律くんの、モブくんに対する、どうしようもなくぐちゃぐちゃな思考です。
英語でbrotherというと兄という意味も弟という意味もあるの、中一のときから性癖です。
作中で律くんが師匠のことをあんまりよく言っていませんが、書いたこちらとしてはししょおも大好きなので、律くんの思春期だと思ってご容赦ください……。
兄さんに世界のすべてを見せたくない。
この感情が突き上げてくるとき、僕はいつも思う。
――兄さんに、世界のすべてを見せたい(わけではない)
と、いうことなのか。
それとも、
――兄さんに、世界の(ありとあらゆる、)すべてを(見せたくない)
と、いうことなのか。
そんなの、どちらでもいい。
愚かな思考に倦む。そして、わかってる、酔っている。
兄さんのことを考えるとき、僕は正気ではいられない。
僕に向かってのみ笑う兄さん。食事のときにいつもスプーンを曲げてしまう兄さん。足の遅い兄さん。水色のパジャマの兄さん。超能力をつかう兄さん。超能力をつかって僕をまもった、兄さん。
――ありがとう。律。
僕は汚いけれど兄さんは水晶のように、きれいだ。
僕を見ないで、兄さん。
そんなまっすぐな目で僕を見ないで、
……違う、違うんだ、
世界のすべてを見ようとしないで。
★
授業中でも考えている。兄さんのことを考えている。
生徒会の権力を用いて学校じゅうを抑圧して支配して回る、そんなことはやってしまえば簡単なのだし、そんなくだらないお遊びなんか、慣れてしまえばどうってことない。――お遊びだと言い切るには、ちょっと悲惨な気もするけどさ。抑圧されて支配されたがわではなく、僕たちだよ、僕たちのこと。
兄さんから逃れられない僕のことだ。
いま、なんの科目かもろくに認識していない。視線を上げれば黒板に英文が書いてあったので、英語の授業なのだろう。僕のノートにも黒板のままの英語が書かれている。僕はボールペンを持っている。黒板を写していたみたいだ、とひとごとのようにして思う。こんなレベルだったら自動筆記でいける。
兄さんが中一のときにもさんざん苦労していた勉強。僕は、かくもたやすくこなせる。
兄さんはさいきん部活に入った。
肉体改造部、とかいう、よくわからない部活。でも兄さんはがんばってるみたいだ。一生懸命やってるみたいだ。
……そんなの、いいよ。
やらなくっていいんだよ、兄さん。
勉強だって体育だって、僕がぜんぶやってあげる。なんなら家事だって仕事だってぜんぶ僕がやるよ。兄さんはなにもやらなくっていい。ただ兄さんはそこにいて笑っていればいい。兄さんはストレスを溜めず、笑っていれば、それでいいんだ。
生きていればそりゃストレスなんか溜まるさ。
学校、人間関係、進路、才能、努力、僕たちを惑わすワードのなかで、僕たちはなすすべもなく惑ってばかりなんだから。
でもそんなの承知のうえさ。中二に上がっても、中三に上がっても、高校生になっても大学生になっても社会人になっても、そんなのずっと続くことを僕は知っている。まともに生きようとすれば、するほど、この世は息苦しい。
だって生きるってことは苦しいってことだろ?
だから、兄さんだけは、ストレスなんか感じなくっていいんだよ。
――だって兄さんはとくべつだから。
とくべつな兄さんを、平凡な僕がまもってあげることに、どこか矛盾があるかな?限界があるかな?
僕しか知らないんだ。兄さんのこと、
兄さんは危険なんだってこと、
そして、
だれがいちばん兄さんのことを考えてるのか、ってこと。
★
「律」
僕は僕の表情筋がつくれるなかで最上の、しかし控えめな笑顔で振り向く。
僕と兄さんの家はおなじだ。だから帰り道に鉢合わせたってなにもおかしくはない。そんな、そんな当たり前のことが、こんなにも、泣きたくなるって、きっとそこらへんの兄弟にはわからないのだろうな。
「ああ、兄さん」
「きょうは生徒会はないの? 律がこんな時間に帰るなんて珍しいね」
「うん、生徒会も毎日やってるわけじゃないからね。たまの休みで嬉しいよ。兄さんこそ部活とか……バイトは?」
「たまたまね、どっちもないんだ。……師匠にいつ呼び出されるかはわからないけど」
「そっか」
僕たちは並んで歩き出す。
きょう起こったこととか、猫が通ればかわいいと言うし、僕たちは笑いながら、笑いあいながら、歩く。夕方の住宅街を歩いていく。
光は優しい。夕暮れの光はとくに、優しい。
僕は告白したくなる衝動に駆られる。
ねえ、兄さん、僕はずっと、ずっとあなたが怖いんだ、でも怖いからってね、逃げることもできないし、克服することもできないし、どうしようもないんだ、だからあなたに目隠しをしたかった、世界のどうしようもないこと汚いこと、見てしまうからストレスが溜まるんだって、思ってた、愚かにも僕は思ってた、だからそのストレスを消してあげればいいって思ったし、そもそも、ストレスを感じなければいいんだって、思ったんだよ、だから僕は勉強も運動もひと一倍がんばった、兄さんのできないことはぜんぶやってあげようと思った、兄さんが笑っていられるためなら、人生だって捧げるよ、でも兄さんは自分から外へ行ってしまう、あのうさんくさい詐欺師のところが最たるものだ、初恋だって部活だってさ、馬鹿らしいよ、兄さん、ぜんぶ僕がやってあげるよ、そうぜんぶ、一生かけたって兄さんを僕は、まもるよ、兄さんに目隠ししてさ、でも暗闇は見せないよ、僕という光を、僕が、光に、なるよ、
「律? どうかした?」
僕は笑う。
「なんでもないよ、兄さん。兄さんこそさいきん、悩んでることとかないの?」
兄さんも、笑っている。
次に言うことは、言われなくても知っている。
――だいじょうぶだよ。ありがとう。律。
夕暮れの光は優しいけれど、やがて暮れる。
目隠しなんかされているのは、はたして、どちらなのか。
その答えを僕は知らないし、
知りたいとも思えないんだ。