「ぷぷぷ、分かりやすい奴。こりゃノイマンの予測も要らなかったかな。」
「これは夢か幻覚か随分ファンタジックな幻覚じゃないか疲れすぎだぞというか幻覚の中で大して接点のない灰都さんに助けられるなんて何がどうなってるんだ潜在意識か···」
フィッシュから距離を取り──と言っても柱の反対側に回っただけだが──一息つく二人。
灰都はへらへらした笑いを崩さず、東耶は現実からの逃避を始めている。警官数人と野次馬三人を喰らった異常者の存在を、その残飯が産み出した血と臓物の池を、その鮮烈な色と臭気の全てを『幻覚』の一言で済ませようとする東耶に、灰都は苦笑を向けた。
「確かに信じられないのは分かるけどさ。···けど、東耶にとっちゃ、この光景は現実の方が良いだろ? なんせ──」
思わせ振りに言葉を切った灰都に、東耶は伏せていた視線を当てる。
灰都は、もう軽薄な笑いを浮かべていなかった。代わりにその整った容貌を満たす──獰猛な笑み。フィッシュのそれが肉食獣のものならば、彼女のそれは猛禽類のもの。研ぎ澄まされた、一方的な狩人が放つ覇気を纏う、笑顔。
「──
東耶の思考に空白が生まれる。
才能。
東耶が幼い頃から渇望していたもの。それを得るチャンス?
「灰都さ──」
「──おや、そこにおいででしたか。」
東耶が詰問するより早く、感情の薄い声が届く。
その声に含まれているはずだった感情をすべて食欲に置換した、食人鬼の声が。
「百聞は一見に如かず。見てな東耶──」
灰都は竹刀袋のポケットを漁り、手のひらより少し大きい程度の刃物を取り出す。
全体的に湾曲したデザインで、グリップに輪のついた、カランビットナイフに近いそれ。
彼女はその刃を徐に白い首筋へと当て──一息に、その腕を引いた。
「──っっっ!?」
噴き上がる血飛沫の色と臭い。
致死の一閃を最後に脱力しきった体。
冷たくなっていくその温度。
「灰都さん!? 灰都さん!!」
喉を血管も気道もいっしょくたに切り裂いたのだ。落命は確実。せめてその命を長らえさせるのが救いかも分からぬまま、東耶は灰都の喉を圧迫した。
その手を濡らす、熱い血潮が。弱い鼓動が。止まり、止ま──?
「血が、出てない?」
大口を開けた喉の傷から、呼気と共に漏れる──というより、流れ出す、赤い、赤い、
困惑し硬直する東耶。
意識を失ったまま、東耶の腕に抱かれて首から花弁を散らす灰都。
そして、その二人を纏めて、前言通りに料理しようと大鉈を振り上げる食人鬼がいて。
「しまっ──!?」
東耶が振り返るタイミングでは、もう間に合わない。
銀色が煌めき、一太刀で二人を切り裂く。
その処断の刃の軌道に、腕が掲げられる。
咄嗟に灰都を庇うように覆い被さった東耶には見えない位置で、彼の脇を通って伸びた細腕が指の二本で大鉈を止めた。
「灰都、さん···?」
たたらを踏んで下がる食人鬼を捨て置き、灰都は口元を歪めながら立ち上がる。その動きは遅々としているが、寝た姿勢からの一連の所作には隙というものがまるで無かった。
「これが輪廻返りだよ、東耶──『首刈り』『腹削ぎ』。」
灰都が首を傾げて振り返りながら、両手に何処からともなく刀を喚び出した。
その不穏な銘に似合いの、人の骨じみた業物を、二振り。
「宮本武蔵玄信──推して参る。」
白と黒。
対の妖刀の切っ先を食人鬼へ向けた据え、稀代の剣豪を名乗る少女が笑う。
「···なんちゃって!」
「···は?」
「···はい?」
決め台詞を吐いた五秒後、灰都は軽薄な笑顔を浮かべて刀を下ろした。
東耶とフィッシュ、その両方が異口同音に困惑を漏らす。
「や、この流れで私の才能とか見せつけて東耶を勧誘···ってつもりだったんだけどね。ちょっと状況が変わった。」
照れ混じりに頭を掻きながら、黒く染まっている長髪を揺らす灰都。
その視線はフィッシュではなく、その後ろに据えられており、フィッシュが困惑しつつ振り向く。
瞬間。
鍵のかかるような金属音と共に、フィッシュの十歩ほど後ろ、誰も居なかったはずの場所へと、一組の男女が現れた。
「っっ!?」
「なんっ!?」
どちらも面識はない、銀髪の女と金髪の男。
前者は、率直に美人という評価が浮かぶだろう。パンツに包まれた細い脚も、鋭く眇められた銀色の双眸も、全てのパーツが見事に調和している。胸が平···無···小さ···人並みより少し残念なことも、人によっては美点と思えるだろう。
だが、後者──男の方は、一言で言って
190センチはあろうかという長身も、背中まで伸ばされた見事な金髪も、その色に同じ双眸も、適度に鍛えられ引き締まった筋肉を包む黒い軍服も、その全てが単一で膨大な存在感を放っている。そして、その全てを統合しても上回るであろう存在感と覇気を、男自身が放っていた。
「──?」
「っぁ──!?」
東耶が疑問を、フィッシュが疑問と恐怖を覚える。
二人が抱いた疑問は、自分の視界に由来するものだ。なんせ、今まで呆然と見つめていた男が、急に視界から消えたのだから。
数瞬を置いて、東耶が気づく。
消えたのではなく、自分が視線を反らした──否、跪き、頭を垂れているのだと。
男が放つ覇気か、あるいは存在感、圧迫感。生命体として上位の者に、存在として上位のモノに、二人は自然と恭順の姿勢を示していた。距離のある東耶が跪き、近いフィッシュが土下座し叩頭するという違いはあるが。
「──お手を煩わせて申し訳ありません、ハイドリヒ卿。」
「っ!?」
東耶とフィッシュの間、未だ立っていた灰都が自分の意思で跪き、普段の振る舞いからは想像もつかない慇懃さで謝罪を口にした。
「構わんよ。アルバート=フィッシュの廻り者はこちらで処分する。卿は──東耶と言ったか。友人に説明なり勧誘なりをするがいい。」
「はっ。」
「ハイドリヒ卿···ゲシュタポの···?」
東耶は、灰都が男を指して呼んだ名前を知っていた。
ラインハルト=トリスタン=オイゲン=ハイドリヒ。ナチスドイツの秘密警察、悪名高きゲシュタポの長。かのヒトラーすら彼を恐れたという、黄金の獣。
だが──だが、言ってしまえばその程度の人間だ。最期は連合軍による暗殺だとか。殺せば死ぬ人間であり、東耶と同じ人間だ。
なのに何故、体の震えが止まらない。
どうして、折れた膝が、垂れた頭が、畏怖し恐怖し感嘆し恭順する心が、何故思い通りにならない。
「如何にも、私はラインハルト=ハイドリヒ中将だ。尤も、この階級は過去のものだがね。」
苦笑、なのだろうか。
口元を伺うことはできないが、声には笑みの要素が含まれていた。
「ハイドリヒ卿、罪人の処罰など──」
「アイン。東耶も知る通り私はゲシュタポの長官だ。咎人を裁くのも職務のうち、それに──アレでは私を害せんよ。」
東耶は頭を垂れたまま、叫び出しそうな自分を懸命に制した。
かなり鍛えられてはいるが、見た限り非武装で、あの大鉈を振るう殺人鬼に相対するなど愚の骨頂ではないか。
──そう、なるだろう。普通は。
東耶は疑問も恐怖も、その一切を感じていない。
心中を埋めるのは、ただ一つの暖かな情動──安堵。
勝った。
東耶はそう信じ切っていた。