たったひとつでも知ってしまうと、とまらなくなってしまう。
言葉を交わすたび、彼の仕草やクセをひとつずつ覚えていくたび、愛しさがどんどん大きくなっていく。
下まつ毛が長かったり、左目の下にほくろがあったり、さらさらでまっすぐな髪をしていて、前髪で目もとが隠れてしまっているからそろそろ切ったほうがいいのではないかとか、今まで気づかなかったことに次々と気づいていく。
「提督」
「どうした、赤城」
彼が私たちと話すときは、駆逐艦の子たちと話すときよりも少し声が低いだとか、そんなことにも気づいた。
「私、この鎮守府で……提督と出会えて、本当によかったです」
気持ちを言葉にするのは初めてだったから、驚きのあまり目を丸くしてこちらを見つめてくる提督に、思わず笑みがこぼれてしまう。
「……俺も、お前と出会えてよかったよ」
そんな私を見て、提督は微笑した。
私は提督のこの笑顔が大好きだ。
弓を射るときより、ご飯を食べるときより、なによりこの笑顔を見るのが大好きだ。
「提督」
「どうした、赤城」
「もしも私が沈んだら、泣いてくれますか?」
「そうだな。そのときは、追いかけて俺も海の底へ行く。お前をひとりにはさせないよ」
「──……それは、なにがあっても沈むわけにはいきませんね」
間を空けずに答えた提督に、嬉しくてまた笑みがこぼれてしまう。
「なんか、今日の赤城は少し変だな。疲れてるなら残りの執務は俺がやっておくから部屋で休んでていいぞ?」
「はあ」
100点満点の回答をくれたかと思えば、マイナス500点くらいの回答も一緒に出してくる。
そんな提督に向けて、私は大きなため息をついた。
漣さんに教えてもらった、クソデカため息というやつだ。
「相変わらずですね。だから提督は〝クソボケ〟なんですよ」
「え、なんで急に罵倒されてるの? てか拗ねてる?」
「拗ねてません」
〝クソボケ〟。これも漣さんから聞いた言葉で、主に提督みたいな人のことを指す言葉らしい。
提督は私たちのことをわかっているのかいないのか……。
もう少し好意には敏感であってほしいものなのだが。
──結局、最後まで気づいてくれない提督に押し切られてしまい、自室へと戻ると、提督からいただいた指輪を嬉しそうに眺める加賀さんが目に入った。
「加賀さんったら、余程嬉しかったのですね」
「あ、赤城さん……」
私に気づき、慌てて指輪を嵌めていた腕をうしろに隠す。
頬を赤く染めて俯いていた加賀さんはやがてゆっくりと顔を上げ、ほんの少しだけ恨めしそうに私を睨めつけた。
「べつに、隠さなくてもいいじゃないですか」
「……初めて指輪をいただいたのは赤城さんですが、私はたとえ赤城さんであっても提督を譲るつもりはありませんよ」
「なら、提督にもそれくらい素直になってみては?」
茶化すように微笑した私に、加賀さんは再び頬を赤く染めてそっぽを向いてしまう。
彼女は一見無表情に見えるけれど、揶揄ってみるとこうしてかわいらしい表情をたくさん見せてくれる。
「赤城さんのそういうところは、好きじゃないわ……」
「あら。ですが、心配しなくても、私も提督を譲る気はありませんよ」
「……そうですか。それは安心しました」
滅多に見せることのないその笑顔は、普段の加賀さんからは想像できないほどにかわいらしい。
その表情を提督に見せれば多少は提督も動揺してくれると思うのだけど。
あいにく、それを教えてあげるほど私はお人よしではないので。
再び、私は余裕を見せて笑った。
× × ×
そんな幸せな日々にも、終わりというのは唐突にやってきてしまう。
提督が亡くなって、ひとり、またひとりとこの鎮守府を去っていった。
加賀さんたちは塞ぎ込み、誰も笑わなくなった。
加賀さんと金剛さん、それから鳳翔さんも、自分を責め続ける日々をずっと過ごしていた。
「皮肉ですね。もしもこの海が平和だったなら、私たちはあなたと出会うことさえなかったのですから」
薄暗い執務室の中、机の上に飾られた提督の写真をそっと撫でて、私は小さく息を吐いた。
戦いがあなたと私たちを出会わせてくれて、私たちからあなたを奪っていった。
────提督。
「私は……どうすればよかったのですか」
写真の中のあなたはずっと笑顔のままで、なにも答えてはくれない。
「加賀さん。少し外の空気を吸いにいきませんか? ずっと部屋の中にいては気分も沈んでしまいます。たまには気分転換でも──」
「いらない」
「……加賀さん、」
「もう……私に優しくしないでください……」
「……」
真っ暗になった部屋の中で、電気もつけずに加賀さんは、ずっと窓の外を眺めていた。
そのうつろな目は、なにかを映しているのだろうか。
私は、だまったまま彼女の背を見つめることしかできなかった。
「金剛さん、榛名さん。紅茶を淹れてみたのですが、ご一緒にいかがですか? しかし案外難しいものですね。よければ上手く淹れるコツを教えていただけませんか?」
「……気分じゃないネ」
「すみません、榛名も……大丈夫です……」
努めて明るく、私は笑顔で語りかけた。
いつも、誰よりも元気で、金剛さんのまわりには笑顔が絶えなかったのに、彼女はもう笑わない。
気づかいが上手で、誰よりも優しかった榛名さんの眩しい瞳にも──もう光はなかった。
「青葉さん、もう写真は撮らないのですか? 今年は桜がとても綺麗ですよ。ぜひ見に行きましょう。私は花より団子なのですが」
「……必要、ないです」
「そんなこと言わずに。お団子も美味しいですよ?」
「……もう二度と……写真なんて撮りませんよ……」
彼女はこの鎮守府に来てから、たくさんの写真を撮っていた。
スクープ、スキャンダル。日常のありふれた瞬間でさえ──彼女は楽しそうに記録に残していた。
だけどもう──彼女の手にそのカメラは握られていない。
また、私はなにも言えなかった。
「鳳翔さん」
「……どうしました? もしかしてもうお腹が空いたのですか? 待っていてくださいね、すぐになにか作りますから」
「いえ、そうではなくて……。少しは休んでください。ずっと働きっぱなしでは体を壊してしまいます」
「心配してくれているのですね。でも大丈夫です。──私には、休む資格なんてありませんから」
この広い鎮守府の掃除を、鳳翔さんは毎日休まずにし続けた。
手が悴んで、動かせなくなるくらい寒い日も、彼女は手を腫らしたまま、ひび割れた手で──毎日。
やめてほしいと頼んでも、聞き入れてはもらえなかった。
あなたのせいじゃないと……何度も言った。
苦笑して、「ありがとうございます」と返す鳳翔さんと目があうことは、あの日から一度もなかった。
ずっと……ずっとずっと……こんな日々が……いつまでも続いた。
あの日壊れた時計の、ズレてしまった指針はもう二度ともとには戻らない。
私の声は、誰にも届かない。私の声では、誰も救えない。
それでも、私が諦めてしまったら……きっともうなにも残らないから。
私まで笑えなくなってしまったら──本当にすべてを失ってしまう気がしていたから。
だから、
────私は声を出し続けた。
それから気が遠くなるほどの月日が流れて、ようやく変化が訪れた。
泣きながら帰ってきた加賀さんを見て、言葉にできないほどの感情が込み上げてくる。
それは、提督に会ったと、信じられるような話ではなかったけれど。塞ぎ込んでしまった加賀さんの心を動かせる人なんて、あの世にもこの世にもたったひとりしかいないことを知っていた。
あの日壊れた時計の、ズレてしまった指針が──カチカチと動き出す音がした。
× × ×
「もう一度提督に出会えるなんて思ってもいなかったので、本当に嬉しかったんですよ」
「そうだよな。君も、ずっとつらい思いをしてたんだよな。痛くて、苦しくて……ずっと傷ついて……それでも君は、」
「ええ。それはもう、本当にがんばりましたよ? だから──」
やっと、自分の感情を伝えることができた。
誰にも届かなかった声が……どれだけ伸ばしても触れられなかった手が……。
────ようやく届いた。
「だか、ら……もう……」
込み上げてくるものがあった。
呼吸が上手くできず、声を出すのもままならない。
提督はソファから立ち上がり、私の背後にまわって、うしろからぽんと私の頭に手を置いた。
「もう……泣いても……、……いい、ですか……?」
「──……ああ。ごめんな……ごめん、赤城……」
提督はうしろから、強く私を抱きしめた。
──あの日からずっと押し殺していた感情が、たくさんの涙とともに流れていった。
泣きたいときに泣かなくては、心はいつか壊れてしまうのだと、わかっていた。
それでも私は泣けなかった。
私が泣いてしまっては、ずっと塞ぎ込んでいる加賀さんを、みんなを……誰が気にかけてあげられるのか。
でも……私の他に、みんなを立ち直らせてくれる人がいるのなら。壊れてしまったものを治せる人がいるのなら。
私はもう────泣いてもいいんだ。
「ありがとう……。みんなのこと、ずっと支え続けてくれて、ありがとう……」
──こちらこそ、ありがとうございます。
また、私たちと出会ってくれて……帰ってきてくれて。
────お帰りなさい、提督。