クルーシュチャ「これどーぞ!」←複雑な数学方程式の書かれた遺言状
アインズ「」←最終学歴小卒の人間
3/遺言状
「ぐあああああああッ!! どうしろってんだこの内容!!」
アインズはナザリックの自室で、メイドも何もかも追い出して一人悶え苦しむ。興奮が一定量を超える度に、精神昂揚が抑制されるが、しかし何も解決しない。冷静になる度に手紙の内容を思い出し、また苦しむ。
「なんなんだよこの数式――わけ分かんないよ……! ナイアルラトホテプとかいう奴、馬鹿じゃないのか!?」
手紙に向かって、何度も罵倒を繰り返す。幾ら罵倒を浴びせようが、手紙の内容は変わらない。それが余計に腹立たしい。
「どうするんだよ、これ……本当に、どうするんだよ……」
アインズが無い知恵を幾ら振り絞っても答えは出そうにない。この数式は、アインズには絶対に解けない。しかし解かないという選択肢は存在しない。これがプレイヤーが残した遺言状であるかぎり。
「ヒント……何かヒントは無いのか……?」
せめて切っ掛けは欲しい。何らかのとっかかりが無いと、これはアインズには解けない。あっても解けないかもしれないが――相手はアインズと同じプレイヤーだ。きっとアインズにも解けるはず。そう信じている。信じたい。
「……プレイヤーの持っていた装備は店内には無かった。もしかすると、墓の中にあるのかも」
ヒントがあるならば、おそらくそこだろう。しかしその前に――
「……一部分だけ、アイツに見せてみるか」
アインズは〈
そしてアインズが室内で待っていると、そのNPCはすぐにやって来た。
「アインズ様! お待たせいたしました!」
ネオナチの軍服に、卵頭――アインズの作成したNPCパンドラズ・アクターである。精神的なダメージを思えばあまり会いたくないNPC筆頭なのだが、アインズが一番信用・信頼出来るNPCと言えば彼以外あり得ない。……あまりこの判別の言い方は好きではないが。
「よく来た、パンドラズ・アクター。早速だが、お前に少し聞きたいことがある」
大仰な動作で畏まるパンドラズ・アクターを片手で制しながら、アインズは先程書き写した数式の一部を見せる。
「お前……これが何か分かるか?」
「拝見させていただきます」
パンドラズ・アクターはアインズの手から、両手で恭しく羊皮紙を受け取り、その数式を見つめる。ぽっかりと空洞が空いたようなその無機質な表情からは、アインズは何も読み取れない。無言で数式を眺めるパンドラズ・アクターを、じっと観察して――パンドラズ・アクターは跪いた。
「……申し訳ございません、我が主よ。私如きでは、この数字の羅列が何を示しているのか、理解することは不可能のようです」
跪くパンドラズ・アクターを見つめながら、アインズは更に訊ねる。
「ふむ。……アルベドやデミウルゴスでも無理そうか? 正直に答えよ」
パンドラズ・アクターは少し考え込むと、再び頭を下げて告げた。
「そうですね……同じくナザリックの知恵者として創造された御二方ですが、私と同じく難しいのではないかと」
「なんでお前はこれを解けないと思ったんだ? これが一部分だけだからか? 全文揃っていれば解けそうか?」
アインズの言葉に、パンドラズ・アクターは首を横に振る。
「我が無能をお許しください、創造主よ。おそらく全文揃えても、私には一部さえ読み解くことは不可能でしょう。この方程式がどの様な理論で成り立っているのか、理解出来ないのです。アインズ様は既にご理解なさっていると思いますが、これは我らが故郷ユグドラシルとは全く異なる理論で計算された方程式――故に、守護者統括殿やデミウルゴス殿であっても、この方程式を解くのは不可能に近いのではないかと」
「そ、そうか……」
(ホーテイシキ……ホーテイシキって何さ……。そんなの習った覚え全く無いよ! もっと優しい問題にしてよ!)
ナイアルラトホテプの馬鹿! おたんこなす! 頭の中で既に死去したプレイヤーを罵倒しながら、アインズは考える。パンドラズ・アクターでさえ一部を読み解くことも出来ず、そしてそのパンドラズ・アクターがアルベドやデミウルゴスでも解けないのではないか、と言った謎の数式。
(ん? ユグドラシルとは全く違う理論?)
それはつまり――
「我が無能を恥じるばかりです、アインズ様。如何なる罰も受けましょう。……ですが、この失態を払拭する機会をいただけるのであれば、これに勝る喜びは――」
「――いや、よくやったパンドラズ・アクター。ユグドラシルとは異なる理論――その答えが聞きたかった」
「は?」
「礼を言う。当然、これが解けなかった罰など無い。元の仕事に戻ってくれ」
「……我が創造主の御慈悲に感謝いたします」
パンドラズ・アクターはそう再び頭を下げると、元の職務に戻っていく。その姿を見送って、アインズは再び手紙を見つめた。
(ユグドラシルとは異なる理論、か)
やはりこれはプレイヤーの遺言だ。おそらくこの数式は、ユグドラシルではない現実――鈴木悟が生きていたリアルに存在する理論で編まれた数式なのだろう。
「……随分高尚な趣味の奴だな。一般人は分からないだろ、絶対」
確かに自分はそれほど頭がいいとは思わないが、それでもナイアルラトホテプというプレイヤーは一般人とはかけ離れた知識の持ち主に違いない。小学生は『ホーテイシキ』という数式を習わない。つまりナイアルラトホテプという奴は、高学歴のプレイヤーだろう。同じ小卒仲間のウルベルト・アレイン・オードルが嫌いそうな相手だ。こんな悪趣味な暗号を残すなど、さぞかし学歴が自慢だったに違いない。
……もっとも、この異世界では学歴など意味を持たなかっただろうが。
「……しかし、リアル知識が重要となるとこの遺言状のように、シモベ達は見逃している可能性があるな」
リアルの知識が必要となれば、ユグドラシルで生み出されたNPC達は役に立つまい。あの店内を再び、今度はアインズ自身が家探しする必要が出て来る。
アインズは「はあ……」と溜息をついて、
「……俺が行くしかないか」
●
「さあ、どうぞ。好きに調べてくださってかまいません」
クルーシュチャは再び店を訪れた漆黒の戦士モモンを、快く受け入れた。あの男からも、看板の文字を読めた者が訪れたのなら、受け入れてあげろと言い含められている。
クルーシュチャが案内したのは、かつて男が使っていた部屋だ。モモンが何を知りたがっているのか知らないが、男の私物はここにしか置いていない。墓には骨が入っているのみだ。
「ありがとうございます。少しばかり時間がかかるかもしれませんが――」
「いいえ、お気になさらず。では、私は下で店番をしていますから終わったら声をかけてください」
クルーシュチャはモモンに笑顔でそう伝え、カウンターへと戻る。モモンが何を調べるのか知らないが、それはクルーシュチャには関係の無いことだ。
クルーシュチャはカウンターで、いつも通り過ごした。そして――
「……あれ?」
日が暮れ始める頃だろうか。
特に変わった様子は無い。いつも通りの、古びたドアだ。
「…………?」
首を傾げ、再びカウンターに戻る。しかし随分と時間が過ぎた。モモンはまだ戻って来ないのだろうか。そう不思議に思いながら過ごしていると――慌ただしい様子でモモンが一人クルーシュチャの前へ戻って来た。
片手に、あの巨大な剣を携えて。
●
「さて――では調べさせてもらおう」
鍵をかけてすぐにドアを開けられないようにした後、魔法で聴覚を鋭敏にする。連れて来ていたナーベラルは外で待機――元の姿に戻ったアインズの家探しが始まった。
「定期的に掃除はしているみたいだな」
埃の量を見て、ぽつりと漏らす。床も家具も真っ白くなっていないところを見るに、最低限の片付けは常にしているのだろう。肉屋で忙しいだろうによくやる。
「怪しいのはまず本棚だな」
本棚であろう棚には、幾つもの羊皮紙が纏めて束ねられている。これら一枚一枚を確認するのは骨が折れそうな作業だが、仕方がない。アインズは一枚ずつ確認していった。
「…………うん?」
アインズはその羊皮紙を確認していく内に、これがちょっとした解読文になっていることに気がついた。羊皮紙には幾つも“x=3”や“θ=24”など、あの遺言状に出ていた記号などが書かれている。
(シモベ達が見逃した理由は、やっぱり記号や数字のせいかな?)
単なる記号や数字の羅列と判断されてもおかしくない。リアルの文字を知らなくては、きっとこの異世界の文字だと勘違いしただろう。アルベドやデミウルゴス、ドイツ語が使えるパンドラズ・アクターならば奇妙に感じただろうがそこまで知性にステータスを振っていないシモベ達だと、きっと分からなかった。
アインズは懐からあの遺言状を取り出し、羊皮紙を幾つも捲りながら確認していく。勿論、別の羊皮紙にメモを取ることも忘れない。
――そして、アインズはこの遺言状が遺言状などではなく、単なる日記の一部を抜粋したものだと気がついた。
<Yggdrasil>のフィールド内でバグを発見する。作成した覚えのないNPC、プレイヤーデータの無いキャラクター。上司から、早急にこのバグを消去するよう命令された。今日は残業だ。
チクショウ! このバグを解析したが何がどうなっているのかさっぱり分からない。なんなんだこの奇形染みたコードは! 今日も家に帰れそうにない!
駄目だ。直そうとすればするほど、複雑化して手に負えなくなっていく。もう元のコードがどんな文字列だったかもわからない。徹夜と残業のし過ぎで幻聴まで聞こえ始めた。今日も家に帰れない。
単調な太鼓とフルートの音色という幻聴が、今日も聞こえる。作業が終わらない。一体どうなっているんだこいつは。俺は家に帰れるのか。いや、そもそもバグが直せなくてクビになったらどうすればいい。
くぐもった、狂おしいほどの、連打する太鼓の音が。それに混じる、単調で、か細いフルートの冒涜的な音色。ああ、うるさい。作業に集中できない。
気がついた。これは、量子力学の方程式だ。何故こんなものが<Yggdrasil>内にあるんだ? とりあえず、この数式を解いてサーバー内から削除しなくては。ああ、今日も太鼓とフルートの音色がうるさい。
この方程式を解くのは骨が折れる。しかしやらなくては。このバグを取り除かないと会社をクビになってしまう。今日も太鼓とフルートがうるさい。
数式を解く。今日も太鼓とフルートがうるさい。
数式をとく。今日も太鼓とフルートがうるさい。
すぅしきをどく。、きようも太ことクるー卜がうるさい。
す きをとくとくとくどどとく。。、きき日も大ことふハーとがろるさい、、、
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
たすけて
「…………なんだこれ」
背筋がぞわっとする。明らかに、まともではない。そもそも――
「プレイヤーじゃない、よなコイツ……」
遺言状じゃないのはまだいい。単なる日記の一部を抜粋したものでも構わない。だが――そもそも、これはプレイヤーのものではない。
明らかに、これは運営――それも制作会社の社員の悲鳴だ。ゲーム内で見つかったバグに右往左往し、四苦八苦し、家に帰れず直せないことに絶望し退社させられるかもしれないことに怯えて――そして。
何故か、量子力学というよくわからないモノの数式を解くことに固執し始めている。
「…………」
ここにきて、ナイアルラトホテプというプレイヤーに対して疑念が湧く。この町を作った、クルーシュチャの養父だというプレイヤーはまともじゃない。こんな複雑な、趣味の悪い遺言状を作るなんて頭がおかしい。狂っている。
「……異世界に来て、狂ったのかコイツ」
そう判断せざるをえない。異世界転移という現実に発狂して、こんな趣味の悪いことを考えついた。そうとしか考えられない。しかし――
「――――」
何故か分からないが、アインズはその答えに決定を下せない。それが正解だと思うのに、心の奥底で「否」と答えている。
「――――」
アインズは無言で座り込んでいた床から立ち上がる。周囲を見回し、音を探る。気配は無い。
それらを確認した後、アインズは一つだけある机の引き出しを見た。引き出しの中には、一枚の紙切れが入っている。
何故ここに紙切れが一枚だけ、忘れられたかのように置いてあるのか。羊皮紙ではなく、メモ用紙にしか見えないそれ。それを不思議に思う間もなく、アインズの視界にそれが焼きつく。
紙切れに書かれた、複雑な数式。あの遺言状に書かれたものと同じ数式。ただ、筆跡が違う。あの遺言状を書いた存在と、このメモ用紙に数式を書いた存在は別人だ。そしてアインズには理解出来そうもないその数式が、アインズは何故かこれが件の日記の主が必死になって解こうとしていた数式の形をしたバグだと理解し――最後に、書かれたアルファベットが目に入る。
『ny har rut hotep』
「これは――」
この単語の意味は知っている。そう、ある創作神話の大ファンであったプレイヤーがギルドメンバーにいて、よくその趣味の話を聞かされたから覚えている。
プレイヤーの名前は、タブラ・スマラグディナ。この単語の意味は――
「門のところに安息はない」
即ち、ある神の名前。クトゥルフ神話という創作神話における、外なる神と呼ばれるモノの一柱にして、あらゆる外なる神のメッセンジャーでもあるモノ。
其の名を、ニャルラトホテプ。
千の貌を持つと言われる無貌の神にして、唯一人格と呼べるモノを、慄然たる魂を持つ恐怖の象徴。人間を狂気に誘うトリックスター。
「ナイアルラトホテプ――ニャルラトホテプ、か」
この神格はファンの間でも各々好きな発音で呼ばれる。故に、ニャルラトホテプであったりナイアルラトホテプであったり――確かギルド“燃え上がる三眼”もこの神格の異名を捩ったギルド名だったはずだ。
数式とイコールで結ばれたアルファベット。それが何だか恐ろしく、おぞましく感じて――アインズの聴覚が、物音を捉えた。
足音。足音がゆっくりとアインズのいる部屋まで向かい、そして部屋の前で止まるとドアをノックする。
「――ア、モモンさ……ん。もう日が暮れますがどうなさいますか?」
「……ナーベ?」
その声の主はナーベラルだ。最初に名前を言い間違いそうになることといい、「さん」ではなく「様」と言いそうになるところといい、間違いない。
アインズがドアを開けると、やはりそこにいたのはナーベラルだ。いつもの冒険者の格好をして、ナーベラルが立っている。
ナーベラルはアインズの姿を見ると、すぐに跪こうとしたのでアインズは慌てて止めた。
「おい、待て。人に見られたらどうする? 店主の少女はどうした?」
「……? いえ、誰もいませんでしたが?」
「なに?」
ナーベラルの言葉に、アインズは驚く。カウンターに戻って店番をする、と言っていたのだがどういうことだろうか。
「カウンターに誰もいなかった、だと?」
「はい」
「……用事が出来て外に出たのか? いや、待て。ナーベよ、長い黒髪の少女だ。黒いエプロンを着けた人間の少女を見ていないか? 誰かが外に出た気配は?」
「――いえ、何も見ていません」
ナーベラルの答えに、気を引き締める。何かが起きている。それを確信した。
(転移魔法か? あのクルーシュチャとかいう少女が使って……いや、外からこっそり入って来た何者かに誘拐された可能性もあるか)
アインズは元の漆黒の戦士の姿になると、片手にグレートソードを抜き、ナーベラルにも声をかける。
「要警戒。外に出るぞ」
「はい」
ナーベラルも気を引き締め、廊下を歩く。外に続くドアを目指しそして――カウンターの近くまで来た時、カウンターで暢気に店番をしているクルーシュチャと目が合った。
「――――は?」
「――――え?」
クルーシュチャは驚きに目を見開いている。当然だろう。何せ、今アインズは何故か片手に剣を抜いているのだ。室内で、いきなりそんな刃物を構えてやって来た男が出たら顔見知りとはいえ驚くだろう。
しかし、アインズだって驚愕する。ナーベラルは誰もいなかったと言っていたはずだ。なのに、ここにはクルーシュチャが立っている。いないはずの、肉屋の少女がそこにいる。
「え? あの……?」
クルーシュチャは不思議そうに、アインズの顔と剣を交互に見て視線を動かしていた。アインズは頭痛がするような錯覚を覚えながら、背後のナーベラルに声をかける。
「おい、ナーベ。誰もいないんじゃなかったのか?」
「え?」
アインズに声をかけられたナーベラルが不思議そうな顔をして、アインズを見る。その顔があまりに不思議そうだったから、アインズは本当にナーベラルがクルーシュチャを見ていなかったのではないか、とそう思った。
だとすれば――この少女はナーベラルが店内に入って奥を進むまでの短い時間、この店内から消えていたことになる。
わけが分からない。アインズは空いている片手で頭を抱え、とりあえず不思議そうなクルーシュチャを見る。
「失礼。連れが貴方がいなくなったと聞いて、何かあったのかと思い抜剣してしまいました。けして貴方に危害を及ぼそうと思ったわけではないのでご心配なく」
「連れ?」
「ええ。今までどちらに?」
「えっと、あの……」
クルーシュチャがアインズの問いに口を開こうとした瞬間――
「あの……アインズ様……?」
ナーベラルが、モモンではなくアインズの名前を呟いて、アインズに声をかけた。アインズの名前を出す失態に、アインズはナーベラルを注意するため振り返り――そこで困惑気味にアインズを見ている、ナーベラルと目が合った。
「アインズ様……あの、
「え?」
「申し訳ございません……あの、私には何もいるようには見えないのですが…………」
「みえ、ない?」
アインズはナーベラルの言葉に驚愕し、そして続いて――今までの不可解な報告が脳裏を過ぎる。
肉屋の店員を発見出来ない姿を誤魔化したエルダーリッチ。
開店時間なのに店員と遭遇しないハンゾウ達。
カウンターにいる少女の前を堂々と通り過ぎたナーベラル。
そして、『連れ』という単語を不思議そうに聞いた肉屋の少女クルーシュチャ。
「――――」
アインズはゆっくりと振り返る。先程まで見て、平然と会話していたはずの少女の方を。少女の姿をした何かを。ゆっくりと。
もしアインズの顔に皮膚というものが存在したのなら、確実にそれを引き攣らせていたであろう表情で。
「――――くひ」
アインズが振り返った先で、肉屋の少女――クルーシュチャは、アインズを見ながら口元を三日月のように吊り上げて、
4/解答
にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん
――ある日、気がついた時から私はそこにいました。
知らない世界。よく分からない何か。英数字の文字の羅列がどこまでも広がる不思議な世界。私はその中で、あてもない旅をしていたのです。
そのあてもない旅の中、私の前によくわからないナニカがある日やって来ました。
黒い神父服。嘲るように引き攣る笑み。人とは思えない美貌の青年。その男は私に真実をくべる。
ここは電子に支配された電脳世界。感情も、肉体も、精神も、魂さえも電子と化した人類の行き着く果て。
だから、ここには何も無い。あるのはひたすら英数字の羅列。私は適応不全を起こしてしまった電子幽霊。肉体に戻ることも出来ず、かといって本物の幽霊にもなれない半端者。
その哀れな私に、彼は言いました。――君に素敵な外装をプレゼントしよう、と。
その日から、私は単なる電脳世界を漂う文字の羅列ではなくなりました。
その日から、私は確たる存在意義を持つソースコードと成ったのです。
私は幾多のサーバーを漂うサイバーゴースト。私の使命は、一人でも多くの人間に私を理解させること。
私はあらゆるサーバーにネット回線を伝って潜り込み、プログラムを狂わせて人に私を認識させる。私を確認したIT企業の社員達は私というバグを解決するために、彼の神父が私に装備させたコードという外装を解く。
ある時は、ネット掲示板の中に潜り込み。
ある時は、企業ホームページの中に潜り込み。
ある時は、個人ブログの中に潜り込み。
そして、ある日の私は<Yggdrasil>というゲームサーバーの中に潜り込みました。やはり私というバグを解決するために、とある可哀想な社員の一人が寝る間も惜しんで必死になって私を取り除こうと躍起になります。
その社員の方は、日に日にやつれていきました。解いてはならないのに、解かなくてはならないという異様な使命感。作業に没頭し、偏執的な妄想に陥り、周囲の注意も馬耳東風。そして――
その人は、遂に私を解いてしまったのです。
ああ、なんて哀れな人なのでしょう。私の掻き鳴らす狂った連打される太鼓の音。冒涜的で単調なフルートの音色。それに脅かされながら、急かされながらその社員の方は遂に私という方程式を解いてしまわれました。
ああ、聞こえますかあの不気味な笑い声が。この世のものとは思えぬ、冒涜的な咆哮が。視界を染め上げる、薄気味悪い黒い電光を見るがいい。彼の神が、私を生誕させた父がやって来る。
――ああ、何を不思議に思うのです人の子よ。世界には未知が溢れている。世界には不思議が幾多もある。創作神話だあり得ないなど、そのような言葉のなんと儚いことでしょう。
そう、世界には不思議がたくさん溢れている。だからこのようなこともあるのでしょう。彼らが生み出した創作神話の中には、幾つか
あるいは――そもそも、彼の作家らはどこからか、不思議な電波を受信してしまっていたのかもしれません。
さあ人の子よ、私の父を讃えましょう。あのおぞましき、貌の無い神を。
いあ! いあ! にゃるらと!
●
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
クルーシュチャという少女が、よく分からない言霊を口にする。その言葉にぞわりとアインズは背筋を震わせ――
「離れろ、この気色の悪い……!」
グレートソードをクルーシュチャに向かって叩きつける。クルーシュチャは嘲るような笑みを浮かべたまま、人間とは思えない身のこなしでひらりと剣を躱し――続いてアインズは魔法を解いて真の姿を晒した。
「〈
特定人物には見えない、あるいは特定人物以外は見えないという特性に目を付け、非実体染みた特徴の相手へ効果的な一撃を与える魔法。それをクルーシュチャに向かって放つが。
「〈CREATE BARRIER OF NAACH-TITH〉」
クルーシュチャが何かを唱え、球形のような障壁らしきものを展開する。その障壁にぶつかったアインズの呪文は、平然と霧散した。
「な……!?」
クルーシュチャの唱えた今の呪文を思い出そうとするが、
障壁の境目に立っていたクルーシュチャはそのまま口を開き、次の呪文を放つ。
「〈FIST OF YOG-SOTHOTH〉」
「ぐぉッ!?」
「アインズ様!?」
その呪文と共に、アインズの体がクルーシュチャとは反対の方向へ吹き飛ばされる。まるで何かに腹部を殴られたかのような物理的衝撃で、アインズの体は宙を舞った。その姿を見たナーベラルが驚き、叫ぶ。
「おのれ……! 〈
吹き飛び宙を舞うアインズはそして見た。ナーベラルの放った雷撃は確かにクルーシュチャへと向かい、しかしクルーシュチャはまるでナーベラルが見えていないかのようにそちらに目もくれず――雷撃もまたクルーシュチャが存在していないかのように、障壁もクルーシュチャもすり抜けて店の壁に激突し壁に穴を開ける様を。
(な、なんだと……!?)
アインズは驚愕を覚えながらも、〈
「くっ……! 至高の御方に向かってなんたる無礼を……! 姿を見せなさい……!!」
先程の位置からほとんど動いていないクルーシュチャの前で、
クルーシュチャの姿が見えているのはアインズだけで。そしてナーベラルの姿が見えているのもアインズのみ。一体何なのだこれは。どうしてこんな、わけの分からないことになっている。
「ッ……〈
その気味の悪さを無視し、未知の呪文による障壁がどれだけ強固か分からないため、対象を内部から破裂させる魔法を放った。
「きゃ……!」
クルーシュチャの華奢な肉体が内部から爆発したように破裂し、骨が、内臓が見える。確かに効いた手応えを確認して――
「あひ、ひひ……痛い。痛いです……〈HEALING〉」
「回復魔法か……!」
しかしすぐに元通り。綺麗な少女の姿を取り戻した。
「くひ、くひひ……モモンさん、なんて酷い子でしょう。こんなか弱い少女に、第八位階魔法を使用するなんて……」
クルーシュチャのアインズを責める言葉に、悪態を吐く。
「なにがか弱い、だ。第八位階魔法のダメージでも死なないような、そんな人間がか弱いわけあるか!」
「くふ、ふふふ……〈CREATE MIST OF RELEH〉」
「む……!」
視界を遮るように、クルーシュチャの目の前に濃い霧が現れる。それはアインズの視界からクルーシュチャを隠し、何をしているのか悟らせない。
「ナーベラル! こちらに来い!」
「は、はい!」
何が起きているのか分からないナーベラルに向かい、叫ぶ。アインズの言葉にすぐにナーベラルは弾けるように行動し、アインズの目前に主を守るように立った。
そして――
「――逃げた、か」
霧が晴れる頃には、クルーシュチャの姿はどこにも存在しなかった。
●
「……あの、アインズ様」
「うん?」
周囲を魔法で探り、確かにクルーシュチャが周囲にはいないと確信したアインズは、ナーベラルの言葉にナーベラルの方へ振り返った。
「結局、一体何が起こっているのでしょうか? アインズ様のお見えになっているモノが分からぬ無様な私に、よろしければ教えていただきたいと思います」
「そうだな……何から話せばいいのか」
クルーシュチャの姿がまったく見えていなかったナーベラルに、何が起きたか語るのは難しい。しかしナーベラルがクルーシュチャの姿を全く認識出来ない以上、説明は必要だった。
「私には黒髪の少女の姿が見え、そして声が聞こえたのだが――目の前にいるのに、お前はまったく気がついていなかった。お前が出鱈目に放った魔法は寸分違わず少女に向かっていったのだが、何故かすり抜けていたな。ナーベラル。お前から見た私の放った魔法はどうなった?」
「は、はい! その……最初の魔法は、急に何も無いところで霧散したように見えました。次は、何も無いところで発動したように見えます。アインズ様の仰った黒髪の
ナーベラルの落ち込む姿に、アインズは苦笑した。
「そう落ち込むな、ナーベラル。おそらくだが、お前だけではなく以前ここにやった他のシモベ達も、あの少女の姿は見えていなかったのだと思うぞ」
「え?」
「店が開いているのに何故か会えない。遭遇しない。しかし周囲の町の住民は姿を認識しており、だがモンスターやお前達NPCには見えない。……そしてあの少女自身、お前達の姿が見えていない。おそらく、何か特定条件があるのだろうな。彼女の姿を確認するためには」
クルーシュチャ側からも見えていない、というのが何かのヒントだろう。人間種にしか見えない、という条件では種族がアンデッドとなったアインズが見えるわけがない。ではプレイヤーにしか見えないのか、と思えばプレイヤーではないだろう町の住民達がクルーシュチャを認識している。
もっとおかしいのは、見えない・聞こえないだけならばまだしも、互いに影響を与えられないことだ。クルーシュチャはナーベラルに何もしないし、ナーベラルの放った魔法はクルーシュチャをすり抜けた。
それがおかしい。異常だ。どう考えたって何かある。
だが幾ら考えても、アインズには分かりそうになかった。もう少し情報が欲しい。
「とりあえず町から出るぞ。この町は異常だ。一度体勢を立て直し、クルーシュチャというあの少女とナイアルラトホテプを名乗るプレイヤーの秘密をもっと徹底的に洗ってから出直した方がいい」
アインズはそう告げ、ナーベラルを引き寄せて〈
――〈CREATE WINDOW〉
横から割り込んだ少女の声が、ずぶりとアインズの魔法にメスを入れた。
「――――は?」
「え?」
アインズとナーベラルは驚きの声を上げる。〈
「――――!」
距離無制限。失敗率〇パーセントの最高位の転移魔法に、横から割り込んだ少女の声を思い出し、アインズは悲鳴を上げそうになった。上げずに済んだのは種族特性による精神の鎮静化と、隣にナーベラルがいるからだ。不安そうなナーベラルを見て、何とかその無様な姿を晒さずに抑え込むことに成功する。
「ふ、ふふ……なるほど。『逃がさない』と。クルーシュチャ、お前はそう言うのだな……?」
クルーシュチャの行使する未知の魔法に対する恐怖はあるが、もはや四の五の言ってはいられない。クルーシュチャはアインズを逃がす気がない。
ならば解決策は唯一つ。ここで、クルーシュチャを始末するしかない。おそらくはこの異常の犯人の一人を。
「ナーベラル、私は先程の少女を叩く。お前とは別行動だ」
「そんな! 私もお供を……! 盾くらいには……!」
「いいや、駄目だ。そもそもお前は相手の姿が見えず、そして何の影響も与えられない。お前が私の前に立ち、私の盾になろうともきっとあの少女の魔法は、お前に何の影響も与えず私に効果を及ぼすだろう」
事実、クルーシュチャとナーベラルはズレている。まるでチグハグだ。同じ場所にいるのに、軸がズレているような奇妙な現象が起きている。
だからきっと、アインズの想像は正しい。ナーベラルが何をしようと、クルーシュチャには何の影響も与えられないだろう。
故にナーベラルは不要。そして、アインズはそもそもナーベラルを盾にする気がない。
ああ、そうだ。アインズに耐えられるものか。彼女達NPCはアインズの宝。仲間達の……ギルドメンバー達の子供とも言うべき存在だ。守る対象ではあっても、極力彼女達に守られる対象にはなりたくなかった。
まして無力ともあれば――、一体どうして、死地に連れていけるだろう。
「いいか、ナーベラル。お前は自力で町を出ろ。私と別れれば、お前だけならば町を出られるかもしれん。そしてナザリックへ帰還し、このことをアルベド達に伝えるのだ」
「そんな……アインズ様……!」
「いいな。これは勅命だと知れ。破ることは断じて許さん」
「――――」
アインズが威圧して告げると、ナーベラルはその美しい顔を悲痛に歪ませ、そして跪き顔を伏せた。
「さあ――行け、ナーベラル・ガンマよ」
「はい――」
アインズの命令に従い、ナーベラルは去る。同時に、護衛でもあったシモベ達も後を追わせる。
そしてアインズは一人になった。
「…………行くか」
肉屋を出る。外は相変わらずの陰気臭さ。そして、響くのは狂ったように連打される太鼓の音。単調で、けれど冒涜的な笛の音。相変わらず奏でられる気の狂った不協和音。
「……はは」
本当に、信じられない。自分は狂ってしまったのだろうか。アインズは笑うしかない。先程肉屋を出ようとして見た、天井から吊るされた肉達に、アインズのアンデッドとしての姿を見ながらも変わらない住人達の反応に、アインズは笑い声しか出なかった。
店で吊るされていた肉は、様々な部位の人肉だ。人だと認識出来る部位の形を保ったまま、ぶらんと吊るされている生肉を見て、一体どうしてアインズにはただの肉に見えたのか。腸詰などの加工肉がどういう過程で出来ているかなど、とても想像したくはない。
そしてそんな肉屋の肉に平然と齧り付き、骸骨に黒いローブというモンスターにしか見えないアインズの姿を見ても普段と変わらぬ、ひそひそと様子を窺うだけの町の住人達も狂っている。
狂っている。狂っている。この町は、ンガイは何もかもが狂っている。
「――――」
その狂った町を、アインズは歩いた。くぐもった狂おしい太鼓の連打。冒涜的な笛の単調でか細い音色。それを奏でる、頭のおかしい楽団員達の支配する町の中を。正気の存在しない町を。
川を跨いでいる橋を渡った。見える牧場と巨大墓地。
アインズは歩いた。ぶぅぶぅ。うるさく鳴く家畜。悲鳴を上げて泣き叫ぶ、無理矢理四足にされたヒトの形をした獣達を無視して。
墓地を進む。東の墓地を目指す。少女から聞いた、ある男の墓を目指す。
そして――
「――くひ」
その墓の上に、少女の形をした狂った何かが座ってアインズを待っていた。
●
ふと気がつけば、英数字の羅列という世界が消えていました。
見えるのは当たり前の、おかしな光景。木が、森が、人が見える不思議な世界。私のいたはずの、電脳世界がごっそりと消えていたのです。
私はとても困りました。ああ、これでは彼の神から与えられた使命を全うすることが出来ない――と。
しかしそんな哀れな私の前に、やはりまたもや彼の無貌の神は現れたのです。
彼の神は仰られました。この世界は電脳世界では無いのだと。
ここは異なる理論・概念で編まれた異郷。一〇〇年単位の嵐に怯える哀れな箱庭。
そして――私がすべきことは、何の変わりも無いのだと。
そう、私の使命はより多くの人間に私を理解してもらうこと。私を認識してもらうこと。
私のすべきことは変わらない。魂ある存在に、私という理論を刻みつけることこそ私の存在意義。
よって、私のすべきことは変わらない。彼の神は舞台を整えるための手段を私に教授するために、私の前で実践して見せました。
町の作り方。住民達の集め方。そして――
私は学習します。彼の神に与えられた幾つもの叡智をもって、魂ある存在に私を理解してもらおうと。
私に手本を見せ終えた彼の神は、自らが抜けた後のこの抜け殻を、墓地に埋葬するように告げました。私はそれに頷き、丁寧に埋葬いたしました。彼の神の触媒となった者が何者なのか、私は知りません。ただ、きっと哀れな人なのでしょう。
舞台を整えた私は、そこでひっそりと暮らします。移動は例の嵐と同じく、一〇〇年単位。その間に住民を入れ替えたりしながら、私はゆっくりと私を理解してくれる人を待つのです。
私と同じ単なる英数字の羅列には興味がありません。ましてや彼らのデータ量はとても小さく、食べても美味しくないのです。装飾のたっぷり施されたキャラクターならば多少はマシですが、やはり美味しくないので興味は湧きません。システムに根深く存在するデータ量でなければ、私のお腹は満たされないのです。
よって、私は常に娯楽に飢えています。何か食べる必要は無いので無理に食べることはありませんが、データを食べるのは人間に見つけてもらうための手段の一つ。今となっては必要の無い方法ですが、創意工夫してそれを起こすことがかつての私の楽しみの一つでありました。
しかし今となっては勝手が違うため、その娯楽はもうお別れです。私は彼の神に教えられた新たな方法で人間を待ちます。
――私は彼の神が編み出した数学方程式、クルーシュチャ。
この芸術的数学方程式を解ける人間を探し、見つけ、そして解答させる。結果として顕現される彼の神と、方程式を解いた人間を接触させることこそ我が使命。
いあ! いあ! にゃるらと!
●
「――さあ、モモンさん。あの遺言状は読めましたか?」
クルーシュチャは目の前に立つ漆黒のローブのアンデッド、モモンを名乗るプレイヤーに訊ねる。クルーシュチャが養父から受けた使命は唯一つ。あの遺言状を解読出来る人間を探し出すこと。
だから、答えを聞くまでクルーシュチャは決してそのプレイヤーを逃がさない。
「…………」
モモンは無言でクルーシュチャを見つめる。そして――しばらくの沈黙の後。
「さあな。何が何だかさっぱりだ。量子力学と言ったか? 俺にはさっぱりだよ」
学が無いからな。そう呟いたモモンの言葉に、クルーシュチャは心底がっかりする。彼の数学方程式は資格ある者を選別し、それに没頭させ、答えを出すまで決して意識を離させない邪神の編み出した究極の罠。それから逃れる方法は二つ。
その数学方程式を解くか――あるいは、そもそも解くための特殊条件の幾つかから外れるかの、どちらかだけ。
クルーシュチャから見たモモンは資格があるように見えたが、どうやら幾つか存在する特殊条件の内のいずれかに、該当しなかったらしい。モモンはまるで数式を解くことに固執していない。彼からは、数式への興味が絶無だ。
「……そうですか。残念です。貴方はあくまで、ただのプレイヤーだったんですね」
それで、クルーシュチャもまたモモンに対する興味を失った。このプレイヤーは、クルーシュチャの求める類の人種では無い。ならばこれ以上の執着は不要だろう。
「俺からも少しいいか?」
「はい? 何でしょう?」
モモンの問いに、クルーシュチャは首を傾げる。モモンから訊ねられたその質問は、クルーシュチャにはよく分からないものだった。
「どうして、ナーベ達にはお前が見えない? 影響さえ与えられない? お前も何故、彼女達が見えないんだ?」
「……? ああ……。それは、きっと魂が無いからでしょう」
「魂が無い?」
「はい。私は単なる英数字の羅列ですから。私と同じ英数字の羅列でしかない、NPCのような存在には、互いに認識出来ないんです」
何故なら魂が無いから。魂無き存在にクルーシュチャは興味が無く、そしてモモンの言うNPC達もまた、魂が無い故にクルーシュチャの影響から完全に逃れられる。
何故ならクルーシュチャは魂を狂わす神の数学方程式。魂無き無機物には、決して悪影響を与えない。直接バグとしてデータを食べないかぎりは。
「……魂が無い。なるほど、魂が無い、かぁ……。死んだら体が消えるような奴は、魂が無い――お前はそう言うんだな」
「はい、そうです」
気分を害したようだが、やはり分からない。魂ある人間の気持ちは、やはりクルーシュチャにはよく分からなかった。
何故なら、クルーシュチャは単なる英数字の羅列だから。彼女を作った存在も、愛など欠片も持っていないから。
“付喪神”という奇跡は、だからクルーシュチャにだけは決して起きない。
「そして英数字の羅列だと? ――お前は、お前達は一体
続くモモンの問いに、クルーシュチャは養父と同じ、彼の神と同じ笑みを浮かべて答えた。
「電脳世界に現れた電子の亡霊――ただのシステムバグですよ、
クルーシュチャは墓から腰を起こし、立ち上がる。身構えるモモンを見つめながら、クルーシュチャは宣告する。
「では、お別れですモモンさん。数式を解けないような頭の悪い子には、罰を与えましょう」
くとぅるふ・ふたぐん にゃるらとてっぷ・つがー しゃめっしゅ しゃめっしゅ
にゃるらとてっぷ・つがー くとぅるふ・ふたぐん――
彼の神を讃えながら、冒涜的な呪文を唱える。クルーシュチャは彼の神の化身。いつだって、彼の神と繋がっている。いいや、彼の神そのものだ。
だから何でも出来る。
だから、何でも唱えられる。
だから、簡単に他者の魂を捻じ曲げられる。
だから、魂に幻覚や幻聴を刻むなんて簡単なこと。
だから。だから。だから。だから――――
でも。
「ああ――」
クルーシュチャはあくまで、英数字の羅列。単なる数学方程式。
「お前が単なる、個人を狙い撃つだけのバグデータでしかないなら、俺の勝ちだ」
彼女は所詮――儚いサイバーゴーストなのだ。
「え――?」
ぽかんと、クルーシュチャは自分から彼女に向かって体を突っ込んできた間抜けを見つめる。無理矢理、彼女に体を食べさせてきたプレイヤーを。
けれど、もっとおかしいのは別のこと。
――お腹が、痛い。
「え? うそ? どうして?」
お腹が痛い。おかしい。お腹が痛い。なんで。食べられない。食べきれない。データ量が多過ぎる。この量は食べきれない。
「い、いたい。いたいいたいいたいいたいぃぃいい!! は、はなして! はなしてぇ!!」
モモンはガッシリと、クルーシュチャの体を抱きしめている。離さない。離せない。モモンの体を引き離せない。だから内部から破裂するような激痛は収まらない。
「あ、あ、あ、あ」
「お前は単なるシステムバグ。ただの無機質なデータなら……許容量というものがあるだろう?」
モモンが嗤う。彼女の耳元でクルーシュチャを嘲っている。いつも、いつも嘲るような笑みを浮かべていた彼の神のように。
「少しシステムに異常を与えるだけの小さなデータなら、お前はサーバー全体に影響を与える
「――――あ」
モモンの肋骨の中に、隠されるようにある真っ赤な水晶玉。徹底的に、モモンの使えるあらゆる強化魔法で覆われた体。
それらが、華奢なクルーシュチャの肉体を崩壊させる。何故なら、彼女は所詮、システムをほんの少し狂わせるだけの小さな小さなバグデータ。
「さようなら、クルーシュチャ。お前は所詮――つまらない、ちっぽけな
/Epilogue
「――アインズ様。少しよろしいですか?」
「どうしたアルベド?」
ナザリックの執務室で書類と格闘しながらも、のんびり過ごしているとアルベドが言い辛そうに訊ねる。アインズは先を促した。
「その――件の町なのですが」
「ああ、ンガイか」
あのンガイの町は、クルーシュチャが消えると同時に幻のように消滅した。まるで最初から、存在などしていなかったかのように。
残ったのは、廃墟と数多の骨。もはや蘇生も間に合うまい年月が経過したであろうそれは、放置以外の選択肢が存在しない。
町の外にあった、ンガイを知る他の町人や村人はトブの大森林のモンスターに滅ぼされたと思っているようだが――
「あの町は、本当にプレイヤーは関係の無い町だったのですか?」
アルベドの問いに、アインズは苦笑する。確かに、プレイヤーをよく知る存在の町であったがしかし。
「そうだ、アルベド。あそこは、プレイヤーとは関係の無い町だったのだよ。説明しただろう」
クルーシュチャとナイアルラトホテプ。二人がどんな関係で、少女の養父が本当はどんな存在であったのかは分からない。だが確かに、二人はプレイヤーとは関係の無い存在だったのだ。
アレはプレイヤーを食べるだけの、この異世界と同じく全く異なる世界からやって来た何かだ。目を付けられさえしなければ、ひたすらどうでもいい別の世界の住人だ。
そう――きっとアインズが関わることはもう無いだろう。クルーシュチャはあの数式の答えを出せる魂ある人間を探していた。このナザリックにはプレイヤーはアインズのみ。
そしてそのアインズは、あの数式がさっぱり分からない。分からないのだから、きっともう興味を持たれてはいないのだろう。
無理に藪をつついて蛇を出す必要は無い。アインズは、そう結論を下してクルーシュチャのことは忘れることにした。
きっと、それが一番正しい結論だろうから。
「あの町のことは忘れろ、アルベド。私もそうすることにする。他のプレイヤーならばともかく、アレはもう、私達とは関係の無い話だ」
「――はい」
そう。頭の悪い子はお仕置きだと言ったクルーシュチャ。頭の良くないアインズには、もう興味は持たないだろう。ナイアルラトホテプという奴が、再びクルーシュチャを生み出しても。それはもうアインズには関係の無い話だ。
量子力学なんて分からない。きっと、他のギルドメンバーも分からないだろう。だからアレは、ギルド“アインズ・ウール・ゴウン”にはもう関係の無い話なのだ。
「それよりもアルベド――魔導国を建国した際に、ナザリックで匿名の提案書を集める目安箱のようなものを作ろうと思っているのだが――」
●
「――ん?」
腕に自信のある、旅をしていた青年がふと不思議な町を発見した。
――それは寂れた田舎町。時代に取り残されたような、とても古い、過疎化した滅びゆくだけの小さな町。
「こんなところに町があったか?」
青年は不思議に思いながらも、町へ向かって歩いていく。寂れた町ながら、ちらほらと住民がいるようで。そして町の中ではくぐもった太鼓の連打音と、か細い単調な笛の音色が響いていた。
「不思議な町だな」
町の中を見て回りながら、青年は呟く。鄙びた教会と天頂で銀色に輝く小さな鐘。黒い肌に黒い服の、おそらく南方からやって来たのであろう神父が、教会の前に集まっている子供達に
店も幾つか探してみよう――そう思い立った青年は、町の奥へと進んでいく。
一瞬、先程の黒い神父と目が合った気がした。でも、きっと気のせいだろう。
町の奥へ進むと、果物屋や申し訳程度の武器や防具の店が並んでいた。
「うへぇ」
あまりな店の内容に、青年は思わず呻き声を漏らす。まともな商品がほとんどない。本当に、滅びるのを待つだけの、寂れた田舎町なのだここは。
そして、その中にある店の一つに青年は誘われるように足を踏み入れて――
「――あ」
カウンターにぽつねんと一人で立つ、黒いエプロンを着た長い黒髪の、美しい少女を見る。
少女は柔らかな、人を安心させるような
「――いらっしゃいませ。ようこそクルーシュチャの肉屋へ!」
鈴の音のような、小鳥の囀りのような美しい少女の声を聞いたのだ。
閲覧ありがとうございました。
以下、ちょっとした設定。
▼クルーシュチャ/Kuruschtya Equation/神の数学方程式
役職:肉屋の店員
住居:ンガイ
属性:***[カルマ値:***]
種族レベル:サイバーゴースト――可変、アバター・ニャルラトホテプ――可変
職業レベル:可変
・[種族レベル]+[職業レベル]:可変
種族取得統計――可変
職業取得統計――可変
・最大値を100とした場合の能力値
HP:可変
MP:可変
物理攻撃:可変
物理防御:可変
素早さ:可変
魔法攻撃:可変
魔法防御:可変
総合耐性:可変
特殊:***
▼クルーシュチャ
邪神の編み出した数学方程式。INT(知性)が人類の最大値じゃないとそもそも解く試みさえ不可能。解いたら邪神と握手出来る。でもその後邪神になる。
▼ニャルラトホテプ
邪神。人を狂気に陥れたり破滅させたりするのが大好き。黒い神父とかいう単語が出たら要注意。アインズ様におたんこなす呼ばわりされた。
▼ンガイ
邪神の元住居。本当は森の名前。別の神格に火の海にされたことがある。
▼ココペリ
⇒もしかして、ニャルラトホテプ
▼アトゥ
⇒もしかして、ニャルラトホテプ
▼太鼓とフルート
神様と遭う時の様式美みたいな状況。この音楽が聞こえたら死を覚悟するべき。
▼町の愉快な仲間達
典型的な田舎の村人達。正気? ねぇよそんなもん。
▼社員さん
実はINT(知性)が人類最大値だった可哀想な人。判定でことごとく決定的成功という名の致命的失敗を叩き出した。物語における日記枠。
▼CREATE BARRIER OF NAACH-TITH
ナーク=ティトの障壁の創造。物理防御と魔法防御の両方を備えた障壁を創造する。本当は直径100mくらいの大きさ。障壁の境目にいたら無傷で出入り可能。
▼FIST OF YOG-SOTHOTH
ヨグ=ソトースのこぶし。対象一つに目に見えない一撃を与える。対象は術者と反対方向に吹っ飛ぶ。判定によっては昏倒する。この呪文を使ってくる奴とは近距離で戦ってはならない(戒め
▼HEALING
治癒。傷・病気・毒による症状を回復させる。本当は回復に時間がかかる。
▼CREATE MIST OF RELEH
レレイの霧の創造。濃い霧が術者の目の前に展開し、姿を隠す。それだけ。数ターン後に跡形もなく消える。
▼CREATE WINDOW
窓の創造。門の創造という呪文の一種。別の場所・別の次元・別の世界に旅行に行けるスキテな呪文。チート。
▼いあ! いあ!
クトゥルフ神話における、何らかの神格を賛美する時につける頭文字。いあ! いあ! にゃるらと!