生涯で二度はないと思っていた。そんな混乱の渦が今、西住みほの心目掛けて疑問という名の石を投げつけてきた。
どうしよう。どうしようか。どうすればいいのだろう。どうしたらよいのだろう。彼女の頭は真っ白となり、何も考えられないでいた。
先ほどまで、自分は心の中で鐘楼を煩く鳴らされたかのようにトラウマが揺さぶりをかけていた。そして、今はその余韻で、身体全体がおかしくなっている。そう思える。生徒会に命令された戦車道履修。ただ、断ればいいだけだ。しかし、彼女はそれができなかった。トラウマと戦うのに必死になって、結局言い出すことができなかったのだ。だが、今のところはぼろ負け状態だ。
そういえば、姉の所にも話は行っているのだろうか。当たり前であろう。姉は、自分等よりも優秀で、一昨年は黒森峰女学園の戦車道全国大会九連覇に貢献した実力の持ち主。黒森峰女学園の十連覇を阻んでしまった自分などよりもよっぽど優秀な人だ。彼女たちが何のために自分に戦車道をまたやれと言ったのかは分からないが、しかし優秀な人材を集めているのだとしたら、姉に声をかけないはずがない。
せっかく、自分は戦車道から離れることができたというのに。ようやく、トラウマが薄らいできたと思っていたのに。それと、姉と昔のように仲のいい関係に戻ることができ始めてきたというのに。どうして、世界は自分たちに安定を安泰をもたらしてくれないのだ。なんで、自分はあの家に生まれてしまったのだ。どうして、なんで……。
「みほ」
「え?」
その時、斜め後ろにいる沙織から声がかけられた。どうやら、考え事をしすぎていたようだ。授業の内容も先生の話も全然頭に入ってきていなかった。
現在の状況からして、先生に問題を答えるように指名され、それを完全無視していた様子であるが、しかし今の自分に黒板に書いてある問題を解く気力なんてなかった。
「どうしたの?気分でも悪い?だったら保健室に行きなさい」
「あっ……はい」
好都合と言ってしまったら先生に悪いし、実際に気分が悪くなったも同意義であるため、お言葉に甘えさせてもらってみほは車椅子を方向転換させて、一人教室から出ていった。しかし、その動きはあまりにもゆっくりで、もしもこうして座っていなかったら倒れてしまうのではないかとクラスメイト全員が見ていた。特に、沙織と華はかなり心配そうに彼女が出て行くまで見ていた。
廊下に一人出たみほ、しかし次第にその車輪は動きを止めていく。また、手についた汗によって車輪を持つ取ってが滑り、前に進まないのだ。何度スカートの裾で手を拭いても汗は吹き出し、前に進もうとしない。さてどうする。自分の足を動かす手がこんな調子であれば、自分はどこにも行くことができない。まるで、今の自分の気持ちのようだ。答えが出せずに前に進もうとも、後ろに進もうともしない自分のようだ。みほは、自分のことが少々みじめであるように感じてしまった。
その時だ。突然背中に圧が感じるのと同時に車輪が回った。
「え?」
何事かと、みほが後ろを向いた。そこにいたのは、沙織の姿だ。
「武部さん……」
「私達も一緒に行くよ」
「え?でも、授業は?」
「仮病です」
沙織は腹痛、華は持病の癪を理由にして保健室に行く許可をもらった。みほの様子がおかしかったから、心配になったのだ。そしたら案の定、彼女は廊下の真ん中で立ち往生していた。いや、座り往生か?それはともかく。間もなくして、三人は保健室に到着した。
「今日は気分が悪い人が多いわね。静かに休んでてね」
みほ他二名をベッドに寝かした後、そう言って養護教諭の先生は部屋から出て行った。それから、もう一つベッドが膨らんでいる。どうやら先客の人がいた様子だ。船酔いで、昼ご飯を食べた後に具合が悪くなってきたのだとか。三人は、この学校でそれは珍しいなと思ったが、養護教諭曰く彼女は少し前まで本土の学校にいたらしく、都合により他の一年生たちから遅れて今日からこの大洗に住み始めたのだとか。だが、ここに来るまでの船の中で船酔いを起こし、さらに船の揺れになれていないという事と昼ご飯を食べた後という事が重なってここまで重症になっているらしい。それで三人は納得した。
そして、養護教諭が部屋を出たところを見計らって、みほの両サイドのベッドに陣取っていた華と沙織がみほに声をかける。
「西住さん、大丈夫ですか?」
「……」
「いいよ寝てれば」
みほは、その言葉を受けて起き上がろうとするが、沙織がそれを制した。
「早退されるのであれば、カバン持ってまいります」
「ありがとう」
「生徒会長に何言われたのよ」
「よかったら話して下さい」
どうしようか。だが、別に話してもいいようなことだ。それにむしろ話した方が……。
「……今年度から、『戦車道』が復活するんだって」
「戦車道とは……乙女がたしなむ伝統的な武芸の?」
二人は、この世界にてポピュラーであるその言葉に反応した。戦車道は、古くから乙女のたしなみとして存在していた武道だ。礼節のある淑やかで慎ましく、凛々しい婦女子を育成することを目指した武芸らしく、高校戦車道の全国大会も行われるほどで、女性に人気なのである。だが、だからと言ってである。
「それとみほに何の関係があるの?」
「私に、戦車道を選択するようにって」
「え、なんで?」
選択科目なのだからどれを選んでもいいはずなのである。実際、選択科目には他にもたくさんある。茶道、書道、合気道、忍道、仙道……等々。まだ序盤は分かる。よく知られたものであるから。だが、忍道と仙道とはなんだろうか。その話はまた後で、もしくは忘れ去ろう。ともかく、どうして生徒会がそこまで言うのだろうか。
「えっと……それは……」
「何かの嫌がらせ?あっ分かった、生徒会の誰かと三角関係?恋愛のもつれ?」
「ちがっ……」
「是非戦車道を選択するように焦がれるなんて、もしかしてみほさん数々の歴戦を潜り抜けてきた戦の達人なのでしょうか」
沙織のいうドラマ的展開はともかく、華の言う通り、自分は歴戦を潜り抜けてきたといえる。だが、姉や母から見れば、まだまだ自分はそれほどまでは……。
「タイマンはったり、暴走したり、カツアゲしたり」
「でもなくて……」
昼食の時から思っていたが、どうしてこの二人の想像は変な方向にばかり話が飛躍してしまうのだろうか。いや、確かに華の言う通りスケバンのような自分だったらどれだけよかったことだろうか。それほどまでに度胸の有るような自分だったらどれだけよかったことか、そんな事を少しは思ってしまう。
一方、答えにたどり着かない沙織はついに、直球で聞いてみることにした。
「じゃあ何?」
「えっと……」
みほは一瞬だけ考える。別に、言って困るようなことでもないし、そもそももう自分と姉には全く関係のないことだ。だが、姉に黙って彼女たちにばらしていいのだろうか。いや、別段二人だけの秘密という事柄でもないから多分大丈夫だ。
みほは、何の意味もない雑学を披露するような虚しい気持ちになりながらも、ため息をつきながら言った。
「実は、私の家は……代々戦車乗りの家系で……」
「まぁ……」
「へぇ……」
「でも、あまりいい思い出がなくて……」
「では、まほさんも?」
「うん、でもお姉ちゃんは私のように戦車道が嫌いになるようなことはなくって……でも、戦車道の試合で足が動かなくなった私の事を心配してくれて……それで、戦車道を避けるために二人でこの学校に来たわけで……」
「そうだったんですか……」
実質、彼女の足が動かなくなったのは運が悪かったとしか言いようのない物だった。しかし、それがトラウマとなって彼女の心に傷をつけたのはまた事実。結果的に、多くの人たちの期待を裏切って、たくさんの人間に迷惑をかけたという事もまたそれ以上に彼女の心に刻まれた事実だった。
華は、何となくみほとまほにシンパシーを感じていた理由が分かった。自分もまた、華道の家元の家に生まれてきた人間だ。生活のあちこちにおいても、きつい制限がなされて自分自身時には逃げ出したいという気持ちになったことが多々ある。彼女達も自分と同じなのだろうと思う。
「そっかぁ……じゃ、無理にやらなくていいじゃん」
「え?」
「第一、今時戦車道なんてさぁ、女子高生がやることじゃないよ」
「生徒会に断りになるなら、私達も付き添いますから」
そう、断ればいいのだ。ただそれだけでいいのに、自分はその最後の一歩が怖くて踏み出せないでいた。でも、どうしてだろうか、二人と一緒ならどんなことでも言えそうな気がする。二人に、たくさんの勇気をもらっているような気がする。
それに……障害を理由にしたくはないが、足が不自由という事は戦車乗りとしては不都合が多々ある。特に、自分のスタイルから考えると、デメリット以外の何物でもない。生徒会からは戦略アドバイザーとしての参加でもいいとは言われたものの、あいにく姉とは違って自分にそんな才能があるとは思えなかった。ここは、二人の勇気を借りてきっぱり断った方が無難だ。そう、みほは考えていた。
「二人とも、ありが……」
「う、うぅ……」
みほがお礼を言おうとしたとき、うめき声が聞こえた。三人は思わずその方向へと目線を向ける。そこは、自分たちが来る前から埋まっていた一つのベッドだった。見ている内に、中にいる人間が上にかぶさっていた布団を取って起き上がってきた。
「だんだん良くなってきた……」
起き上がってきたのは銀髪の女の子。自分達よりも年下に見える事と、先ほどの養護教諭の話から察するに一年生なのだろうが、心なしかもっと幼く見えてしまう。
「あの、大丈夫?」
「うん、ちょっと船によっだだけ……えっと?」
「あっ、ごめんね急に話しかけちゃって。私は武部沙織」
「五十鈴華です」
「私は……」
「え?」
その時だ。みほが自己紹介をしようとした瞬間、それを遮るかのようにチャイムが鳴り響いた。その時、みほの顔を見た少女の顔が少し変化したのには全く気がつかなかった。
「授業が終わってしまいました。せっかくくつろいでいましたのに」
「後はホームルームだけだね」
そういえば、よく考えてみるとこっちの二人は自分のために仮病を使って授業をずる休みしてしまったのだなと今更ながらに思った。まぁ、そのおかげで勇気を貰えたことであるし、後は家に帰って姉と相談をしなければならない。
そう思った矢先、彼女たちの耳をサイレンのようなものが襲った。
「なに?」
みほの疑問もそこそこに、天井に備え付けられているスピーカーから声が流れ出す。この声は確か、先ほどのバインダーを持っていた生徒会役員の声と同じだ。
『全校生徒に次ぐ、体育館に集合せよ。体育館に集合せよ』
「えっと……これって?」
「さぁ?」
「うちの生徒会のやることですから」
「みんな慣れっこなんだ……」
この二人の反応から察するにどうやら、生徒会の突然の行動というのは奇行であるどころか、もはや名物になっているようだ。とにかくみほ、それからベッドの上にいる少女も一緒になって体育館へと向かうことになった。
一方の西住姉、まほはというと一人体育館の真ん前で陣取り、みほが来るのを待っていた。
授業が終わってすぐ、彼女はみほの教室へと急行した。すると、どうやらクラスの人間全員がどこかに行こうとしている様子だった。見渡してみると、みほの姿、さらに沙織や華も見当たらない。一人の女子生徒を捕まえて話を聞くと、どうやら授業中に体調不良で三人とも保健室へと向かったという。それに加えて、この喧騒は何なのかという事も聞くと、生徒会から放送があって、体育館に集まるようにと指示があったそうだ。自分は、その放送に聞き覚えはないが、多分あまりにも急いでいたため聞き逃してしまったのだろう。
今から保健室に向かうべきかと考えたが、保健室は確か体育館とは逆の位置に存在する。と、いう事は今から体育館に向かえば、先回りすることができる。そう考えて、体育館の扉のすぐ横に立ったのだ。
こう言っては何であるが、みほは車椅子に乗っていてよく目立つ。そのうえ、常識のある人間は車椅子の少女がいれば大体の確率で道を開けてくれるものだ。さらに言えば、彼女は目がよかった。そのため、遠くからでも車椅子に乗るみほと、その両脇にいる沙織と華の姿を見つけやすかった。
そして、まほは自分の目を疑った。何故彼女がみほの車椅子を押しているのか、いやそれどころか、どうして彼女がこの大洗にいるのだろうか。この学校には戦車道はないはずだ。いや、百歩譲って自分たちと同じように戦車道がないからこそ来たという事も考えよう。しかし、もしもその場合でも確か彼女はまだ年齢的に言えば中学生だったはずだ。それが、何故高校にいるのか。珍しくも動揺してしまったまほに対して、いつの間にかみほたちは近づいてきていた。
「あっ、お姉ちゃん」
「みほ……保健室に行ったって聞いたけど……大丈夫?」
「うん、少し休んだら元気になった」
「そう……武部さんと五十鈴さんありがとう。みほの側にいてくれて」
「いいんです気にしなくて。みほのおかげで私まで授業さぼれちゃった、なんちゃって」
「もう武部さん」
冗談なのか、はたまた冗談じゃないのかどちらともとれる発言ではあるが、それでも自分の代わりにみほの隣にいてくれて助かったのは事実だ。
その時、車椅子を押している少女の顔を見る。やはり、間違いなく彼女に違いない。彼女もどうして自分がここにいるのかと言わんばかりの表情だ。みほは、彼女に対して何も思わなかったのだろうか。いや、彼女は次期家元がほとんど約束されている自分と違ってそう言った物を知る心得もないだろうから、彼女の事を知らなくても当然だろう。しかし、自分はよく知っている。何故なら、自分の家と彼女の家は双方ライバルのような物。会ったことはなくとも、写真などでよく見かける少女だった。彼女は、彼女の名前は……。
「島田、愛里寿……」
「え?」
「……西住まほさん……ですね」
「え?え?」
「……見間違えかと思いましたが……やっぱり、西住みほさんだったんですね……」
「え?え?え?」
みほは、自分を間に挟んでの空気の変化を感じ取った。なんだろうか。険悪という雰囲気ではないが、しかし双方探りを入れているかのような感覚だ。だが、何故姉が見ず知らずの少女に対してそんな反応を示すのかよくわからなかった。深く、重い沈黙が場の空気を支配している最中、愛里寿と名乗った少女が言った。
「……詳しく話すのは後でも構いませんか?」
「……そうだな。みほ、色々とつもる話があるが……とりあえずこれが終わってからにしよう」
「え?う、うん……」
まほはそう言うと、愛里寿から車椅子を押す役目を代わって、五人で一緒に体育館の中へと入って行った。
島田愛里寿と姉、二人の間に何があったというのだろうか。そして、この後一体何があるというのだろうか。みほには、まるで想像もできない事であった。
次回から、投稿は毎週火曜日の一時or十二時、もしくはその両方で投稿することにします。