「──……」
ぽろぽろと、いくつも頬を伝い落ちた大粒の涙が手紙を濡らした。
私はその場にしゃがみ込み、うずくまり、右手で口もとを押さえて嗚咽した。
──そうだった。提督はずっと……最初から最後まで、そういう人だった。
とまってはいけなかった。前に進み続けるべきだった。
自分のせいだと、自分だけはなにがあっても許されてはいけないと、ずっとそう思っていた。
本当は今でも、自分のせいだとは思っている。
私がしっかりしていれば、私にもっと力があれば、提督が死ぬことはなかったのだと。そうやって立ちどまることでずっと逃げ続けてきた。
────あなたは
誰よりも近くにいたはずなのに。誰よりもその優しさに触れてきたはずなのに。
誰よりも──あなたを想っていたはずなのに。
「……」
〝……俺、鳳翔さんの作るご飯が大好きです。鳳翔さんの淹れてくれるお茶も好きだし、俺をいつも気づかってくれる優しさも好きです。顔も、声も、髪型も……それから、〟。
いつかの、ぽかぽかと陽気な春の日差しが私たちを包んでいたあの日、そう言って笑った提督の
〝あなたのことが大好きです〟。
……あの日、目を細めて愛おしそうに笑ってくれた提督の
────提督。
────死してなお、あなたはまだ私の傍にいてくれるのですね。
× × ×
私の心を凍りつかせていた雪が溶けたように、私の心は晴れやかだった。
もうどこへにも行けないと、ずっとそう思っていたけれど、私はふたり分のお弁当を持って、初めて提督とお花見をした大きな公園へと向かった。
隣に提督はいないけれど、もう大丈夫。
たくさん休んだのだから、この先にどれほどつらいことが待っていたとしてもまた、歩いていける。
「お姉ちゃん、ひとり? ひとりでそんなに食べるの?」
シートを広げ、お弁当の蓋を開けると同時にうしろから声が聞こえた。
振り返ると、きらきらと瞳を輝かせ私のお弁当を見つめる少年がいた。
私の罪を、すべてを溶かしてくれるようなあたたかい声が涙腺を刺激した。
最後にその声を聞いたのは、一体どれほど前のことだっただろう。
在りし日の記憶に想いを馳せると、まるで昨日のことかのように思い出せた。
──心がすぐに理解した。その声が、顔が、優しい瞳が……そのすべてを物語っていたから。
「てい……とく……」
まだ10歳前後くらいだろうか。
初めて会ったときよりもずいぶんと幼かったけれど、この方が提督だということは一目でわかった。
いつだったか、腹違いの兄弟がいると、提督はそんなことを言っていた。
滲んだ視界で彼の顔をよく見ると、下まつ毛が長くて、左目の下にホクロがあるのが見えた。
彼は──提督に瓜二つだった。
「これぜんぶ食べたらお腹こわすよ? おれ、いつも言われるんだ。食べすぎだって」
ふたり分用意されていたお弁当に視線を落としたまま、ふんすと、なぜか得意げに言った彼に、私はくすくすと笑みをこぼした。
──気を抜けば、今にも涙がこぼれ落ちそうになる……。
「本当は、ふたりで食べるつもりだったんです。でもあの人はもう──」
もう二度と来れることはないのだと、そんな言葉が出てきそうになったけれど、私はきゅっと口を引き結んだ。
──違う。提督は、こうして来てくれた。
また私に……会いにきてくれた。
途中でだまりこんだ私を、ことりと首を傾げて不思議そうに見つめながら。たった一枚、桜の花びらを頭の上に乗せて。
「……もしよかったら、一緒に食べていただけますか?」
「え? いいの? お姉ちゃん優しいから好き!」
そう言って歯を見せて笑った彼は、出会ったばかりのころの面影を色濃く残していた。
「──……」
どうしてだろうか。
不意に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
何度拭ってもそれはとめられなくて、不安そうにこちらを見上げる彼に申し訳なくなってしまう。
「……どうして泣いてるの? 悲しいこと、あった?」
「いいえ、そうじゃないんです……。ごめんなさい……きっと……また、あなたに食べてもらえるのが嬉しくて……」
私の言ったことは理解できないだろう。
私と彼は、同じときを生きてはいないから。
それでも彼はふっと優しく笑って、右手で私の頬に触れて、親指で涙を拭ってくれた。
「大丈夫? 泣き虫のお姉ちゃん」
「……ごめんなさい」
「おれも、泣いたら母さんがこうしてくれるから、大丈夫だよ。……あ、いや、おれは泣いたことなんてないけど!」
「……ごめん、なさい……」
同じ言葉を、何度も繰り返した。
あの日からずっと、こうしてあなたに直接謝りたかった。
あなたはきっと、気にしないでほしいとそう言って苦笑するだろうけれど。私が私を許せなかった。
だから──こうして謝れることができて、本当によかった。
「転んだら痛いし、嫌なことがあったら苦しくなるよね。おれも、この前父さんが勝手におれのプリン食べちゃってさ、すげー泣い……てないけど! 泣きそうになったから、お姉ちゃんの気持ちわかるよ」
そう言って、彼は小さな手でぽんと私の頭を撫でた。
「でもさ、おれはおとなだから許してあげたんだ。父さん、すげー謝ってきたし。だから、お姉ちゃんが誰に謝ってるのかはわからないけど、きっとその人も許してくれるよ」
「──……」
「もしその人が許してくれなかったら、俺が代わりにいいよって言ってあげる。おれがお姉ちゃんを許してあげるから、」
俯いていた顔をあげると、彼と目があった。
まだ小さな彼と私の目線は同じ高さで、彼の瞳は──昔から変わることなく、とても綺麗だった。
「だから、もう苦しまなくていいよ」
そう言った彼のやわらかな笑顔が、いつかの提督と重なった。
まだこんなに小さいのに、その笑顔はとても大人びて見えた。
────提督。覚えていますか?
────お互いになにひとつ持っていなかったあの日のことを。そんな私たちがたったふたりで歩き始めたあの日のことを。
わかっている。
目の前の彼がそんなことを覚えているはずがないことくらい。
それでも……そう思ってしまうほどに、彼が私に向けてくれる瞳はあのころのままだった。
「おれ、泣き虫のお姉ちゃんみたいに泣いてる人の顔、あんまり見たくないんだよ。おれも悲しくなっちゃうから」
「……」
「だから、みんながずっと笑っていられるような、そんな世界がいいんだ」
『いつか、平和な海を取り戻して、みんながずっと笑っていられるような、そんな優しい世界にしたい。』
──提督が私に残してくれた手紙に、そんな一文があったことを思い出す。
提督の、心からの願い。
「父さんが言ってた。海は悲しくて寂しいところだって。海には沈んだひとたちがたくさんいて、みんな泣いてるって、そう言ってた」
彼は私の頭に置いていた手をそっとおろして、歯を見せて笑った。
「だから、おれも父さんみたいに海軍になる。おれが海を楽しくて優しいところにする。泣き虫のお姉ちゃんが、ずっと笑ってられるように」
「──……」
その言葉に、その笑顔に。ようやくとまりかけていた涙が、またぽろぽろとこぼれ落ちる。
けれどそれはもう、うしろ向きな涙ではなくて。
「……ありがとう、ございます……」
私も、笑った。
涙はいくつもこぼれ落ちていくけれど。
心の底から幸せだった。
「──約束」
そう言って、彼は小指を差し出してきた。
「……はい。みんながずっと笑っていられるような、そんな優しい世界にしてください……」
私は彼の小指に、自分の小指を絡めた。
──小さくて、抱えきれないほどに大きな約束。
いつの日かあなたが、塞ぎ込んでしまった加賀さんたちを迎えにきてくれることを、私は願ってもいいのだろうか。
いつかの日のように、また騒がしくて賑やかな鎮守府がこの手に戻ってきてくれることを、期待してもいいのだろうか。
「うん! ぜったい、守るから」
そう言ってやわらかく微笑した彼の頭の上に乗っていた桜の花びらが、風に吹かれて空高く舞い上がった。
その桜の花びらの行く末を目で追ったけれど、それはやがて日差しに覆われて見えなくなった。
それと同時に彼のお腹がぐるっと鳴って、きらきらと輝かせた瞳をこちらへ向けながら、「そろそろ食べてもいい?」と訊ねてきた。
私は目を細めて微笑して、「どうぞ」と返した。
また私の手料理を、美味しそうに食べてくれることが嬉しくて、幸せだった。
──できることならもう少し、ゆっくり食べてほしいのだけど。
× × ×
季節は移ろいで、冷たい風が吹く冬に、この鎮守府には春がやってきた。
私に気づいている様子はないけれど、きっと約束は覚えてくれている。そんな気がした。
そうだったなら、それはまるでお伽噺のようで、とてもロマンチックなことだと、そう思った。
〝あの……これから、よろしくね? 加賀さん〟。
提督に向けて弓を構える加賀さんに、提督は困惑しながらも苦笑を浮かべた。
──ようやく、とまっていた鎮守府の時間が、少しずつ動き出した。
……ある日、提督が執務室から一歩も外に出てこない日があった。
不思議に思い様子を見に行くと、苦しそうに眠る提督の姿が目に入り、私は慌てて濡らしたタオルを提督の額にあて、体の汗を拭った。
聞き取れないほどに小さな声でうわ言を繰り返す提督の頬を、私はそっと撫で、ひとりごちるように語りかけた。
「加賀さんたちも……あの子たちなりの考え方があるのです。決してあなたを憎んでいるのではありません。いつか、それをわかってあげてください……」
もちろん提督は返事はしなかった。
ただ苦しそうにうなされていて、しばらくの間様子を窺っていたけれど、いつのまにか眠りに落ちていたらしい。
頭を撫でられる感覚に目を覚ました。
「……具合はどうですか?」
「え? ……ああ、その、鳳翔さんのおかげで……だいぶ楽にはなりました」
目を合わせずにそう言った提督に返事をして、私は急いでお粥と水を取りに食堂へと向かった。
────提督としてのあなたへ最初に振るまう料理は肉じゃがと決めていたのですが、仕方ありませんね。
そんなことを思いながらため息をついた口もとは、自然とゆるんでいた。
──やがて時雨ちゃんを連れて、提督は食堂へとやってきた。
時間が経つにつれて荒潮ちゃんも一緒に。
瑞鶴と翔鶴も、提督とともに食事をするようになった。
いつしか赤城さんと加賀さんも、金剛さんや榛名さん、青葉さんまでもが昔のように笑顔を見せるようになり、もうとっくに枯れたはずだと思っていた涙が不意に……ぽろぽろとこぼれ落ちてしまった。
本当に、あの日の約束を果たすため……提督はここに戻ってきてくれた。
「遅くなってすみませんでした。最後になりましたが、あなたを迎えに来ました」
「──あなたのためなら、俺はなんだってします」
「……ではひとつだけ、私のお願いを聞いてくれますか?」
「ひとつと言わず、十でも百でも聞きますよ」
「膝枕を……してもらえますか?」
──あの日から、どれだけ前を向いて歩いても、心の底から安心して眠れる日はなかった。
眠ってしまえばまた、大切なものを失うような気がしていたから。
目を覚ましたときに、この手の中に在った大切なものがすべてこぼれ落ちて、どこにもなかったあの日の悲しみは、もう二度と味わいたくなかったから。
────でもやっと、あなたの膝の上で、そのぬくもりに触れられたから。
────少しだけ、お休みします。
話し終えて疲れたのか、眠ってしまった鳳翔さんの頬に触れた。
「そうか。……俺は、鳳翔さんを愛していたのか」
たぶん、その気持ちを完全に忘れてしまったわけではない。
出会って間もないころから、俺はたしかに心のどこかで鳳翔さんを愛おしく思っていた。
けれど、今はまだこの気持ちに名前をつけることができない。
……俺には前世の記憶がないのだから。
曖昧なまま、流されるような真似だけは決してしたくない。
これから先、鳳翔さんのことも、時雨たちのことも、加賀たちのことも──もっと深く知っていって、そして、
「……」
きっといつの日か──
× × ×
「やっぱり提督は鳳翔さんが好きなのね?」
「いや、そんな単純なことじゃなくてさ。ほら、もっとこう、俺複雑な話してたよね?」
「はあ。煮えきらないでちね……」
──最近着任したイクとゴーヤが、俺と鳳翔さんの仲を訝しんでいたので昔話をしてやったわけなのだが、なんか納得いかない反応をもらってしまった。
「……つまり、本物がほしいわけ。わかる? 俺が鳳翔さんを愛おしく思っている気持ちはたしかに否定できないけど、でもそれは在りし日の俺の記憶がそう思わせていて、じゃあ今の俺は鳳翔さんを愛おしく思っていないのかと問われるとそういうことではなくて、だから俺は──おい、聞けよ」
イクは執務室の本棚に飾られてある前世の俺の写真と、俺を交互に見比べている。
ゴーヤの方ももう興味はなくなったのか、『第二回お花見大会』のときの写真をじっと見つめていた。
君たちが見ている写真に写っている俺はどちらも俺であって俺でないのだが、俺には興味ないですか?
と、少し涙ぐみそうになりながらも、わざとらしく咳払いをしてふたりの意識をこちらへ向けさせた。
「だから、いつの日かこの戦いが終わって──」
「こらー! クソ提督!」
ノックもせずに執務室の扉を乱暴に開けて叫んだ曙に、無情にも俺の言葉は遮られてしまった。
せっかくいいこと言おうとしたのに、なんで邪魔するんだ。
「もうみんな食堂に集まってるってのに、いつになったらくるつもりよ!」
「いや、ちがうんだよぼのたん? 俺はまったく悪くなくてだな、このふたりがどうしても昔話を聞きたいって言うからね? サボってたわけじゃないんだ、いやほんとほんと」
「……あ、曙ちゃん。提督の言い分も聞いてあげようよ」
「──う、潮ママァ!」
割って入って曙を宥めてくれる潮に抱きつこうとしたのだが、華麗に避けられてしまった。
あれ? 俺ってもしかしてあんまり好かれてないのか?
「……昔話なんて、楽しい話ばかりじゃないでしょ」
「ああ。でも、幸せな日々はたしかにあったんだ。そうだろ、曙」
「なんで私に聞くのよ、クソ提督……」
曙の言う通り、楽しい話ばかりではなかった。
一度はここを出ていってしまった曙たちにしてみれば、余計にそう思うのだろう。
それでもきっと──俺たちは幸せだったんだ。
俺たちがともに過ごした日々は、たしかにここに在ったんだ。
「だって、お前俺のこと大好きだろ?」
「──……はあ!? な、なに言って……っ、うざ! きもい!」
「うぅ……きもいは言いすぎだろ……。潮ママ、曙ちゃんが反抗期だよ……」
「そういうのがきもいって言ってんの!」
「あ、あはは……」
大げさに腕で涙を拭うふりをする俺と、頬を真っ赤に染めて叫ぶ曙。
それを苦笑して眺めている潮と、ぽかんと口を開けたまま眺めているイクとゴーヤ。
そして、そんな俺たちがいつまで経っても食堂に姿を見せないからと、吹雪や朝潮たちも、他のみんなも次々と執務室へと集まってきた。
──明日は『第3回お花見大会』が開催される。
暁や雷たちに腕を引っ張られ、俺たちは食堂へと向かった。
「──それでね、暁は一人前のレディーなんだから、こーんなにおっきなおにぎりを作ったんだから!」
「雷だって負けてないわ! 司令官への愛情がたっくさん入ってるもの!」
「夕立はね、デザートを作ったっぽい! おいしいおいしい、まぁるいお団子っぽい!」
「ちょ、ふたりとももう少しゆっくり引っ張ってくれないと転んじゃいそうなんだけど……てか夕立はなんで俺の背中にくっついてんだよ、重いだろ」
「あー! 提督さんてば失礼しちゃうっぽい!」
ぐいぐいと引っ張られ、俺の背中に飛び乗った夕立の重さで転ばないよう下半身に力を入れて、俺は苦笑を浮かべた。
食堂の真ん中には鳳翔さんがいて、そのまわりには赤城と加賀、金剛に榛名、青葉や時雨、荒潮、それから瑞鶴と翔鶴もいた。
暁たちに連れられて入り口までやってきた俺に気づいた鳳翔さんは、少し可笑しそうに右手で口もとをおさえてくすくすと笑いながら、左手で小さくこちらに手を振った。
「──……」
腕を掴まれているから手を振り返すことはできなかったけれど、微笑でそれに応えた。
──いつの日か、この戦いが終わって、平和な海が戻ってきたのなら。
そのときにはきっと、答えを出そうと思う。
俺を支えてくれた時雨たちや、想い続けてくれた加賀たち。最初から最後まで、ずっと傍にいてくれた鳳翔さん。
きっと答えなんてまだまだ出せないけれど、ひとつだけ、一貫してわかりきっていることがある。
俺は──
「……」
────ここにいるみんなが、なによりも大切だと。
評価、感想、お気に入り、ここすき等くださった方々、本当にありがとうございました。
とても嬉しかったです。本当に。
最後まで読んでいただけて圧倒的感謝です。