「榛名」
私を呼ぶ声が聞こえた。
優しい声。いつか、どこかで聞いたことのある声だった。
……でも、どこで聞いたのだろうか。
わからない。思い出せない。
あなたの
「ずいぶん遅くなったけど、たくさん悲しませてしまったけれど……帰ってきたよ、榛名」
私は、待っていたのだろうか。
悲しいことなんてあったのだろうか。
私は一体、誰を待っていたのだろうか。
「ただいま。榛名」
「……」
それがなぜ琴線に触れたのかはわからなかった。
真っ暗で、なにも見えないのに……涙があふれ出す。苦しくなる。
どうしようもなく……とめどなく。
「……俺が、君たちをそんなふうに変えてしまったんだ……。きっと榛名も金剛も、みんな、ずっと笑顔でいれたはずなのに……」
とても悲しげで、悔しそうな声だった。
自室のベッドの上で上半身を起こして、窓の外を眺める私の隣に椅子を置いて、その人はそこに腰かけた。
「手、握ってもいいか?」
やわらかなその声に、私はこくりと頷いて応えた。
震えながら私の手を握ったその人の手から伝わる温もりが、とても懐かしくて、胸がきゅっと締めつけられる感覚がした。
こんなにもあたたかくて、こんなにも愛おしいのはどうしてだろうか。
「あなたは、不思議です。どうして榛名に構うんですか?」
「……俺は、榛名の提督だから。不甲斐なくて、情けなくて……いつも君たちに助けられてばかりいたから、その恩を返したいんだ」
「……?」
ことりと首を傾げると、彼はうしろ髪を撫でて苦笑した。
「俺も人のことは言えないから。思い出してくれなんて言わない。……でも、これからはこうして毎日、君に会いに来てもいいか?」
そう言って、彼は親指で私の涙を拭い、頭を撫でた。
「君とたくさん、話がしたい」
「あなたがいいのなら、榛名も大丈夫です」
「よし、じゃあ約束だ」
ふっと微笑して、彼はこちらに小指を差し出した。
私も同じように小指を差し出して、指を絡める。
私はきゅっと、途切れてしまわないよう指に力を入れた。
離してしまったら、失くしてしまうような気がしたから。
「……榛名」
また、涙があふれ出す。
どうしてだろう。あの日から、一度だって泣いたことなんてなかったのに。
……あの日? あの日とはいつのことだろう。
思い出せない。それなのにどうして、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。
「もう、好きなだけ泣いていい。もう大丈夫だ。今度こそ忘れないから……俺がずっと、君の傍にいるから」
そう言って、彼は私を抱きしめた。痛いくらいに強く。
そのぬくもりは優しくて……懐かしくて、ひどく悲しかった。
「苦しい、です……」
「ご、ごめん……」
慌てて、彼は私から距離を取った。
それがひどく寂しくて、私は繋いだままの小指をそっと手繰り寄せた。
「胸が……張り裂けそうなくらい苦しいんです」
痛い。苦しい。寂しい。悲しい。
今まで忘れていたものが、次々とあふれ出してくる。
「だから……もう一度、強く抱きしめてください」
「──……」
さっきよりももっと強く、折れそうなくらいに抱きしめてくれた。
離してしまった時間を埋めるように、空いてしまった距離を縮めるように。
「ごめん……。ごめん、榛名……」
震えている彼の表情は窺えなかった。
泣いているのかもしれない。
そうだとしたら、どうして彼が泣いているのかはわからないけれど、私は空いた手を彼の背中にまわして、ゆっくりと、何度も撫でた。
「不思議です。こうしていると、なぜだか心が満たされていくんです」
「……俺もだよ、榛名」
あなたを感じるほどに、離れ難いと思ってしまう。
久しく忘れていた安らぎに包まれて、私は睡魔に襲われた。
彼の匂いが心地よくて、次第にまぶたが重くなっていく。
私は彼に身体を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
まどろみの中で、いつかの記憶がよみがえる。
──とても懐かしい夢を見た。
ことあるごとに、私の頭を撫でてくれた人がいた。
顔が見えない。声も聞こえない。
きっとこの人は、忘れてはいけない人だった。いつまでも覚えてなきゃいけない人だった。
ずっと、待ち続けていなくてはならない人だった。
きっと……この人は私がこの世で一番────
「……」
差し込んだ光が眩しくて、目を覚ました。
いつの間にか眠りについていたらしい。
ぼうっと天井を眺めながら、徐々に意識を覚醒させていく。
左手に、違和感があった。
ふとそちらの方に目をやると、私の左手の小指は繋がれていて、その指の先をたどると、私のベッドに突っ伏して眠る彼がいた。
「んぁ……」
私が体を起こしたのと同時に、彼は寝ぼけまなこのままこちらを見上げる。
いまいち状況が思い出せない。どうして私は、ふたりで眠っていたのだろう。それも、指を繋いだまま。
「どうしてここにいるのですか?」
問いかけた私に、「これ」と言って彼は繋いだ指を見せてきた。
「榛名が離してくれなくてさ」
どこか嬉しそうに、ふにゃりと笑って。
「榛名が、ですか?」
「そ。榛名が」
「……どうしてにやにやしているのですか?」
「ええ? してる? してないだろ」
言いながら、先ほどよりもだらしなくふにゃふにゃと笑っている彼に、私はむっとした表情を向けた。
そんな私を見ても彼の表情筋はゆるんだままで、なんだかバカらしくなってくる。
「……なにがそんなに嬉しいのか、ぜんぜんわかりません」
「──嬉しいよ。こうして君と、普通に話せてるんだから。嬉しいに決まってる」
それは、先ほどのようなだらしない笑顔ではなく、愛おしいものを見つめるような、やわらかい笑顔だった。
「榛名」
面食らって、目を丸くして固まっていた私の名前を呼んで、彼はまた微笑した。
「外に出かけてみないか?」
言って、彼は窓の外に視線をやった。
こんなに天気がいいからさ、と言葉を繋げたけれど、私の目には灰色にしか映らなかった。
いつからか色を失くしてしまったこの世界で、私はただ漠然と生きてきた。
「……なにか、用事でもあるのですか?」
「いや、なにもないな」
「だったら──」
「デートだよ、榛名。俺とデートしよう」
それは、いつかどこかで聞いたことのあるようなセリフだった。
いつ、どこでだったかは思い出せない。
思い出せないのに、胸があたたかくなった。
そういえばいつだったか、なにか、とても大切な願い事をしたような気がする。
一体、なんだっただろうか。
────あの日、私が願ったものは。