いいことばかりが連続して起きることはなくて、そのあとには必ず悪いことが起きる。
そのうえ、悪いことは連続して起きるからタチが悪い。
──突然の敵襲で、崩れてきた柱から電ちゃんたちを庇ったわたしは、そのまま気を失ってしまった。
薄れていく意識の中、金剛さんの声が聞こえる。
「青葉は私が背負っていきマス! 榛名は暁たちを守ってあげてくだサイ!」
「はい、お姉さま!」
……目が覚めたときには、もう司令官はいなかった。
どれだけ泣いても、落ち込んでも……もう司令官は来てくれない。
〝これからもっと色んなことを経験するだろう。いいことも、悪いことも。きっとたくさん増えていく。──だからさ、悪いことばかりを切り取って悲しむんじゃなくて、ぜんぶ思い出に変えていくんだ〟。
──司令官はうそつきだ。
増えるのは悪い思い出ばかりで、いいことなんてひとつもない。
昨日のことのように思い出せるのは……悪いことばかりだ……。
司令官の机の上には、あの日のままの、笑顔の司令官の写真が飾られている。
これはわたしが撮ったもの。大好きな司令官を切り取りたくて、その瞬間を永遠にしたくて。
いつまでも、その笑顔を見ていたかったから。
「……」
あの日から、この執務室が使われることはなかった。
それでも埃ひとつ落ちていないのは、毎日欠かさずに鳳翔さんが掃除をしている証。
「青葉は……」
司令官の写真を、そっと指でなぞった。
それはとても冷たくて。無機質で。
「青葉は、こんなことのために……司令官を撮ったんじゃありませんよ……」
視界が滲んで、前が見えなくなる。
悲しみに溺れて、息ができなくなる。
────ねえ司令官。どうして、青葉を置いていったんですか?
────青葉は、とても苦しいです。
わたしはその場に崩れ落ちて、声を押し殺して泣いた。
いくら泣いても、もう司令官は来てくれないのに。
あふれ出る涙が、とまらなかった。
「うそつき……」
いつしか、なによりも大切だったはずのカメラを手放した。
司令官が新しく買ってくれた、わたしの大切な思い出。
……けれどもう、なにも撮りたくない。なにも見たくない。
こんな結末しか待っていないのなら……写真なんて……思い出なんて……。
────いらない。
何度季節が移ろっても、いいことは起きなかった。
あの日からわたしの時間はとまったままだから、悪いことも、なにも起きない。
思い出は増えることがない。
波止場に腰をおろして眺めた海は、いつも同じ色をしていた。
不意に、わたしはその場から立ち上がり、海上に向かって飛び込んだ。
空中で艤装を展開して、海上に降り立つ。
足もとで小さな水しぶきが跳ねて、ぱしゃぱしゃと波打っている。
べつに、そうすればなにかが変わるだなんて微塵も思っていなかったけれど、わたしは指でカメラの形を作って、どこまでも続く水平線の彼方を覗き込んだ。
こんなことをしても司令官はわたしを見つけてくれないし、わたしが司令官を見つけることもできないのに。
──その日からいつも、わたしは
前には進めなくて、来た道を戻ることだってできない。
どこへにも行けず、わたしは
だからいつも同じ場所で、あなたがわたしにうそをついた、この場所で──あなたを探した。
新しい司令官が着任したらしい。
どうでもよかった。わたしの司令官は今も昔も、たったひとりだったから。
だけど、鳳翔さんに連れられて、わたしは彼の姿を見に行った。
「──……」
加賀さんに弓を突きつけられながら、困惑している司令官がいた。
どれだけの長い間、彼と離れて過ごしただろう。
いつしか、執務室にも行かなくなり、彼の写真を見ることもなくなった。
それでもわたしは、一目でそれが司令官だとわかった。
いつかの日の──彼の笑顔は、おどけた声は、まっすぐで綺麗な瞳は──目を閉じると昨日のことのように思い出せた。
「……」
依然苦笑を浮かべたままの彼と目があって、わたしはすぐに逸らした。
心の中がぐちゃぐちゃで、気持ちに整理がつかない。
希望と、絶望。
期待なんてしちゃだめだ。何度も何度も、そう自分に言い聞かせた。
だって……増える思い出は、悪いものばかりだから。
〝あなたは、青葉の知っている司令官じゃない〟。
〝それはまあ、俺と君はこの鎮守府で初めて知り合ったからな〟。
〝……そういうことじゃないです〟。
ほら、やっぱり司令官はうそつきだ。
悪い思い出ばかりが増えていく。
だから、期待なんてしちゃいけない。そう、理解しているのに、
〝……──俺は、必ず君の司令官を見つけてみせる〟。
〝だから、少しだけ待ってほしい〟。
ねえ司令官。
どうして、そんなことを言うんですか?
どうしてまた、青葉にうそをつくんですか?
〝来てくれて、話してくれてありがとう、青葉。……今度は俺が君を迎えに行く。約束する〟。
────ねえ司令官。
────どうして司令官はいつも、青葉が欲しいものをくれるんですか?
それから数日が経って──昨日のことだ。
鎮守府の中庭で赤城さんと加賀さんのふたりとすれ違った。
通り過ぎるわたしを呼びとめて、振り返ったわたしに、加賀さんはいつかの日のような微笑を浮かべた。
「青葉。あの人は……私たちが愛した提督よ」
胸もとをきゅっとにぎって、嬉しそうに。
「青葉には……関係ないですよ」
吐き捨てて、その場をあとにしようとくるりと振り返る。
わたしと違って前に進めた彼女が、羨ましくて見ていられなかったから。
「──青葉さん」
歩き出したわたしの背に、今度は赤城さんが声をかけてきた。
わたしは立ちどまったけれど、振り返りはしなかった。
「今度こそ、みんなでお花見に行きましょう。私は花より団子なのですが」
「……」
〝青葉さん、もう写真は撮らないのですか? 今年は桜がとても綺麗ですよ。ぜひ見に行きましょう。私は花より団子なのですが〟。
──いつだったか、似たような誘いを受けたことがある。
あのときの赤城さんの声は……笑顔は、痛々しくて見ていられなかった。
だけど、振り返って見た今の赤城さんの笑顔は──ふわふわと雪のように舞う桜の花びらのような、形容し難くて、名状し難い。
ただひとつわかるのは──とても綺麗で、かわいらしい、そんな笑顔だった。
「……そういえば、提督は昔からそうでしたよね」
「ええ。どうしようもない人でしたが、そこだけはいつも一貫していました」
わたしを置いて、赤城さんが言葉を繋げる。
それに澄ました笑顔で応える加賀さんに、わたしはついていけなかった。
「──青葉さん。提督はいつも、あなたが泣いていたら迎えにきてくれたでしょう?」
「──……」
「もう少しだけ、提督を待っていてあげてちょうだい、青葉。あの人は必ず、あなたを迎えに行くわ」
──ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちた。
大粒の涙が、いくつも頬を伝って流れ落ちていく。
言葉を絞り出そうとしても、あふれ出る嗚咽が邪魔をする。
もう一度、信じてもいいのだろうか。
あの日からどこへにも行けず、同じ場所をぐるぐるとまわっていただけのこんなわたしが──また、司令官を待っていてもいいのだろうか。
〝探し物は、本当の司令官……だったな〟。
〝ようやく見つけてくれる気になったんですか?〟。
〝ああ、待たせてすまなかった。本当に……長い間……〟。
ずっと、気が遠くなるくらい長い間青葉をひとりにしたくせに。
いつだって優しくしてくれて……こんなにも大好きにさせたくせに。
うそをついて、勝手にいなくなって、ずっと……ずっと……青葉を待たせて、もう二度と会えないんだって……そう思わせたくせに。
────どうして司令官は、何度でも泣いている青葉を見つけてくれるんですか?
× × ×
「もう……ひとりは、嫌……」
話し終えたのと同時に、とめどなく涙があふれ出した。
隣に腰を下ろしてだまって聞いていた司令官は青葉の肩に腕をまわして、自分の方へと抱き寄せた。
辺りはすっかり暗くなっていて、あの日のような星空が、青葉と司令官を彩っていた。
「ごめん……青葉。大切だったものを手放してしまうくらい、君を傷つけてしまって……ごめんな……」
壊して、捨ててしまった思い出は、もう二度ともとには戻らない。
形のあるものは、失くしてしまえばあっさりと終わってしまう。
あの日買ってもらったカメラは、もうこの世界のどこにもない。
もう二度と撮らないと、期待なんてしないと、誰かを好きになったりしないと……そう塞ぎ込んでいた青葉の手から、あっけなくこぼれ落ちていってしまった。
「ごめん、青葉……」
抱き寄せられて、頭をぴったりとくっつけたまま、青葉は声をあげて泣いた。
形のあるものは失くしてしまえば取り戻せないけれど、形のないものは、いつまでも色褪せずに残っていた。
あの日ふたりで見上げた星空は変わらずに、今も青葉たちの頭上できらめいている。
〝これからもっと色んなことを経験するだろう。いいことも、悪いことも。きっとたくさん増えていく。──だからさ、悪いことばかりを切り取って悲しむんじゃなくて、ぜんぶ思い出に変えていくんだ〟。
〝……でも、悲しいものは悲しいですよ〟。
〝わかってる。落ち込んだり、立ちどまってしまうことは悪いことじゃない。でもさ、そのすべてを受け入れて、いつの日か──いつまで経っても昨日のことのように思い出せて笑い話にできたなら、それはとてもロマンチックなんじゃないか?〟。
あの日司令官が言っていたことも、今ならわかる気がする。
────ねえ、青葉が大好きだった司令官。
────青葉はやっと……やっと見つけたよ。
青葉がずっと探していたもの。
いつの日か、いつまでたっても昨日のことのように思い出せて笑える……ロマンチックな、青葉を支えてくれるもの。
────ねえ、青葉が愛していた司令官。
────青葉はもう、前を向いて歩いていけるから……。
「また……、……ッ」
あふれ出した涙は今もなお、とまらなかった。
こんなにぐしゃぐしゃの
ありがとう、あの日の司令官。
ありがとう。わたしを見つけてくれた、青葉の大好きな司令官。
さようなら。青葉が一番深く愛した──司令官。
「……、……」
ごしごしと、強く目もとを拭って、まわされていた腕をほどいた。
隣に座る司令官へと向き直り、真っ赤に腫れた目で、それでもわたしは精いっぱい、笑ってみせた。
「──……また、青葉をよろしくね!」