「んっ……」
目を覚ますと、目の前には鳳翔さんがいて、私が横たわるベッドの隣に椅子を立てて、そこに腰を下ろしていた。
その姿を見て今の自分がどういう状況なのかはすぐに理解できた。
やっぱりまだ、恐怖心は消えないらしい。
「私、気を失ったのね……」
「気分はどうですか?」
上半身を起こし、差し出されたグラスを受け取り、中の水を呷ってから私は答えた。
「最悪ね……」
「そうですか」
鳳翔さんは苦笑して、空になったグラスを私の手から受け取った。
お礼を告げると、「はい」と短く応えて、よくできましたとでも言わんばかりに嬉しそうに笑った。
子ども扱いされている……。
「提督のことが嫌いですか?」
「……嫌いよ」
「そうですか。では、提督が今日以外で荒潮ちゃんになにかしましたか?」
「それは……なにもされてはいないわ……」
答えると、また幼な子を褒めるような笑顔を向けてくる。
「荒潮ちゃんの過去は知っています。けれど、提督にだって心があります」
「──……」
今度は子ども扱いするような、そんな笑顔ではなく、まっすぐに、対等に私の
「大切なお話しなので、よく聞いてください。──あなたが傷ついたことは、誰かを傷つけてもよい免罪符にはなりません」
「……」
「提督は、あなたを傷つけましたか?」
ふるふると、私は首を横に振る。
「あなたがされたことを、提督にも味わわせてやりたいと、そう思いますか?」
私は首を横に振った。
「……提督を嫌うのは、目を見てお話しをしてからでも、遅くないのではないですか?」
ふっと、鳳翔さんは微笑した。
前から思っていたが、この笑顔はずるいと思う。
気が抜けてしまう。
こちらがどれだけ怒っていたとしても、そんなことはどうでもよくなるくらい、かわいらしくて優しい笑顔。
怒ったり、悩んだりするのがバカらしくなるほどだ。
「そうね……」
「では、すぐに提督を呼んできますね」
「……!?」
言って鳳翔さんは立ち上がると、すぐに部屋を出て行った。
扉の前でなにか話し声が聞こえたあと、控えめにノックをする音が聞こえて、「どうぞ」と応えると〝提督〟と呼ばれている男が申し訳なさげに、気まずそうに入ってきた。
「……すまない。全面的に俺に非がある。君の気持ちも考えずに、軽率な行動をとってしまった」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
およそ部下に対してとるような態度じゃない。そんな彼を見て、不思議と嫌悪も苛立ちもなかった。
鳳翔さんに、すっかり毒気を抜かれてしまったらしい。
「もう、気にしていません……」
「すまない……。ええと、よかったら、話してもいいか?」
ちらと、先ほどまで鳳翔さんが座っていた椅子に視線を落として、彼は不安げに訊ねてくる。
「ええ」
「ありがとう……」
「……」
「……」
自分から言っておいて、彼は口を開こうとしない。
表情からは、なにを言えばいいのか、どこまで訊いてもいいのかと、ぐるぐると悩んでいるのが読み取れる。
私はひとつため息を落として、さして興味もない質問を投げかけた。
「あなたは、どうして海軍に入ったんですか?」
「……」
言いにくいことだったのだろうか。
彼は顎に手を当てて、なにやら考え込む素振りを見せた。
「質問を変えた方がいいかしら? ……なぜこんなところで、私たちの司令官になろうと思ったんですか?」
「ええと……説明すると長くなるから端的に言うんだけど、俺の父さん──上官からの命で、俺はここに来たんだ。それと、海軍に入ったのは……約束したからで、」
「約束?」
「ああ。もう顔も、声さえも思い出せない誰かと……いつの日か約束を交わした」
彼は大真面目に、私の目を見て言った。
肩から制服の襟もとがずり落ちるような、そんな感覚にとらわれるほど呆気に取られて、呆れた。
「ふざけてるのかしら?」
「ええ……。いやまじなんだよ。大まじ。超まじ」
こほんと、わざとらしく咳払いをして、彼は言葉を繋げた。
〝みんながずっと笑っていられるような、そんな優しい世界にしてください〟。
「──それはもしかしたら夢だったのかもしれない。ただの妄想かもしれない。それでも、この約束だけは必ず守らなきゃいけない……。なぜかそう思うんだ」
「なんですか、それ……」
「それを知るために俺は今、ここにいるのかもしれない」
目の前の彼は、やわらかく微笑した。
それは私がよく知っている、鳳翔さんの笑顔に似ていると、そんなことを思った。
「……私のこと、知りたい?」
──本当は、嬉しいと思っていたのかもしれない。
こんな私にも心配そうに声をかけてくれて、食事にも誘ってくれて。
ただ、受け入れるのが怖かった。心の底から信じられるとは思えなかったから。
この人は関係ない。それはわかっているけれど、あれだけのことをされたのだ。忘れろという方が無理がある。
「君が許してくれるのなら、俺は君を知りたい」
彼は、疑うことなく、迷うことなく即答した。
本当に、呆れる。
「……あなたは、私を傷つけたりしないのかしら?」
数秒間の沈黙。
俯いて、顎に手をあてて考える素振りを見せていた彼は、やがてゆっくりと顔を上げ、じっと私の瞳の奥を覗き込んだ。
「善処はする。けど確約はできないよ。……ただ、万が一にも君を傷つけるようなことがあれば、どんな処罰でも甘んじて受け入れる」
「──……」
呆れを通り越して、笑いが込み上げてくる。
バカだ。この人は──本物のバカなんだ。
「……ふっ、……うふふ。そんなこと言っていいのかしら?」
「それくらいの覚悟がなきゃきっとここではやってけないよ。俺は君たちの過去を、全部背負う。君が、また心の底から笑えるように」
「……」
バカみたいにまっすぐな瞳で、恥ずかしげもなくそんなことを言うのだから、逆にこっちの方が恥ずかしくなってくる。
……正気じゃない。真顔で言うこの人も、また信じてみたいと願ってしまう私も。
「……前にいた鎮守府で……私はずっと提督から暴力を受けていました」
「──……」
「被弾して帰れば役に立たないと殴られ、機嫌が悪いときは目を合わせただけで殴られたりもしたわ」
彼は目を見開いて、黙って聞いていた。
「毎日、なにかと理由をつけては私を痛めつけて……気味の悪い笑みを浮かべてこう言うの」
〝お前はストレス発散にしか使えない
「……」
彼は怒りをあらわにして、机に拳を叩きつけようと腕を振り上げたけど、直前で踏みとどまり、あげた腕をそっともとの位置に戻した。
私を気づかったのだろうか。
「痛くて、つらくて……苦しくて怖くて……沈んだ方がマシだと何度も思ったわ。……それでも、私を庇ってくれる人たちもいたのよ」
「同じ艦娘、か……?」
「……瑞鶴と翔鶴がね、ずっと傍にいてくれた」
「……あの二人が? そうか。そうだったのか」
彼は怒りと、安堵と、複雑な心境を織り交ぜて、曖昧な表情で小さく息を吐いた。
「私が大破して、それでも入渠よりも先に執務室に呼び出されたときも、あの二人が間に入ってくれた。私の代わりに何度も何度も殴られたのに、笑顔で……『痛くないよ、大丈夫だよ』って……。私のせいで……」
「……その鎮守府は、どこにあるんだ?」
「……」
「教えてくれ。今すぐ行ってそいつをぶん殴ってくる」
「……だめよ」
「だって、許せないだろ。同じ目に合わせて……」
「その男はもう大本営に連れていかれて、どこにいるのかもわからないわ。それに──」
伏せていた目を開いて、ゆっくりと視線をあげた。
彼は憤りをぶつける先を失ったまま、ぎゅっと拳を握りしめている。
「暴力では、誰も救えない……」
「──……。荒潮の、言う通りだ……」
「……ありがとうございます。少しだけ、楽になりました」
ふっと息を吐いて彼の方を見やると、こちらを向いていた彼と目があった。
「……荒潮」
私の名前を呼んで、彼は椅子から立ち上がり、近づいてくる。
「触れても、いいか?」
「は、はいっ……」
ベッドの隣まで来て、その場に両膝をついて目線の高さを合わせた彼に、なぜか私は緊張して声がうわずってしまった。
そんな私の手をゆっくりと包み込むように両手で握り込んで、数秒間私を見つめたあと、彼はそっと、親指で私の手の甲を優しく撫でた。
「もう、大丈夫だ。瑞鶴も翔鶴も、荒潮も……この鎮守府のみんな、俺が絶対に守るから」
「──……」
どうしてだろうか。私たち艦娘よりもずっと、ずっと弱いはずなのに。
銃弾一発で簡単に死んでしまうくらい脆いくせに。
どうしてか、彼のその言葉は、なによりも私の心を安心させた。
きっと本当は、ずっと望んでいた。
私の代わりに他の誰かが傷つくような、そんな袋小路のような逃げ場ではなく。
──安心して寄りかかれるような、そんな存在が……ずっと欲しかった。
「てい……とく……」
提督の胸ぐらを掴んで、きゅっと引き寄せた。
彼はされるがままで、私は幼い子供のように、彼の胸もとで泣きじゃくった。
鳳翔さんの言った通りだ。
嫌うのは、目を見て話してからでも遅くはなかった。
「ごめんな。ごめんな……荒潮」
悪いことなんてなにもしていないくせに、彼は泣きじゃくる私の頭を撫でて、何度も謝罪の言葉をもらした。
「もう二度と、君にそんなつらい思いはさせないと誓うから」
彼の手は大きくて、あたたかくて。
私は、とめどなくあふれ出る涙をとめられなかった。
「約束……してください……」
「ああ。俺を信じてくれ」
「やぶったら、どうなるか……わかってるわよね……?」
「一応聞いてもいいかな?」
びくりと身体を震わせて、彼はおそるおそるといったふうに訊ねた。
「61cm四連装(酸素)魚雷……」
「え」
「1000本、飲んでもらうわ……」
「こわ……。まじで怖いんだけど……」
ドン引きしている彼の声を聞いて、私はふるふると肩を震わせた。
笑っているのがバレないように、なんとか息を整える。
しかし彼は意外と目ざといらしく、すぐに両肩を掴まれて、引き剥がされてしまった。
「おい、泣いてるんじゃなかったのかよ……」
「あらぁ、よく気づいたわね〜」
揶揄うように口の
「目、腫れてるけどな」
「あら〜……」
指摘されると、途端に恥ずかしくなった。
泣いてしまったこともそうだし、誤魔化そうと余裕ぶってしまったことも。
ただ、それでも────信頼してみてもいいかもと思える提督に出会えて、本当によかったと、心の底からそう思った。
「指切り、しておきます?」
「本当に切られそうで怖いんですけど」
「うふふ」