時雨と夕立
「提督。提督あてに手紙が……って、もしかして邪魔しちゃったかな?」
届いていた手紙を手に執務室へと向かうと、そこにはソファに腰かけた提督と、その膝で心地よさそうに眠る鳳翔さんの姿が目に入った。
それほど、鳳翔さんのことをよく知っているわけじゃないけれど、子どものように安心しきって眠っている姿は、意外だった。
「悪いな時雨。鳳翔さん、眠っちゃったみたいでさ。手紙はあとで目を通すよ」
「了解。……それにしても、鳳翔さんが眠っているところなんて初めて見たよ」
「──ずっと、心の奥底では不安だったんだよ。眠ってしまえばまた、大切なものを失くしてしまうかもしれないって」
「また……?」
「ああ、こっちの話だ。いつか時雨にも話してやるよ」
「へー……」
──ほんの少しだけ、むっとした。
だから一応、じとりと目を細めて睨めつけておく。
べつに、妬いているわけじゃない。僕は提督とケッコンしているわけでもないし、ただの秘書艦だから。
鳳翔さんの、提督を見るその目が特別だということくらいは気づいていたし。きっとふたりの間には僕の知らないことがたくさんあって、ふたりだけの世界があるのだと思う。
……けど、今の秘書艦は僕なんだから、〝こっちの話〟なんて、のけものみたいに扱うのはやめてほしい。
拗ねちゃっても仕方がないと思う。
「……まあひとまず、お疲れ様だね、提督。全員攻略おめでとう」
「いや時雨ちゃん? そんなギャルゲーみたいに……。刺々しいなあ……」
だから、少しだけいじわるをした。
そんなことをしても提督の気をひけるわけではないけれど、それくらいはしないと気が済まなかった。
「提督が悪いんだよ?」
「え、俺? なに、クソボケ的なあれ?」
「まあ、それだね」
提督は鳳翔さんの髪を撫でながら、苦笑を浮かべた。
せめて僕がここにいる間だけでもまずはそれをやめてほしいのだけど、鳳翔さんの心地よさそうな寝顔を見ると、そんなことは言えなかった。
「……」
だから、行き場を失った僕のこのやきもちは、いったん置いておくことにする。
「その手紙ってさ、夕立の提督からだよね」
テーブルの上に置いた手紙の差出人は、見覚えのある名前だった。
提督が僕を連れ出してくれたあの日──夕立に会わせてくれたあの日に、耳にした名前だ。
「ああ。そうみたいだな」
「なんだろう? 気になるね」
「……」
じっと手紙へと向けていた視線をあげると、気まずそうに苦笑を浮かべている提督と目があった。
「……?」
ことりと首を傾げてその意をたしかめる。
「ごめんな。今確認した方がいいか?」
「……あ、ごめん、急かしてるわけじゃなくて……ええと、またあとで……聞きにくるね」
なんだか少し恥ずかしくなり、僕は慌てて執務室を出た。
× × ×
「はい、提督。あーん」
「時雨ちゃん? テンション高くない?」
行きの列車の中、持ち込んだポッキーを提督の口もとへと差し出す。
提督は口もとを引き攣らせて、ぎこちない笑顔を浮かべている。
そんな提督を揶揄うように、僕はうるうると上目遣いで彼を見上げた。
「食べないの……?」
「──……いや、食べる。食べます。ぜひ食べさせてください」
──少し落ち込んだ表情を見せるだけで、提督は簡単に折れてくれるということを知ってしまった。
これはよくない。……よくないことだとわかっているけど。
「……」
僕の手からお菓子を食べる提督を見つめていると、提督はばつが悪そうな表情を浮かべた。
それがなんだかかわいらしくて、もう一本差し出した。
提督はだまって食べ進める。
僕も無言のままさらにもう一本差し出す。
「……いや、あの、まだ食べさせる気ですか?」
「……」
提督は困ったように眉を曲げている。
僕はなおも無言で彼を見つめた。
「……」
提督はまた困ったように僕の手からそれを食べ進めた。
──結局、箱の中身全部食べさせて僕が満足したころに、列車は駅への到着を知らせた。
僕たちは慌てて広げていたお菓子や飲み物のゴミをまとめて、列車から飛び降りた。
僕たちの鎮守府があるところとはちがって、たくさんの人が行き交う駅は目まぐるしい。
「……前に来たときはずいぶん遠く感じたけど、そんなことなかったね」
「4時間近くかってんだし、そんなことはあるだろ」
「でも、早く感じたよ」
「そうか? 結構しんどかったんだけど──え、あれ、時雨きゅん? 歩くの速くなあい?」
──べつに、僕が提督とふたりで出かけられることを楽しいと思ってるからといって、提督にも同じ気持ちでいろとは言わない。
言わないけど……しんどいとか言われると、ちょっと悲しい。
僕といることが──そんな意味ではないことくらいわかっているけど、提督は少しデリカシーが足りない。
「……」
駅を出て早足で目的地へと向かう僕と提督の距離は開いていく。
追いかけるばかりは疲れちゃうから、たまには追いかけてもらうのも悪くない。
そんなことを思った。
「──お待ちしていましたよ」
目的地へとたどり着くと、大淀さんはすでに門の前で僕たちを待ってくれていた。
提督は彼女の姿を見るやきりりと眉をあげてキメ顔を作っていた。
「お久しぶりです。またあなたに会えて嬉しいです」などと、バカなことを言っている。
大淀さんは苦笑で応えて、僕たちを執務室まで案内してくれた。
「久しぶりだし、なんか緊張するな」
「そうかな?」
苦笑を浮かべて僕を見下ろした提督は、小さく深呼吸してからそっと扉を叩いた。
するとすぐに「どうぞ」と気のよさそうな返事が返ってきて、僕たちはお互い顔を見あわせて小さく笑った。
相変わらず、優しそうな声だった。
「ご無沙汰しております。このたびはご招待を賜り、誠に光栄に存じます」
「無理を言って呼び出したのはこちらの方だ。かしこまらないでくれ」
軍帽を脱ぎ深々と頭を下げた提督に対し、彼はやわらかな笑みを浮かべて応えた。
「時雨ー! 会いたかったっぽいー!」
「……わっ。夕立、危ないよ」
彼のうしろから飛び出してきた夕立は、思い切り僕に抱きついて頬擦りをしてくる。
思わず一歩下がった僕に構わず、夕立は抱きしめる腕にさらに力を入れた。
「元気してたっぽい? 寂しくなかったっぽい?」
「ふふ。元気だったし、寂しかったよ」
そんな僕たちの様子を隣で見ていた提督は微笑して、僕の頭を軽く撫でた。
「俺たちは大切な話があるから、ふたりで街にでも出かけてきてくれるか?」
「うん、わかった。じゃあ行こうか夕立」
「ぽい!」
× × ×
「なにか食べたいものとかある? 夕立が案内してあげるっぽい」
数歩先を歩く夕立は、鮮黄色の髪を揺らしながらこちらを振り返った。
その仕草と純粋無垢な笑顔は姉の僕から見ても、いや……姉であるからこそ余計に愛らしく見えて仕方がない。
いつかの僕は、こんな幸せが当たり前に続くと信じて疑わなかった。絶対なんてどこにもないのに。
それは手の届く距離にあるから気づけなくて、失ってから後悔とともに残り続ける。
だから今度こそ失くしてしまわぬように、夕立の手を取り強く握った。
「……? 時雨?」
「夕立と一緒なら、どこへでも」
「む〜。そういうのが一番困るっぽい〜……」
「あはは。だって本当にそうなんだもん。夕立と一緒なら、火の中だって怖くないよ」
「今はそういう話しをしてるんじゃないっぽい〜!」
海の上とは異なるその表情。怒っていてもかわいらしい夕立が大好きだった。
あの日、希望を背負った夕立と、絶望を抱えた僕の溝はいつか埋まるのだろうか。
不服そうに目を細めてじとりと僕を見つめる夕立から目を逸らし、空を仰いだ。
他のものたちから切り離された寄る辺のない小さな雲は、それでも前へ進んでいる。
たしかな熱をもった右手と、なにも掴めない左手は、
今でも……今だからこそ再三あの日の僕が問いかけてくる。忘れたいのではないかと、なかったことにしようとしているのではないかと。
「……」
──きっと、夕立は僕を許してくれる。どころか怒ってすらいないだろう。あの日選んだのは夕立で、僕は委ねてしまったのだから。
「時雨?」
だまり込んだ僕の顔を下から覗き込み、夕立は心配そうな表情を浮かべた。
少しずつ僕の右手を握る夕立の左手に力が入っていき、その表情を曇らせていく。
「ごめん、なんでもないよ。雨が降りそうだなって……」
「雨? こんなに晴れてるのに?」
「気まぐれだからね」
「ふーん? 夕立にはよくわからないっぽい。……でも、時雨が言うなら間違いないっぽい!」
そう言って、夕立は歯を見せて笑った。
「早く行こう」と手を引く夕立の足取りは軽やかで、バランスを崩してしまいそうになりながらも、苦笑混じりに靡くうしろ髪を目で追った。
──今の僕には、希望を背負うことができるのだろうか。
いつかの僕へ問いかける。もちろん返事なんてしてくれない。
わかっているのにもどかしいのは、いつまでも曖昧な場所で揺れ続けていることを知っているからだ。
今いるこの場所が、一番居心地がいいのだと。
それは雑踏に紛れてもなお燻ったまま、飲み干せない想いがうしろ髪を引いている。
「──着いたっぽい!」
「……喫茶店?」
「時雨、なんだか落ち込んでるように見えたから、甘いものでも食べて元気出すっぽい!」
「……ふふ。そっか。ありがとう、夕立」
人波を掻きわけ、都会の喧騒から少し外れた場所に位置するそのお店は、こじんまりとしていてお客さんもそこまで入っていなかった。外観も古風でぱっと見では喫茶店とは思えない。
開き戸ではなく引き戸というのも珍しく感じる。ウッドテーブルにウッドチェア、店内に流れているのは交響曲第7番。
マスターは一体どういう趣味をしているのだろうか……。
けれど嫌いじゃない。むしろ好きと言える。
「こんなところよく知ってたね」
「この前提督さんに連れてきてもらったの。時雨が好きそうって思ったから、ちゃんと場所を覚えてたっぽい」
「うん。すごく好きな雰囲気だよ」
「それならよかったっぽい!」
「……でも僕達、結構場違いじゃない?」
「たしかに……? 言えてるっぽい」
お互い、顔を見あわせて小さく笑った。
見たところ客層は4、50代に限られている。さらに言えば他のお客さんの身だしなみや気品は『上流階級』なんて言葉が似合ってしまいそうな人ばかりだった。
それに比べて僕たちは制服も相まって、どこからどう見ても高校生くらいにしか見えないだろう。
喫茶店とはこんなに敷居の高いものだっただろうかと、それがなんだか可笑しくて。
「夕立、ちょっと緊張してる?」
「時雨も表情がかたいっぽい」
くすくすと、僕たちは笑った。
「──なににするか決めた?」
「夕立は……ミルクティーとモンブラン!」
「胸焼けしそうだね」
「時雨はどうするっぽい?」
「僕は紅茶と……ショートケーキでも食べようかな」
そう告げると、夕立はすぐに店員を呼んだ。
──注文してから程なくして、運ばれてきた品に口をつけながら互いの近況を報告しあった。
僕からは、提督がやって来てからいろんなことが変わったと、自慢げに。
それを夕立は笑顔で聞いていてくれた。ときに哀しそうに、ときに寂しそうに。すべてのことに共感してくれるかのように。
そして夕立もまた、提督さんのことを語った。今こうしていられるのはあの人のおかげで、感謝してもしきれないくらいだと。
それからひと段落つき、店内に流れている曲に耳を傾けながらケーキの最後のひと口を喉の奥に流し込むと、先に食べ終えていた夕立が再び口を開いた。
「──時雨。覚えてる?」
氷が溶けはじめたミルクティーの最後のひと口を飲み干し、夕立は一度伏せた目をこちらへと向けた。
射抜くような赤い瞳、なのにそれは相反して優しい色をしている。光を取り込んで輝く様は、まるで宝石のようだった。
「……」
夕立がなにを言おうとしているのかはわからない。
考えたところでその一言ではあまりに情報が少なすぎるから、ただ先に続く言葉をだまって待つことにした。
「──あの日の約束」
──どくんと、脈を打つ音が聞こえた。
忘れてしまったわけじゃない。思い出さないようにしていた。
それは、一度捨ててしまったものだから。それを僕から口にするのはあまりに身勝手だと思っていたから。
歩くことをやめ、海を眺めては思い出に縋りついて。
許されたいと、そればかりを考えていた僕は……何度も言い訳を繰り返した。
楽しかった日々だけを切り取って。
「覚えてるよ……」
掠れていたのが自分でもよくわかる。
決してそんなことはないはずなのに、まるで責め立てられているかのように感じるのは、他の誰でもない……僕自身が僕を許せないから。
……なにより許せないのは、それを忘れたい思い出にカテゴライズしてしまったこと。もう叶わないと、投げ捨ててしまったこと。
「──時雨」
だまり込んで俯いてしまった僕の震える手に、夕立はそっと自分の手を重ねた。
視線をあげて夕立の方を見ると、彼女はやわらかく微笑していた。
その瞳は「怒ってないよ」と、まるで小さな子どもをあやすようだった。
言葉よりも正しく伝わってくるから、本当に泣きたいのはきっと夕立の方なのに。
「──……」
──卑怯だと、そう思った。
見せてはいけない。きっと……心配させて困らせてしまうから。
なのに……
「僕は……」
肩を震わせて、口もとを押さえて声が出ないよう静かに泣いた。
「泣かれると困るっぽい」
そんな僕を見て夕立は苦笑した。
優しく頭を撫で、「もう大丈夫だよ」と。
その優しい声とあたたかい手が余計に涙腺を刺激して、こぼれ落ちる涙はとまらなかった。
店内に流れる曲と嗚咽混じりの声が溶けあい、上手く言葉にならない想いは泡のように弾けて消えていく。
……恥ずかしい。こんな姿はもう二度と夕立には見せないと決めていたのに。
今度は僕が夕立を守れるように。強くなると。また夕立の隣に立てるようにと──そう決めたはずなのに。
「……ごめん、……ごめんね、夕立……」
──とまらなかった。
× × ×
「ほんとに曇ってきたっぽい!」
結局夕立は僕が泣きやむまで頭を撫で、重ねた手を離さないでいてくれた。
目もとを真っ赤に腫らした僕の手を引き、手際良く会計を済ませ、鎮守府へと来た道を引き返す。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。
気まぐれな空は晴れ渡っていた先ほどまでとは真逆で、いつのまにか灰色に染まっていた。
そしてやがてぽつぽつと、雨が降り出した。
「わっ、降り出しちゃったっぽい〜!」
夕立は僕の手を掴んだまま慌てて走り出す。
頭から肩から爪先まで、わずかな時間で溺れていく。
ぱしゃぱしゃと小さな水たまりを蹴って、ただ手を引かれうしろからついていくだけの僕は、あの日からなにひとつ変わっていない。
霞んで、届かなくて……追いかけることをやめた。ずっと夢を見ていたかった。
──ふたり手を取りあった、優しい時間に取り残されたまま。