クトゥルフ神話を知らなくてもたぶん読める。読めなかったら申し訳ございません。
後編はまた気が向いた時に投稿予定。
/Prologue
ちゃりん、ちゃりんと貴金属のぶつかり合う音が室内に響く。
ひっくり返した皮袋の中にもはや硬貨が存在しないことを確認したアインズは、続いて机の上に転がった硬貨を並べて数えていく。いつか、そうしていた様に。
「…………」
幾度か繰り返し山を数え終えたアインズは、やはりかつてと同じように皮袋を持ち上げ中身を確認し、そして――いつかと同じように頭を抱え込んだのだった。
「金が――無い」
切実な言葉であった。この場にアルベドが、いやアルベドでなくともナザリックの僕たちがいればその悲哀の籠もった主人の声を解決しようと、ありとあらゆる国、いや世界中から金目の物を根こそぎ略奪しアインズの前に差し出すこと必至であった。
ナザリック地下大墳墓が所有するユグドラシル金貨と、この異世界に流通する硬貨はデザインや価値が全く違う。そのため、ナザリックからの金貨の持ち出しは不可能であった。他プレイヤーを警戒するアインズたちにとって、ユグドラシル金貨を流出するのは「此処にプレイヤーがいますよ」と教えるのと同義である。よって、外貨を稼ぐ必要があるのだが――残念ながら、現在外貨を稼いで来ることが出来るのはアインズとナーベ……人間の国で冒険者をしている二人のみ。ナザリックの者たちは基本異形種であり、人間の姿をしていないため、万が一を考えて人前には出せないのだ。
よって、外界で何をするにしてもアインズ――アダマンタイト級冒険者“漆黒”の稼いだ硬貨が必要不可欠なのだが。
「あー……稼いでも稼いでも、幾らあっても足りないぞー……」
震える声で呟いたアインズは、目の前の机の上に並べられた硬貨を睨むように見つめる。しかし、幾ら見つめても硬貨は増えない。ポケットの中にいれて叩けば増えるビスケットのように、増えてくれればいいのに。
「でも……これも後少しだよな……? 国が出来れば、少しは俺のお小遣いも増えるよな……?」
アインズはナザリックで進行中の計画を思い、そう自分を納得させる。
現在、ナザリックはバハルス帝国の皇帝ジルクニフとの会談を経て、アインズ・ウール・ゴウン魔導国を建国する計画が立てられていた。アインズが『漆黒のモモン』として活動する主な国――リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国の毎年恒例の戦争に参戦し、ちょっとしたデモンストレーションを経て、このエ・ランテルやトブの大森林、カッツェ平野を魔導国とする予定だ。
こうして自分だけの国が出来れば必然、自分が自由に出来る金も増えるだろうと、今だけの辛抱だとアインズは自分を納得させた。
……例え、この世界の硬貨どころか自分の手持ちのユグドラシル金貨さえ危うくなってこようとも。見栄とは恐ろしいものである。数多の支配者を栄光を翳らすものは、見栄を張れなくなったところから始まるのだ。その点アインズは崇拝者が山ほどいるので大丈夫だろう。……たぶん。
アインズが感情の鎮静化が働かないまでも、精神的に動揺しながら硬貨を皮袋にしまっていると、室内にノックの音が響いた。買い物に行かせていたナーベラルが帰って来たのだろう。
少しの間を置き、ナーベラル――冒険者としてはモモンの相棒ナーベを名乗っている――が入室する。ナーベラルはいつものように、傍で片膝を突いて跪いた。
「只今帰還致しました、モモンさ――ん」
「そうか……」
相変わらず名前を呼ぶ時に間延びしたような、間抜けな発音をする。幾ら注意しても治らないので、アインズはもはや諦めの境地へ達していた。
「何か変わったことはあったか?」
「いえ、特には。いつも通り、
俺のためじゃないんですー。ただ日々生きるために働いているだけですー、とは思っても口にはしない。ナザリックの者たちは人間……というか、ナザリック外の存在を下等生物だと見做しているようで、ナーベラルの発言は特別な発言ではないためだ。ただ、誤魔化すのが上手い者と、下手な者がいるだけで。ナーベラルは当然、後者に当たる。
(まあ、間違った発言じゃないしな)
このエ・ランテルの住人たちは近々、アインズの物となる。つまりナーベラルの発言はこれから真実となってしまうのだ。住人たちの内心はどうあれ。
「では、何か依頼が無いか組合へ確認に向かうとしよう。私本人が依頼を受けるのも、最後になるかもしれんからな」
「はっ」
戦争が終わり、魔導国が建国された後は『漆黒のモモン』は消える。正しくは、中身がアインズではなくなる。アインズは魔道国の王としての責務があるし、その責務の中で事情を知らぬ第三者を交えながらモモンと会合する日もあるだろう。アインズは
アインズが作成したNPC……パンドラズ・アクターである。
「…………」
パンドラズ・アクターを脳裏に思い描いたその瞬間、アインズはドイツ語で喋りながら歌って踊って敬礼する軍服姿が思い起こされ、即座に感情が沈静化させられる。彼の姿に慣れるには、もう少し時間が必要のようだ。
(しかし、一国の王かぁ……)
アインズがアインズになり、モモンがパンドラズ・アクターになるその日を思って、アインズは頭痛に見舞われた。無論、錯覚である。しかしアインズにとっては悩みの種であった。
(王様? 俺が? ギルドの支配者じゃなくて、一国の王?)
無理だ。アインズはそもそも営業職の平社員――部下がいなかったとは言わないが、しかし部長や社長を飛び越えて国王である。どう考えても無謀にしか思えない。
確かに、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のギルドマスターではある。しかしそれは意見の調整役みたいなもので、皆をリーダーとして引っ張ったと言えるようなものではない、とアインズは思っていた。それに、ナザリック地下大墳墓の支配者――それさえ息苦しく、辛い。何かあるとついアルベドやデミウルゴスにそれとなく丸投げしているというのに。
(モモンは今まで通り俺がやって、パンドラズ・アクターに俺の役を……っていうのは、誰も納得しないんだろうなぁ)
それが一番正しく国を運営できる方法だ。きっとパンドラズ・アクターならばやり遂げるだろう。アインズだって出来ればそうしたい。
しかし無理だ。絶対に誰も納得しない。パンドラズ・アクターにこっそり内緒で話して入れ替わる――というのは可能だろうが、色々と後が怖い。主にそれが白日の下に晒された時の。
(俺はただの凡人です。お前たちの望む支配者にはなれません――って、いつになったら言えるんだろう……)
ナザリックのNPCは信用している。最初の頃とは違って、彼らは確かにアインズに忠誠を誓っている。それを疑うことはしない。
だが、それも時と場合による。アインズの真実が彼らの望む支配者像とはかけ離れていると知った時、今までと同じように忠誠を誓ってくれるのか。全ては事後承諾で、アインズの意思は無視されるようになるのではないか――その恐ろしい考えは、やはり頭の中から消せないのだ。
(まあ、なるようになるしかないか)
考え込んでいる内に、慣れ親しんだ冒険者組合に到着したようだ。アインズは内心で溜息をつきながら――ナーベラルを伴って、内心を悟らせない堂々とした動作で組合の扉を開いた。
●
今回“漆黒”が受けた依頼は、エ・レエブル領トブの大森林近郊に現れたスライムの討伐だ。酸系のスライムであり、よほど耐久力か魔法抵抗力のある武器防具でないかぎり溶かして破壊してしまうため、冒険者からは特に嫌がられる類のモンスターである。アインズも嫌いな類のモンスターであった。
実際、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のメンバーには、ヘロヘロという高価な装備品を溶かしてプレイヤーに嫌われまくっていたプレイヤーも所属していた。アインズも、もしヘロヘロが敵だったとしたら他のプレイヤーたちと同じように、文句タラタラであっただろう。
しかしこの依頼のスライムはアインズやナーベラルの装備品を溶かすほどの高位モンスターではないため、二人には無力以外の何物でもなかったが。
……あの王都で悪魔ヤルダバオト――正体はナザリックのデミウルゴスだが――が起こした大事件の後、“漆黒”は時折エ・ランテル以外の都市で指名依頼が入ることがあった。エ・ランテルで知らない者はいない、と言えるほどの知名度を誇る“漆黒”ではあるが、しかし王都などでは知らない者の方が多かったそれまでと比べると、雲泥の差である。アインズも商人の護衛など旨味はあるが名声としては微妙な依頼ではない、魔物討伐の指名依頼などは断らないようにしていた。
そのため、極稀にこうして遠出をすることがあったのだが――
「ア、……モモンさ――ん。ナザリックへ御帰りになられますか? それともエ・レエブルへ?」
ナーベラルの言葉にアインズは少し考える。普段ならば依頼達成の時間調整のためにナザリックで時間を潰すか、あるいはそれも無視して依頼の達成をさっさと組合に告げて自由になるのだが――。
「そうだな……今日は気分を変えて、たまにはゆっくり帰るか」
何せ護衛依頼でもなければ、ゆっくり周囲を見て回るようなことはない。その護衛依頼も正直、薬師のンフィーレアか貴族の成人の儀の二件くらいという少なさだ。更にこの辺りはアインズにとってまだ未探索――たまには、ゆっくり帰ってみるのも有りだろう。
「ナーベ。勿論お前がすぐに帰りたいと言うなら話は別だが」
しかし、アインズはナーベラルに問う。これはアインズの意思であり、ナーベラルの意思では無いからだ。だがナーベラルはゆっくり頭を下げ、口を開いた。
「いえ。アインズ様の御随意に従います」
「そうか」
アインズとしては、ナーベラル自身の意思を問いたいのだが、しかしアインズが「黒を白」と言い張れば、全ては白になる。
(俺が間違ってても何も言わなさそうだから、そういうの困るんだよなぁ……とほほ)
これから国を造り、その王になるのだ。アインズに意見せず、唯々諾々と従われるとアインズが間違っていた日には全員で集団自殺になる。その辺りもなんとかしたいのだが、やはりナザリックのNPC達には難しいのだろう。
(エ・ランテルの人たちは、そうじゃないって思いたいけど……)
エ・ランテルの人間たちにアインズへの信仰染みた忠誠心は皆無だ。よって、疑問に思ったこと。間違っていることは口に出してくれる可能性が高いが、しかしナザリックの者たちが許すまい。
(目安箱みたいなものでも設置してみるかな。匿名の目安箱なら、色々意見も言い易いだろうし)
そこでアインズは閃くものがあった。
(そうだよ! 匿名の目安箱をナザリックに配置すれば、ナザリックの知恵者なアルベドとかに意見を聞き易いじゃん! 俺だとバレずに意見を言えて、何が駄目なのか堂々と聞けるぞ……これは良案じゃないか?)
自分が無能だと晒されず、かつ知恵者に改善案を提出させることが出来る。そしてアインズも何が悪かったのか理解出来る。かなりの良案に思えた。
(よし! 建国した後はより良い国造りの案件を求めるという名分で、ナザリックに目安箱を設置しよう。良さげなのや俺の意見をアルベドに聞いてもらえば、失敗する確率も減るな!)
アインズは気分を感情の鎮静化が働かない程度に昂揚させ、ナーベラルを伴って気軽に周囲を散歩した。勿論、ナーベラルに何度か話題を振って会話を楽しむのも忘れない。この異世界で手に入れたアインズのペット、魔獣のハムスケがいれば更に会話が弾むのだが、ハムスケは留守番だ。最近のハムスケは武技も覚えていい感じに成長してきているので、アインズとしても楽しみにしている。
だが――、一緒に武技や戦士職習得のための訓練をしているアンデッド……デス・ナイトは何も変わらなかった。アインズとしても覚えられるとは思っていなかったので、それはいいのだが――もし習得出来たとすれば、さぞナザリックの役に立っただろうに。
それこそ、計画が根こそぎ変更になるほどに。
「……モモンさ――ん、あちらを」
「うん?」
ナーベラルが何か発見したようで、アインズはナーベラルの示した指先に視線を向ける。よく見ると、ナーベラルが発見したものがアインズにも微かに見えた。
「あれは村……いや、町か?」
幾つかの建物の輪郭が朧げに見える。おそらく、カルネ村のように地図には載っていない小さな町なのだろう。
「ふむ。ちょうどいい。少しばかり冷やかしに行ってみるか」
あの小さな町ではアインズ達のことなぞ知る由もあるまい。しかし、ああいう小さな町には面白いイベントが隠されていることがユグドラシルではよくあった。と言うより、RPG風のゲームである定番だ。
それに、何か興味が引かれるアイテムを売っていたりするかも知れない。帝国の帝都で見た露店などでは、ユグドラシルではなく現実世界の扇風機や冷蔵庫の形をしたマジックアイテムが売られていたこともある。そういうプレイヤーのちょっとしたアイデアなどが、流れている可能性もあった。
「行くぞ、ナーベ」
「かしこまりました」
ナーベラルを伴い、アインズは少しの期待を込めて歩を進める。あの距離ならば、三〇分程度で着くだろう。
●
訪れた場所はやはり、村というよりは町だった。しかし、それもなんとか町と呼べるレベルのもので、村と言っても過言ではないのだろう。過疎なのか――空き家が目立つ。崩れてそのままにされた建物もあった。
「ふむ」
アインズはナーベラルを伴って、町中を見て回る。太鼓と笛の音がどこからか小さく奏でられ、町中に響く。そして井戸の近くで談笑している中年の女たちもいれば、汗水垂らして働く男たちもいた。子供の影はあまり見えない。しかし、誰もがチラリとアインズたちに目を向け、驚いたような視線を向けて、アインズたちをチラチラと見ながらひそひそと囁く。
(冒険者が珍しいのかな? まあ、俺たち目立つもんなぁ)
この町よりうんと都会のエ・ランテルなどでも最初は誰もが振り返っていた。それを考えれば町の人間たちの反応は普通である。
ふと見れば、物見台が遠くに見える。鐘もついていたが、材木で出来た物見台は今にも崩れそうで、別の意味で不安だ。牛や豚などの放牧場もちゃんと手入れされていないのか、家畜特有の臭いが風に吹かれてアインズの鼻腔を擽る。
……見れば見るほど、もはや朽ち果てていくことが確定したかのような、寂れた田舎町だ。名前は何と言うのだろうか。アインズはまだこの異世界の文字はマジックアイテムが無ければ読めないので、分からない。
あまりに酷い草臥れようだからか。ナーベラルがその美しい顔を不快げに歪めている。
「まさに下等生物らしい人間どもが棲むのに相応しい町です。御方があまり長居するような場所では無いと思われます」
「そうだな。店を少しばかり覗いて、町を出るとするか」
ナーベラルにとってはエ・ランテルさえアインズには相応しくない、辺境の片田舎だ。そのエ・ランテルが王城とも言えるほど寂れたこの田舎町は、ナーベラルに不快感しか与えないらしい。
アインズも衛生上あまり長居したいとは思わないため、最低限の用事だけ済ませて立ち去ることにした。
アインズは道具屋が無いか町の人間達の視線を受けながら、周囲を見回して探し回る。モンスターや盗賊・山賊などが存在する以上、どんな小さな村でも武器や防具は置いてある。田舎町でも店くらいはあるだろう。
そして、確かにアインズは店を発見した。しかし期待するようなものは何も無い。もはや錆が浮き始めている剣。動物の革で出来た盾や軽装鎧。道具屋では薬草を適当に煎じただけにしか見えない、色の濁ったポーション。焦げて炭化した黒い蜥蜴の丸焼き。
「…………」
酷かった。むしろ、どうしてこの町が今でも存在しているのか不思議に思うくらい酷かった。いつモンスターに襲われて滅んでもおかしくはない。
「……帰るか」
「はい」
少し見て回っただけで、もうお腹いっぱいだ。これ以上は胸焼けを起こす。それほどの、時が止まっているかのような寂れ様。この町には何の価値も無い。モンスターが肉を求めて襲うことはあるだろうが、金目当ての賊が襲う可能性は少ないとも言える草臥れ感。人間にとっては屋根のある家にしか価値が無い。
アインズはナーベラルを伴い、町を出ようとする。人通りの少ない、寂れた細い通り道。そこに並ぶ果物や野菜などの食べ物屋。そこで干し肉などの保存食を買ったのだろう、上半身が腰の位置まで曲がってしまっている、老婆が家を出て二人の横を通る。
その老婆が立ち寄ったであろう肉屋は、果物や野菜の店と違って露店のように商品を表に並べていなかった。ドアがあり、中が見えない。加工も一緒にしているのかもしれない。
その肉屋の看板をふと見上げて、アインズは思わず立ち止まった。
「?」
ナーベラルが不思議そうにアインズを見上げるが、アインズはその肉屋の看板に視線を釘づけにされていた。目が離せない。それはあまりに不意打ちで、アインズは立ち止まらざるをえなかったのだ。
「どうかしましたか?」
「――いや、何でもない」
だが、すぐに感情は沈静化され冷静さを取り戻す。アインズは困惑するナーベラルに首を横に振って、先程と同じように歩き出した。ナーベラルも再びその背を追う。
「…………」
アインズはその間、生きた心地がしなかった。思わず周囲を見回しかけそうになるが、それが不味いということは分かっていた。故に、必死に理性を働かせて何でもない風を装い、ナーベラルを伴って歩き去る。
急いで、しかしただの冒険者を装って歩き去らねばならない。町を出た後普通の冒険者のようにエ・レエブルへと向かい、そこから急いでナザリックに帰還しなければならなかった。
ナザリックに帰還した後、やらなくてはならないことが山積みに浮かぶ。あらゆる計画は全て、優先順位が下がっていった。
そう――この件は早急に片付けなければならない。他の何よりも。誰よりも優先して。
アインズが見つけた寂れた田舎町の肉屋の看板。そこには、この異世界の言語文字の下に
――――いらっしゃいませ。ようこそクルーシュチャの肉屋へ!
1/田舎町
リ・エスティーゼ王国エ・レエブルのトブの大森林付近に存在するこの町“ンガイ”は、トブの大森林を上流に持つ川を挟んだ二つの地区から成る町だ。トブの大森林に近い地区がアトゥ地区、川を挟んだ向かい側がココペリ地区と呼ばれている。
アトゥ地区にあるのは主に墓場と牧場で、人間の居住区ではない。農作業を生業にしている者たちが多少住んでいるだけだ。対してココペリ地区は露店が並び、人々が暮らしている住宅地となっている。
人口はもはや村と呼んでもよいほどに過疎化してしまっているが、まだそれなりに人は暮らしている。特徴的なところと言えば絶えず太鼓と笛の音色を、町の楽団が響かせていることか。この楽団の奏でる曲はかつてこの町を作った吟遊詩人が「魔物を寄せつけない曲」として作曲したものであり、効果もあるらしくモンスターに襲われたことはあまりない。そのため、楽団はこの町一番の規模を誇り、昼夜絶えずその音色は町に響いていた。町の人間も慣れたもので、太鼓と笛の音色で眠れないという苦情は存在しない。不思議と、そういう声は無かった。
そしてアトゥ地区の東にある東墓地で、一人の少女が熱心に墓参りをしている。家から持ってきた布と、水を汲んだ桶で自らを育ててくれた男の墓を拭いて掃除をしていた。掃除が終わると、道すがら買った花を添える。祈る姿は誰が見ても聖女に思えるだろう、このような田舎町には相応しくない整った顔立ちをしていた。少しの沈黙の後、祈り終わった後に少女は立ち上がる。
少女――クルーシュチャは掃除に使用した桶と布、それから枯れてしまった以前添えた花を持つと、ココペリ地区にある自らの家である肉屋へと歩を進めた。
途中で、枯れた花を東墓地の入口にある墓守の家の横に捨てていくことも忘れない。墓守が時折墓を掃除してくれるが、なるべく自分の手で掃除してあげたかった。中には、墓守に全てを任せて一向に墓参りに来ない者もいるが、クルーシュチャは自分で世話をするタイプだ。
クルーシュチャは歩きながら、額から流れてきた汗を拭う。冬が近づき気温は下がってきているが、それでも身動きをすれば体は温まり汗が出る。家に帰った後は着替えないといけないだろう。でなければ身体が冷えて風邪を引く。この季節に病気は致命的だ。ましてや一人暮らしのクルーシュチャでは、そのままひっそりと息絶えてしまいかねない。
川の上にかかる橋を越え、ココペリ地区のぼろぼろの石畳の上を歩き家に向かっていると、顔見知りの人間が話しかけてきた。よく自分の店に肉を買いに来る、腰の曲がった老婆だ。
「クルーシュチャや、先程アンタのことを探している外の人間に会ったよ」
老婆の歯はほとんど抜けているので、聴き取り難い。しかしクルーシュチャは慣れたもので、老婆の言葉を聞き間違えたりはしなかった。
「私に会いにですか?」
しかし解せない。この町の外にクルーシュチャの知り合いはいない。自分を育てた男からも、特に知り合いがいるという話は聞いていない。なので、その客人にさっぱり見当がつかなかった。
「何かおっしゃってましたか?」
「さぁの。わしもよく分からんわい」
老婆はクルーシュチャに伝えた後、もはや興味が無いのか老人特有の危ない足取りで去っていく。クルーシュチャは一人首を傾げながら、再び帰路を目指した。
そして自宅がある小さな通り道、同じようにこの通りに店を構えている果物屋の男がクルーシュチャに声をかける。
「よぉ、さっきお客さんが来てたぜ。出かけてるから今は開いてないって声はかけさせてもらったがね」
おそらく老婆が言っていた外の人間だろう。クルーシュチャは果物屋の男に訪ねた。
「どんな人だったんですか?」
「変な格好の爺さん。この町じゃ見ない格好だったな」
「わかりました。ありがとうございます」
その特徴を聞いても、やはりクルーシュチャに覚えは無かった。クルーシュチャは不思議に思いながら、果物屋の男に礼を言うとその横を通り過ぎて、自宅である肉屋の前に立つ。そして、服のポケットから自宅の鍵を探した。鍵と言っても簡素なもので、先が左に曲がっている鉄の棒を、穴に挿すだけだが。
鍵を開けたクルーシュチャはドアを開け、中に入る。中はいつも通り、幾つもの干し肉などの加工肉、あるいは生肉が天井に吊るすように並べられており、奥にカウンターと調理場や寝室が一体になった狭い部屋があった。特に変わった形跡は無い。
クルーシュチャは歩を進め、カウンターの奥へ向かう。調理場で桶を片付け、布を適当な壁に引っ掛けて乾かす。それから一旦寝室に帰り、身体を乾いた布で拭いて服を着替えた。調理場に再びやって来るといつものエプロンを手に取り、着る。そして手を洗うと、かつて“口だけの賢者”なる者が考案したというマジックアイテム――冷蔵庫から肉を取り出した。これを棍棒や包丁で挽肉にして、豚の腸詰を作らなくてはならない。そろそろ在庫が無くなりそうだ。
クルーシュチャが店を開くのは午後から――日が空の真上に昇るまで、まだ時間がある。出来るかぎりの作業をしておこう。
肉をまな板の上で挽肉にしながら、クルーシュチャは自分を訊ねてきたという客人を想像する。この辺りでは見ない格好をした老人――。一体、どんな人で何の用があったのだろうか。
つい最近も、見たことのない漆黒の戦士と綺麗な女性が町に現れたと聞くし、クルーシュチャは首を傾げるばかりだ。
●
クルーシュチャの肉屋は、日が暮れると共に閉店する。一仕事を終えたクルーシュチャは、「本日は閉店しました」と書かれた看板を家のドアに掲げ、家に入ると内側から鍵を閉めた。
その後、吊るしてある肉の状態を一つ一つ確認していく。傷み始めたものは腸詰などに加工して売らなくてはならない。幸い、今日は腸詰にしなくてはならないほど傷んでいる状態の生肉は存在しなかった。
生肉の状態の確認を終えた後にも仕事はある。加工肉の在庫確認。帳簿など――色々な仕事は山積みだ。
しかし、苦にはならない。何か作業をしているのは好きだ。何もしないのは落ち着かない。一人で切り盛りするのは大変だが、この仕事は自分に向いていると思う。
そうして全ての仕事を片付け終えた頃には、日は完全に沈みきり、空は星や月明かりを広げた夜空となっている。クルーシュチャは大甕に溜めていた水を小さな桶で掬い、大きな桶に移す。そして、服を脱いだ後その大きな桶に座った。
「つめたっ」
もうこの季節になると水が冷たい。夏は涼しくて毎日でも水浴びをしたくなるが、秋の中頃から水浴びは厳しくなってくる。
濡れたタオルで身体を拭って汚れを落としながら、ふと髪を一房握って目の前に持ってくる。クルーシュチャの髪は長いため、髪の先は簡単に視界に入った。クルーシュチャは自身の真っ黒な髪を眺めながら目を細める。
「そろそろ、髪を洗おうかな」
乾かすのが面倒ではあるが、髪をあまり長く洗っていないと汚い。噂に聞く浴場なるものがこの町にも出来ればいいのだが、期待は持てまい。クルーシュチャは溜息をついてから、濡らした布で汚れを落とすように髪を丁寧に拭い始めた。
水浴びを終えたクルーシュチャは、寝室へと帰り明かりを灯す。クルーシュチャは一つだけある小さな木の机に近寄ると、更に隣に置いてある小さな本棚から、一冊の薄い本を取り出した。
椅子に座り、机の上に薄い本を広げる。目的のページを探し終えたクルーシュチャは、置いてある羽ペンを手に取った。
「えぇっと……今日の出来事は――」
毎日の日記をつけること。クルーシュチャが必ず、毎日行っている作業。自分を育ててくれたあの男も言っていた。日記をつけるのは良いことだと。
「――よし」
日記を書き終えると、いつもと同じ場所へ戻す。そして明かりを消すとベッドへ転がり、目を瞑った。クルーシュチャの朝は早いのだ。しっかり眠って疲れを取らなくてはならない。
「…………」
うつら。うつらと混濁した意識で明日の朝やるべきことを確認する。その中で、仕事の最中は忘れていたことを思い出した。
クルーシュチャを訊ねたという老人。彼は何者なのだろうか、と。
●
「よくぞ、私の前に集まってくれた各階層守護者たちよ」
ナザリックの最奥とも言うべき玉座の間で、玉座に座り跪く守護者たちを眺めていた支配者が口を開く。
「まずは感謝を告げよう。デミウルゴス、何度目になるか分からないが、ことあるごとに呼びつけているお前の労を労わせてくれ」
「勿体ないお言葉です、アインズ様。御方のために働くことに歓びを覚えこそすれ、苦などあるはずがありません」
聖王国というナザリックから遠い国に牧場を構えていたデミウルゴスは、深々と頭を下げた。そして、同時に疑問を覚える。何故、自分は呼ばれたのだろうか、と。
確かに、今は忙しい時期だ。魔導国が出来る前準備の期間であり、誰もが忙しなく働いている。特にデミウルゴスに対して、アインズは気を遣っているように思えた。主人はデミウルゴスにばかり仕事を任せるのを、デミウルゴスにばかり負担をかける行為だとして遠慮しているのだろう。
勿論、デミウルゴスに「仕事で忙しい」という状況は歓喜の感情こそ覚えるが、苦など欠片もない。むしろ、他のシモベたちに自慢したい気持ちでいっぱいだった。ナザリックのシモベたちにとって、アインズのために働くことは喜びなのだ。
しかし、慈悲深き主人はシモベたちを必要以上に働かせることを嫌う。自分たちシモベ如きを慈しんでくれる主人には涙を流す他ない。そんな主人が他の守護者たち――シャルティア、アウラ、マーレ……更にリザードマンたちを統治して、デミウルゴスと同じくナザリックを頻繁に離れるコキュートスさえ呼び戻しているのだ。
それに――アルベドやセバス。二人の気配が臨戦態勢の如く強張っているように思える。そのことから、今回の集まりが重要案件であると告げていた。
「さて、今回お前たちを呼び戻したのは重要な発見をしたからだ」
コツリ、と注目を集めるようにスタッフを床に叩いて鳴らしたアインズは、一息の呼吸分を開けて――告げた。
「――プレイヤーの痕跡を発見した」
「――――」
全員の気配が、先にそれを知っていたであろうアルベドやセバスと同じ様に変わる。当然、デミウルゴスも例外ではない。
(……ついに!)
今までプレイヤーの痕跡が無かったわけではない。話に聞く六大神。伝説の八欲王。そして二〇〇年前の十三英雄――口だけの賢者など、確かにプレイヤーの痕跡自体は存在した。
だが、そのどれもが自分たちとは年代のずれたモノなのである。誰もが、既に死亡していると思われるプレイヤーたちなのだ。
だが、アインズがわざわざ自分たちを集めて告げるということは――そのプレイヤーは、今も生きている可能性が高いということ。
(なるほど。道理で――)
自分たちを急遽呼び戻すはずだ。デミウルゴスはアインズが何を考えているのか、幾つも思考を重ねる。しかし、アインズはその一手で複数の意味を持たせる神算鬼謀の持ち主。デミウルゴス如きでは表層に触れる程度しか出来まい。
いや、それとも――表層にさえ、本当は触れられていないのか。
「場所はリ・エスティーゼ王国のエ・レエブル領――トブの大森林より五キロほど離れたところにある、ンガイという町だ。この町は年々過疎化が進んでおり、町の住人はほとんどいないということだが……」
主人が語るンガイの町は、数十年前に吟遊詩人が、行き場所も帰る場所も失った人間たちを集めて作ったと言われているらしい。
しかしそれはンガイ以外の町の人間から情報収集した結果であり、プレイヤーの本拠地の可能性もあるため町の住人からの情報収集は控えている。
だが、周辺で集めた情報により、奇妙なことが発覚した。
「私が偶然訪れる結果になった町だが、過疎化が進むのは致し方ない田舎町だ。今となってはカルネ村の方が活気があるだろう。だがな――
「――――」
デミウルゴスはその情報で、ある可能性を考慮する。
ンガイの町は過疎化が進み、住人が減少の一途を辿っている。ならばこの町から出て行った人間は、まず周辺の村や町に移っているはずだ。脆弱な人間の身ではモンスターが出現する可能性のある平野を歩くのは、かなり勇気のいる行為だろう。少なくとも、何度もしたいとは思うまい。そして、あまり遠い旅はしたくないはずだ。
ましてやンガイの町にはまともな武器や防具が売っていなかったと言う。冒険者もいるはずが無く、訪れたとしても長居したくなるような雰囲気でも無い。
護衛のいない状況で、町を出て行く。一人で、あるいは守るべき者がいる家族で。
――ならば、周辺の町や村にンガイの町出身者が一人もいないのは、あまりに偶然が過ぎる。誰一人無事に別の町に辿り着けなかったとでも言うのか。最初は、町が一つ出来上がるほどの規模だったはずだ。今となっては寂れていようと、それは確かに異常だ。
まるで、外部に町の情報が洩れることを嫌ったかのように――誰かが始末していると考える方がしっくりきた。
「以上のことから、現状は外から町周辺の監視、という状況に留めている。この異世界に来て初の、生きているプレイヤーと遭遇の可能性だ。さて……お前たち、何か変わったことはあったか? 特に外に出ているデミウルゴスに、コキュートス」
「ございません」
「ゴザイマセン」
アインズの問うような視線に、デミウルゴスは即座に答える。そういう気配はまるで無かった。どうやらコキュートスも同様のようで、淀みなく答えている。そしてアウラやマーレも首を横に振った。
「ふむ……。好意的に考えれば、シャルティアを洗脳した相手では無い――と見るべきだが」
しかし断定するのは危険だ。向こうがこちらの状況に気づいていない可能性、あるいは気づいていながら白を切っている可能性もある。
敵対していないと見せかけて――アインズをわざと誘き出し、御方に言葉にするのも、想像するのも憚られる不敬と称するのさえ生温い行為を働こうとしているのやも。そこまで考え、デミウルゴスは溢れそうになる殺意を抑えた。
「――まだ断定は出来んな。初見の相手と考え、徹底的な隠匿を行いながら引き続き調査に専念するとしよう」
「――よろしいですか、アインズ様」
デミウルゴスは顔を上げ、アインズに進言する。アインズはデミウルゴスに視線を向けると、発言を促した。
「かまわん。何か案があるのか?」
「相手の反応を見るために、シモベによる強行偵察はどうでしょうか?」
当然、強行偵察するとなれば相手の印象は悪くなるだろう。しかし、これまでの町の情報から、そもそもこの相手は町を大事にしていない可能性の方が高い。人間の暮らしをよくする気さえ感じられない。適当に、町という体裁を整えたという感じだ。現地勢力に合わせた低レベルのシモベたちによるちょっとした襲撃ならば、構わないと思える。
あの町にはモンスターの襲撃に対抗する手段が、見たかぎりでは存在しない。しかしカルネ村の横のトブの大森林に縄張りを持っていたハムスケもおらず、その状態で数十年間町を維持するのは不可能だ。必ず、どこかに対抗する手段が存在する。モンスターに襲撃させれば、違和感を発見出来る可能性もあるだろう。
勿論、それなりにリスクは存在するし、デメリットもある。デミウルゴスは幾多の可能性を考えながら、今回は強行偵察をしてもメリットの方が大きい気がしていた。
しかし――
「――いや。虎の尾をわざわざ踏みに行く必要はあるまい。まだ敵対すると決まったわけではないプレイヤーを、敵対行為に走らせる必要は無いだろう」
「――失礼致しました」
デミウルゴスは再び頭を下げ、沈黙する。アインズがそう言うならば、おそらくデミウルゴスには考えつかないとてつもないリスクが存在するはずだ。強行偵察がイコールで敵対行為のように告げるアインズの言葉からも、何かあることは確実である。
……それを察せられない我が身が、とことん不甲斐ない。強行偵察を行わない数多の可能性は思いつくが、しかし自分如きが考えることなど主人は御見通しであるだろうし、対抗策も考えているだろう。……主人は神算鬼謀の持ち主。その一手に複数の意味を持たせる稀代の策略家だ。やはり自分如きでは、その表層にさえ触れることが出来はしないのだ。
情けない。ただひたすらに、無能な我が身を恥じ入るばかりだ。
(――守護者が役に立つ、ということを主人にこれからも示さなくては)
以前王国で行ったゲヘナでアインズには褒めていただいたが、やはりまだ足りない。聖王国の魔王の件も、もっと計画を煮詰めなくては。デミウルゴスは更なる忠誠心で決意を胸に固めた。
●
「あー……」
アインズは一人きりになった自室の寝室のベッドで、ごろごろと左右に転がり回る。今日もシーツからはいつもと同じ良い香りが漂っていた。
しばらくそうしていたアインズは、ふと止まって仰向けになり天井を見上げる。
「……ンガイのプレイヤー、か」
この異世界に来て初めての、プレイヤーとの遭遇……の可能性だ。まだ確定してはいないが、少なくともあの町に過去プレイヤーがいたことは確かであり、今も生きている確率は高かった。
最有力候補は、当然あの“クルーシュチャの肉屋”である。まだ家の中を確認してはいないため、中がどうなっているか分からないがいずれは確認に向かわなくてはならない。
「他にも店の名前とか気にしておけば良かったな……」
ぽつりと呟く。この異世界の字が読めないため、つい露店に並んでいる商品ばかり見て確認していたが、もしかすると看板にあの肉屋のように日本語が書かれていたのかも知れない。
「とりあえず、敵対はしたくないな。生産職だったりするなら、ナザリックに招待したいくらいなんだけど……」
プレイヤーが生産職なら最高だ。一〇〇レベルの生産職プレイヤーならば、アインズたちに絶対に勝てない戦力で、かつナザリックに役立つクラスを持つという最高の相手である。
しかし生産職である可能性は薄いかも知れない。あの町は幾らなんでも文化レベルが低過ぎだ。生産職プレイヤーがいるとはとても思えない。……勿論、隠している可能性もあるが。
「強行偵察、か……デミウルゴスが進言したってことは、それが一番いいんだろうけど」
ナザリック最高の頭脳を持つデミウルゴスの言葉だ。当然、それが最適だと分かっている。しかしNPCは知らず、プレイヤーは知っている情報などがある。
例えば超位魔法の種類。超位魔法はNPCには使用出来ないため、彼らはその類の知識が杜撰だったりする。
もう一つは、
そしてこの
勿論、デミウルゴスはそういった
しかし、彼らはプレイヤーを知らない。プレイヤーに遭遇したのはユグドラシル時代――つまりAIの時代だ。その時の記憶がどうなっているのか、アインズには想像も出来ない。
そう、だからこそ強行偵察は最後の手段だ。ナザリックのNPCたちがアインズのことを叡智の持ち主だと勘違いしているように――きっと、プレイヤーに対しても何らかの勘違いをしている可能性がある。シャルティアが完全装備で武装していながら洗脳されたのも、きっとその勘違いに拍車をかけている。
そう――プレイヤーは、NPCたちが考えるような偉大な存在などではない。本当の中身は、どこにでもいる、ありきたりな人間なのだ。
……勿論、アインズのようにアンデッドになって精神がぶれない冷静な思考の持ち主になるプレイヤーもいるだろう。しかしそれはアンデッドの種族特性であり、他の種族になったプレイヤーがどんな精神構造なのかまるで分からないのだ。
人間種のプレイヤーならば、精神構造はまるで変わっていないかもしれない。
異形種のプレイヤーならば、アインズのように精神構造までも異形になっているかもしれない。
そして――もとはただの人間でしかないプレイヤーは、ふとした弾みで
それについて実験はしたいが、あまりに勿体なさ過ぎてとても実験は出来ない。もう一度入手出来る手段を確立しなければ絶対に出来ない。
そしてその状況で、相手が短絡的に
ただ話しかけるだけの行為が、即敵対行為と取るプレイヤーがいないとも言い切れない。故に友好的に――そう、プレイヤーの蘇生実験に協力してくれるくらい、友好的にいきたいものだ。
「一番いいのは、死んで蘇生した経験があるプレイヤーだな」
それなら問うか頭の中をちょっと覗くだけで済む。それだけで確認が出来る。しかし復活魔法は残念ながら、かけた相手が必ず復活してくれるユグドラシルとは違う。位階魔法のレベル、という意味ではなく。
この異世界では、かける相手が蘇生する意思を持っていないと蘇生しない。敵対したプレイヤーを殺害した場合、蘇生拒否の可能性は少なくなかった。だからこそ、友好的に接して蘇生実験に協力してくれるようになって欲しい。
……まあ、シャルティアを洗脳したプレイヤーならば、蘇生する意思なぞ根こそぎ駆逐して、復活魔法を受け入れないレベルの苦しみを味わわせてやるが。
「……まずは周辺から情報収集。それから町の中を探索、か。プレイヤー名だけでも分かればいいんだけどな」
ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”のメンバーがそうであったように、一部のユグドラシルプレイヤーはWikiなどに情報掲載されてしまっていた。たっち・みーのようなワールドチャンピオンならば、当然アインズは全員のプレイヤー名を覚えている。
プレイヤー名が分かれば、多少は役に立つ。名前被りは登録出来ないのがオンラインゲームの常なので、似たような名前はいても同名はいない。勿論、かつては文字表記だったので「るし☆ふぁー」や「ルシファ―」、「るしふぁー」など名前の響きだけで判断するのは危険だが。
「……まあ。ああやって堂々と日本語を晒しているあたり、案外向こうも寂しくてプレイヤーに見つけて欲しいのかもしれないな」
ンガイの町出身者の人間がいないのは気になるが、モンスターが蔓延る異世界だ。村人程度ならばかつてアインズがこの異世界に来た時のカルネ村のように、雑魚に蹂躙されるようなこともあるだろう。それに、距離的に他の村や町とは遠いので、更に無事に引っ越し出来る可能性は減る。
好意的に解釈すれば、こう思える。しかし最悪の事態はやっぱり想定しておくべきなので、アインズは天井を見つめながら気を引き締めた。
2/肉屋の娘
クルーシュチャは今日も、いつもと同じように墓参りへと向かう。――クルーシュチャへの変わった来客が訪れてから、数日が過ぎていた。
最初に教えてもらった、変わった服を着た老人。
……実のところクルーシュチャは、少しだけ薄気味悪い思いをしていた。何度か自分を訪ねに来ていると隣近所や常連から知らされているのだが、クルーシュチャはその老人に一度も遭遇したことが無いのだ。まるで本人と会うのを避けられているかのように、クルーシュチャからは影も形も見えない。
それが少しだけ、気味が悪かった。もしもこれが偶然ならば、きっと相手の方も薄ら寒い思いをしているだろう。
「おはようございます」
東墓地の墓守に声をかけ、クルーシュチャは目的の墓へと向かう。自分を育ててくれた男の墓は相変わらずだった。花は萎み、墓碑は汚れが見える。クルーシュチャはいつものように枯れかけた花をどかし、布で丁寧に墓碑を拭いた。
そして、いつも通り掃除を終えた後は祈りを捧げ、枯れた花を持ってしゃがんでいた身を起こす。掃除用具の小さな桶と布、枯れた花を持って墓守に花を預けて東墓地を後にした。
さてそのまま家に帰ろうかと思ったが、気分を変える。せっかくだ。そろそろ牧場で美味しそうな肉を仕入れてもいいかもしれない。冬はよく加工肉が売れるのだ。
クルーシュチャは同じアトゥ地区にある牧場へと向かった。
「……相変わらず、糞尿の臭いがきついですね」
牧場へ向かう途中から分かっていたことだが、やはり動物を飼うと臭いがきつい。クルーシュチャは鼻がムズムズする感触を味わいながら、いつも世話になっている畜農家の牧場を覗いた。
「どれがいいかな?」
柵越しに動物たちを見る。どれも「ぶぅぶぅ」と鳴いて元気そうだ。ただこの牧場の動物たちは臆病なようで、クルーシュチャを見るといつも端に寄ってクルーシュチャから逃げてしまう。
「んー……」
しかしクルーシュチャはそういった動物たちの怯えた様子なぞ気にしない。何せ、この後彼らはクルーシュチャの家に肉になって運ばれてしまうのだ。時にはクルーシュチャ自ら、頭部を分厚い肉包丁で叩き落すこともある。動物たちに対して、肉屋は無情なのだ。
「どれにするんだクルーシュチャ?」
畜農家の中年の男が声をかける。クルーシュチャはじっと動物たちを見つめ、心に決めた。
「あそこにいる右から二番目のオスと真ん中の奥のメス、それと子豚を一頭お願いします」
「はいよー」
「いつものように、よろしくお願いしますね」
クルーシュチャの注文に男は気軽に答えて、すぐに柵の中に入る。何かを察したのか二頭の動物たちは柵の中で逃げ回るが、簡単に男に捕まえられて縄を首に括りつけられた。そのまま、ぐいぐいと建物の中に引っ張られていく。
そして――か細く、響くような悲鳴が耳に届いた。解体が始まったのだ。
クルーシュチャは踵を返し、牧場を去る。後は荷車で男が家まで解体した肉を運びに来てくれるだろう。
「――?」
墓参りと牧場で発注を終えて帰宅したクルーシュチャは、家のドアに手をかけながら首を傾げた。
「……開けたまま出かけましたっけ?」
そういう日もあるだろう。クルーシュチャは全く気にせず、家のドアを開ける。そのまま中に入り、いつもと同じ作業を開始した。今日もいつもと変わらない日常が始まるだろう。
…………しかしその日、誰も客は来なかった。いつもの老婆さえも。
家の鍵がいつの間にか閉まっており、店の看板が「閉店」を示していたことに気がついたのは、もう日が暮れた時だった。
そうして、薄気味悪い思いをしながら日々を過ごしていると――ある日、クルーシュチャのもとへ不思議な客が訪れた。
見たこともない、全身を隙間なく覆う漆黒の鎧。揺れる赤い外套。背負われた二本の大きな剣。その威圧に驚いて、クルーシュチャは口をぽかんと開けて漆黒の戦士を見つめる。漆黒の戦士は呆然と自らを見つめるクルーシュチャに気がつくと、見た目に依らず朗らかな声色で訊ねる。
「失礼――少しよろしいですか。お嬢さん」
「あ、は、はい!」
背筋をぴんと伸ばし、兜の隙間の奥を見つめる。しかし暗くて、その先に何があるのか、クルーシュチャには分からなかった。
「この店の店主にお聞きしたいことがあるのですが……」
「あ、それは私です。この店は私の店なので」
漆黒の戦士の言葉に答える。すると――
「それならちょうどよかった。では――看板にある、あの小さな文字を書いた人はどなたかな?」
かつてクルーシュチャを育ててくれた男が書いた、不思議な文字を漆黒の戦士は訊ねたのだった。
●
「あの、お水――」
「――ああ、結構。そう長居するつもりはありませんので」
アインズは肉屋の店主である娘――クルーシュチャにそう断って、案内された粗末な椅子に座る。ナーベラルには店の外で待つように伝えていた。勿論、警戒は一切怠らないように言い含めて。更に普段アインズが隠して連れているシャドウデーモンなども同様だ。アインズは、これからこの少女に訊ねる事柄の一切を、NPC達にはまだ漏らす気はなかった。
クルーシュチャが対面に座ったのを確認し、アインズはプレイヤーと懇意である現地人をしかりと見つめて、確認していく。
「さて――あの看板の文字を書いた人ですが……本当に、もう亡くなられたんですか?」
「はい。
クルーシュチャは語っていく。
その男は、右も左も分からない頃のクルーシュチャを親身に支えてくれたのだと言う。この肉屋も本当はクルーシュチャのものではなく、その男のものだったのだが男の死と共に遺産として受け継いだのだ。
そんな恩義ある男だが、クルーシュチャは男がいつも不思議だったと言う。
「なんというか……いつも心ここにあらずと言えばいいのでしょうか? 笑顔の絶えない人でしたが、どこか遠くを見つめているような、不思議な雰囲気の人でした。他人に物を教えるのが好きな人でしたけど、いつも別のところを眺めているようで――本当の意味で、他人を見てはいないんだろうな、と思えました。そんな人でしたけど、不思議と人を寄せつけていましたね」
「心ここにあらず――まるで、ここは自分の居場所ではない、というような?」
「そうですね。そんな感じです。……いつも俯瞰的な物の見方をする人でした。最後の一線では、一歩身を引いているというか」
「なるほど」
アインズは男の話を聞きながら、思う。おそらく、男は元の世界に帰りたいと思ったタイプのプレイヤーなのだろう。しかしアインズのようにギルド拠点と共に転移したのでもなく、かといって他のプレイヤーもおらず。たった一人で――この異世界にやって来て、ひっそりと絶望したのだ。
……本当に、ぞっとしない話だ。自分にはナザリックがあってよかった。異形種でよかった。仲間もおらず、人間種であるがために刻一刻と迫る寿命――仮に自分がその立場だったらと思うと、恐ろしい。泣きたくなる。
「あの文字は故郷の一つである国の文字――もし読める人間がいたらと……そう私に呟いたこともあります」
「……申し訳ない。少しばかり、この町に来るのが遅かったようだ」
素直にそう思う。孤独に苛まされたプレイヤー。アインズがもう少し早くこの異世界に転移していれば、きっと間に合っただろうに。
そうすれば――そのプレイヤーはアインズやナザリックの役に立ったはずだ。
「いえ、いいんです。そう言って下されば、彼も救われると思います。それに、全部が全部無駄になったわけではないと思いますから」
貴方が来てくれてよかった――クルーシュチャはアインズの顔を見て微笑む。
「実は一つだけ、遺言状を預かっているんです。あの文字を読める人が来たら
「ほう?」
プレイヤーが他のプレイヤーのために残した遺言状。既にこの店内のあらゆる場所はシモベ達に探索させており、装備品やマジックアイテムの類が無いことは確認済みだが、手紙が残っているとは知らなかった。
(調べ損ねた? ――やっぱり、何かマジックアイテムがこの店に隠されているのか?)
何度か隠密・探索専門のシモベ達が店内を調べているが、怪しいものは一切出て来なかったと聞いている。そう、おかしなくらいに。この店主である少女さえ姿を見たことが無かったと言うのだから、アインズは少女に対してはかなり警戒していた。
しかし、アインズが見るかぎり少女は普通の少女だ。勿論、アインズには相手の力量がどうたら――など分からない。だがそのアインズが見ても、少女はただの現地民。この異世界に来た時に遭遇した村娘のエンリくらいの印象しか受けない。よく墓参りに行くと言うから、おそらくタイミングが悪かったのだろうと思っているが……。
(この町を作った、この少女の養父とかいうプレイヤー……何者なんだ?)
少女が遺言状を持ってくるために席を離れている間に、アインズは考える。しかし――答えは出ない。
「お待たせしました」
思考に没頭する間に、クルーシュチャが帰って来た。少女の手には、何の変哲もない手紙が一通収まっている。
「これが、彼の――ナイアルラトホテプさんの遺言状です。どうぞ、お受け取りください」
「では、失礼――」
アインズは手紙のがわを、まず確認する。特に何の変哲も無い。それこそ、シモベ達が見逃してもしょうがないほどに、単なる手紙だ。中を見ないかぎりは分からないだろう。
封を切って開ける。そして手紙の中を取り出して――アインズは納得した。これは中を見ても分からない。こんなものが遺言状だとは思わないだろうし、仮にシモベ達がこれを発見していたとしても、意味が解らなかったに違いない。
というか――
(ちょ――俺も意味分からないよ! 何なんだよこの内容――!)
知らないプレイヤー……ナイアルラトホテプに頭の中で幾つも罵倒を浴びせる。信じられない。意味が分からない。誰かに見られたくなかったのかも知れないが、勘弁してほしい。ちゃんと、プレイヤーが意味の分かる言葉で残して欲しいものだ。
手紙の内容をしっかりと読んでいる風に見えるであろうアインズを、少女が見つめている。アインズは頭の中で、頭の良いギルドメンバーの一人を思い描いた。
(助けて死獣天朱雀さん!)
リアルでは大学教授であり、おそらくこの手紙の内容をすぐに理解してくれそうなギルド最年長メンバーに心の中で助けを求める。
脳裏に描かれた死獣天朱雀は、アインズに対して朗らかに微笑んでいた。欲しいのは微笑みではなく、現実的な知恵であった。
アインズは何度も、何度も間違いであってくれと手紙を読む。しかし内容は何一つ変化しなかった。そこにあるのは、間違いなく、絶望的なまでの現実であった。
手紙には、びっしりと――小卒のアインズには理解不可能な数式の羅列が並んでいたのだった。
※暗号はちゃんと相手が解けるように作りましょう。
しかしこれってホラータグつけた方がいいんですかね……?