それは、優しかったがために起こった悲劇だった。
その日は試合が始まった当初から天気は大荒れで、局地的な大雨に見舞われていた。視界も悪く、遠くに原っぱが見えるはずのこの崖でも、その緑が少しも見えることのない、灰色の風景しか見えることのなかった。まるで、一昔前の戦争の映像のようだ。
『ここから道は細くなっていきます!出来るだけ崖から離れて走行してください!』
『了解!!』
彼女は、戦車隊の前から二つ目の戦車から、その場にいたすべての戦車に向けて指示を飛ばす。
正直に言えば、いつ崩れるかもわからないような崖の上を行くなどという危険な行為は避けたかった。下を見ると、川が増水して激流になっている。落ちてしまったら、人間はひとたまりもないであろう。
しかし、それでも彼女たちはその道を通るしかなかった。自分たちが通りそうにもない道、それはすなわち敵も通りそうにない道だからだ。つまり、その道を通っていれば敵に出会う確率は低いであろう。そう、姉とも話し合ってこの道を選んだ。
この先、さらに細い場所を通ることになるが、そこさえ切り抜ければ、危険なポイントはないはずだ。この崖を渡った後は、周囲が開けていないところで密集陣形を取って、姉が相手のフラッグ車を落とすのを待つだけ。ただ、それだけだった。
その時だった。
『きゃぁ!!』
『!!』
彼女の耳に叫び声と崖が崩れるような音がなだれ込んできたのは。
雨で地盤が弱くなっていたのだろう。自分の目の前を走っていたティーガーⅠの足元が崩れ、そのまま激流の中へと身を沈めたのだ。
少女は、その戦車がどうすることもできないままに急流によって流される様子をただ見ているだけだった。少女は慌てて姉へと連絡を取る。
『こちらフラッグ車!隊長、戦車が一輌川に落ちて、どうしよう!!』
『落ち着け副隊長。それぐらいで壊れるほどティーガーはやわじゃない。カーボン繊維で衝撃にも耐えられる。中にいる者も大丈夫なはずだ』
『でも……』
彼女も知っている。確かに姉の言う通りティーガーⅠはちょっとやそっとで壊れるような作りはしていない。衝撃も、カーボン繊維によって吸収されて中にいる人間たちは確かに大丈夫だろう。
だが、中からの衝撃はどうだろう。戦車が激流に飲まれている今、そのまま履帯が下に、天井が上にあるとは限らない。もしも波によって横転でもしてしまったら、中で様々な機材に身体中をぶつけて大怪我を負ってしまう恐れがある。いや、大したケガでなくてもあざなんてできてしまったら女の子としては大ピンチに陥ってしまう。
見ると、まだティーガーⅠはすぐそばに浮かんでいる。泳いでいけばまだたどり着ける距離であったこと、それが彼女の明暗を分けてしまった。助けに行ける距離にいるという事が、彼女にいらぬ覚悟を決めさせたのだ。少女は、その場にいる全車輌に向けて通信を開いた。
『全車後退してください!崖が崩れた今進むことはできません!それから、今後の指示は西住隊長に一任します!』
『副隊長!』
『お姉ちゃん御免!でもやっぱり助けに行かないと!!』
『待て!早まるな!!みほ!!!』
隊長、副隊長と呼び合っていた二人は突如『お姉ちゃん』『みほ』と砕けた、いや本来の呼び方に変わっていた。それは、あまりにも彼女たちが慌てていたという事を表していたのかもしれない。
少女、否みほは姉や同じ車輛に乗っていた面々からの制止を振り切って一人土砂降りの中崖を滑るように降りていった。
その最中に上を見上げると、フラッグ車を含めたその場にいた全車輌が次々と後退の準備に入っていた。
指示に従ってくれたことに安堵したみほは、崖下に少しだけ露出している地面に降り立つとすぐに激流の皮へと飛び込んだ。
「待ってて、今助けるから……ッ!」
その時、突然の鉄砲水が彼女の身体を襲った。突発的に起こったそれに対し、みほは対処することなどできなかった。意識しなくとも彼女の口から、鼻から次々と水が入る。冷たい、苦しい、無理やり冷えたそうめんを鼻の中に詰められているような感覚。だが、彼女の眼はまだティーガーⅠを見据えていた。みほは、ソレに対して必死で手を伸ばす。だが、遠くに見える小さな列車を掴むことができるか。否だ。彼女の身体は次第に沈み始め、ついにその手が水面から消えていった。まるで、最初からその場には誰もいなかったかのように、すでに彼女の身体に水面へと上がる力など残されていなかった。だがそれでも彼女は手を上へと伸ばした。必死で、ただひたすらに、がむしゃらに伸ばしていた。だが、結局最後まで彼女は気がつかなかった。自分が手を伸ばしていたのは、川底であったという事実に。
「ッ!!!」
背中に走る激痛を最後に、彼女の意識は刈り取られた。
彼女が、自分たちのチームが負けたこと、そして受け入れたくない事実を知ってしまったのは、病院のベッドの上であった。
その時、目覚まし時計が彼女の悪夢を覚まさんがごとくに鳴り響いた。軽快で、聞いてて心地の良い音を立てている。
少女、西住みほは頭の上にあったそれをゆっくりとした動きで止めると、横にスライドするようにベッドから落ちた。
「痛たたたた……」
そして、上半身だけを起こして周りを見渡す。はて、自分の部屋はこんな風であったか。確かに広さはこんな感じであったことは認めるが、しかしもう少し物があったはずだ。そう思いながら彼女は起き上がると、そのタイミングでようやく頭が回り始め
、自分の置かれている状況を思い出させてくれた。
「そっか……もう、家じゃないんだ」
随分と慌ててしまった物である。もう、自分の事を叱る人間などいないというのに。
みほは、ベッドの端っこに手をかけると、思いっきりの力を腕にかけて上半身だけでもベッドの上へと上げた。ベッドの高さが低いものを買ってよかったと思う。そうでなければ、おそらく上がれていなかっただろう。
こうなってしまうと、ベッドではなく布団の方がよかっただろうかと思ってくる。実家ではベッドを使っていたので使い慣れている方をと思ってこっちでもベッドを買ったのだが、その時と今とでは身体が全然違うという事を考慮していなかった。だが、もしかしたらそれは、彼女なりの抵抗だったのかもしれない。今の自分の状況を受け入れたくないという無意識からくる選択であったのかもしれない。
ともかく、みほはさらに身体を上へと押し上げると、横向きとなり、両手を使って体を持ち上げてベッドの端に座る。こうやってただ単に座るという動作をするだけでもどれだけリハビリをしたことだろう。だが、おかげで座る姿勢を保持すること、座位保持というらしいが、それをすることができた。
さて、この時点で彼女にできることというのは数少ない。目覚まし時計が鳴り響いたのがその証拠だ。もうそろそろ、鍵が回される音が鳴るはず。そして数秒後、確かにその音が彼女の耳に届いた。
次の瞬間、玄関のドアがゆっくりと開かれていく。外から現れたのは一人の女性だった。年は、自分と一つしか変わらない。しかし、それでも凛々しさ、格好良さは自分は足元にも及ばないだろう。そんなオーラと、おいしそうな匂いを纏った女性がそこにはいた。
ハッキリと言ってしまえば、こんなところにいてはおかしな人間だ。しかし、それでも彼女はここにいる。すべてはこんな体になってしまった自分のために。だめだ、気がつくと自己嫌悪に陥ってしまう。あの日からの悪い癖である。
「おはようみほ……またベッドから落ちたの?」
「うん、でも大丈夫。ちゃんとひとりで上に上がれたよ……お姉ちゃん」
西住まほ、自分が暮らしている学生寮の一室のすぐ隣で暮らしている姉である。先ほど床に落ちる音は、隣の部屋にまで聞こえていた様子だ。
「ほら、朝ごはん。一緒に食べよう」
「もう、料理ぐらい一人でできるのに」
「でも……」
「心配しなくてもいいよ……」
その時、みほの目線は下を向いていた。足の方を見ていた。
「足が動かなくても……料理くらい……」
決して動くことのないその足を。
そんな様子をみたまほはただ黙ってみほの身体を抱きしめる。
「大丈夫。私はずっとそばにいるから」
「お姉ちゃん……うん」
その後、二人は朝ご飯を食べ終えると、これから自分たちが通う学校の制服に着替えた。なんだか、このようにシンプルなデザインの服を着るのも新鮮である。それから、みほはあの日から自分の相棒となっている車椅子に移乗して、あの日から日課となっているトイレも済ませて、まほに押されて寮を出た。
例え、足が不自由になったとしても、例え、妹のためにすべてを捨てたとしても、優しい姉と一緒に暮らせるのだから、愛する妹と一緒に暮らせるのだから、今の二人は最高に幸せだった。
その日、彼女たちの大洗での生活は、本当の始まりを迎えた。
介護の専門職の方、いたら検閲お願いします。
あとミリタリー系専門の人もいたら後々嬉しいです。