あれから数日が過ぎ、いつものように時雨、荒潮と一緒に執務をこなしていると、執務室の扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
視線は書類に向けたまま応える。恐らく鳳翔さんか、鶴姉妹のどちらかだろう。
「失礼します……」
その声に、動かし続けていた手がぴたりと止まる。
予想外の客人は少しばかり不機嫌そうな表情でこちらを見つめていた。
「あ、青葉!?」
「なんですか。青葉が来たら変ですか?」
「違うよ。まさか青葉の方から俺のとこに来てくれるなんて思ってもみなかったから。驚いただけだよ」
「……」
それっきり青葉は俯いたまま黙り込んでしまった。
少しの間、気まずい空気が執務室に流れていたが、それを断ち切るように時雨が口を開く。
「僕と荒潮は先に昼食をとってくるよ」
「そうね。行きましょうか」
それに続いて荒潮も立ち上がり、さっさと執務室を出て行く。
ふたりの後ろ姿を見送り、突っ立ったままの青葉へと声をかけた。
……どういった意図があって訪れたのか、それはわからないがこのチャンスを無駄にしてはいけない。こんなこと、もう二度と起きないかもしれないのだから。
「とりあえず座ってくれ。お茶でも淹れるよ」
「ありがとう、ございます……」
小さく呟くように言って、ソファの端にちょこんと座った青葉は居心地が悪そうに、両手を弄りながら俯いている。
きっと、言い出しにくいことなのだろう。
その背中をなんとか押してあげたくて、頭の中で慎重に言葉を選んだ。
「俺にできることなんてたかが知れてるけどさ、それでも真剣に聞くよ。どんなことでも一緒に考える。だからなんでも言ってくれ」
「……あなたは、どうして青葉たちに優しくするんですか?」
俺が青葉たちに優しくする理由。
それは、たどっていけばきっと浅ましくて、気持ちの悪いものが見えてくるのだろう。
ただそれでも、
「君たちにはただ、笑っていてほしい」
その気持ちがうそになるわけではない。
彼女らに優しくするのは、自分を好きでい続けるためだ。
少し語弊があるかもしれない。
自分を嫌いにならないために、俺は彼女らに優しくするのだ。
自己満足で、独善的で。
けれどそれでも、一番の理由はやっぱり、彼女らの笑顔をずっと見ていたいと、そこに帰結する。
「君もきっと、かわいらしい
「……バカみたい」
「おかしいか?」
「おかしい、ですよ。そんなの……」
手もとの、湯呑みに視線を落として中に入ったお茶に反射する自身の顔を見つめながら、青葉はため息混じりに吐き捨てた。
そうか、おかしいか。
まあ俺がおかしいなんてのは俺以外の全員が思っているだろうし、今さらだ。
「おかしくたっていい。君が笑ってくれるなら、俺はなんだってする」
「……じゃあ、青葉の探し物も、探してくれますか?」
言って、彼女は落としていた視線をあげた。
訊ねておいて、まったく期待されている気がしないのだが、まあよしとしよう。
「まずは、その探し物がなんなのかを教えてくれ」
「──……司令官」
「……?」
「司令官、ですよ。 本当の……」
本当の司令官。
その言葉が示す真の意味を、俺はこれっぽっちも理解できなかった。
偽物の司令官がいるのか?
いや、偽物ってもしかして俺のことか?
青葉が前にいた鎮守府の司令官とか、そういうことだろうか。
お前なんかが青葉の司令官なはずがない、みたいな?
「……それは、どういう意味だ?」
「あなたは、青葉の知っている司令官じゃない」
「それはまあ、俺と君はこの鎮守府で初めて知り合ったからな」
「……そういうことじゃないです」
つまり、どういうことなのかわからない。
「……君の本当の司令官は、生きているのか?」
「……死んでいるし、生きています」
余計にわからなくなった。
哲学か、あるいは謎解きか。
「男? 女?」
「男です」
「実際に存在する?」
「部分的にそうです」
うーん、全然わからないな。
ていうかさっきからなに訊いてんだ俺は。
どこぞの思い浮かべた人物を見事当てちゃう変な魔人みたいだぞ。
なにネイターだよ俺は。いや当てられないんだけど。
「まいった。少し休憩しよう。まずは君について知りたい」
もとより勝負をしていたわけではないのだが、このままでは埒があかない。
アイスブレイク的なものが必要だろう。
「ええと、君は写真を撮るのが好きなのか?」
「関係ありますか?」
あなたに、と言葉を繋げて、青葉は無表情のまま問いかけてくる。
「ただの雑談だよ」
「青葉はそんなことをしに来たわけじゃありません」
「でも、俺は君と話しがしたい」
「……」
言って笑いかけると、青葉はあからさまに面倒くさそうに、不服そうにため息をついた。
それから、小さな声でぽつりと呟いた。
「……嫌いです」
そう言って膝の上できゅっと握った彼女の拳は、微かに震えていた。
見間違いかもしれない。
けれど、彼女はうそをついていると、そう思った。
「でも君はいつも、指を合わせてカメラを作っているじゃないか」
海の上でいつもなにかを探している彼女は、いつも両手の親指と人差し指を合わせてカメラの形を作って、その
彼女にとってカメラは、〝本当の司令官〟というやつに関係しているのではないだろうか。
「……嫌い。カメラも、司令官も……、……ぜんぶ、」
途中で言葉を切った青葉は、手で口もとを押さえて、ただ身体を震わせていた。
──彼女の傷は、一体どれほど深いのだろうか。
今にも泣き出しそうな青葉に、かける言葉は見つからない。
「だって……もう……」
優劣なんてなく、傷ついている子を見れば平等に胸が痛む。
時雨のときも荒潮のときも同じだった。
そうであるはずなのに──目の前でぽろぽろと涙を落とし、声を押し殺している青葉を見て……たぶん俺は、人生で一番胸を締めつけられた。
今すぐにでも彼女の震える身体をぎゅっと力一杯抱きしめて、本当の司令官は必ず俺が見つけてやると、そう言ってやりたい。
でも、言葉は出てこなかった。
なぜだかそれが、不可能な気がしていたから。
「……」
執務室には、押し殺して、それでも微かにもれる青葉の嗚咽と、壁にかけられた時計の秒針がカチカチと動く音だけが響いている。
こんなにも苦しんでいる彼女に差し伸べてやれる手がないのなら、俺は一体なんのためにここにいて、なんのために彼女と言葉を交わしたのだろうか。
ただ彼女の傷を抉ってしまっただけだ。
結局この鎮守府に来たときから俺は、なにひとつ変わっていないのだ。
なにもできないくせに、なにもかもを知りたがる。
「司令官……」
俯いたまま絞り出すように言った弱々しい青葉の声は、誰に届くことなくどこかへと消えていった。
それ以降、青葉が声を出すことはなかった。
やがて落ち着きを取り戻して、真っ赤に腫れた目でぼんやりと窓の外を眺めたまま、ただそこにいた。
用意したお茶に口がつけられることはなく、いつのまにかその熱は失われていた。
「……」
依然として窓の外を眺めたまま口を閉ざしてしまった青葉の瞳は、悲しい色をしていた。
それはもう、二度と青葉の声を聞くことは叶わないのではないかと錯覚させるほどに。
……どうして。
どうして俺はこうも無力なのだろうか。
目の前で彼女は傷ついている。苦しんでいる。抱えた痛みと悲しみの中でずっと、息ができずに溺れている。
俺を信じてくれたわけではないということはわかっているが、けれど、自分から歩み寄ってくれた。引っ張りあげてほしいと手を伸ばしてくれた。
なのにどうして……なにもしてやれないのだろう。
──苛立ちと、悔しさと、情けなさが入り混じって、血が出るほどに強く拳を握った。
そんな俺にはもう目もくれず、物音ひとつ立てずに立ち上がった青葉は、くるりと背を向けて執務室の扉に手をかけた。
「……ごめん、青葉」
「……」
「俺は……」
なにもしてやれない。わかっている。
けれど、扉に手をかけたまま俺の言葉を待ってくれている青葉を見て、今ここでなにかを……なんでもいいからとにかくなにか言わなければならないと、そう思った。
〝それはきっと本物です。だから、いくら打ちのめされようと、あなたは決して折れることはないと、私はそう思っています〟。
不意に、鳳翔さんに言われた言葉を思い出した。
なにもしてやれないことも、なにもしてやれないくせに寄り添いたいと彼女らの心にずけずけと踏み込むことも、もちろん悪いことだ。
でも──勝手に踏み込んでおいて、途中で投げ出すことはもっと悪いことだ。
勝手に打ちのめされて、被害者ヅラしてんじゃねえぞ、俺。
お前なんかより、彼女らの方がもっとつらいんだ。
「……──俺は、必ず君の司令官を見つけてみせる」
「……」
「だから、少しだけ待ってほしい」
言ったからにはもう、降りることなどできない。
中途半端に逃げ道を残しているから、容易く折れそうになってしまうのだ。
「来てくれて、話してくれてありがとう、青葉。……今度は俺が君を迎えに行く。約束する」
最後まで、青葉は返事をしてはくれなかったが、執務室を出ていく瞬間、こくりと小さく頷いたような気がした。