あの日の約束   作:喬 

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22話

「榛名」

 

 私を呼ぶ声が聞こえた。

 優しい声。いつか、どこかで聞いたことのある声だった。

 ……でも、どこで聞いたのだろうか。

 わからない。思い出せない。

 

 あなたの表情(カオ)が────ずっと見えない。

 

「ずいぶん遅くなったけど、たくさん悲しませてしまったけれど……帰ってきたよ、榛名」

 

 私は、待っていたのだろうか。

 悲しいことなんてあったのだろうか。

 私は一体、誰を待っていたのだろうか。

 

「ただいま。榛名」

「……」

 

 それがなぜ琴線に触れたのかはわからなかった。

 真っ暗で、なにも見えないのに……涙があふれ出す。苦しくなる。

 どうしようもなく……とめどなく。

 

「……俺が、君たちをそんなふうに変えてしまったんだ……。きっと榛名も金剛も、みんな、ずっと笑顔でいれたはずなのに……」

 

 とても悲しげで、悔しそうな声だった。

 自室のベッドの上で上半身を起こして、窓の外を眺める私の隣に椅子を置いて、その人はそこに腰かけた。

 

「手、握ってもいいか?」

 

 やわらかなその声に、私はこくりと頷いて応えた。

 震えながら私の手を握ったその人の手から伝わる温もりが、とても懐かしくて、胸がきゅっと締めつけられる感覚がした。

 こんなにもあたたかくて、こんなにも愛おしいのはどうしてだろうか。

 

「あなたは、不思議です。どうして榛名に構うんですか?」

「……俺は、榛名の提督だから。不甲斐なくて、情けなくて……いつも君たちに助けられてばかりいたから、その恩を返したいんだ」

「……?」

 

 ことりと首を傾げると、彼はうしろ髪を撫でて苦笑した。

 

「俺も人のことは言えないから。思い出してくれなんて言わない。……でも、これからはこうして毎日、君に会いに来てもいいか?」

 

 そう言って、彼は親指で私の涙を拭い、頭を撫でた。

 

「君とたくさん、話がしたい」

「あなたがいいのなら、榛名も大丈夫です」

「よし、じゃあ約束だ」

 

 ふっと微笑して、彼はこちらに小指を差し出した。

 私も同じように小指を差し出して、指を絡める。

 私はきゅっと、途切れてしまわないよう指に力を入れた。

 離してしまったら、失くしてしまうような気がしたから。

 

「……榛名」

 

 また、涙があふれ出す。

 どうしてだろう。あの日から、一度だって泣いたことなんてなかったのに。

 ……あの日? あの日とはいつのことだろう。

 思い出せない。それなのにどうして、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。

 

「もう、好きなだけ泣いていい。もう大丈夫だ。今度こそ忘れないから……俺がずっと、君の傍にいるから」

 

 そう言って、彼は私を抱きしめた。痛いくらいに強く。

 そのぬくもりは優しくて……懐かしくて、ひどく悲しかった。

 

「苦しい、です……」

「ご、ごめん……」

 

 慌てて、彼は私から距離を取った。

 それがひどく寂しくて、私は繋いだままの小指をそっと手繰り寄せた。

 

「胸が……張り裂けそうなくらい苦しいんです」

 

 痛い。苦しい。寂しい。悲しい。

 今まで忘れていたものが、次々とあふれ出してくる。

 

「だから……もう一度、強く抱きしめてください」

「──……」

 

 さっきよりももっと強く、折れそうなくらいに抱きしめてくれた。

 離してしまった時間を埋めるように、空いてしまった距離を縮めるように。

 

「ごめん……。ごめん、榛名……」

 

 震えている彼の表情は窺えなかった。

 泣いているのかもしれない。

 そうだとしたら、どうして彼が泣いているのかはわからないけれど、私は空いた手を彼の背中にまわして、ゆっくりと、何度も撫でた。

 

「不思議です。こうしていると、なぜだか心が満たされていくんです」

「……俺もだよ、榛名」

 

 あなたを感じるほどに、離れ難いと思ってしまう。

 久しく忘れていた安らぎに包まれて、私は睡魔に襲われた。

 彼の匂いが心地よくて、次第にまぶたが重くなっていく。

 私は彼に身体を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 

 まどろみの中で、いつかの記憶がよみがえる。

 

 ──とても懐かしい夢を見た。

 

 ことあるごとに、私の頭を撫でてくれた人がいた。

 顔が見えない。声も聞こえない。

 きっとこの人は、忘れてはいけない人だった。いつまでも覚えてなきゃいけない人だった。

 ずっと、待ち続けていなくてはならない人だった。

 きっと……この人は私がこの世で一番────

 

 

 

「……」

 

 差し込んだ光が眩しくて、目を覚ました。

 いつの間にか眠りについていたらしい。

 ぼうっと天井を眺めながら、徐々に意識を覚醒させていく。

 左手に、違和感があった。

 ふとそちらの方に目をやると、私の左手の小指は繋がれていて、その指の先をたどると、私のベッドに突っ伏して眠る彼がいた。

 

「んぁ……」

 

 私が体を起こしたのと同時に、彼は寝ぼけまなこのままこちらを見上げる。

 いまいち状況が思い出せない。どうして私は、ふたりで眠っていたのだろう。それも、指を繋いだまま。

 

「どうしてここにいるのですか?」

 

 問いかけた私に、「これ」と言って彼は繋いだ指を見せてきた。

 

「榛名が離してくれなくてさ」

 

 どこか嬉しそうに、ふにゃりと笑って。

 

「榛名が、ですか?」

「そ。榛名が」

「……どうしてにやにやしているのですか?」

「ええ? してる? してないだろ」

 

 言いながら、先ほどよりもだらしなくふにゃふにゃと笑っている彼に、私はむっとした表情を向けた。

 そんな私を見ても彼の表情筋はゆるんだままで、なんだかバカらしくなってくる。

 

「……なにがそんなに嬉しいのか、ぜんぜんわかりません」

「──嬉しいよ。こうして君と、普通に話せてるんだから。嬉しいに決まってる」

 

 それは、先ほどのようなだらしない笑顔ではなく、愛おしいものを見つめるような、やわらかい笑顔だった。

 

「榛名」

 

 面食らって、目を丸くして固まっていた私の名前を呼んで、彼はまた微笑した。

 

「外に出かけてみないか?」

 

 言って、彼は窓の外に視線をやった。

 こんなに天気がいいからさ、と言葉を繋げたけれど、私の目には灰色にしか映らなかった。

 いつからか色を失くしてしまったこの世界で、私はただ漠然と生きてきた。

 

「……なにか、用事でもあるのですか?」

「いや、なにもないな」

「だったら──」

「デートだよ、榛名。俺とデートしよう」

 

 それは、いつかどこかで聞いたことのあるようなセリフだった。

 いつ、どこでだったかは思い出せない。

 思い出せないのに、胸があたたかくなった。

 

 そういえばいつだったか、なにか、とても大切な願い事をしたような気がする。

 一体、なんだっただろうか。

 

 ────あの日、私が願ったものは。

 

 

 

 

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