この鎮守府に着任してから早一週間が経った。
前任がなにひとつ仕事をしていなかったこともそうだが、この冷めた鎮守府にひとりぼっちの俺が溜まりに溜まった書類仕事をこなすには限度があった。
「秘書艦というやつが必要なんだろうな……」
などと、誰もいない執務室でぽつりと呟いて、この一週間の出来事を思い返してみる。
たとえば昼食を取りに食堂へ行けば──
「翔鶴姉、あたしのからあげひとつあげる」
「あら瑞鶴、ありがとう。じゃあ私のエビフライと交換ね」
この鎮守府に俺が着任した初日に、俺に向けられていたふたりの冷めた表情はまるでうそだったかのように、笑顔でおかずを交換し合っていた。
まてよ、ひょっとすると被害妄想みたいなもので、実はそこまで悪く思われていなかった可能性もなくはないまである。
初日は彼女たちも緊張していただけで、そのせいで顔がこわばっていたという推測はどうだろうか。
きっとそうだ。そうであってほしい。そうであってくれ。
俺の名推理が正しかったことを証明するべく、緊張していることを悟られないよう愛想笑いを浮かべて、俺はふたりへと近づいた。
「俺も混ぜてもらっていいか?」
言い終わるや否や、明らかに不機嫌になった瑞鶴はガタッと大げさに音を立てて立ち上がる。
キッと強く睨みつけてきたことは、ひとまず俺の見間違いということにしておこう。
そうでもしなければ悲しくて泣いちゃいそうだからな。
「せっかく鳳翔さんが作ってくれたご飯が不味くなるわ。翔鶴姉、あっちで食べよ」
「……そうね」
「え? おいおい、待ってくれよ!」
食事を乗せたお盆を手に、空いている席へ向かって歩き出した瑞鶴の右肩を、うしろから慌てて掴んだ。
「……ッ! 触らないで!」
触れたのと同時に、掴んだ手を思い切り振り払われ、もう一方の手に持っていたカップ麺が倒れた勢いで頭から降り注ぐ。
沸騰したお湯を注いでまだ3分も経っていない。そんなものを頭からかぶってしまってはもうお察しだろう。
「──……!!」
情けない、声にもならない声を出して尻餅をついた俺を、憎悪を含んだ瞳で見下ろしながら瑞鶴は言った。
「次は容赦しない。爆撃するから」
ヒェー! と、心の中で叫んだね。
その様子を見て、ひとりの駆逐艦が近づいてくる。
「あらぁ、大丈夫ですかぁ〜?」
「ああ、君は……荒潮か。少し火傷はしたが大丈……」
「うふふ、あなたのことじゃなくて、そのカップ麺のことよ〜」
俺の言葉を遮り、意地の悪い笑みで床にこぼれたカップ麺を指差して笑っている。
カップ麺 > 俺 のヒエラルキーが確立した瞬間だった。
俺は荒潮の言葉にショックを受けながらも、静かにこぼれたカップ麺を処理した。
実に情けない。親が見たら泣いちゃいそうだ。
「うう……こんな子に育てた覚えはないのに……」と。……いやいや! なんで俺が悪いみたいになってんだ。そんなわけないだろ、俺を心配して泣くに決まってんだろ。
──その翌日、海岸で海を眺めながらひとり虚しくカップ麺を啜っていると、後ろからバケツ一杯の冷水をぶっかけられた。
「ヒェー!!」
真冬だったこともあり、飛び上がった。当然だ。
こんな非人道的なことをするのは誰だ、と勢いよく振り返るとなんというかまぁ予想通り、またしてもスカした一航戦の青い方……加賀だった。
「あら、いたんですね。すみません、気づきませんでした。存在感が薄すぎるのではなくて?」
「…………」
ぺこりと頭を下げ、そのまま去っていく加賀の後ろ姿を見て、ため息をつく。そんなものは謝罪とは言わないんだよなあ……と、少しばかり憤りを感じながら、ずぶ濡れになりながらも、残ったカップ麺を一気にかき込んだ。
「キンキンに冷えてやがる……」
──さらにその翌日、真冬に冷水をかぶった俺は当然のごとく風邪をひいた。
だが看病してくれる者もいるはずがなく、ベッドの中で朦朧としていた。
39度近くと……高熱だった。
食べるものも無い。飲むものも無い。テレビも無ェ、ラジオも無ェ。
ふざけてる場合じゃ無ェ、とその日は一日寝て過ごしたが体調はほとんどよくならなかった。
次の日はさすがに腹が減ったので、食料を買いに街まで出ることにした。
ふらふらとした足取りで食堂の前を通りかかると、艦娘たちの楽しそうな声が聞こえてくるじゃありませんか。
はあっと深いため息をつき、俺は再び街へ向かって歩き出した。
お粥を作るためパックのご飯、生卵、ネギを購入。体力気力を振り絞り執務室まで戻ってきたまではよかった。
しかし提督に電流走る──! つって。
この執務室には鍋もガスコンロもないのだ。
俺はガックリと肩を落とし、みなが寝静まる時間をベッドの中で待つことにした。
× × ×
「ゴホッ……ケホッ……」
自分の咳の音が、静かな執務室によく響いた。
……どうやらいつの間にか眠っていたようで、時計を見ると既に深夜の一時を回っている。
ひどく喉が渇いて、水分をとりに行こうと重い体を起こすと、パサリと額から濡れたタオルが手元に落ちてきた。
「…………」
真っ暗になった部屋に電気をつけると、俺のベッドに突っ伏し、静かに寝息を立てる鳳翔の姿が目に入った。
誰も俺のことなんて気にかけてくれないと思っていたのに。看病してくれるひとがいるなんて、考えもしなかったのに。
なんとなく、この優しさを、この温もりを……ずっと前から知っていたような気がして、涙がこぼれ落ちそうになったのをぐっとこらえた。
どこか懐かしくてあたたかい……実家のような安心感!
「……ありがとう」
鳳翔の頬をそっと指で撫でて、小さく言葉を漏らす。
「んっ……」
それがくすぐったかったのか、目を覚まして寝ぼけまなこでこちらを見上げた鳳翔とばっちりと目があった。
なんとなく、少し気まずさを感じてすぐに触れていた指を離す。
「……具合はどうですか?」
「え? ……ああ、その、鳳翔さんのおかげで……だいぶ楽にはなりました」
目を合わせずに言った俺に、「そうですか」と返して、鳳翔は執務室を出て行く。その瞬間、緊張の糸が切れたように『ぐぅぅ〜』と情けなく腹が音を立てた。
「そりゃ、腹も減るよな」
もう全員寝ているだろうし、食堂を借りてお粥を作ろう。そう思い立ち上がろうとしたとき、控えめなノックの音がして、「どうぞ」と言う前にその扉は開かれた。
「どこへ行く気ですか? まだ安静にしていないといけませんよ」
お粥と水を乗せたお盆を片手に鳳翔は言った。
その声は優しくて、それだけで風邪なんて治ってしまいそうなくらいにあたたかい。
「……優しいですね、鳳翔さんは」
「そんなことありませんよ。私は普通のことを言っているだけですから」
「優しいですよ。……どうして、俺のことを気にかけてくれるんですか?」
「そうですね……」
口元に人差し指を当て少し首を傾げてかわいらしい表情を作った鳳翔は、その大きな目を細め俺の瞳の奥を覗き込むように顔を近づけてくる。
それから数秒の間を置いて、ふわりと微笑した。
「
「目?」
「あの子たちは、今はまだ見えていないだけなんです……。だからどうか──」
鳳翔はその場に正座して、申し訳なさそうな声でそう言うと、
「あの子たちの御無礼を、どうか許してあげてください」
手をついて、床に頭をつけた。
「い、いやいやっ! やめてくださいよ鳳翔さん! 俺は全然怒ってませんから!」
慌てて両肩を掴み、鳳翔の上半身を起こす。
互いの息づかいが聞こえるくらいに至近距離で、ばっちりと目と目が合った。
〝──
ああ、そういうことか。たしかにわかる。
このひとは、なんて綺麗な瞳をしているんだろう。
「あ、あの、提督……」
思わず見惚れてしまうくらい、澄んだ瞳をしている。
……ぎゅっと力一杯抱きしめたい気持ちを抑え、両肩を掴んでいた手を離した。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、もう少し、がんばってみようかと思えました」