病気物件をなおしたい   作:くまさん in the night

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 今回と次回はオッサンの過去編です。

 オッサンはどこから来たのか、オッサンはなんであるか、オッサンはどこへ逝くのか。それらをうまく伝えられたなら幸いです(適当)。


五位 生者の記憶

 私はふざけなければ死んでしまう病気です。

 そんなことを言われれば多くの者は、ふざけているのかと呆れることだろう。

 これがもし真剣な会話の中でそう告げたのであれば、ふざけるなと怒りを買うかもしれない。

 

 だが実際に自分が、あるいは自分自身よりも大切だと思える誰かが、その病気にかかっていると発覚したとき、それでも同じように呆れられるだろうか?

 神や運命を心底呪うのではなく、なんでもないことのように鼻で笑い飛ばせるだろうか?

 病名を告げた相手へ向かって、「ふざけるな」という言葉を投げつけられるのだろうか?

 

 ––––「先天性心筋不完全強縮症候群」。

 私は生まれつき、ふざけなければ死んでしまう、この病気を患っていた––––––。

 

 

 彼女と最初に言葉を交わした日のことは今でもよく覚えている。

 あれは私がまだ中学生として学校に通っていた頃の夏、ちょうど学期末の大掃除が終盤に近づいた昼下がりのことだった。

 

 その日は一学期の終わりが目前まで迫っていることもあり、校舎全体の雰囲気はどこか緩んでいた。

 明け方からこの地方へと接近していた台風も、ちょうどその目が頭上を通過してる真っ最中なのか、中庭に吹きわたる風は穏やかでどこか心地よかった。

 

 そのうち校舎の近辺が台風の目を抜け出せば、この地域はまた吹き飛ばされるような強風や、叩きつけるような豪雨に襲われるだろう。そうなれば下校時は台風の中を進まなくてはいけなくなる。登校時の暴風雨と同様、お世辞にも楽しいものではない。

 しかし掃除の時間限定とはいえ雨が止んでくれたことは、今でも天に感謝したい。

 

 なぜならそれは、私とはクラスの異なる彼女が、偶然見かけた私へと声をかける、その小さなきっかけとなってくれたからだ。

 

 大掃除は佳境を過ぎ、あとは中身の詰まったゴミ袋をゴミ捨て場まで運ぶだけとなったときのことだ。

 この日もいつもと変わりなく、私はゴミ袋の運搬役を決めるジャンケンで負けた。

 これは毎度のごとく、私がかつてない手を創作し、結果として反則をとられたからに他ならない。ジャンケンでは石やハサミなどは許されるのに、どうやら人面犬は禁じられているらしい。

 

 その後、とても片手では持ちきれないほどのゴミ袋をひとりで担ぎ、私はゴミ捨て場へと歩を進めた。

 

 教室棟を離れ、渡り廊下を抜けた先で、まだアスファルトに水溜まりが残る駐輪場のそばを通りかかったときだ。

 そこではおそらく強風に煽られたのだろう、立てかけの甘い自転車が、無惨にも数十台ほど薙ぎ倒されていた。

 

 私はとっさに周囲へと目を光らせた。よかった、私を除くと人影は無い。

 念のために耳を澄ませてみると、校舎の喧騒が遠くに聴こえた。幸いなことに、私を囲んでいる気配はカエルの鳴き声や風に揺れる木々のざわめきくらいのようだ。

 

 確認を終えた私は抱えていたゴミ袋を一旦置くと、雨に濡れ、そして少しだけ泥にも汚れた自転車を一台一台立て直していった。

 ついでに、再び倒れることのないよう、駐輪場に備え付けられている自転車用スタンドへと一台一台固定しておくことも忘れない。

 

 しかし作業中、私は夏休み前で少しだけ浮かれてたことや、それに加えてさきほど誰も見当たらなかったという安心感からか、知らず知らずのうちに気が緩んでいた。

 

「ねえ、どうしたの?」

「自転車が倒れてたから立て直––––うわっ!」

 

 気がつくと、大きなゴミ袋を手にした女子生徒が一人、私の背後に立っていた。

 

 まずい、と思った。私が普段から装っている変人の仮面が、この瞬間に限っていえば、わずかに外れていたからだ。

 

 しかもよりによって、彼女の胸元に着いているリボンの色は、彼女が私と同じ一年生であることを示している。

 入学直後から私が苦労して築き上げた、常に不真面目でふざけている変人という私のレッテルが、ひょっとすると近日中に崩れ去ってしまうかもしれない。その恐怖が私の心拍数を跳ね上げた。

 

「––––じゃなくて!!! チャリをまとめてかっぱらおうとしてただけだから!!!」

「へ〜、盗むんだ。……それで、盗んだ自転車はどうするの?」

 

 これはどちらだろうか。

 

 単純に彼女のノリがいいだけで、私の言葉を一から十まで冗談の一種として捉えられているのか。

 

 それとも彼女は私の言葉を、ほんの毛先ほどは信じているのだろうか。

 もしかしてもしかすると、さきほどの私が行っていた作業の動機を、今からでも誤魔化せるのだろうか。

 

 恐怖の中からどうにかして一筋の希望を見いだそうとした私は、内心では震えながらも変人のふりを続けた。

 

「……そこから先を知りたくば、風の声を聞くがいい」

「風の声? それってどうすれば聞こえるの?」

 

 ––––こんなことを言ってもまったく引かないとは……。この人の性格はノリがいいとか悪いとなどという次元ではない。

 ……そしておそらくは、私の言葉はすべてが冗談である、とは思っていないようだ。もし全部を冗談だと思っていたら確実に引くだろうし。

 なんだよ「風の声」って。

 よかった。この調子で適当なことを言い続ければ、この人をなんとか煙に撒けそうだ。

 

 私はここぞとばかりに両手を広げた。

 

「風だ……君は風になるんだ。君はあれだ……吹き荒れろ。そして耳を澄ませろ。さらば聞こえん」

「……ふ〜ん、それはともかく真面目なんだね」

「…………なにが?」

 

 まずい、もしやバレた……のか?

 

「だから、『あなたは真面目なんだね』って言ったんだけど。って、なんで梅干しみたいな顔するの? 杉田玄白?」

 

 完全にバレてた。

 

 この瞬間、私の脳裏には、幼稚園や小学校へ通っていた時代に私が起こした事件の数々が甦った。このままでは、きっとあの惨劇が繰り返されてしまう。

 

 私の心臓は、彼女の一言が引き金となって、早鐘のように鼓動を刻み始めた。

 

 ……いや、まだだ。私の学園生活は、まだ終わったわけじゃない。

 ほとんど終わりかけているけれど、それでもまだ完全には終わっていない

 

 だが……どうせなにもしなければじきに終わるだけだ。

 ……それでも少しだけ、もう少しだけ戦ってみよう。無駄かもしれないが、最後の最後まで足掻いてみよう。

 つまり変人のふりを続けるんだ!

 

「おじさんは真面目ではない。なんだチミは」

 

 私は一人称に「おじさん」を使うことが多々ある。

 いけ! どうかわずかでも騙されてくれ!

 

「あのさあ、なんで誤魔化せると思ったの? この状況を見て、それでもあなたを真面目でもない、優しくもない……そんな人だと思うとか逆におかしいでしょ」

 

 ……やはり無理だったのだろうか。

 こうなったら残された手段はたったひとつ。私の服はかなり汚れるが、それでも私に迷いは無かった。

 

「私のことは黙っててください! なんでも言うこと聞きますから!」

「え!? 土下座するほど!?」

 

 緊急事態だ。この際水溜まりだとか泥だとかは気にしない。

 彼女が私のことを「真面目な人」と吹聴しなければいい。

 それさえできれば他は関係ない。

 

「そんなことしなくても、あなたが隠してほしいなら誰にも言わないよ」

 

 ––––––え?

 

「……マジで?」

「うん、マジで」

「ホント!?」

「貴様その姿勢で顔を上げるなよスカートだろうが」

「すんませんした!」

 

 私はまた顔を下げた。水溜まりだとか泥だとかは関係ない。

 

 ––––ところで彼女の履いているあの長いスカートだと、これくらいでは中が見えないと思います。はい。

 

 ……なにはともあれ、穏便に解決しそうでよかった。

 短い間だけ心臓に悪かったが、私の脈はすぐに落ち着いた。

 

「……で、いつまでそうしてるの? そろそろ立ちなよ」

「へい、がってんしやした」

 

 「顔を上げるなよ」と威圧されたから、すぐには土下座を解除できなかった。世の中にはそのような面もあるのではなかろうか?

 

「あ、そうだ。自転車戻すの手伝おっか?」

「……ありがとう、分け前はサドルだけやるよ」

 

 唐突に口を開いた彼女は、ゴミ袋を脇に置くと私に歩み寄ってきた。そして倒れている自転車のひとつをつかむと、私が中断していたのと同じ作業を始めた。

 

「ところで、それってどういう意味?」

「え? なにが?」

「だから、なんでサドルだけくれるの?」

「おじさんは大臀筋(だいでんきん)を鍛えたいからサドルいらないって意味」

 

 説明が足りないからか、彼女はどこか納得していなさそうだった。

 

「う~ん……。なんで鍛えられるの?」

「もしサドルを外して自転車に座ったら、鉄がケツに刺さるでしょ? 刺さらないように力を込めれば筋トレになりそうじゃん」

「……ああ、そっか。なんで私は気がつかなかったんだろう?」

「知らない」

 

 なんだこの会話。

 自身の言動に含まれるしょうもない箇所を、こと細かに解説するという行為はつまるところ地獄だ。

 にもかかわらず、私はなぜこのようなくだらないことを解説しているのだろうか。

 

「そういえばさ、あなたはなんでこんなことばっかりしてるの?」

「だからチャリをまとめてかっぱら––––」

「そっちじゃなくて、わざわざ変な人のふりをしている方なんだけど」

 

 なんだその話か。

 私は変人のふりが板につきすぎたせいか、またついうっかり変人の演技に走りかけた。しかしすでに演技のことはバレたので、この人にはもうその手が通じない。

 

 それにしても……これは真実を告げるべきか、それとも適当にお茶を濁すべきか……。

 もしこの人に確実な隠蔽をしてほしいなら、病気の特徴や私の事情を教えることで、この人を協力者にした方がいいのだろうか。

 ひとまずは様子見として軽くジャブを打ってみるか……?

 

「……これから言うことはかなり嘘臭いけど、私がどんなことを言っても信じてくれるかい?」

「そんなこと言われても、実際に聞かないとわからないよ」

 

 そうか……ならば仕方ない。ここは覚悟を決めなくてはいけないな……。

 

「実はおじさんは『先天性心筋不完全強縮症候群』っていう持病があるんだ」

「へ~」

 

 彼女は、その病気とあなたの言動がどう関係しているのか、とでも言いたげな顔つきで作業を続けた。

 

「そしてこれがかなり厄介で、この病気になった人は、緊張しすぎると最悪死ぬらしい」

「えっ……緊張するだけで……?」

「うん。詳しい仕組みはよく知らないけど、強く緊張しすぎると心臓の筋肉が緩まなくって、え~っと……ポンプの役割を果たさなくなるとかなんとかで……」

「ふ~ん、それでその病気とあなたが変な人のふりをしてることって、なんの関係があるの?」

「病気の治療法がね……薬と、あとは……ふざけることしかないんだ」

「……ふざける?」

 

 彼女は自転車を持つ手を止めた。今度はハトが豆鉄砲を食ったような顔になっている。

 

「そう、緊張をほぐすために大声を出したりとか、身体を動かしたりとか、それからおちゃらけたりとか。それでもし、普段から真面目な人が急にそんなことをしたら、周りの人はドン引きするだろ。例えば幼稚園のお遊戯会では……」

 

 私は重い口を開き、これまでに私が生んだ数々の悲劇を語った。

 

 ––––舞台を縦横無尽に駆けまわってしまったお遊戯会。

 ––––盗んだマウンテンバイクで走り去ってしまった卒園式。

 ––––ひとりだけへヴィメタルを歌ってしまった合唱会。

 ––––フライングしかやらなかった運動会。

 ––––挙手の代わりに逆立ちをした授業参観。

 

 ––––––積み重ねた努力が無に帰す瞬間を、幾度となく目にしてきたこと。

 

 ––––––いつしか「緊張してはいけない」という強迫観念によって、なんでもない日常の場面ですら強く緊張してしまうようになったこと。

 

 ––––––だからこそ中学に入ったら奇人を演じようと決心したこと。

 

「……それでもし、普段からおかしな言動をしておけば、いざっていうときに奇行に走っても、『ああ、また変なヤツが変なことしてるよ』って受け取られるかもしれないでしょ?」

「……?」

 

 彼女の顔は、「おいおい、『だからこそ』の使い方が間違ってないか?」という表情にはっきりと変わった。

 

「失敗してもちょっとしか引かれない。そう思い込めば、ほんの少しは失敗が怖くなくなるかなって気がしたんだ」

 

 私はこの病気について、少ないながらも私が知る限りの事実を話した。

 確かに私は、これほどまでに荒唐無稽な話を、すぐさま信じてもらえるとは思っていない。とはいえ本当に信じてほしいなら、私はこうするしか方法がわからなかった。

 

 さあ、あとはこの人がどう受け取ってくれるか––––?

 

「へ~、それは大変だったね」

 

 あれ、ちょっと拍子抜け。

 これは……信じてもらえたのだろうか?

 

「あの~、信じてくださるのでしょうか?」

「うん、信じるよ。だって今の状況に限っていえば、あなたの言葉を疑う理由がないでしょ? 疑う理由がないってことは、信じるしかないってことでしょ?」

 

 彼女は微笑んだ。少しずつ荒れ始めた空模様とは違い、その顔には一点の曇りもなかった。

 わりとチョロいな。まさか、これほど無条件に信じてもらえるとは……。

 

 ––––いや、違う。今はそんなことなど問題ではない。

 いかにも胡散臭い私の言葉すら、これほど簡単に信じてしまったのだ。彼女は放っておけばきっといつか痛い目を見るだろう。

 だから今は、彼女に私のことを信じさせてはいけないはずだ。

 

「君ねえ、それはおかしいよ。疑う理由しかないでしょ。なんだよ『ふざけなければ死ぬ病気』って。完全にふざけてるだろ! お願いだからこんな話を簡単に信じないでくれよ! これはおじさんのためじゃない。君のために––––」

「あのさ、今のあなたは自分の仕事を中断してまで、顔も知らない他人のために動いているでしょ? しかもさっきまでは誰の視線もなかったのに。私はそんな人を疑う理由なんて持ち合わせてないって言ってるの!」

 

 目の前の同級生は、まるで物分かりの悪い子供を諭すようだった。

 もし私の人生が決定的に変わった瞬間があるとすれば、それは多分、この日の、この出来事を指すのだろう。

 

 ––––私にとっては些細な親切でしかなかった行いが、私の目の前に立つ彼女にとっては、無茶苦茶な話を信じる理由になってしまう。

 はっきりいって、完全に予想外だった。

 

「……ふぅ。わかった?」

「そうか。……そうか、ありがとう。……信じてくれて本当にありがとう」

 

 私は十三年近く生きてきた。それでも同年代の人間からこれほどまでに手放しで信用されたことは、一度たりとも記憶になかった。

 だから今の私はこんなときに言うべき的確な日本語を、うまく見つけられなかった。

 

「わかればよろしい」

 

 彼女はどこか得意げな声でそう告げると、倒れている自転車の、最後の一台へと向かっていった。

 

 ––––まさか、これほど信じてもらえるとは本当に期待していなかった。

 私はこの秘密をうち明ける寸前まで、正直な話、駐輪場での出来事は彼女の誤解であることにしておきたかった。

 秘密を共有する人間が増えれば、隠したい情報は一段と漏れやすくなるからだ。だから私の本性を隠しておきたいなら、見ず知らずの他人には私の秘密を教えない方が都合は良かった。

 

 ––––しかし、正直に話すのも、それほど悪くないのかもしれないな……。

 

「よし、これで終わり!」

 

 最後の自転車を立てかけた彼女は大きく伸びをすると、満足げにうなずいた。

 

「おーい!! サイー!! 急げー!!」

 

 そのとき、急にゴミ置き場の方角から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 誰だろうと思い振り向くと、私と同学年らしき女子生徒がひとり、こちらへと近づいていた。

 

「わかったすぐ行くー!! じゃあね、友達待たせてたんだ」

 

 それだけ言うと、彼女は湿ったアスファルトの中で、比較的湿っていない場所に放置されたゴミ袋を拾い、友達のいる場所へと駆けていった。

 

 そういえばまだ彼女の名前を聞いていなかったな。そんなことを思いながら、走り去る彼女の後ろ姿を目で追っていると、彼女が思い出したように立ち止まり、いきなり私の方へと振り返った。

 

「早く持っていかないと怒られるよー!!」

 

 彼女は手にしたゴミ袋を一度だけ指差したが、すぐにきびすを返して去っていった。

 

 ––––ふと気がつくと、風はさきほどよりも少しばかり荒れていた。

 私は置いてあるゴミ袋を手にすると、彼女が向かったのと同じ方向へ駆け出した。

 なんとなく見上げた空は、大掃除が開始した頃と同様に、どんよりとした雲に覆われ、アスファルトや私の身体には数滴の雨粒が当たった。不思議なことに私は––––私の手のひらや制服がすでに泥水で汚れていたことを考慮しても––––この雨を不快だとは思わなかった。

 

 

「……ねえパ……起きて……パパ起きろ!!」

 

 娘の発した年相応に幼い声と、腹部への強烈な一撃で目が覚めた。

 

「……ふぅ。起きた?」

「いてて、起きたよ」

 

 たったひとりしかいない私の娘はいつも通りいとおしい。これが見られるならエルボーくらいは安い対価だ。

 

「パパ、おはようんこ!!」

「違うよムーちゃん、おはよunknownだよ」

「そうだった!」

 

 外はまだ暗かったけれど、ムーちゃん––––娘にとっては、今の時刻はもう朝らしい。私は朝が苦手なので、娘の早起きは妻の影響だろう。

 私は昨日の夜に決まった新しいあいさつを娘と交わし、パジャマのすそを小さい手に引かれながら起き上がった。

 

「パパのねぼすけ! 早くしないとランドセルが売り切れちゃうよ!」

 

 今日は金曜日。もうすぐ小学生になる娘のためにランドセルを買う日だ。

 娘は「早く早く!」と急かしてくるが、対照的に私の心は落ち着いていた。

 

「大丈夫大丈夫。ムーちゃんが急がなくてもランドセルは逃げないよ」

「それがどうした!」

 

 娘は「一番乗りで買うんだよ!」とでも言いたげな顔をしながら元気に叫んだ。

 

「それに銀行やお店だって、暗いうちはまだ開いてないんだし」

「だからどうした!」

「お店が開いてないうちは、ムーちゃんがどんなに急いで出かけても、ランドセルを買えないんだよ」

「えー!?」

 

 いくら残念そうな顔をされても、開いてないものは開いてない。

 それでも私は、失望する娘を前にしてほんの少しだけ心が痛くなった。

 

「うわー、サイアクだよー!!」

「じゃあ、お店には一番乗りしようか」

「え!? いつ出かけるの?」

「う~ん、そうだなあ……朝ごはん食べたらすぐ出かけよう!」

「急げー!!」

 

 娘は嬉しそうな声を上げると、「バラバラバラ!」とヘリコプターのような効果音を口にしながら、まるで飛行機になったかのように腕を広げてリビングへと走り去っていった。

 ……さてと、朝食用に作り置きした料理は温めるとして、あとは何を作ろうか。

 私は朝を迎えるたびに毎度のごとく襲いかかって来る厄介な眠気と戦いながら、昨日の晩、枕元に畳んでおいた服へと手を伸ばした。

 

 

 朝食が完成するまでの間、娘はずっと落ち着きがなかった。私が調理を続けている間、ニワトリをモチーフにしたお気に入りのぬいぐるみを可愛がったり、そうかと思うとすぐに飽きたのか、台所にいる私とおしゃべりをしたりして過ごしていた。

 ––––娘は活発か物静かでいうとかなり活発な方だが、それでも今日ほどそわそわとしていることは珍しい。よほどランドセルが楽しみなのだろう。

 ––––私としてはひとつだけ不安要素もあるのだが……。

 

 朝食を食べ終えて食器を片付け、支度を整えて玄関にたどり着くと、「おせーよ、おせーんだよ!」という顔をした娘が待っていた。

 ––––この顔だけで確信できる。怒りやすさと怒り方は完全に母譲りだ。

 これ以上待たせるのは忍びないので、私は急いで靴を履いた。

 

「あーあ、サイアクだよやっと出かけられるよー!」

「よし、まずは銀行に行ってお金を降ろさなきゃね」

「行ってきまーす!」

「行ってきます」

 

 ドアに鍵をかけ、私たちはしばらく留守にする家へと言葉をかけた。

 

「もっと速く!」

「え? 行てきます!」

「違うよ脚だよ!」

 

 ––––ふと思ったが、もし娘が銀行の仕組みや、銀行が休みになる日にちを知っていたら、さきほどの私が発した「お金を降ろさなきゃね」というセリフに対して「昨日のうちに降ろしとけよー!」とでも返すのだろうか?

 小学生になり今よりも少しだけ成長すれば、ひょっとするとそんなことも言い出すかもしれない。いつか来るかもしれないそのときが今から楽しみだ。

 

「フンフンフ~ン♪ フンフンランドセル~ン♪」

 

 娘はよほどご機嫌なのだろう。

 

「それってなんの歌?」

「フンフン真っ黒––––パパも気になるでしょ?」

「うん、すごく気になるなあ。木になりすぎて光合成しちゃおっかなあ!」

「コーゴーセー? なにそれニワトリ!?」

「それはコケコッコーでしょ。『皇后制(こうごうせい)』っていうのはね、お姫様が王様みたいになることだよ」

「ふーん。じゃあパパはドレイになるの?」

「違うよ」

「なんだツマンナイのー!」

 

 銀行や文具店までの道のりは少し遠いが歩いて行けるので、自動車の免許を取れない私には大いに助かる(私は病気のせいで試験を受ける許可すら降りない)。

 これらがもしも自宅から数キロの距離にあったのであれば、この買い物は運転免許を持つ妻に頼まなくてはいけなくなるだろう。

 しかしできるならばそれは避けたいところだ。家庭のために毎日毎日外で疲労を溜め込み、休日以外はろくに帰宅できない彼女には、やはり家にいるときくらいはくつろいでいてほしい。

 

「フンフン真っ黒ランドセル~♪ やっぱりランドセルは黒がいいなあ!」

 

 私の娘は黒が好きだ。しかし入学後にその黒いランドセルが原因でイジメられるかもしれないと思うと、親としてはどうしても複雑な気分になる。

 

「今日こそパパもそう思うでしょ?」

「え~、そうかな〜? パパは赤いのがいいと思うなあ〜。ムーちゃんは代わりに赤いのはどう?」

「赤いのはいいや」

「じゃあ赤黒いのはどうかな?」

「どうしても赤くないとダメなの?」

「パパはそうしてほしいな〜」

「う~ん……よわったなあ~」

 

 娘は腕を組んで考え込んだ。かわいい。

 

「そうだ! ところでムーちゃんは赤いのと赤黒いのだとどっちがいい?」

「赤黒いの!」

「じゃあ赤黒いランドセル買おっか!」

「…………騙された!!」

「なんのことやらさっぱりだ」

「嘘つくな!! パパは黒いのを買わない気だろ!!」

 

 仕方ない。こうなったら寝る前に思いついた第二の策だ。

 

「バレちゃったかあ。残念だったなあ。実は女の子が黒いランドセルを買うと呪われるんだけどなあ」

「えっ……?」

 

 よし、今度はうまくいきそうだ。

 

「このままだとムーちゃんは小学校を卒業するまで、ずーっと背中がかゆくなるんだけどなあ」

「ええっ?」

「朝もかゆい、昼もかゆい、夜も寝てるときに見る夢の中でもずーっとかゆいんだけどなあ」

「えええっ!?」

「だけど仕方ない。ムーちゃんが『黒いのがいい』って言うなら––––」

「赤黒いのがいい!!」

「ん? よく聞こえなかったなあ。パパも年かなあ」

「赤黒いランドセルがいい!!」

「そっか。じゃあ、そうしよっか」

 

 娘が生まれてからはずっと平穏な日常が続いている。

 私は出産時の緊迫感で恐怖に慣れてしまったのか、その日から些細なことでは緊張しなくなった。

 

 また、私の病気は治療さえ続ければ致死率自体はそれなりに低く、軽症の患者であるなら死の危険はほぼないに等しいといわれている。

 そして完治する見込みはゼロに近いが、どうやら私の症状は現在のところ、どちらかというと軽症な部類に入るらしい。

 昔はもっと重症だったことを踏まえると、もしかしたら家族の影響で症状が軽くなったのではないか、とつい考えてしまう。

 

「あ……お、お化け屋敷だ……!」

 

 舗装された道路にしてはやや狭く感じる道を歩いていると、娘がいきなり私の腕にしがみついてきた。いったいどうしたのだろう。

 娘の視線をたどると、そこにはつい最近お年寄りが亡くなったというアパートがあった。名前は確か乃路我荘(のろわれそう)だったはずだ。

 それにしても古くてさびれた外観といい、敷地全体に木々が生いしげり昼でも暗いことといい、二重三重に不吉なアパートだ。

 これでは子供達の間で「お化け屋敷」と呼ばれていても不思議はないだろう。

 

 さて、どうしたものか……。

 

「あのね、ここだけの話なんだけど、本当はあのお化け屋敷って怖くないんだよ」

「えっ、ホント……?」

「だって住んでるお化けが全然怖くないんだから」

「嘘だッ!! 怖くないお化けなんていないよ!!」

 

 さっそくバレてしまった。やはりそう簡単にはいかないな。

 ここからどうやって巻き返そうか……。

 

 …………そうだ。

 

「じゃあさ、ムーちゃんはあそこにいるお化けが誰か知ってる?」

「……誰?」

「私だ」

「なんだパパかあ。それじゃあ怖くな––––あれ? ……サイテー!」

「え、なんで!? パパって怖いの!?」

「パパサイテー!!」

「ええっ!? パパはお化けになってもムーちゃんを怖がらせたりしないよ! 後ろからこっそり近づいたりもしないし!」

「ほんっとにサイテー!!」

 

 私にとって最も聞きたくない言葉のひとつが次々と娘の口から放たれた。すでに心が折れそうだ。

 

「そうだ! お化けになったら、ムーちゃんがいなくても朝はニワトリより早く起きるって約束するから! それで今度はパパがムーちゃんを起こしてあげるから! もうねぼすけじゃなくなるから! だからどこがサイテーなのか教えて!」

「だからパパはサイテーなんだ!!」

「だからなんで!?」

「ジブンの心にきいてみろ!!」

 

 どうしよう。全然教えてくれそうにない……。

 

 

 結局このあとも銀行に到着するまでの間に娘の機嫌は治らず、到着してからも娘は引き続き不機嫌だった。

 

 

「あっ! ムーちゃんどこ行くの!?」

「パパはあっち行ってて!! もう小学生なんだからトイレくらいひとりで行けるよ!!」

 

 銀行に到着したとたんに、娘はどんどんと私から離れていった。床を踏みつけるその足音からは、娘の強い怒気が伝わってきた。

 

 ……しばらくはものすごく悲しい状況が続くけれど、娘が怒るのも数時間の我慢だ。半日も経てばきっといつものように、何事もなかったかのごとく機嫌を直しているのだろう。だから今はひたすらに我慢だ。

 怒るようなことをしてしまったのは申し訳ないが、具体的な反省は後回しにしよう。怒った原因は娘の怒りが収まってからそれとなく訊いてみればいい。

 

 それにしても……娘があれほど怒った理由は本当になんだろうか?

 

 

 ––––––––娘が成長していけば、その先にはいつか娘と別れる瞬間がやって来ると私はわかっていた。

 ––––––––だがこのときの私は、それが今日になるかもしれないなどとは微塵も感じてはなかった。

 

 

 事件が起こったのは、私が「今回は意外と待ち時間が短そうでよかった」などと思いながら、銀行のソファに腰を下ろしたときだった。

 銀行の入り口にある、ありふれた自動ドアが開き、その向こうから一目で異様な事態だとわかる、黒い覆面を被った二人組が銀行に足を踏み入れてきた。

 そして––––落ち着いて考えればあれは単なる威嚇だったのかもしれないが––––二人組の片割れが、懐から取り出した拳銃で発泡し、騒げば撃つというようなことを叫んだ。

 平和な朝に起きた突然の出来事に、職員を含めて動ける者は––––強盗を除けば––––ただのひとりもなかった。

 

 その後、銀行にいる人間の大多数が床に伏せられ、犯人たちのハンドバッグに紙幣の束が詰め込まれるまでに、それほど時間はかからなかった。

 

 犯人のひとりが銀行の職員に命令し、ハンドバッグの中に札束を詰めさせている間、もう片方は逃亡の際に役立ちそうな人質を見繕っていた。

 ちょうど間の悪いことに娘がトイレから出てきたのはそのときだ。そして娘は犯人の目に留まった。

 ––––小さくて運びやすそうだから。たったそれだけの理由で、娘は犯人たちに捕らえられた。

 

 私は犯人の指示で床に伏せていたが、犯人たちのいるであろう位置から聞こえてきた声は、万に一つも聞き間違えようがなかった。娘の声は口を塞がれたようにくぐもっており、私は娘の身になにが起きたのかを察した。同時に否が応でも私の心拍数は跳ね上がった。

 

 ––––まずい。娘が捕らえられたこともまずいが、この凶悪な緊張感もまずい。ふざけなければ、騒がなければ、きっとこのままでは私は死んでしまう。

 

 ––––しかし、私が大きな声を発すれば娘はどうなる?

 騒げば撃たれるだろう––––––––誰が?

 それは命令に従わなかった私かもしれない。だが私に気がつき、そして頼ろうとした娘が、私のことを必死で呼べば、犯人たちの命令に従わなかった見せしめとして、騒いだ私だけでなく、娘も撃たれるかもしれない。

 

 

 ––––心臓はかつてないほどに暴れていた。あと少しでも緊張すれば、ほぼ確実に私の心臓は痙攣を始めるだろう。そうなれば死は免れない。だがそれでも私に迷いはなかった。

 

 気を失い倒れる直前、不謹慎にも、私はまだ娘に許……してもらって……いな……いことを思い……した…………。




 こ↑こ↓で一首。

 本編が シリアスなほど 後書きで ふざけたくなる そんな春の日


 そんなことはともかく、この物語は「ネタを挟まないと死んじゃう病」から着想のひとつを得ています。


 では次回、読んでいただけることを願いつつ、「六位 死者の追憶」でお会いしましょう。
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