれ落ちそうになる。
「瑞鶴の言う通りですよ、提督」
「瑞鶴……翔鶴……」
振り向けば、苦笑しているふたりの表情が視界に映る。
なにをやっているのだと、こんなところで立ちどまっている暇があるのかと……そう励ましてくれているような気がした。
「提督さんがやってきたことは間違いなんかじゃない。それは、一航戦のふたりもわかってる」
「……間違ってなければ、どうしてあのふたりは俺を忌み嫌うんだ。あのふたりだけじゃない。青葉だってそうだ。金剛と榛名にいたっては、顔すら見たことがないんだぞ。それは……すべて俺が招いた結果だろう? 俺が、なにもできなかったことの結果が、今なんじゃないのか?」
理性が、プライドが、今までなんとかそれを堰きとめてきた。
一度瓦解してしまえば、元に戻すのは限りなく不可能に近いから。
だからその言葉だけは、決して口にしないように努めてきたのだ。
それは、俺を信じてくれた彼女らを裏切ることだとわかっていたから。
けれどもう──
「俺は、最初から提督になんてなるべきじゃ──」
瞬間、頬に刺すような痛みを感じた。
時間が経つごとにそれは焼きつくような熱さへと変わる。
「瑞鶴……」
両目に涙を浮かべながら、それをこぼしてしまわないように強く俺を睨めつけてくる瑞鶴は、頬を叩いた右手で俺の胸ぐらを掴み、ぐっと顔を近づけてくる。
「それが提督さんの答えなの? それが──本心なの?」
「……」
自分でももうわからない。
ただ、疲れたと、そう思った。
「提督さんの心の内なんて私にはわかんない。でも、時雨や荒潮の心を救ってくれたそのときの気持ちは本物だったんじゃないの? それとも全部うそで、本当は私たちのことなんてなんとも思ってないの?」
「……」
なんとも思ってないわけがないだろ。
俺の裁量とか、力量が足りないからなにもしてやれないだけで、いつだってみんなを想う気持ちは本物だった。
ただ、気持ちだけではどうにもならないのが現実だ。
だからこそこんなにも打ちのめされているのではないか。
「そんなわけ、ないよね」
それまでだまって聞いていた時雨は、俺の胸ぐらを掴む瑞鶴の手をそっと握り、微笑して、離すように視線だけで訴えかけた。
瑞鶴は不服そうにしていたが、俺の胸ぐらを掴んでいた手を離して、ひとつため息をついてから一歩下がった。
「ねえ提督。覚えてる?」
なにを、と聞き返そうとすると、時雨はまるで愛おしいものでも見つめるように目を細めて、口の
「僕はキミの気持ちを知りたいよ」
「──……」
「代わってあげられないけれど、それでも──僕はキミを知りたいよ」
──それは、時雨がまだ塞ぎ込んでいた、あの日に。
俺が彼女へとかけた言葉だった。
「
俺がしたいこと。
俺がいつも思っていたこと。
時雨にだって伝えたことがある。
それは複雑なことなんかじゃない。けれど決して単純なことでもない。
何度も転んで、何度も打ちのめされて。苦しんで、悩んで。それでも手を伸ばし続けてきた。
多くのことを望んできたわけじゃない。
たったひとつ。
俺はただ──
「ただ、君たちにずっと笑っていてほしい。……それだけなんだ」
俯いたまま、ひとりごちるようにぽつりとこぼした。
そんな俺の手をとって、時雨は満足げに笑った。
「ならその気持ちを、あのふたりにも素直に言ってやればいいだけだよ」
「そんな簡単な問題じゃないだろ……」
「うん。簡単なことじゃないよ。でも提督はそうしてくれたじゃないか」
僕に。荒潮に。
そう言って、時雨は俺の手を握っていた手に力を込めた。
「提督がなにに怯えているのかはわからないけど、それでも──加賀さんたちのことも救ってあげてほしい」
まっすぐに俺を見る時雨の瞳は、とても綺麗だった。
……そうだ。俺はずっと怯えていたのだ。
時雨や荒潮のときとは違って、俺はずっと怯えていたのだ。
金剛と榛名には会いに行きすらしなかった。
青葉になにもしてやれなかったのも、赤城と加賀と向き合えなかったのも……ただずっと……ずっと怯えていたからだ。
本当にお前にそれだけの覚悟があるのかと、いつかの記憶がそう問いかけていたんだ。
「ね? 提督。僕はなにがあってもずっとキミの傍にいるから、キミにしかできないことをしてあげてほしい」
「……なんで、そんなにいい女なんだよ、時雨は」
バカみたいに、笑いが込み上げてきた。
こんなにも俺のことを想ってくれる子がすぐ傍にいるのに、なにを打ちのめされることがあるのか。
「僕は提督の秘書艦だからね」
時雨はそう言って笑うと、ぽんと俺の頭を撫でた。
普段俺が時雨にしていることだが、実際にやられると思いのほかくすぐったくて恥ずかしいのでぜひやめてほしい。
「かっこ悪くたって、不器用だっていいからさ。ありのままを伝えてあげてよ」
「そんなことしてもっと嫌われたら、慰めてくれるのか?」
「もちろんだよ」
ふざけて問いかけると、時雨は即答した。
ふんすとドヤ顔で息を吐いて、両腕をこちらへ広げて見せる。
いつでも飛び込んでおいでよ、とでも言いたげだ。
「提督が僕にしてくれたこと、今度は僕が返していきたいんだ。もし提督が道を見失ってしまったのなら、僕が手を引く。立ちどまってしまったのなら、背中を押すから……だから、ね」
首を傾けて、笑顔をくれた時雨を見て、ほんの少しだけ目頭が熱くなった。それと同時に頬も熱を持っている。
危うく惚れてしまいそうだった。
いや撤回。もう惚れている。
「やめろよ。照れるだろ」
「……時雨ちゃんばかり抜けがけをして、私は拗ねてしまいますよ? いいんですか、提督」
言って鳳翔さんは頬を膨らませ、かと思えばいたずらに笑って問いかけてくる。
「揶揄わないでくださいよ」
「本気ですよ?」
どうやら本気らしい。
いやまあ、本気で鳳翔さんが拗ねるところとか、普通に見てみたい。
どんなかわいらしい拗ね方をするのだろうか。
リクエストが通るのならばぜひ、不機嫌そうな表情でだまって俺の服の裾をちんまりと親指と人差し指でつまみながら、ただただ無言で引っ張るという拗ね方をしてほしい。
おお、超いいなそれ。ぜひお願いします。
「心配しなくても、鳳翔さんがいなければ俺は今ごろこの鎮守府にはいなかったかもしれませんよ」
などと気持ちの悪いリクエストは当然できないので、一応まともなことを言っておく。
「へえ。僕の前で堂々と言うんだね」
「あ……もちろん時雨も同じで、君が傍にいてくれなかったら──」
「あらぁ、私のことはどうでもいいのね〜」
「いや荒潮のことも──」
一変して、ふざけた空気のなかでわいわいと騒ぐ俺たちを、瑞鶴と翔鶴は苦笑しながら見守っていた。
いつもそうだ。いつもこうして与えてもらうばかりで、全然返せていない。
だからこそ、もっと……もっとたくさんの想いを返せるように。
「みんなありがとう。加賀さんたちと話してみるよ」
あの日、初めてこの鎮守府に来たときのままだったら、きっとなにもかも諦めて逃げ出していただろう。
でも、あのときとはまったく違うから。
今の俺には支えてくれる人たちがいるから、だから何度打ちのめされても、決して折れることはない。
──ありがとう。こんな俺を、信じてくれて。