ガールズ&パンツァー バタフライエフェクト   作:牢吏川波実

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1-9 逃避

 多分、夢は見ていなかっただろう。もしも見ていたとすれば、それは絶対悪夢であって、自分の記憶にトラウマとして刻み込まれているはずだから。だから、その時夢は見なかったと断言できる。ただ、これだけは覚えている。目が覚める前、一瞬のうちの出来事。

 そう、それはあまりにも一瞬で、夢であると言えるか不明である。妄想に近い物だったのかもしれない。自分と、姉、そして母が一緒の戦車に乗る夢。それも、彼女が見たこともないような笑顔を自分に見せる母の顔は、姉の顔は、例え妄想だったとしてもそれを受け入れて生きていきたいと言ってしまえるほどの物だった。

 けど、その妄想も、終わりを迎えた。 

 

「うぅ……」

 

 最初に彼女の中に入ってきたのは、メトロノームのように正確に鳴る何かの機械の音だった。聞いているだけで心地の良いその音は、耐えることなく、彼女の耳からまるで初めて音という物を聞いたかのように純粋なハーモニーを彼女の心に送り込んでいた。

 そして、彼女は重りのように重い目をゆっくりと開けた。当たり前だが、その眼に最初に飛び込んできた物は光だった。光線銃を当てられたかのように眩しいその光は、雑に並べられた彼女の心を一つにまとめるかのように神々しく輝いていた。

 ここはどこなのだろうか。家ではないことは確かだ。自分の家は、木製で、天井はこの純白とは程遠い木の色をしている。また、ベッドの周りにをカーテンが囲い視界を純白によって遮っており、それでいて、においもなんだか不純物が少ないかのように無臭であり、それがより彼女の心を不安にさせた。

 

「こ、こは……?」

 

 その言葉を発すると同時に、まずは自分の記憶をたどってみることにした。確か自分は、先ほどまでティーガーに乗っていたはずだ。初めてフラッグ車を任されて、不安だったものの、姉から『フラッグ車を任せられる人間であると判断した』という言葉を聞いて、嬉しくなり、不安なんて吹き飛んでしまった。

 そして試合当日、天気は大荒れで土砂降りの雨が降り続いて、全然止む気配がなく一時は延期という事も戦車道連盟は考えていた。しかし、結局は十年前の大会の決勝の事を引き合いに出し、試合は予定通りに開始されてしまった。

 それから……それから……。

 

「みほ!」

 

 その時だ。カーテンを勢いよく開けて入ってきた人物。それは、自分のよく知る人物だった。その顔を見ただけで、彼女の心の中から不安要素が飛んで消え去ってしまった。

 

「お姉……ちゃん」

 

 姉、まほはすぐ彼女の枕元に駆け寄ると言った。

 

「その……大丈夫か、みほ?痛むところはないか?」

「痛み……ううん、そんなのないよ」

「あっ……いや、そう……よかった」

 

 まほは、何かを言いだそうとしたところで、一瞬ためらって別の言葉を吐き出した。しかし、それはみほにとっては何かを隠しているという事を伝えることにしかならなかったのだ。一体、姉が何を隠しているのだろうか。みほにはまだそれが分かっていなかった。彼女の苦しみも。自分の苦しみでさえも、分かっていなかったのだ。

 ともかく、まずはここがどこなのかはっきりさせた方がいい。そう考えたみほは、まほに言った。

 

「……ねぇ、ここはどこなの?」

「……ここは、病院だよ。みほは三日間眠りっぱなしだったんだ」

「病院……あっ」

 

 その時、みほはようやく思い出した。そうだ、確か自分は崖から落ちて言ったティーガーⅠの乗員を助けるために激流の川に飛び込んでいったではないか。そして、確か結局ティーガーに接触することすらもできずに、水に飲み込まれて……そして……。そこで、気を失ったのだ。

 

「お姉ちゃん、ティーガーⅠに乗っていた人たちは?」

「……大丈夫、誰もケガなんてしていなかった」

「そう、よかった……」

 

 現状はともかく、みほにとってはティーガーⅠに乗っていた人たちが無事であったという事はいい報告であった。結局自分の行動は無駄骨となってしまったのだが、たとえそうだとしても、無事であることは喜ばしいという以外になかった。

 まほは、そんな彼女の言葉を聞いて、唇を噛み締める。そうだ、確かに激流に流されたティーガーⅠに乗っていた少女たちは無事だった。機材に体をぶつけるという事も、水が戦車内に侵入して溺れ死ぬという事は回避された。だが……。

 

「……ねぇ、試合はどうなったの?」

「えっ……」

 

 その言葉に、まほは一瞬答えるのと躊躇した。だが、結局はいずれ知ることとなることだ。左手を握りしめたまほは、意を決して真実を話した。

 

「……負けたよ。がけが崩れた後、すぐにプラウダ高校の戦車が現れて……」

「そう……なんだ……」

 

 みほは、心の中で謝罪した。その相手は、今は三年生になる先輩達。前の大会まで九連覇であった彼女たちにとって、今年は最上級生として十連覇に挑む年だった。だからこそ、練習に練習を重ね、相手の学校の研究もして、あらゆる準備をして臨んだはずだった。だが、結局負けてしまった。それは、全て自分の責任だ。もしも、自分があの時、フラッグ車での任務を放棄していなかったら……。

 

「……」

「みほっ!」

 

 とにもかくにも、今すぐ三年生の先輩たちに謝罪をしなければならない。彼女たちにとって戦車道ラストイヤーを、こんな形で終わらせてしまった責任を取らなければならない。そう思ったみほは、すぐさま起き上がろうとした。それに対して、まるでまほが焦っているかのような声が一瞬だけ聞こえた。しかし、みほはそれに構わずに自分の上にかぶさっている布団を取り除く。その時、彼女はようやく自分自身の身体の異変に気がついた。

 

「え……?」

 

 自分の下半身から、何かの管が伸びている。中を黄色い液体が流れていることから、これはおそらく尿道留置カテーテルという物であろう。

 いや、それがあるのは問題ではない。この姉の反応からして、自分は何日間かは昏睡状態にあったのだろう。それならば尿道留置カテーテルという物が入れられてもおかしくはない。だが、最も問題なのは、自分がそれを実際に目視するまで自分の体内にそれが挿入されているという事に気がつかなかったことだ。大きな手術なんて一度もしたことのないみほにとって、尿道留置カテーテルなどという物を使用するなんて初めてである。だが、少なくとも自分の体内に異物が淹れられているのだから、何かしらの違和感がなくてはいけないはずだ。

 それに、もう一つ不思議なことがある。さきほどから彼女は何度も起き上がろうとしている。しかし、いくら昏睡状態から目覚めたばかりと言っても、ここまで起き上がるのに失敗する者なのだろうか。まるで、自分の背中とベッドが磁石のS極とN極になっているかのようだ。

 これだけだろうか。いや、まだおかしなことがあった。自分は、確かに自分の身体の上にあった布団を取り除いた。しかし、どうしてだろうか。足が布団の質感を捕らえなかったのだ。もう一度、みほは布団を自分の身体に被せる。やはりそうだ。木工用ボンドか何かでコーティングされたかのように布団の質感を足が捉えてくれない。そして……。

 

「ねぇ、お姉ちゃん……」

「みほ」

 

 みほは、自分の心がどうにかなりそうだった。だから、唯一今目の前にいるまほに助けを求めたかった。

 

「私、まだ悪い夢でも見ているのかな?」

「みほ」

「あのね、起き上がれないの。何度も力を入れて起き上がろうとしても、すぐにまた倒れちゃう」

「みほ」

「それとこのカテーテルも……なんだろう、まるでこれが私の一部になっているみたい」

「みほ」

「それからね、足の感覚もないの。ねぇ、これって本当に私の足なの?誰か、別の人の足をつけられているんじゃないの?」

「みほ」

「それから、それからね……それから……」

 

 みほは、その先が言えなかった。ただ、怖いのだ。自分がその事実を認めてしまうという事が、その現実を直視してしまうという事が、その真実が、自分自身の人生を変えてしまうのが。

 できれば、見て見ぬふりをしていたい。悪い夢だと思いたい。もしも、これが悪夢で、目を覚ましたら、あの決勝戦の日の朝で、姉から叱られたり、チームメイトから叱責を受けたり、作戦の最終確認をして、戦車に乗って、でも自分の戦車道ができないという事にストレスを感じて、そんないつもの日常を夢に見たい。

 違う、これが夢だ。これが現実であるわけがない。現実だなんて認めたくない。みほの声は、徐々に小さくなっていく。弱々しく、霞の空に消えてしまいそうなその声をしかし、まほは一文字一文字を聞き逃さないように耳の神経をとがらせる。だがそのみほの弱気な発言は、彼女をも苦しめるのには十分すぎる物であった。

 

「それから、それから、それから、それから……それから……それから、それ……からね……」

 

 だから……。

 

「みほ……」

「ッ!」

 

 まほは、ただ彼女の身体を抱きしめてあげる事しかできなかった。それでしか、彼女の心をつなぎとめることができないと、そう感じたからだ。

 だが、それでみほは確信した。姉の人肌が、その暖かい心が、優しさが、これが現実の事なのだと証明したのだ。だから、時期尚早だったのかもしれないが、みほはその現実を受け入れるしかほかなかったのだ。その運命がたとえどれだけ辛いことであったとしても、例え、どれだけ受け入れがたい真実であったとしても、胸の中に宝物のように仕舞い続けるわけにはいかないのだ。

 みほは、その言葉を言った。言ってしまえば、それを認めることになる。しかし、これ以上無視するなどできなかった。だから、彼女は勇気を出して言った。

 

「……動かないよぉ……足が、動かないよぉ、お姉ちゃん……」

「みほ……」

「痛くない、痛くないけど、つらいよ……お姉ちゃん」

 

 その日、彼女は大事な物を二つ失った。

 

 

「……ほさん、みほさん」

「……」

「起きてよみほ」

「……え?」

 

 その二人の自分を呼ぶ声に、みほの意識は完全に覚醒した。目の前にいるのは華と沙織である。嫌な夢だった。いや、もはやあの日の再現VTRを見ている気分だった。ここ何日か、また戦車について考える時間が多くなったために見たのだろうか。しかし、今思い出してみても心が痛む。あの後、医者から自分の現在の状態や、リハビリのメニューについての説明があって、母とも会って、父とも会って、それから黒森峰の同級生たちもお見舞いに来た。だが、どれだけの人間に会っても彼女の心が救われることはなかった。多分、一生付き合っていくことになる悪夢だ。果たして、この心の傷がいつ癒えることになるのか、それを知る物は自分も含めて誰もいない。

 それにしても、何故二人がこのような朝早くに自分の部屋にいるのだろうか。

 

「どうして華さんと沙織さんが……」

「はい、実はまほさんに呼ばれまして」

「お姉ちゃんに?」

「うん、ほら選択必修科目の授業って今日からじゃん。だから、みほに少しでもいいから辛い記憶を思い出してもらいたくないって、朝早くに出るって言ってたの」

「それで、私たちがまほさんの代わりにみほさんの朝ご飯を作りに来ました」

「そうなんだ……」

 

 別に、一人でも料理はできるし、一人で学校にも行けるからいらぬおせっかいだったのかもしれない。それに、姉の心遣いも、少々度が行き過ぎている気がする。

 例え今日の朝に出会わなくても、放課後にも、明日にも、明後日にも、いつかは会う時が来るのだ。なんだかまた自分と姉の距離が離れて行ってしまったようにも感じる。このスレ違いは、あの黒森峰時代を彷彿とさせる出来事なのだ。なんだか、みほの心は寂しかった。

 

 二人が中に入ったのちしばらくして、彼女たちは西住みほと一緒に出てきた。姉の方は、どうやらいないらしいが、どうしたのだろうか。いや、そういえば二人が来る少し前に一人の女性とすれ違っていたか。暗くて顔をよく見ていなかったから分からないが、もしかしたらあれが西住まほだったのかもしれない。

 ともかく、学校へと向かう三人の後ろから、彼女もまた電信柱等に隠れながら追っていく。しかし、追ってどうなるわけでもあるまい。そもそも自分が臆病であるばかりに、このようにストーカーまがいの行動をしてしまっているのだから。仲良くなりたい、しかしもしも自分が仲良くなろうものなら、自分も彼女も嫌な気持ちになってしまうかもしれない。だから、自分は彼女の側にいる資格はない。

 

「にしても、もう少し学校に近いところに寮はなかったの?」

「えっと、何個かはあったんだけれど、バリアフリー化がされているのがここぐらいしかなくって……」

「やはり、みほさんのように車椅子の方のためには、スロープがどの施設でも必要なのですね」

 

 あの子たちのように、楽しげに話せるようになる自信がないのだ。戦車以外を話題に話している自分が想像できない。だから、自分はここから、後ろからただ眺めていればそれだけでいい。彼女の姿を見ているただ、それだけで満足なのだ。

 だから、もういい。そう彼女は思う。次第に、彼女と三人の距離が離れ始め、三人はある角を曲がって行った。いけない、見失ってはならない。そう、彼女は思い、大急ぎでその角を曲がった。直角ともいえるターンで、その道を見た時、彼女の心はまるでシンバルを目の前で叩かれたかのように跳ね上がった。

 

「私に、何か用ですか?」

 

 西住みほが、確かにそこにいたのだ。

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