「──加賀さん」
冷たい風が吹き抜け、岸壁に波が打ちつけられる音が響く。
「さっきの今でよく私の前に顔を出せましたね」
こちらを見もせずに、彼女は小さくこぼした。
ここはあの日、真冬の中俺が加賀に冷水をぶっかけられた場所だ。
この場所も、加賀の態度もなにひとつ変わっちゃいない。
それはそうだ。変わらなきゃいけないのは、俺の方なんだから。
「以前、初めて会ったときのことを覚えているかって、そう聞いたよな。──たぶん、俺と君はずっと、遥か昔に会ったことがあるんだろ?」
「……そんなわけないでしょう」
呆れたようにため息をこぼして、ゆっくりと彼女はこちらに向き直る。
その表情は寂しそうで、つらそうで……とても悲しい瞳をしていた。
「いいよ、もう隠さなくても。なんとなく気づいているんだ」
「……」
「夢を見たんだよ。俺と君と、鳳翔さんと赤城さん、それから金剛と榛名と、青葉もいた。くだらないことで笑いあう夢を」
「夢の話が、一体なんだと言うの」
「ただの夢だとは思えないんだ。きっと俺は前世で、君たちと一緒に戦っていたんじゃないかな?」
瞬間、強い風が吹いた。
その風は彼女の髪をさらって、うまい具合に彼女の表情を隠した。
「そんなバカげた話が、あるわけないでしょう」
風がやんであらわになった彼女の表情は、怒りに満ちていた。
切れ長の目でこちらを強く睨みつけてくる。
少し前の俺ならその威嚇に怯んで、口を閉ざしていただろう。
でも今は……どれだけ強く睨みつけられても、それが彼女の強がりにしか見えなかった。
そうやって、本当の感情を押し殺しているだけなのだろうと、そう思ってしまう。
「教えて欲しいんだ。君が知っていること。俺が知らなきゃいけないことを」
「しつこいですね。これ以上食い下がるつもりなら──」
彼女は艤装を展開して、弓を手に取った。
「容赦しません」
そう言って臨戦態勢に入るが、今の彼女から威圧感はまったくといっていいほどに感じ取れなかった。
自分でも不思議なくらい、今の俺は落ち着いている。
「──この鎮守府に来てから、色々なことがあったよ。時雨のこと、荒潮のこと。青葉や、君たちのこと。それでもまだ、ほんの一部だ。大切なものが俺の手からこぼれていったまま、拾われるのをずっと待っている。──だからさ、全部知らなきゃいけないんだ」
「やめて……」
震える手で弓を構えようとする加賀のもとへと、ゆっくり近づく。
彼女は一歩あとずさり、弱々しい声で「来ないで」とこぼした。
「加賀さん。もうなにを言われても、なにをされても、俺はここを去る気は微塵もないよ。君たちを救いたいだなんて、おこがましくて傲慢なことを言う気はないけれど、ただ──君たちを全部知りたい」
「……」
俺と彼女らの間になにがあったのか。
彼女らがどれだけ傷ついてきたのか。
俺が彼女らをどれだけ傷つけてきたのか。
「加賀さん──」
触れられる距離まで詰め寄って、そっと彼女の方へと手を伸ばすと、彼女は怯えるように身体を震わせた。
「バカなことだと君はそう思うかもしれないけれど。俺はね、加賀さん。この戦争を終わらせて、
「──……」
「そこにはもちろん、君もいなくちゃならない」
彼女の両目に浮かんでいた涙が、ついにはぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
こぼさないようにと、強く下唇を噛んで、こらえてきた涙が。
きっと今までも、ずっと……こらえ続けてきたのだろう。
「君の言葉が聞きたい」
「……どう、して」
手で口もとを押さえて、大粒の涙をこぼす。
街中で出会ったときにはその表情は見えなかったけれど、ようやく彼女の素顔を見ることができた。
こんなにも、苦しそうに泣いていたなんて。
「教えてくれ、加賀さん。俺と君に、なにがあったのか」
「……後悔しても、知りませんよ……」
「しないよ。絶対に」
言って笑いかけると、彼女は嗚咽まじりに、ぽつりぽつりと話し出した。
それはまるで夢のような、にわかには信じがたい──奇跡のような話だった。
今から30年ほど前、私たちは共に戦っていた。
隣には赤城さんがいて、いつも提督が帰りを待っていてくれた。
「お疲れ、怪我はないか?」
「鎧袖一触よ、心配いらないわ」
戦闘を終えて帰投すると、波止場で提督は私たちを出迎えてくれた。
報告は執務室まで行ってそこでするのだから、わざわざ出てくる必要はないと何度言っても、彼は聞き入れてくれなかった。
「そんなこと言って腕怪我してるじゃないか」
「……問題ないわ。入渠すればすぐに治りますから」
隠していた私の腕をとって、心配そうな表情を浮かべる提督がとても愛おしく、目をあわせるだけで胸の奥がきゅっと締めつけられてしまう。
この人はどうしようもなく、私たち艦娘を大切にしてくれる。
「……まあ、ひとつだけ問題があるのだけれど」
「なんだ?」
「先日、第七駆逐隊の子たちとお買い物に行っていたと聞いたのですが本当ですか?」
「な、なぜそれを……っていうか誰に?」
「青葉です」
「あのクソ盗撮魔ぁ!」
「本当ですか?」
ジリジリと滲み寄り問い詰めると、目を右往左往泳がせて逃げようとする提督が少し可笑しくて、つい許してしまいそうになるのだけど、それとこれとは話がべつだ。
顔を逸らした提督の頬を両手で包んで、無理やりこちらへと向けさせる。
「提督とお出かけできるのはMVPをとった者だけだと聞いていたのですが。まあ私は提督とお出かけしたいから毎日MVPをとれるようがんばっているわけではありませんがそれではあまりに不公平だと思いませんか?」
「めっちゃ早口だな……」
「詳しく……説明して下さい。今、私は冷静さを欠こうとしています」
「こわっ。めっちゃ怖いじゃん」
ドン引きしている提督を見て、うしろで見ていた赤城さんがふっと小さく笑った。
「加賀さん、それくらいで許してあげてください。提督は駆逐艦みたいに小さくてかわいい子に頼まれると断れないのだから」
「……なんか含みのある言い方だがその通り。駆逐艦がかわいすぎるのが悪い。俺は悪くない」
「クズですね」
「ええ、クズです」
赤城さんに続いて提督を罵倒すると、今にも泣き出しそうな表情を見せる。
……まったく、昔から変わらない。
面倒くさがりでだらしなくて、誰かひとりではなくみんなを特別扱いしてしまう……そういう甘くて優しいところは。
「テイトク! 聞きましたヨ! ワタシともデートしてくだサイ!」
「うぇっ! ……金剛、お前それやめろって何回言えばわかるんだよ!」
「あーん、テイトクはいじわるですネ」
ふいに、思いきり提督のお腹を目掛けて飛びついた金剛の顔を押さえつけ引き剥がそうとする提督に、彼女はさらに強く抱きつく。
────頭にきました。
「あなた、提督が困っているのがわからないの? 今すぐ離れなさい」
「嫉妬ですカ? 見苦しいネ」
「へえ。大概にしてほしいものね」
「お、おいおい……。君たちがケンカなんてした日にゃこの鎮守府は跡形もなく消し飛んでしまうよ……? っておいやめろ加賀艦載機を構えるな! 金剛、艤装をしまえ!」
あたふたと慌てふためく提督を横目に、私と金剛の間でバチバチと火花が飛び散る。
一触即発……というほど、本気でケンカをしようとしているわけではないが、まあ多少は頭にきているのも事実ではある。
「赤城、お前も饅頭なんか食ってないで加賀をとめろ! 榛名も、おろおろしてないでバカな金剛お姉様をとめてくれ!」
「なになに? もしかして修羅場ですか? 修羅場ですよね! よーし、青葉、いっぱい撮っちゃうぞー!」
「青葉ちゃん? なんで君はいつもそう楽しそうなの? とめるだろ普通。おい、青葉」
ぱしゃぱしゃと楽しそうにカメラを構えて連写する青葉。
いつのまにか、駆逐艦や軽巡の子たちも集まってきていて、なにが始まるのかと人だかりができていた。
さすがに目立ちすぎているので、そろそろ事態を収拾しようとしたのだが、ちょうどそのタイミングで、人だかりが割れた。
そこから堂々と歩いてくるのは、我ら空母組──いや、この鎮守府のまとめ役、鳳翔さんだった。
「夕食の準備ができたのでみなさんを呼びにきたのだけど、まさかケンカ……などしていませんよね? 小さい子たちが見ている前でだなんて、そんなことはありませんよね?」
ふふっと優しく微笑した鳳翔さんに、その場にいた全員が息をのむ。
誰ひとりとしてその場を動けず、冷たい汗が背中を伝った。
「……もう。せっかくのお料理が冷めてしまいますよ? 早く食堂に集まってくださいね」
頬を膨らませてそう言い残し、去っていく鳳翔さんの背中を見送ったあと、全員が安堵の息を漏らした。
「バカ! お前らがケンカなんてするから鳳翔さん怒ってたじゃないか!」
「バカ? 今バカと言いましたか? 頭にきました」
「ふふん。ワタシは全然怖くなんてなかったネ」
「鳳翔さんを怒らせるとご飯が……」
「榛名は大丈夫じゃありませんでした……」
「いやー、青葉、ちょっと足が震えちゃいましたよ」
少しの沈黙のあと、全員顔を見合わせ笑いあった。
今この瞬間がとても幸せで。ずっとこんなふうに笑いあっていたい……と、柄にもなくそんなことを思った。
「どこへ行くのかしら、提督。話はまだ終わっていないわよ」
「え、なに。なんの話してたっけ」
みなが食堂へと向かい、それに続いて歩き出した提督の襟元をうしろから掴んで制止した。
「本日のMVPは私です」
「ああ。よくがんばったな、さすが俺の加賀だ」
こちらに向き直り、ぽんと私の頭に手を乗せて提督は微笑した。
私はその手をそっと払いのけて、じとりと目を細める。
「……わかってるよ。お出かけだろ、睨むなよ」
提督は仕方ないなとでも言いたげに苦笑した。
「ほら。約束、な?」
未だジト目を向ける私に、提督は小指を差し出す。
私はその小指に自分の小指を絡めて、指を切った。
嬉しくて口もとがゆるんでしまいそうになるのを押さえつけているから、提督には私が不機嫌そうに映っているだろう。
「……」
ちらりと、こちらを振り返った赤城さんに、提督は片手をあげて応えた。
すぐに行く、そんな意を込めてだろう。
歩き出した提督の横に並び、私は彼の小指に、自分の小指を絡めた。
「……そういうの、〝あざとい〟って言うんだぞ」
「提督は、こういうのが好きなのでしょう?」
少し前を歩くみんなに気づかれないよう、私たちは指を繋いで歩いた。
ささやかな約束。
それがあったから、私たちはどんな敵とも戦えた。
道を見失わず、帰ってくることができた。
──だけど、その約束が果たされることはなかった。