「おはよう。気分はどうだね?」
「……」
目を覚まして真っ先に視界に飛び込んできたのは見慣れない白一色の天井と、穏やかに微笑する男の顔だった。
男の人は夕立が眠っていたベッドの横に置いた椅子に腰かけ、片手に小説を、もう片方の手にマグカップを持って足を組んでいた。
「珈琲……。いい香りっぽい……」
「……目が覚めて最初の一言がそれか」
手にしていた本をぱたんと閉じて、男は笑った。
「ここは……どこ?」
「……鎮守府の医療施設だよ。先日、浜辺で倒れている君を見つけてね。すぐに入渠させたんだが心に溜まった疲労は抜けきらなかったようだ。三日間、君は眠り込んでいた」
「そう、ですか……」
時雨たちは無事にかえれたのだろうか。
唯一、それだけが気がかりなのに、たしかめることはできなかった。
記憶がない。どうやってここにたどり着いたのか、どうして生きているのか、わからない。
夕立が気を失っている間に、深海棲艦たちが時雨たちのあとを追っていたら……そう考えると、血の気がひいた。
……大丈夫。そんなわけない。
時雨たちは生きている。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
「君は、どこから来たのかな?」
「……」
──言えなかった。
もしこの人が夕立の提督さんに連絡して、それで夕立が鎮守府に帰ったときに、時雨がもういなかったら──
「──……」
強い吐き気に襲われて、手で口もとを押さえて何度もえずいた。
彼はそんな夕立の背中を心配そうに優しく撫でて、「すまない」と謝った。
「……つらいことを聞いてしまったね。今はなにも考えなくていいから、気分が落ち着くまで、ずっとここで休んでいていいからね」
「ごめん、なさい……」
「私の方こそ、無神経だった。許してほしい」
彼はなにも悪くないのに、そう言って頭を下げた。
「……もしよければ。行くあてがないのなら……君さえよければ
「……いい、の?」
「むしろ私の方からお願いしたいくらいだよ」
そう言って、彼はずっと私の背中を撫で続けてくれた。
────それが、夕立と提督さんとの出会いだった。
× × ×
「どうだい夕立。君が出かけるときまで軍服はやめてほしいと言うから、私服を買ってみたんだ」
言って提督さんは真っ白な半袖のポロシャツを得意げに広げて見せてきた。
それは提督さんがいつも身につけている海軍の夏服とよく似ていて、夕立はじとりと目を細めた。
「なんか、いつもとあんまり変わらないっぽい……」
「……そうか。せっかく買ったのに」
「あ……。ごめんなさい……」
「提督さん、どうしていっつも珈琲を飲んでるっぽい?」
「ええと、だめかな?」
「だって珈琲ってすぅっごく苦いっぽい!」
うへぇ、と舌を出して眉を顰めた夕立を見て、提督は楽しそうに微笑した。
「でもいい香りだと、君は言ってたよ」
「香りだけっぽい! 味はなんか……変っぽい?」
「……まあ、夕立にはまだわからないね」
「あー! 子ども扱いしてるっぽい! 失礼しちゃうっぽい!」
「──時雨は、夕立にとっての大切な人……。誰よりも大切で……だから、今はまだ、知りたくないの……」
提督さんと出会ってから、一年ほど経ったある日、夕立は初めて時雨のことを打ち明けた。
会いたい人がいる。でもその人が生きているのかどうかを知るのが怖くて。
動き出せないまま。立ちどまったままでいることを、打ち明けた。
「……でも君は、生きていると、そう信じているんだろう?」
「うん……。時雨は、絶対生きてる。そう信じてるけど……」
「なら、もう少しだけ休めばいい。もう少しだけ休んで、今よりもっと元気になったときに、また会いに行けばいい。──ゆっくりでいいんだ」
そう言って、提督さんは夕立の頭をぽんと撫でた。
その手が大きくて、あたたかくて、夕立は少しだけ泣いた。
「……提督さん。これ……提督さんがいつも飲んでるから。初めてだけど……夕立が淹れた珈琲……」
きっと、美味しくない。
それでも……ひと口だけでもいいから飲んでほしかった。
窓辺で書類に目を通している提督さんに近づいて、夕立はその珈琲を震える手で差し出した。
「──……夕立が、私のために……?」
そっと受け取り、提督さんは大げさに驚いた表情を見せたあと、ゆっくりと口に含んだ。
美味しい、ありがとうと……やわらかく微笑して、夕立の頭を撫でた。
「……」
「て、提督さん?」
不意に提督さんは手で目もとを押さえて、小さく肩を震わせた。
「……すまない。少し、昔を思い出してね……。あの子も、こんなふうに……」
「……」
その言葉の意味はわからなかったけれど、夕立はかかとを伸ばして、提督さんの頭にそっと触れた。
「提督さんがいつもしてくれるから、お返しっぽい」
そう言って笑うと、提督さんも少し赤くなった目で、やわらかく笑った。
「時雨はね、すぅっごくかわいくて! それでね、お目目も蒼くて、ず〜っと見ていたいくらい優しくて……綺麗っぽい!」
「……私とどっちが綺麗な
「時雨っぽい!」
「即答……」
苦笑して、「そうか……」とがっくり肩を落とした提督さんの頭を撫でて、夕立は笑った。
「でも、提督さんのことも大好きっぽい!」
「……私も、君を愛しているよ」
「えへへ、両想いっぽい?」
「ああ。そうだね」
幼い子どもへ向けるような笑顔を浮かべて、提督さんはそう言った。
「たった今、ある鎮守府のある提督から連絡があったよ。……夕立、君を探していると。『時雨』という艦娘を連れて君に会いに行くと」
「──……うそ」
「君の大切な人は生きていたんだ。君の信じたことは、間違いじゃなかったんだ」
「……っ」
一度あふれ出すと、それはもうとまらない。
信じているなんて都合のいいことを言って、本当は逃げ続けていた。
だから今すぐに会いたい。会ってもう一度触れたい。
……なによりも、言わなきゃいけないことがある。
「提督さん……夕立は……」
「ああ。わかっている。謝りたいんだろう? きっと、お互いにそう思っているはずだよ」
そう言って夕立の頭に触れた大きな手のぬくもりが、この足を立ちどめていた氷を少しだけ、溶かしてくれた。
離れ離れになってから時雨と会うのはこれで二度目。
街へ出て、喫茶店へと入った。
提督さんに連れてきてもらったお店。時雨もきっと喜んでくれるだろうと思ったし、期待通りの反応を見せてくれた。
「──時雨。覚えてる?」
でもあの一言で、また雨が降り始めた。
〝──だから、私は夕立を手放すことを決めたんだ〟。
〝君の提督さんはね、とても重い病気を患っているんだ〟。
〝……選んで。これは……これだけは夕立が選ばなきゃいけないものだから〟。
────ねえ時雨。
約束を覚えているか訊ねたとき、時雨は泣いたけど……ごめんねって言ったけど……夕立だって……ずっと同じ場所にいたんだよ。
ずっと、立ちどまったままだったんだよ。
× × ×
「じゃあ提督さん……。またね……」
「ああ。元気でね」
努めて笑顔で、胸もとで小さく手を振ると、提督さんも同じように笑顔で返してくれた。
もう会えない寂しさも、触れられない苦しみも……きっと乗り越えていける。
夕立はいっぱい休んだから。たくさんの愛をもらったから。
だからもう──
「……」
提督さんにぺこりと頭を下げて先に歩き出した時雨たちの方に視線を移して、夕立も提督さんに背を向けた。
最後は、意外とあっけなくて、あっさりしていた。
まあ、夕立はたくさん泣いたから、あっさりとはしていなかったかもしれないけれど。
それでももっと、感動的な別れ方があるのかもしれないと、そう思っていた。
けどそんなことはなくて、夕立は一歩、時雨たちに追いつくために足を踏み出した。
──足が、重かった。
もう一歩、ゆっくりと踏み出す。
雨は上がっていて、雲間から夕日が差し込んでいる。
もう一歩、足を踏み出した。
────大丈夫。
────ちゃんと、歩いて行ける。
もう……提督さんがいなくても。
「……」
きゅっと口を引き結んで、もう一歩踏み出した。
今度は少し、足が軽かった。
もう大丈夫。もう立ちどまらない。
────提督さん。
────さようなら。
「……、……夕立!」
もう振り返ることはない。
そう決意して歩き始めた夕立をうしろから、提督さんはぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう。本当に……本当に……ありがとう、夕立……」
抱きしめた腕とか、声が震えていたからなんて……そんなわかりやすい情報がなくても、提督さんが泣いていたことは簡単にわかった。
強く込められた力も、もう、これが最後だから。
「……あはは。提督さん、もう寂しくなったっぽい?」
提督さんの腕にそっと両手を添えて、明るい声色で言った。
「提督さん。夕立はもう振り返らないよ。提督さんが寂しくて泣いていても、苦しいのに、それでも無理して笑っていても……もう夕立は傍で支えてあげられないから」
──お別れはいつだって笑顔の方がいいと、そう思う。
あの日時雨に告げたときも、夕立はたしかにそうだった。
だって最後に見せる
いつの日か思い出したときに、泣き顔じゃなくて、笑顔を思い浮かべてほしいから。
「──……」
でも、それでも……今日は泣くことが正解だと思った。
ここで泣けなかったらきっと、もう二度と泣けないような気がしたから。
……ううん。違う。これは言い訳で、本当は我慢できなかった。
抑えようとすればするほど、とめどなくあふれ出して、こぼれ落ちていく。
──どうして涙が在って、心が在るのか。
どうして取りあえる手はこんなにもあたたかいのか。
その答えをまだ見つけられていないから……だからわけもわからずに、こんなにもあふれてくる。
「──……提督さん、ずるいよ……」
そんなことをされたら、どうしても、離れ難いと、そう思ってしまう。
ぼろぼろと、涙があふれ出てしまう。
「……君が、君たちが無事に渡り終えることを、信じているよ。誰ひとり沈むことなく、この戦いが終わることを……君が歩き続けた道の先には必ず幸せが待っていることを……──私は信じ続けているよ」
声をあげて、夕立は泣いた。
けれど──それでも、最後まで振り返らなかった。
もう──提督さんのもとから飛び立たなければいけないから。
「……」
夕空から、あたたかい日差しが降り注いでいた。
提督さんへお別れを告げて、少し先で夕立が追いつくのを待ってくれている時雨たちのもとへ駆けていく。
────さようなら、提督さん。
────ありがとう、提督さん。
────夕立を、愛してくれて。
「お待たせっぽい」
「……もう、いいの?」
心配そうに夕立を見つめる時雨に、こくりと笑顔で頷いて応えた。
「そう。じゃあ、行こうか」
言って微笑した時雨の隣に並んで、2歩先を歩く提督さんの背中を追った。
──きっともう、うしろにいる提督さんの
× × ×
「もー! 完全に怒ったっぽい〜! ほんとにほんとに許さないっぽい〜!」
「いや、あのね夕立ちゃん……。わざとじゃないんだってまじで……」
「言い訳なんて聞きたくないっぽい! 提督さんなんて61cm五連装(酸素)魚雷でぽいぽいぽーい! ってしちゃうんだから!」
「なに、どうしたのさふたりとも。夕立はとりあえず落ち着いて。それで提督は、一体なにをやったのさ」
執務室でケンカ……というよりは一方的に提督さんを責め立てた夕立の大声を聞きつけて、時雨が駆けつけてきた。
時雨は夕立の背中を撫でながら宥めて、提督さんにジト目を向けていた。
「まあ落ち着いて聞いてくれ。これには深い
「どうして……そんなひどいことするの……? 夕立……すっごく楽しみにしてたのに……」
「え、マジ泣き!?」
まばたきを我慢して両目に涙を浮かべると、提督さんはあわあわと慌てふためき始めた。
その姿が可笑しくて笑いそうになってしまうのをこらえながら、夕立はぷるぷると肩を震わせた。
「提督さんが……」
「提督が?」
「夕立のプリン勝手に食べちゃったっぽい!」
「……ええ。それだけ?」
すっごく一大事なのに、呆れたように苦笑を浮かべた時雨の両肩を掴んで、ぶんぶんと揺さぶった。
「いや、だから夕立ちゃん……ちゃんと買って返すから、」
「絶対許さないっぽい〜!」