病気物件をなおしたい   作:くまさん in the night

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 主人公はストレスや寝不足のせいか、軽いキャラ崩壊が始まっています。ところでこの原因って不動産屋に勤めている、それほど誠実ではないスタッフと、アパートに固執する、ただの変な地縛霊だけなんですよね。

 つまりこの物語は、生きたオッサンと死んだオッサンによって、主人公の歯車が噛み合わなくなる話ということですね(適当)。

 オッサンの影響って偉大だなあ(遠い目)。これからはぜとも、敬意を込めて「おっちゃん」と呼んでさしあげましょう(すっとぼけ)。


 あ、それから杞憂かもしれませんが、「媒介」の読み方は「ばいかい」です。
 中学の理科で「触媒」が登場したり、夏になるとニュースで見かることもある熟語なので、多くの方は読めると思いますが念のため。


四位 幽霊VSベクトル変換

 あのサイトには書いてあった。

 「浄霊の第一段階、それは霊との対話です! 霊の悩みを知り、彼らや彼女らが現世に留まる原因を見つけちゃいましょう!」と。

 

 一刻も早くオッサンを浄霊したい俺は、今日のバイトが終了したと同時に帰り支度を終わらせ、可能な限り早い電車に乗った。

 

 で、今ちょうどアパートに到着したわけだけど、さっそく地縛霊にインタビューをするかな!

 

 ところで、俺はできることなら一撃でヤツの真意を聞き出したい。しかし残念ながらここで一つ問題がある。

 それは、俺の目の前に居座り、この部屋を占拠する地縛霊のオッサンが、そう簡単に真実を語るとは思えないことだ。ずっとふざけてるし。

 

 きっと、オッサンとの戦いはかなり長引いてしまうだろう。だからこの戦いは、根気が無くては続かないと思う。

 逆に言えば、諦めなければいつかは勝利をつかめるかもしれないということだ。

 

 正直今の俺にはオッサンが成仏しない理由なんて見当もつかないけど、それでも挑戦し続ければいつか本音を引き出せると信じている。

 

 そう、信じるんだ。

 ヤツの本音さえ引き出せば、その後は浄霊が意外とあっさり終わるかもしれないと。

 生きている人間が死者の魂ごときに負けることなど決してあり得ないと!

 長年に渡ってこのアパートを苦しめてきた、非日常的な「日常」を打ち砕く、会心の一手は必ず存在していると!!

 

「オッサン、ちょっといいか?」

『私のことはマザーと呼ぶが良い』

 

 「呼ぶが良い」じゃねぇよ、いきなり女体化すんなよ。

 

 ……おっと、危ない危ない。コイツの術中に嵌まりそうだった。

 冷静さを失うな! 大切なのは冷静さだ!

 

「クールになれ。頭を冷やすんだ俺!」

『いきなりの脱衣宣言とか、おじさんに話しかけようと必死すぎ~、マジさむ~い』

「黙れ、全身ごと冷やすな」

 

 それと、お前に近づく手段の一つとして「脱衣」を挙げるなよ。

 なんで服を脱いだらお前とお近づきになれんだよ。もうやだ、この人。

 

 いや、まだだ。まだ諦めるな……! 振り回されるんじゃない、俺!!

 

『身体も財布も超さむ~い、さむ~い、サムシングエルス~、サムギョプサル~、サムタ~ン回し~』

「ところでマザーが迷惑行為を繰り返すのはどうしてだろうね?」

『…………?』

 

 ポカーンとするなよ!!

 何か言えよ!!

 

「迷惑行為だよ、め・い・わ・く・こ・う・い!! うるさいだろ!! いつもいつも!!」

『ふーん』

 

 駄目だ……。コイツ、まるで聞く耳を持たねえ……!

 この悪霊相手に俺ができることなどまったく無いのか……?

 

「…………はぁぁ。なんで、こんなに、ふざけてんだよ……」

『“生きる”とは、呼吸をすることではない。だが、呼吸をしなければ生きられない』

 

 だからなに?

 関係ないじゃん。

 

 あのさあ、俺の独り言に反応して哲学を始めないでくれませんかね?

 

 

 

 ……今回の質問で分かったことは一つ。

 

 俺の戦いはまだ始まったばかりだ。つまり終わる気配など皆無だ。

 

 ……今日はもうひどい頭痛がするから、続きは明日にしよう……。

 

 この戦いって終わるのかなぁ……。

 

 

「いらっしゃ……うわっ、すごく顔色が悪いよ? また寝不足?」

「え? ……ああ、うん。そんなところ」

 

 バイト先に到着したらいきなり心配された。

 オッサンと関わったストレスであまり眠れなかったからか、昨日蓄積した疲労はまだ消えていない。

 だけどまさか心配されるレベルだったのか。

 

「おじゃまします」

 

 俺はいつものように顧客、というより生徒である西さんの部屋に入った。

 別に隠すようなことでもないけど、俺のやっているバイトは家庭教師だったりする。

 

 俺は昔から数学と物理は好きだったので、必然的にこの二つは成績が良かった。

 そして、どちらも大学入試で得点源になってくれたり、幸運にも時給が高いバイトに就けたりと、かなりの恩恵があった。俺はこれを、数学か何かの神様から、期待してた以上の恩返しがあったのだろうと勝手に思っている。

 

 特に家庭教師のバイトと出会えたことは本当に運が良かったと思う。

 だって仮にこのバイトを逃していたら、収入の条件に合う働き方の選択肢は、肉体労働かブラックなヤツしか残らなかったのだから。

 

 しかも俺の身体能力は低く、例えば握力は19キロ、すなわちイコール年齢! ついでに彼女いない歴も年齢! ……色んな意味で悲しい。

 

 そんなもやしのように筋肉が少ない俺にとって、肉体労働はブラックな部類に入るバイトとなってしまう。そして肉体労働じゃなくても、苦学生にとって十分に稼げる働き方は、基本的にブラックだと相場が決まっている。

 おそらく、よっぽど上手くいかなくては、どう転んでも真っ黒からは逃げられないだろう。

 

 もし今年の春頃の俺にわずかでも手違いがあったら、きっと今の俺は干からびて死んでいただろう。

 

 それに対してこのバイトは、生活費を稼ぎつつ、さらに学費を工面しつつ、しかもそれほど死が近くない。

 控えめに言って最高!

 

 ……まあ、とはいえ他の科目は点数がそこまで高くなかったこともあり、俺がドヤ顔で人様に教えられるのは数学と物理しかないけど。

 

「本当に顔色が悪いよ? クマもひどいし、横になってた方がいいんじゃない?」

「ダメだよ。そうしたら教えられないじゃん」

 

 死霊を免罪符にしてサボるのは良くない。仕事は仕事、オッサンはオッサンだからね!

 

「わからないとこがあったら質問するからさ、それまでは休んでてもいいよ?」

「……えっ?」

「『教えられないから休んじゃダメ』なんでしょ? それってさ、『教えられるなら休んでもいい』ってことでしょ?」

「……いや、それでもサボるのはダメ! ゼッタイ!」

「うーん、体調最悪の矢車くんが、私にちゃんと教えられるのかな?」

「…………」

 

 なんということでしょう! 素直に「できる」とは言えません。

 はっきり言って、西さんが相手なら体調が悪くても教えられると思う。おそらくは、彼女もそれを理解している。

 それでも西さんは、多分俺を休ませるためにこんなことを言っているのだと思うと、その優しさを無下にするのは心苦しい。

 

「だから少しなら休んでもいいよ?」

「……そっか、ありがとう……ありがとう西さん。じゃあ、お言葉に甘えて休憩するかな」

 

 俺はそう伝えると、床へ向けてゆっくりと身体を倒した。

 幸せな睡眠時間をありがとう、西さん!

 フォーエバー、西さん!

 君のことは決して忘れないよ!

 

 さて、そんなわけで、さっそくだけど急速に休息しようかな!

 

 ……いや、待て。果たしてこの手は最善だろうか?

 確かに今眠ればこの瞬間は休めるだろう。だけどオッサンがいる限りストレスにまみれた生活は変わらない。

 そうなればまた疲れてしまうことは容易に予測可能……!

 つまり「これからも休める保証」はどこにも存在しないけど、「これからも疲れる保証」は確かに存在している……!

 

 ところがこれらの問題は、オッサンさえいなくなれば解決するはずだ。

 だからこそ今は、あえてオッサン退治にエネルギーを注ぐことこそが最善手なのではないだろうか?

 

 よし、そうと決まれば、まずは昨日のオッサンをもう一度分析しよう。

 

 ……浄霊を成功させるためにはオッサンとの対話が必要不可欠。だけど当のオッサンとは、会話のキャッチボールすらままならない。

 このままでは浄霊の実行など夢のまた夢……。

 それなら多少の危険を承知で除霊した方が良いのかもしれないな。

 

「ねえ、矢車くん? これってどうすれば最速で解けるの?」

 

 アパートに定着している状況から考えると、オッサンは十中八九地縛霊。二〇四号室に強いこだわりを持つことも、ヤツが地縛霊であることを示している。

 

「おーい、聞こえるー? どう見ても最大まで目を開けてるよねー? まさか矢車くんはそんな状態で寝られるのかなー?」

 

 さて、地縛霊の弱点は、憑いている場所から離れられないことだと言われている。

 取り憑いた場所から地縛霊を排除すると、場合によってはその地縛霊がただの浮遊霊に変わることもあるらしい。

 あれ? もしかしてオッサンをアパートの敷地内から追い出せば解決する……?

 でも、どうやって?

 

「矢車!!」

「うわっ!! いきなり何!? ……なんだ西さんか。ごめん……ついうっかり考えごとしてた」

「ふう……。休むなら休む、休まないなら働く、そうだよね?」

「あ! ……はい、面目ないです」

 

 バイト中であることを思い出した俺は、瞬時に正座で居直った。

 これは完全に俺が悪い。

 

「もうセンター試験まで三ヶ月、二次試験までは四ヶ月をそれぞれ切ってるんだよ?」

「はい、申し訳ありません。ぐうの音も出ないです」

 

 そうだ、いくら速やかにオッサンを粉砕したくても、今の俺はただのしがない家庭教師。

 そして西さんはヤツと無関係な生徒。

 

「最大に反省したかね?」

「はい、最だ……盛大に反省しました」

 

 オッサンはオッサン、西さんは西さん。今、もう一度はっきりと心に刻もう。

 

「反省すればいいのだよ明智くん!」

「矢車です」

 

 あれ? そういえば今日は西さんが騒がしいな。

 でもこの人、少しキレてます。

 

 見た感じの雰囲気は、全然怒っているように見えないけど。

 

 彼女の顔は、彼女が前年度の受験に落ちてから掛け始めたメガネが似合っていないせいか、俺にはどこか抜けているように見えるし。まるでゲームか何かをやりすぎて視力が落ちた人のようにも見えるし。

 

 だけどその、ぽけーっとした雰囲気に隠れていても、キレていることくらいは分かる。

 

 っていうかむしろ、本気で勉強している浪人生なら、ここでキレるのが当たり前だろう。

 

 しかもよりによって、彼女は俺と同じ大学の、医学部を目指している。

 うちの大学は別に最難関とかじゃないけど、それでも国立の医学部は難易度が別格だ。

 これで怒らない人がいるなら、それは勉強に真剣さが足りない人か、ただの聖人だろうね。

 

 その上、西さんは高校を卒業するまで数学と物理が大の苦手だった。

 その頃も彼女は頑張って頑張って、頑張り続けていたようだけど、いくら頑張っても、その二教科は思うように伸びてくれなかったらしい。

 結果的に浪人が決定し、現在もこうして高校の範囲を勉強をしている。

 西さんの実力ではまだ、この二つを得意科目と呼ぶことは叶わないけど、それでも彼女は諦めずに毎日数式と戦っている。

 

 実は、そんなふうに彼女が全科目で高得点を目指す姿勢を、俺は密かに尊敬していた。

 

 だってあれほどの努力を積み重ねるなんて、俺にはできそうもない。苦手科目をあんなに勉強しているとか、もし俺が西さんだったら、努力しすぎて発狂するかもしれない。

 

 俺には真似できないことをやってのける彼女に対し、もし俺が微塵の敬意も持たず、応援する気にもならないとしたら、そっちの方がおかしいだろう。

 

 だから折れずに頑張り続ける西さんに対して、俺が邪魔をする、なんていう事態は起こって欲しくない。

 

 そんなわけで、西さんに対して著しく誠実さを欠いていたさっきの俺は、自分でも嫌になるくらいひどいことをしていた。

 こんなことはもう二度としたくない。

 とにかくしっかりしろ俺!!

 

「それで、この問題を最速で解くアプローチはなにかな? 休まないってことは働くってことだよね? 矢車君はなんの支障もなく教えられるから休まないんだよね? それってこの程度の問題は一瞬で導ける自信があるってことだよね?」

「……」

 

 今しがたの「休んでいい」発言は本音を漏らしただけのようですね。優しさは幻想だった、というわけですか。そうですか。

 それと、確かにさっきの俺はいけないことをしたと思いますが、今あなたの示している問題文は、パッと見て、「あ、これ軽めの鬼畜だわ」と分かるほどの難問じゃないでしょうか?

 弱みに浸け込んで無茶な要求をするところは、たとえ西さんでも尊敬できないや。

 

「早く!」

 

 その瞬間、西さんの座る隣に置かれた椅子が、シュンッ!! と叩かれてメキィッッ!! と悲鳴をあげた。威圧するような行為はおやめください!

 へ、平和にいきましょう!

 

「わ、分かったから! 西さんの言いたいことは分かったから!」

「早く!」

 

 俺は恐怖で笑いそうになる膝へグッと力を込め、急いで西さんの隣に座った。

 壊れかけの椅子がぐらついて座りにくいけど気にするな、俺!

 

 そして俺は問題文が書かれているページを覗き、西さんが指さした一問を再び確認した。

 

「えっと、最速でございましょうか?」

「なにかな?」

 

 黒ぶちメガネの奥で、西さんの大きな目が冷たく光った。この浪人生めちゃくちゃ怖い。

 だけど悪いのはバイトをサボりかけた俺だから、反抗する気は微塵も起きないけど。

 

 話を戻して。西さんが指を指していたのは…………よりによってベクトルの難問だった。

 あれって多彩なアプローチがチラつくんだよなあ……。

 

 ベクトルの問題は初手が肝心だ。確かに序盤・中盤・終盤、どれも気を抜けないけど、解き方の選択を間違えると時間を大量に浪費したり、最悪の場合では解けないこともある。

 だからこそベクトルの問題、というよりベクトル関係の公式が使えそうな問題は、特に序盤が肝心だといえる。

 西さんは相変わらず要求が高いなあ。

 えっと……。

 

「……はい! 媒介変数でございます!」

「え? ここは行列とかじゃなくて?」

「いえ、こうしないと手順が無駄に複雑化します!」

「うーん、そっかー?」

 

 西さんはどこに納得していないのかな?

 俺は再び問題文を見返した。

 西さんが間違えそうな箇所はどこだろう……。

 

「あ、それから t と置くのはこっちじゃなくてこっちだからね」

「…………」

 

 俺は問題文の一部を指し示した。

 彼女は何を言われたのか一瞬理解できなかったのか、その顔は俺が昨日の事故物件で見かけたような、ポカーンとした表情に変わった。

 

「……え? あれ……? なんで?」

「ペン貸して」

 

 西さんから手渡された、ヒヨコのマスコットが付いているシャーペンを握ると、俺は彼女のノートに素早く途中式を書き込んだ。

 

「……あ、うん、そっか、そうだよね……私、なんでわかんなかったんだろ?」

「大丈夫、二次試験までには何とかなると思う。半年でここまで来れたんだから大丈夫」

 

 ……多分いける。

 

 大した根拠は見当たらないけど、それでも大丈夫だと信じて頑張らないと、伸びるものも伸びない。受かるものも受からない。だから本気で合格したいなら、まずは自分の可能性を最大まで信じてあげなきゃだよ。

 ––––って、今年の春に西さんが言ってた。

 

「そ、そうだよね! センターの数学はもう、四月からあんなに伸びたんだもんね! センターも二次もまだまだいけるよね!」

「そうだよ」

 

 西さんはその身にまとわりついた不安を振り払うかのような勢いで、俺の書いた式から目を離すと、先程の問題を自分で新たに計算し始めた。

 

 

 ……この人はいつもこうだ。

 

 行く手を高い壁が阻んでいると知っても、諦めるとか逃げるとかいう選択肢を決して選ばず、果敢に前へ進もうとする。本当はすごく怖いはずなのに、無理にでも気合を入れ直して立ち上がる。

 

 彼女はきっとこの先も、俺には真似できないくらいの努力を重ねていくことだろう。

 

 しかし、あの部屋に住んでいたことが原因となって、もし俺の健康状態がこれまで以上に悪化したら……。

 もしかしたら、今度こそ寝不足で上手く教えられなくなるかもしれない。

 もしかしたら、俺が倒れてこのバイトを休んでしまうかもしれない。

 

 そしてもしも、そのせいで西さんが積み重ねてきた、血の滲むような努力が一度でも実らなかったら……。

 

「…………」

 

 つい嫌な未来を想像してしまった。

 

 頑張る西さんには、重ね続けた苦労が報われる、幸せな未来が待ち受けていて欲しい。

 この人が悲しむであろう可能性は、できれば現実にならないで欲しい。

 

 だから俺は、自分のためだけではなく、この浪人生のためにもオッサンの件を解決しなくてはいけないな……。

 西さんが書き連ねていく数式を眺めながら、俺は静かに決意を固めた。

 

 

「媒介変数ってコツとかあるの?」

「コツがあるのかはわからないけど、強いて言うなら慣れかな」

「じゃあ頑張ればそのうちなんとかなりそう?」

「大丈夫だと思う。慣れるといきなり簡単に感じてくるから」

「そっか、よかった!」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 媒介変数はその名の通り、式と式を媒介させる計算方法だ。

 こう言うとわかりにくいけど、要は蚊のようなものだ。

 

 蚊は血を吸う昆虫であり、ある動物から別の動物へと病原菌を媒介、言い換えると橋渡しをする。

 その結果、蚊がいなければ存在しなかった経路を通り、動物から動物へと病気が感染してていく。

 

 同様に、媒介変数は式から式へと式を媒介する。式しかねえじゃねえか。

 まるで意味がわからんぞ。

 

 きっと俺って教え方が下手なんだろうな。

 これじゃ西さんが合格した時は、一から十まで彼女の功績だな。

 

「突然なんだけど、俺って教え方が下手なのかな?」

「……矢車くんのいいところは、数学と楽しそうに向き合えることだよ?」

「ありがとう。今ので察したよ」

 

 優しさが少し辛いです、西さん。

 バイトとはいえ、こんな俺を家庭教師として雇うなんて、もしかして俺の勤め先は教育界の底辺企業なのだろうか?

 

 ……と思ってた瞬間が俺にもあった。だけど、彼女の話はまだ終わってなかった。

 

「人の話は最後まで聞く!」

「へい、すんません」

「あのね、矢車くんが楽しそうに計算をしてたから、私も数学や物理が楽しいのかもしれないと思ったんだよ?」

「えっ?」

 

 何それ初耳。

 さらに西さんは続けた。

 

「まあ、それでも実際は苦しいことの方が多かったけど……だけどたまに楽しいときがあったり、おもしろいなって思えるときがあったから……ずっと最悪でつまらないだけだった教科が、『やや悪』くらいにはなったんだよ!」

「へえ、そうだったんだ」

 

 ……で、結局のところ俺の教え方は下手だと。そういうことですね?

 

 ああ、計算と西さんを媒介するのは難しいなあ……。

 

 もしかしてうちの地縛霊を退治するよりも難しいんじゃないか?

 西さんも地縛霊も、あの問題と同様に媒介変数で何とかなれば良いんだけどなあ……。

 

 

 

 

 

 ……ん?

 

 

 

 媒……介…………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………あ。

 

 

 毎度のごとく食欲が失せながらも夕食を食べ終わり、やっと自由な時間が巡って来た。

 普段なら、弥柳先輩の部屋に備え付けてある風呂へと直行するところだけど(俺の部屋は電気、ガス、水道がすべて止められているので入浴できない)、今日はその前にやることがある。

 

 俺は二〇五号室のドアを、壊れないように優しくノックした。

 

「先輩、今日もお弁当ごちそうさまでした。それといきなりなんですが、風呂の前に端末を貸してください」

「ほらよ」

「ありがとうございます」

 

 先輩の用意が速すぎることは気になるけど、そんなことより、さっそく調べるかな!!

 オッサンを消し去る会心の一手を!!

 

 俺が知りたいのは主に二つ。まず俺の身体にオッサンを憑依させる方法、そして憑依させたオッサンを体外に逃がさないまま、俺の身体をアパートの敷地外へ出す方法。

 

 つまり、俺が地縛霊と一体化することで、アパートの敷地外––オッサンを浮遊霊化できるかもしれない場所––へと、力ずくでヤツの霊体を媒介しよう。という作戦だ。

 蚊が動物から動物へと病気を運ぶように、俺もオッサンという病魔を土地から土地へと運んでやる!

 

 ……あれ? それはそうとアイデアが生まれたキッカケって、もしや媒介変数じゃなくて蚊じゃ……?

 

 

 「幽霊 憑依 コツ」で検索したら、案外早く、ちょうど良いサイトが見つかった。

 

 それによると、憑依したりされたりする際には、霊体という名の着ぐるみに入るイメージでやると上手くいくらしい。

 

 運の良いことに、憑依状態を維持する方法もこのサイトに掲載されていた。

 大雑把に言えば、飲み込んだ食べ物を吐かないように我慢する感じらしい。

 

 なるほど、思ってたよりも簡単そうだ。

 

 ここで問題があるとすれば、それは俺がオッサンとピッタリ身体を合わせられるか否かだろう。

 

 オッサンは止まることを知らないかのように、いつも動き回っている。あれほどせわしなく動くオッサンを捉えるのは、正攻法だと正直難しいだろう。

 

 ではヤツの動きに対し、どのような手段を使って俺の身体を合わせていくのか?

 

 俺はしばらく考えた後、ある結論にたどり着いた。

 

 

 必要なことを調べ終えた俺は、入浴の前に部屋へと戻って来た。

 

 さて、まずは第一の策略。

 

「おい、マザー。俺とマザーの身体をピッタリと合わせれば憑依できるけど、それでも憑依するなよ? 絶対に憑依するなよ?」

 

 これぞオッサンを捕獲する秘策の一つ、「『やるな』って言われたら逆にやりたくなっちゃうじゃないか作戦」!!

 行動のふざけているオッサンが、俺に合わせて動いてくれないなら、解決方法は単純。俺がヤツのふざけた行動パターンに合わせれば良い。

 ちょっとした逆転の発想だ。

 

『おっけー』

「良いか? 絶対に憑依すんじゃないぞ!」

『おっけー』

 

 よし、あとはオッサンが釣れるのを待つだけだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことを思いながらオッサンを待っていたら、気がつけば俺は新しい朝を迎えていた。

 憑依しろよ! 人の嫌がることをしろよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回の作戦で分かったことは一つ。

 やはりあれは俺の思い通りに動くようなヤツじゃなかった。

 

 

 

 こうなったら残る策略は最終手段しか無い。

 そう、第一の作戦が失敗したら、後は最終手段しか残っていない。最初から二つしか作戦を用意していないとかではなく、あくまで第二段階として最終手段に頼るだけだ。三つ目の作戦を思い付かなかったとかでは断じてない。

 ……うん、自分でもまるで意味が分かんないや。

 それもこれも、寝不足で頭が回ってないからだと思うんだ。

 

 で、作戦の名前だけど、その名も、「もういっそのこと、油断したオッサンを背後から襲えばよくね? 作戦」!!

 

 とはいえ、俺もすぐに上手くいくとは考えていない。なぜなら奴は単純に隙が無いだけでなく、幽霊として動き回っているせいで、俺達には物理的に不可能なことをいとも簡単にやってのけるからだ。そこがムカつく。

 例えば空中浮遊はしょっちゅうで、そのうえ奴は常に床から数センチほど浮いている。だから奴の足は汚れない。元々汚いことを除けばとてもきれいだ。

 そればかりか、たまに天井へと張り付いたり、壁に半分埋もれたりもする。お前は想像上の忍者か。

 

 よって、俺が身体を重ねようとしても、そのチャンスは極端に少ないといえるだろう。

 

 だけどオッサンを観察していれば、ヤツはいつか隙を見せるはずだ。

 オッサンが生んだその隙を突いて、俺がその小さなチャンスを生かせれば……!

 そうなれば……そうなればその時が貴様の最期だ!!

 

 

 最初のチャンスは意外と早くやって来た。

 それは俺が第一の策略に見切りを付けてから少し経ち、ちょうど朝食を食べ終えた頃のこと。

 

 俺に背を向けたオッサンは、なぜか「レレレ~」と軽く叫びながら、箒でゴミを掃くような動作を始めた。なにそれ意味不明。

 見た感じ、うちの地縛霊はいつも通りだ。もしかしたら今まで気がつかなかっただけで、これくらいのチャンスはありふれていたのかもしれないな。

 

 さて、ではさっそく除霊を始めるか。

 

 俺はこの貴重なチャンスをものにするべく、静かにゆっくりと立ち上がった。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 俺はオッサンへと音もなく近づこうとしたけど、ボロい床がミシミシと鳴ってしまった。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 あと一歩踏み込めば、俺の身体がオッサンと重なるという距離まで近づいた。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 着ぐるみに入る感覚をイメージしながら、俺は慎重に、しかし素早くオッサンの霊体に身体を重ねた。

 それでもオッサンは気がつかない。気がつけよ。

 

 あーあ、なんで俺は、こんな鈍いオッサン相手に手を焼––––––。

 

「––––え?」

 

 あれ……?

 

 ……何……これ?

 

 

 俺とオッサンの頭が重なった瞬間、心の中へと、急激に流れ込んで来た。

 

 オッサンの感情……。

 

 それと……記憶……。

 

 

 

 

「––––これって……」

 

 

 

 

 …………ああ、そうか……。分かってしまった。

 

 理論とか理屈などという以前に、俺は直感で気がついてしまった。

 

 なぜオッサンは亡くなってしまったのか。

 なぜオッサンは霊となってまで、この場所に居座り続けるのか。

 

 つい数十分ほど前まで、ずっと探し求めていた疑問の、その答えを、俺はついに見つけてしまった。




 今回は媒介変数の説明シーンが難しかったです。
 「誰だよスペックが数学に偏ってるキャラとか作った人は!」と、執筆中に何度思ったことでしょうか。自分で決めた設定なのに。しかもあまり活躍しない設定なのに。


 数学は美に達しているが、説明は難しい。
 例えば、高校卒業レベルの数学、しかも難易度の高い応用問題をわかりやすく説明をしようとすれば、そこで繰り広げられるキャラクター同士の掛け合いは、不自然な会話になりやすい。
 だって数学の応用問題は自然な会話じゃないし。

 しかし、自然な展開の中で説明しようとすれば、説明がわかりにくくなりがちだ。
 だって数学の応用問題の時点で不自然だし。

 なんという、なんという二律背反!!
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