雪が降っていた。
吐息が白く凍り、肌を刺すようなそんな寒さの中、提督の様子は普段とどこか違っている。
こんな寒い日は鎮守府どころか執務室からだって一歩も外に出ようとしないのに、散歩に行きたいと、言い出したのは提督からだった。
鎮守府近辺をぐるりとまわり、最後にやってきたのは桜の木が一本だけ立っている小さな公園だった。
そこのベンチにふたり並んで腰をおろして、今は枯れ落ちてなにもない桜の木に目をやった。
隣の提督はずっと、遠くを見つめたままでいる。
その寂しそうな横顔は、一体なにを見ているのだろうか。
「……」
沈黙が続く。
そういえば、出会って間もない頃も提督のこんな横顔を見た覚えがある。
伝えたいことはたしかにあるはずなのに、それを言ってしまえばなにかが変わってしまうと恐れているような。
傷を抱えていることは知っていた。でもそれに触れることが正しいことなのかがずっとわからなくて。
言えないことなら、聞かないほうがいいと、ずっとそう思っていた。
触れることで初めて溶けていくものだったのかもしれないのに。
「……このままだったら、積もってしまいますね」
言って、提督は寒そうに手を擦りあわせた。
ようやくこちらを向いた提督は苦笑を浮かべていた。
「……私は……、……私は、提督の艦娘です」
「……? はい。鳳翔さんは、俺の大切な艦娘です」
ことりと首を傾げて、やわらかく微笑した提督に、私はきゅっと口を引き結んだ。
──言えないことなら、言いたくないことなら、そう言ってほしい。
そう言ってくれたなら、無理に聞き出そうとしたりしないから。
あなたが教えてくれるまでずっと……ずっと待ち続けるから。
「提督……」
「はい」
私がなにを言おうとしているのか、なにを聞こうとしているのか。
ぜんぶわかっているような、そんな優しい笑顔を向けて提督は私の頭に積もった雪をそっと手で払った。
「どうしました、鳳翔さん」
「──……私は、提督のことが……提督のことを、もっと知りたいです……」
絞り出すように、弱々しい声で私は提督を見上げた。
──なんて、傲慢な願いだろうか。
ひどく独善的で、自分が嫌になる。
けれど提督はそんな私に、心があたたかくなるような、優しい微笑をくれた。
「いいですよ。俺も、あなたにもっと知ってもらいたい」
「──……」
右手で口もとを押さえて、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえた。
提督は、いつでも──どこまでも優しい。
「けど、愉快な話ではないので、聞くのが嫌になったら言ってください」
「提督も、話すのが嫌になったら言ってください」
そう言うと、提督は苦笑して、手にしていた傘を開いて私の頭上に差し出した。
提督が濡れてしまわないように、私は肩がぴったりとくっつく距離まで近づいた。
彼は少し照れくさそうにしていたが、やがて私から視線を逸らすと、どこか遠くを見つめてぽつりぽつりと話し出した。
「ちょうど、今日みたいに雪が降る日でした。……『お前なんて生まなきゃよかった』と、俺が初めて母親に言われたのは」
寂しそうに笑いながら、遠くを見つめながらそう言った。
その瞳はなにを映しているのだろうか……。
「俺の父は、母に子どもができたと知ってすぐに逃げ出したらしいです。しかも、腹違いの兄弟までいるんだと。……それでも母は、最初は優しかったんです。父親はいなくて、貧しかったけれど……母さんがいれば俺は幸せでした」
「……」
「けど、母さんにとって俺は邪魔な存在だったみたいで。いつからか母さんは、あまり家に帰ってこなくなりました。俺はずっとひとりきりで、いつも冷めたごはんを食べていました」
明るく振るまってはいるけれど、提督の視線は次第に自分の足もとへと落ちていく。
「──たまに帰ってきたと思ったら知らない男を連れてきて、邪魔だから外にいろとそう言われて。そのときは倉庫で夜が明けるまでずっと待ち続けるんです。毛布があったから大抵の寒さは我慢できたんですけど、雪が降る日はつらかったな」
自嘲気味に言葉を繋げる提督は寒さのせいか、鼻の先が少し赤くなっている。
心なしか、傘を持つ手が震えているような気がした。
「そんな環境で育ったから、本当の愛なんて知らなくて。みんなにも、ちゃんと優しくできているか不安になってしまうことがよくあるんですよ」
ひとつ、俯いたままの提督の頬を伝って涙がこぼれ落ちた。
ずっと我慢してきたものと、一緒に。
……いや、本当はきっと、最初からこぼれ落ちていたのだ。悟られないように気丈に明るく振るまい、でもいつか気づいてほしいと思っていたのかもしれない。
あの日見た提督の寂しそうな横顔は、きっと、苦しいと──そう言っていたような気がする。
「提督……」
私がこんなことをしたくらいで、こんなことを言ったくらいで提督の心が軽くなるのかはわからないけれど。
包み込んで受けとめてあげられるほど私の存在は大きくないのかもしれないけれど。
「……大丈夫ですよ、提督。あの子たちはみんな提督の愛を知っています。みなさんの笑顔を見れば、それくらいわかりますよ」
傘を持つ震えていた提督の手を、両の手できゅっと包み込んだ。
指先まで冷え切った提督の手が、その心情を表しているようだった。
──いつだったか、冬は大嫌いだと言っていたのを思い出す。凍えるような冷たさと、なにも見えなくなるほどの真っ白な雪景色が怖いのだと。
「……俺の気持ちは、みんなにとって重荷になっていませんか?」
「いいえ。そんなことを思っている子はひとりだっていません。私が保証します」
「……俺は……生まれてきてよかったんでしょうか?」
「あたりまえです。誰がなんと言おうと、私は提督に出会えて、心の底からよかったと、そう思っています。それはこれから先、何十年経っても変わることはありません」
「俺は……──」
「提督」
冷え切ってしまったその頬に、そっと触れた。
触れた瞬間、提督は肩を震わせ怯えた表情を見せたけれど、やがてたしかめるように、触れていた私の手をきゅっと強く握り頬擦りをした。
「──提督。私たちに出会ってくれて、生まれてきてくれて……ありがとうございます」
きっと、生まれてこなければよかった人なんて、この世にひとりとしていない。
その人の生き方で、それが覆されることがあるのかもしれないけれど。
この世に生を授かったことは、なによりも尊いことだと思うから。
「俺は……」
──降りしきる雪の中、初めて提督の涙を見た。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が、雪の上に落ちては溶けていく。
ずっと、前に進みたくて、進んできたけれど──ずっと景色は真っ白で、なにも見えなかったのだろう。
「泣くことは、恥ずかしいことではありません。決して悪いことでもなく、隠さなければいけないことでもありません」
提督の頭に手をまわして、そっと自分の胸もとに抱き寄せた。
提督はされるがままで、嗚咽を漏らしながらも、それでも必死に言葉を絞り出した。
「……ずっと、そう言ってほしかった……。必要と……されたかった……」
「──はい。私には、私たちには、提督が必要です。なによりも──あなたのことが大切です」
「──……」
提督はずっと、声を押し殺して泣いていた。
今までずっとため込んできたものを吐き出すように……ずっと。
────提督。もう大丈夫ですよ。
この鎮守府には、提督のことを想ってくれる子たちがたくさんいるのだから。
また、春がくれば綺麗な桜が咲くように、
──提督の心にも、きっと。
× × ×
冷たい冬が終わり、また新しい春がやってきた。
まだ少し肌寒い風は吹くけれど、ぽかぽかとあたたかい日差しが私たちを照らしてくれる、そんな春が。
「提督」
「どうしました、鳳翔さん」
隣に座る提督はやわらかく微笑した。
畳の匂いが心地よくて、ここから見える桜が大好きだった。
私と提督だけが休憩のために使用している部屋で、私と提督だけの空間。
「最初に比べて、ずいぶんたくさんの子たちが着任しましたね」
「そうですね。鳳翔さんとふたりだけのときも楽しかったですが、賑やかなのもいいですよね」
「あの頃の提督は、まだまだ幼さが残っていましたね」
思い出すように笑った私に、提督は照れくさそうに目を逸らす。
……この表情は、私だけが知っている。
思い上がりかもしれないけれど、そうであってほしいと、こちらに向き直った提督に、もう一度微笑した。
「鳳翔さん」
「はい。どうしました、提督」
「ずっと俺を支えてくれてありがとうございました」
「まあ。私はもうお役御免ですか?」
「い、いえ! そういうつもりでは……」
揶揄うように言った私に、あわあわと慌てふためく提督。
やっぱりこのかわいらしい表情や仕草は、ふたりで始めた私だけの特権であってほしい。
他の子には見せない一面で、あってほしい。
「ふふっ。冗談ですよ」
「……揶揄わないでくださいよ。……その、ええと、改まって言うのは本当に恥ずかしいんですけど、でも……」
途中で言葉を切って、提督は短く息を吐いた。
なんだか難しい
「……俺、鳳翔さんの作るご飯が大好きです。鳳翔さんの淹れてくれるお茶も好きだし、俺をいつも気づかってくれる優しさも好きです。顔も、声も、髪型も……それから、」
目を細めて、提督はふっと笑った。
その笑顔にはどんな感情が込められているのだろうか。
愛おしそうに──そんな表情だと、そう捉えてもいいのだろうか。
「あなたのことが大好きです」
「──……」
頬が、身体全体が、熱で溶けるような感覚がした。
それは今までに感じたことのない感覚で戸惑ってしまう。
きっと、私の頬は真っ赤になっている。
「鳳翔さん。俺と──ケッコンしてください」
「──……だって、私は……」
〝ケッコンカッコカリ〟。
それは、端的に言えば艦娘の能力を底上げする装備品。
前線で戦っている子たちがもらうべきもので、私には必要のないものだった。
誰よりも先にそれをもらったのは赤城さんで、その次は加賀さんだった。
それから榛名さんや金剛さん、青葉さん──他にもいろんな子たちがそれを受け取って……本当に、思うところはなかった。
そりゃあ、少しも羨ましいという気持ちがなかったといえばうそになってしまうが、それでもそのことで提督を恨んだり、怒ったりなどしたことはない。
むしろ、それだけみんなのことを大切に思っている提督が誇らしかった。
だから────
「受け取ってくれますか?」
愛おしそうに笑う提督に──必死でこらえてもぽろぽろと、次から次へと落ちてくる大粒の涙が、抑えきれなかった。
「好きです。鳳翔さんのことが。もちろん沈んでほしくないからという意味も込めていますが、それだけじゃありません。みんな大切ですが、あなたは──俺の特別です」
──いつからだろうか。
その言葉をずっと……あなたの口から聞きたいと願ってしまっていたのは。
一体いつから、どうしようもなくあなたに惹かれていたのだろうか。
「……、……っ」
嗚咽が邪魔をして、言葉が出てこない。
そんな私の左手をとって、提督は私の薬指の先に指輪を触れさせた。
「嵌めてもいいですか?」
こくりと、私は頷くことしかできなかった。
「……今すぐに、あなたとどうにかなりたいというわけではありません。それでも、俺の気持ちを知ってほしかった。……だからまた、いつでもいいのであなたの気持ちも俺に教えてくれますか?」
そう言って、提督はやわらかく微笑した。
「……はい」
──すべてを言葉にできる自信はないけれど、私の気持ちも余すとこなく知ってほしい
だから、深く考えよう。
私のすべてを……あなたに伝えるために。
──だけど、私の気持ちはもう二度と……提督に届くことはなかった。