──僕と夕立がまだふたり一緒にいたころ。
僕たちは約束を交わした。
────いつか、一緒に海を渡ろうと。
そんな約束を。
「時雨、おかえりっぽーい!」
「わっ。危ないよ、夕立」
作戦終了後、帰投した僕の背中をめがけて、夕立は飛びついてきた。
どこからどう見ても中破してるし、先に提督に報告を済ませて入渠したいんだけど。
そんなことはお構いなしに、うしろから抱きついたままの夕立は頬を擦りつけてくる。
「もう……。待て、だよ? 夕立」
「な、なんか犬みたいな扱いされてるっぽい……?」
「そんなに遊んでほしいならあとでたっぷり相手してあげるから。そうだね、首輪をつけて散歩にでも行こうか」
「……そ、そんなこと言う時雨なんて、嫌いっぽいー!」
満面の笑みで言った僕に、夕立は二歩三歩とあとずさり、背中を向けて走り去っていく。
そんな様子を、ともに出撃していた仲間の内のひとりが、「仲良いわね」なんてため息混じりに言っていた。
「羨ましいかい?」
「……バカなこと言ってないで、さっさと報告に行くわよ」
彼女はもう一度同じようにため息をつき、「不幸だわ」と小さな声で愚痴をもらした。
そんな彼女の背を追いかけ、ぴったりとくっついて横に並ぶ。
彼女は僕に嫌そうな目を向けてきたが、お構いなしに笑顔で返した。
「同じくらい仲がいいよ」
「……私とって意味なら怒るわよ」
「ど、どうしてさ……」
「私は姉様以外と仲よくした覚えなんてないわよ」
「……シスコン」
「なんですって!?」
小声で言った僕の言葉に、過剰に反応して追いかけ回してくる彼女は、初めて出会ったころに比べてずいぶん変わったように思う。
彼女が初めてこの鎮守府に来たときは、本当に『姉様』以外の人とは話しもしなかったし、いつも影を背負っていた。
一度だけ、彼女と彼女の姉が泣いていたのを見たことがある。
たまたま通りかかった部屋の前で、僕は見なかったことにして立ち去ろうとしたのだが、物音をたててしまい気づかれてしまった。
彼女らは、大切なものを失くしてしまったと、それだけを教えてくれた。
僕もそれ以上は聞かなかったし、以降そのことには一切触れなかった。
だからそのときを思い返すと、今こんなふうに冗談を言いあえる関係になれたのはとても嬉しい。
「待ちなさい時雨! 今日という今日は許さないわよ!」
……冗談、だよね?
「──そうですか、ご苦労様です。では各自入渠後、本日は自由に過ごしてください」
提督への報告が終わり、僕たちはそのまま入渠ドックへと向かった。
途中まだ根に持っているのか、うしろからぶつぶつと恨み言をぶつけてくる彼女の視線に苦笑で応えて、傷ついた身体をもとに戻してから夕立のもとへと急ぐ。
今朝交わした約束、『フルーツ白玉あんみつ』を食べに行こうと、それを果たすために。
「お待たせ、夕立」
「もー! 時雨ってば遅いっぽい!」
自室の真ん中で、まるで犬のように僕の帰りを待ち続けていた夕立はむっと頬を膨らませながら叫んだ。
「ごめんごめん、じゃあ行こうか……っと、その前に首輪はどこに……」
「それ本気で言ってたっぽい!?」
「ふふ、冗談だよ」
「……時雨……嫌いっぽい」
じとりと、目を細めて睨みつけてくる。
そうやってすぐかわいい反応を見せる夕立が悪いんだよ? なんて言うとまた怒るだろうから、軽く謝罪の言葉を告げてから、僕たちは鎮守府から15分ほど歩いたところにある、「甘味処」と書かれたのぼりが店前に飾られてある喫茶店へと向かった。
道中、いつものように空いた僕の手に、夕立の手が触れる。
手の甲を数回ぶつけてから、タイミングを計ったようにきゅっと握りしめてくるのがかわいくて、僕も強く握り返した。
「時雨の手、あたたかい……」
……不思議だよねと、僕は微笑した。
僕たちは兵器で、傷つけるためだけに生まれてきたはずなのに、取りあう手はあたたかくて。涙と……心だって備えられてある。
きっとそれは不必要なもので、ときにリスクにもなり得るのだろう。
そう思っていても、隣でことりと首を傾げる夕立を目にするとそんなことは言えなくて。
「……その意味を、いつか二人で見つけよう」
──曖昧で、それでもたしかな約束を交わした。
寄り添えるあたたかさがあって、わけあえる心があるのなら……答えだってきっとあるはずだ。
それはきっと曖昧で……それはたったひとつ、この空に浮かんだ雲のように触れることすら叶わないのかもしれない。
「……?」
「僕たちが生まれた本当の意味を……。いつか、」
「見つけられるっぽい?」
「見つけたい」
ことりと首を傾げた夕立は、やがて頭の中で反芻するように伏せた目を開いて、口の
「じゃあ、約束」
そう言って、夕立は小指を差し出した。
僕もその小指に自分の小指を絡めて、ふっと笑った。
「うん、約束。──僕と夕立、ふたりでいつか、答え合わせをしよう」
「そういうことなら、夕立も負けないっぽい!」
「あはは……。勝負じゃないんだけどなあ……」
苦笑を浮かべた僕の小指をぶんぶんと振って、夕立は楽しそうに笑った。
「ゆーびきーりげーんまーんうーそつい、たら……針千本は可哀想だから、うーん……」
「……ふふ。夕立は優しいね」
「……うそついたら、」
途中で言葉を切った夕立は、また笑った。
いつものようなかわいらしい、子どものような笑顔ではなく、それはまっすぐで綺麗で、とても大人びて見えた。
「うそついても、それでも夕立とずっと一緒にいてね、時雨」
「──……それ、罰になってないよ」
「うぃんうぃんっぽい!」
どこで覚えてきたのか、得意げに胸を張って言った夕立と、同じタイミングでふき出した。
手を繋ぎ、笑いあって、ふたりでスイーツなんかを食べに行ったりして……こんな幸せがずっと続くのだと信じていた。
雨が降れば簡単に流されていくなんてつゆ知らず、いつまでも傍に在り続けるのだと、そう信じていた。
「……時雨は知ってる?」
なにを、と視線だけで問いかける。
「
「名前だけは聞いたことあるかな? それがどうしたの?」
「斑蝶はね、海を渡るんだって」
「そう、なんだ……」
そう言った隣の夕立の視線はまっすぐと前を向いたまま、風で靡いた鮮黄色の髪だけが僕とは真逆の方へ流れていく。
「──時雨」
今この瞬間に、どこかで誰かが沈んだとしても……それでも変わらずに明日はやってくる。
そんな〝あたりまえ〟と同じように、終わりもいずれやってくる。
そのときに僕たちは──
「……海を渡れば、答えも見つかるっぽい?」
前に向けていた視線をこちらへ移し、夕立はことりと首を傾げた。
「かもしれないね。……きっと単純なものじゃないけど、でもきっと──複雑なものなんかでもないと、僕もそう思うな」
ずっと続く戦争が終わったとき。
僕たちがいつか海を渡り終えたそのときには、答えはもう見つかっているような、そんな気がした。
「時雨、いつか──」
〝一緒に海を渡ろうね〟。
そう言って、夕立は笑った。
× × ×
──幸せと不幸せは、いつもひとつの天秤にかけられていて……どちらにも簡単に傾いてしまう。
大規模作戦の途中、大破して帰還した僕たちに提督は一言、「もう一度出撃してください」と、そう言った。
普段から冗談を言う人ではなかった。笑顔を見せたこともないし、口数も少ない方だった。
それでも、言葉にはせずとも気づかってくれる優しさがあって、些細な変化も見逃さず、なにかあればすぐに声をかけてくれた。
そんな提督は僕たちの命と引き換えに……人類の前進を選択した。
「なに……言ってるの……? 夕立……」
「ごめんね、時雨。でもこれが最善っぽい」
目の前には敵深海棲艦の姿が多数ある。どう考えてもここが僕たちの終着点で、この海の……行きどまりだった。
三歩前に進んだ夕立はこちらを振り返り、苦笑を浮かべて言葉を繋げた。
「答え合わせ、できなかったら許してほしいっぽい」
「──……嫌だ……。離して……山城……!」
羽交い締めにされた僕はどれだけ暴れても、手を伸ばしても……その先へ向かう夕立の背中には届かなかった。
引きずられながら、どんどん遠ざかっていく夕立の背に、何度も叫んだ。
やめて、行かないで、──……ごめんね、と。
泣き喚く僕の通信機から最後に聞こえてきたのはたった一言、
────時雨。立ちどまらないでね。
それだけだった。
そこからの崩壊は秒針よりも速く、心に空いた穴はいつまでも埋まらない。
夕立がいなくなって一ヶ月が経っても、僕は一言だって口をきかなかった。
どうして僕ばかりが生かされているのか、なによりもまずその答えが知りたくて。
「また、わざと被弾したというのは本当ですか?」
──命の価値が、崩落していく。
「……沈黙は肯定と受け取りますが」
あの日、僕は選ばなかった。
手放すことも、失うことも。
すべてを誰かに任せて目を伏せて、そうして生き残った僕に……一体どんな答えが見つけられるのだろう。
きっと、答えなんてどこにもない。
あの日から僕は、同じところで立ちどまったまま、進むことをやめた。
──提督が見つけてくれるまで、ずっと、同じ場所で。膝を抱えたまま。
「……時雨!」
「な、なに? どうしたの、夕立……」
耳もとで大きな声を出した夕立に、意識は引き戻された。
手を引かれたまま、気がつくといつのまにか鎮守府へとたどり着いていた。
どちらからともなく、びしょ濡れになったお互いの姿を見て、ふき出した。
大淀さんが用意してくれたタオルで身体を拭き、着替えを済ませてから執務室へと向かう。
もう話も終わった頃だろうと、扉に手をかけたところで夕立がそれを制した。
「──だから、私は夕立を手放すことを決めたんだ」
中から聞こえてきたのは、夕立の提督さんの声だった。
「そう、ですか……。なんと言えばいいのか……」
「いいんだ。遅かれ早かれ、誰しもがそのときを迎えるからね」
「夕立は納得しているんですか?」
「──ない……。夕立は、そんな話聞いてない……!」
大声で叫んだ夕立に、中のふたりの会話はぴたりと止まった。
数秒の間を置いて、ゆっくりと扉が開かれる。
そこから顔を覗かせた提督は苦笑を浮かべていた。
「時雨。いつからいたんだ?」
「……ほんの少し前だよ。夕立を……手放すって言ったところから」
「そうか……。それなら、ふたりとも入ってくれ」
視線だけでソファに座れと促し、それに従い僕は提督の隣へ。夕立は正面の提督さんの隣に腰を下ろした。
聞きたいことはいくつもあるはずなのに、重苦しい空気のせいか、その場にいる誰もが口を開くことはできなかった。
そんな時間が数分。
それはまるで数十分のように長く感じて、やがて夕立が先に小さく口を開いた。
「……夕立は、いらない子?」
視線は落としたまま、消え入るような声で。
「──……私は、当時小学生だった娘を交通事故で亡くしたんだ」
その言葉とともに、彼は棚に飾られている写真に目をやった。
そこにはかわいらしい女の子と、その隣で微笑する彼の姿が写っている。
「妻は娘を生んでからまもなく息を引き取った。私は悲しみに暮れたよ。生きているのがつらくなるくらい。もう死んでしまいたいと、そう思ってしまうくらい」
「……」
「でもね、ある日浜辺で倒れている少女を見つけたんだ。その子は艦娘というやつで、ボロボロの姿で倒れていた」
彼は俯いたままの隣の夕立の手をそっと握って、言葉を繋げた。
「君だよ、夕立。あの日から君は、私の生きる意味そのものだった。……君のことがなにより大切だ」
「じゃあ……」
「だからこそ、君を縛り続けていたくない」
「──……わかんない! 提督さんの言ってること……ぜんぜんわかんない……!」
「もういいんだ。君を助けたのは私の都合で、それに責任を感じる必要はない。君は、どこへでも行けるんだ」
言って、彼は大きな手で、そっと夕立の頭を撫でた。
その瞬間、夕立はこらえきれずにぽろぽろと大粒の涙を落とした。
──それは違うと、きっと誰もがわかっていた。
夕立は責任感なんかで彼と一緒にいたわけじゃない。
夕立は自分で、彼の傍にいることを選んだんだ。
だから、今の夕立を……選択肢を誰かに委ねる夕立を、見ていられなかった。
「……違うよ、夕立。提督さんの意思は変わらないかもしれないけど、だまってちゃだめだ……。言葉にできなくても、言葉なんかじゃ伝えられなくても……それでも言葉にして伝えなきゃいけないものはたしかにあるんだよ、夕立」
間違っている。
今の夕立は、あの日の僕と同じだ。
進むことをやめて、立ちどまって。俯いて、膝を抱えたままの、あの日の僕と。
「……そうだな、時雨。その通りだ」
それまでだまっていた提督は、ぽんと僕の頭に手を置いて、夕立の名を呼んだ。
「君の提督さんはね……」
「よしなさい。夕立には関係のない話だ」
「いいえ。これは……夕立にとってなによりも大切な話です」
「──……」
提督は彼を強く、まっすぐに見つめて、だまらせた。
「いいかい、夕立。君の提督さんはね、とても重い病気を患っているんだ。気休めを言っても仕方がないからはっきり言うけど、それが治る確率は限りなくゼロに近い。だから自らその立場を手放して、次にやってくる提督の補佐をすることを選んだんだ。君を……俺に託して」
「──……提督さん、が……?」
それを聞いて、俯いたままだった夕立はようやく顔をあげて、隣の彼を見上げた。
「君はどうしたい? 夕立」
「そんなの……夕立は……最後まで提督さんと一緒にいたいに決まってる……」
問いかけた提督に、夕立はあふれ出す涙をてのひらの母指球で何度も拭いながら、嗚咽まじりに答えた。
「──夕立」
そんな夕立の手首を掴んで、彼はまっすぐに夕立の瞳を見つめた。
「来週にはもう、私の代わりがやってくる。そうなってから君が異動を打診しても、受け入れてもらえる保証はどこにもない。……だからね、夕立。君はもう、私のもとを飛び立たなければいけない。……君は、時雨くんとふたりで、海を渡るんだろう?」
「──……」
大きく見開いた、丸くなった夕立の綺麗な瞳から、涙があふれ出す。
──きっと、本当に夕立のことを愛しているから、だからこの人は別れを選んだんだ。
「……時雨……夕立は、どうすれば……いいの?」
「……選んで。これは……これだけは夕立が選ばなきゃいけないものだから。……でも、どちらを選んでも、夕立が泣いていたら僕はどこへでも駆けつける。今度は僕が夕立を助ける番だから」
──夕立はずっと泣いていた。
そのどちらも手を伸ばせば届く距離にあるのに、片方を掴めば、片方は消えてしまう。
降り続ける雨が窓を強く叩き、あふれてやまない涙とともに、夕立を急かしたてていた。