病気物件をなおしたい   作:くまさん in the night

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 ––––本編を読みたい人間にとって、まえがきは邪魔な存在になりうる。だからまえがきを載せたいのであれば、本編と同様の情熱を込めなくてもいいから、少しは気合いを入れてまえがきを書いてくれ。

 制作側から漏れ聞こえたこの言葉に、私は感銘を受けました。この言葉を漏らした人間が、『あとがき? 川柳詠め川柳』の発言者であるとはとても思えません。
 だから今回からは、まえがきもあとがきも、ちゃんと練ったものを載せようと思います。



 それから、今回の投稿はずいぶんと遅れてしまいごめんなさい。

 この作品を心待ちにしている生物が、はたしてこの世に実在するのか?
 私の脳内では存在しない寄りのグレーですが、もし実体が存在したら謝ります。


八位 幽霊の正体見たり

 俺の身体にオッサンを憑依させたり、俺がオッサンの過去を知ったり、俺がアレを吐いたり、良くいえば小さな子供のことが大好きな先輩が、色々と秘密を吐いたりした日から数ヶ月ほどが過ぎた。

 

 俺の魂にアレな魂が混ざった当初、きっと俺は、「パパサイテー!!」とばかりに「オッサンサイテー!!」と叫びたかったのだと思う。だってオッサンは食事中に鼻の穴から、小粒のマシンガンみたいなアレを撃ってくるような地縛霊だし。しかも俺がオッサンと同じ部屋にいても、ヤツは構わず脱ぐし。それに迷惑じゃない瞬間の方が珍しいし。ついでに精神的な意味でも犬小屋の最奥部レベルで汚いし。

 

 だからたとえオッサンの死因に同情の余地があろうと、あの地縛霊を排除したい俺の気持ちは、おそらく変わらなかったと思う。うん、変わらないはずだ。俺のこういった思い出が、根こそぎ札に吸われたっぽいから確信はないけど。

 

 記憶の欠けた俺ですらそう確信するほどに、今のオッサンはカオスを極めつつあるといえるだろう。

 

 同時に、生前のオッサンが多少マシだったことを踏まえると、歴代の住人達は、何の目的があったにしろ、一度はオッサンを憑依させたのだろう。そして俺がまだ知らない、かつての住人達も俺と同様、オッサンの魂の中に、己の魂の片鱗を残していったのかもしれない。

 霊体に変人の残滓(ざんし)を溜め込まないでほしいね。変人の退出後、その変人が住んでいた部屋に暮らし始めた赤の他人の中にも、オッサンの中と同様に、よくないものが連綿と受け継がれちゃうからさ。

 

 だけど今は幸か不幸か、俺に混ざったこの魂も、そんなに悪くないと思えるようになっていた。なんでだよ俺。やべー奴かよ俺。

 

 これはもしかしたら、アレな魂のせいで俺の性格も多少アレになったから、というのも理由のひとつかもしれない。

 もちろん、俺の性格は前から変人そのものだとか評している奴がいたら、俺はすぐさま、その一言を根に持つ。そしてもし、そいつが後日、俺のレポートを二千円で写させてくれと頼んできても、「変人の書いた個性的なレポートなんて写したら、一発で教授にバレるんじゃねーかなー?」とか言ってそいつを数分ほど焦らすだろう。

 

 しかし俺は最終的に、レポートを三千円で写させてあげることだろう。

 

 信じ難いが、世の中には、「バッキャロウ!! ダチから金なんて取れるかよ!!」と断言する、熱血漢みたいな人もいるという。都市伝説かな?

 だけど俺はそんな人間じゃないので、同級生のあいつからは心置きなく搾り取れる。第一、あいつとは友達じゃないし。

 

 そ、それと勘違いしないでよねっ! べ、別に俺のレポートをそのまま写させるんじゃないんだからねっ! 参考文献とか構成とかをところどころ変えたやつを写させてやるんだからねっ!

 

 この偽装のおかげで、写したことは教授にバレず、「同じレポートはまとめて減点」と言い放つ教授が相手でも、ギリギリのところで減点にはならない。工夫に工夫を重ねて、バレないギリギリのラインを攻めるこの作業は大変だけど結構楽しい。

 

 ただ最近は、そんな偽装をするくらいだったら、最初から全然違うレポートを作った方が手っ取り早いと思う俺がいる。

 なんつーか……俺にとっちゃ、偽装の準備をする時間がすげー無駄な気がする。

 

 たぶんだけど、あれを時給に換算すれば、最低賃金とそう変わらないのではないだろうか。あいつにとっても、俺に支払うための野口さんを稼ぐ時間は、基本的に無駄みたいなものだろう。俺達が通う大学は、国内でも比較的安く済む国立の経済学部とはいえ、高い学費を払ってまで学ぶやる気があいつにはあるのだろうか。いや、ないでしょ。

 

 であれば、俺もあいつも、これからはもっと真面目に生きないといけないのではないか。それが人間というものだなあ。

 

 

 ……ん?

 

 ……あれ?

 

 ……えーっと、何の話だっけ……?

 

 …………まあ、いっか。

 

 どうせお(ふだ)かお(さつ)の話だろ。

 それにしても(ふだ)の力は厄介だな。

 

 しかも弥柳(みやなぎ)先輩によれば、もし札を手放したとしても、その人が持っていた本来の記憶力(←『記憶』じゃなくて、『記憶力』な)は、すぐには戻らないらしい。

 「もしかしたら、四六時中札に思い出を吸われていると、そのうち勝手に思い出を垂れ流すクセでも付いてしまうのかもな」と先輩は語っていた。なんて迷惑な話だ。

 しかし先輩は、「それでもしばらく経てば、この呪いも少しずつ消えていくらしいな。知らんけど」とも口にしていた。「呪い」などと口走るなよ。俺が以前に聞いた、「副作用」とは何だったのか……。

 

 もっとも、オッサンがあのアパートにいる限り、たとえどんなに記憶を守りたくても、あの札を手放すなんてことは危険すぎて出来ない。

 

 ここで一つの疑問がある。「危険」とは、具体的にどのようなものを指すのだろう? そこは俺にもよくわからない。だけどとにかく危険だという情報は、アパートの先住民たちが幾度となく口にしている。そうやって何度も同じ話をするのは、きっと前に話したことを忘れているからだろう。札め……!

 

 いちおう先住民たちの話をまとめるてみると、札の放棄は大ケガに繋がることもなきにしもあらず、といったところらしい。

 ここだけ聞けば曖昧な証言をしているように思えるかもしれない。それでも実際に語る姿を前にすれば、彼らが青ざめていることや震え声であることに気がつくだろう。おい、なぜ曖昧に話した? 教えてくれよ、ことの詳細を。

 

 ……ああ、そっか。札か。先住民たちは、札のせいで細かいことを思い出せないのかな……?

 

 ◇

 

 幸運なことに、オッサンを憑依させた日からはずっと、俺はバイト中、とても快適に働けるようになった。

 しかもその理由は、単に寝不足が解消されたから、というだけではない––––。

 

「よって、m:nの比は常に2::1なので––––」

「あー、そっか! 『無限の大きさが違う』ってそういうことか!」

「あれ。バレた?」

「あのさぁ……矢車君って私に教える気ある?」

「おっと、すみまセンブリ茶! ついクセで言っちゃっただけだから気にしないで!」

「ふーん……? まあ、いっか。えーっと次の問題は……!」

 

 西さんは問題文を一瞥(いちべつ)すると、すぐに目を離して時計を確認した。

 

 ––––さて、おわかりいただけただろうか?

 このように今の俺が口にする説明は、今までの俺ではありえないほど西さんに伝わりまくっている。

 

 憑依させる前の俺なら、たとえ頭の中では完璧な論理を組み立てられたとしても、なぜかうまく口に出来ないことが多々あった。しかし例のアレを憑依させてからは、頭の中にあるものを素直に言葉として出せるようになった気がする。

 

 これについて、弥柳先輩があるひとつの仮説を立てた。それによると、「あれだ。単に人見知りがなくなって、心を開きやすくなったとかじゃね? たぶん過去に、うちの住人の中に人見知りとかしない奴がいたんだろ。それでオッサンの霊体を介して、そいつの魂が矢車君の中に流れ込んだとか? まぁ、わかんねえけど」……とのことだ。俺もそう思う。

 

 余談だけど、現在あのアパートに住んでいる者達も、何人かはまったくと言っていいほど人見知りをしない。

 

 例えばそれは、道ですれ違った赤の他人が、自分と同じ髪色というだけで話しかけるような次元に達している。さすが変人、ナンパの切り口に軽い狂気すら感じる。

 

 補足すると、あのアパートにはわざわざお金を払ってまで髪を染めるような人間はほとんどいない。その理由は人により異なるけど、過半数を占めるのは、自分の髪に犬のフンが付着していても気にしない人間だ。他の人は貧乏だったりケチだったり、自分の力を過信しすぎて、実験ついでに染めようとしたら自爆したり、節約によって快感を覚えるタイプの変態だったり、財布の紐が核シェルターよりわずかに緩かったりするからだ。自力の人は(スーパー)サイヤ人じゃないかぎり諦めた方がいいと思う。

 

 ––––話が逸れた。

 

 そんなこんなで俺の説明力が覚醒した。

 以降は、俺が家庭教師として教えてるお客さんの中で、もっとも教えるのが面倒な西さんですら俺の言葉をバンバン理解してくれる。ましてや俺が担当している他の生徒は、もう笑うしかないくらい教えやすくなった。ちなみに最近、別の生徒に勉強を教えながらついうっかり笑みをこぼしたら、本気のトーンで気持ち悪がられた。

 

 この説明力について、弥柳先輩がまたしても仮説を立てた。それによると、「あれだろ、今までの説明が壊滅的なだけだろ。口が追いつかないんじゃね? 思考とかにさ」とのことだ。誰がしゃべりの遅い新人類だ。誰がゆるふわ系ヒロインだ。様々な意味でひどい。

 

 しかし、なんにせよ俺の説明力は覚醒してしまった。

 

 そしてついでに西さんの計算力も覚醒した––––。

 

 いや、いつかはするだろうと思ってたけどね? 去年の三月の終わり頃から西さんの浪人生活が始まって、当時は俺の説明力が圧倒的に足りなかったにも関わらず、西さんはものっすごい伸びを見せていたし。模試結果の変遷(へんせん)がとんでもないことになっていたし。

 

 そんな西さんは当初、数学の点数もそうだけど、物理にいたっては小学生で習うような内容が含まれているにも関わらず、あんな点数を取っていた。あれだけを見ると、医学の道を志している人間とはとてもじゃないけど思えなかった。それこそ、口に出すだけでも勇気が必要な点数だ。

 しかしそこからのセンター九割五分だ。

 さっきから手を付けている二次試験の過去問も、比較的難しい問題なのにかなりのハイペースで解けている。

 

 確かに俺は、西さんに出会った当時から、彼女ならそれくらい伸びてもおかしくはないと、心のどこかでは信じていた。俺が教えていない時間帯に行う自主勉でも、かなりの実力を付けているらしいことを知っていた。だけどそれでも、昨日の午後、センター試験の自己採点の結果を聞いた時は、一瞬だけ耳を疑ってしまった。今さらだけど、なぜあれほど実力が伸びたのだろう?

 

 っていうかあの子は、高校生時代にどうして壊滅的な点数を取っていたのでしょうか? ついこの間の西さんは確か、幼い頃から医師を目指してたとか言ってましたが……。もしかして、それほどまでに数学と相性が悪かったのでしょうか? 気になります。

 

 大問をまたひとつ終わらせて、西さんがまた時計に目を向けた。

 

「……チッ、大問ひとつに十九分か。見直し含めて、あと二分は切りたいところだ……」

「いつの間にやら幾何学(きかがく)以外は完全に合格ライン超えてるよね、君」

「……え? ああ、矢車君……いたんだっけ?」

「無駄口を叩くより解答を確認しよう」

「そうだね、丸つけ丸つけっと!」

 

 このように西さんが覚醒しすぎて、幾何学を除く範囲ではもう教えることなんてない気がする。教えなければいけないことを無理にでも挙げるとするなら、この浪人生のすぐ横にいる、俺の存在くらいだろうか?

 

 ちなみにうちの大学の二次試験は、数学の試験時間がたった八十分しかない。そしてその中で、解答しなくてはいけない問題は大きく分けると四つある。だから全問と対峙するなら、大問ひとつあたりに、平均して二十分くらいまで使っていい計算になる。

 

 ただしうちの医学部では、二次試験の合格ラインがだいたい六割ほど(低いとか言うなよ。問題が難しいからこれも仕方ない)なので、取り掛かった問題を正しく解けるのであれば、大問を一つくらい無視しても十分に合格は望めるはずだ。その場合は、一問に三十分は費やせると思う。

 

 だからもし西さんが欲張らず、堅実に点を取りに行けば、もし幾何学の問題を丸ごと捨てても、数学ではほぼ確実に合格ラインを超えられるだろう。

 だけど油断は出来ない。なんたって、出題者である教授が変人である関係なのか、この科目は変な問題が多く、そのせいで試験結果を事前に予想しにくいからだ。

 

 去年なんて、「自然数を1から100まで、声に出して順番に数える。ただし、3の倍数もしくは3が付く数を数える時だけはアホにならなくてはいけないとする。この条件下でアホになる回数の和を求めよ」という、俺の心をくすぐる問題がシレッと紛れ込んでいた。

 

 だけど俺以外の受験生にとっては、面倒な問題を前に、軽い敵意を抱いたかもしれない。なにせこの問題は、一から百までの数字を地道に調べるというアプローチを選んでしまうと、無駄に時間を奪われるからだ。

 

 ちなみに俺の場合は、集合と確率という二種類の手法を利用し、一分くらいで「45回」という解にたどり着いた。

 

 大雑把な計算は次のようになる。

 まず、計算する範囲を「1~100」ではなく、「1~99」と「100」に分けて考える。

 そして1~99の整数のなかで、3の倍数が登場する確率は$\frac{1}{3}$。よって3の倍数は全33回。

 

 次に、計算の範囲を「1~100」に戻す。ここで3の付く数字を求める。

 100個の整数の中で、一の位に3が付く可能性は$\frac{1}{10}$。よって一の位が「3」である数字は全10回。

 十の位も同様に全10回。二つのグループを合わせて20回。

 ただし、「33」は一の位のグループにも十の位のグループにも在籍している。だからこのまま3の付く数字は全20回、としてしまうと、「33」だけは二重に数えていることになる。よって、3の付く数字は10+10-1=19回だ。

 

 さらに、3の倍数かつ3の付く数字、要は3の倍数グループと3の付くグループに共通する構成員が、「3」、「33」、「63」、「93」、「30」、「36」、「39」で全7回。

 

 最後に、問題の解は[3の倍数]+[「3」の付く回数]-[ダブってる回数]なので、解は33+19ー7=45回。

 

 もし試験本番で西さんも俺と同様の工夫を行えれば、ある程度は他の受験生を出し抜けるだろう。

 

 きっと今回の試験も前回に引き続き、ところどころにちょっと変な問題が待ち構えていると思う。

 こういった設問を前にしても、現時点の西さんではまだまだ力が及ばない部分もあるかもしれない。もっとも、今の西さんを見ていると、この程度ならそのうち容易く対処出来るように成長するのではないか、という気もしてしまうけど。

 

 ◇

 

 今朝––––というよりまだ今宵と呼ぶべきか––––も相変わらず、オッサンの音はアパート中に鳴り響いていた。だがしかし、今日の俺もそんな轟音ごときは意に返さず、いつもと同じ時刻に起床した。屋内なのに死ぬほど寒いことを除けば、実に気持ちのいい朝だ。

 

 気分の良い早起きついでに、俺は普段よりもやや早めにアパートを出発した。そのおかげで、授業開始の時刻よりもかなり前に大学へと到着してしまった。そうしたら、まだ正門が開いてから間もないにも関わらず、性格とかしゃべり方とかがとても変わっている知り合いの男に絡まれた。実に気持ちの悪い朝だ。

 

 さて困った。ここで俺がこいつの変なアレに付き合ってしまえば、課題を終わらせるという大切な目的を、俺は忘れてしまうかもしれない。札め……!

 

 ……よし、逃げよう。出来るだけ迅速に逃げよう。出来るだけ遠くに逃げよう。一秒でも長く生き延びよう。俺は風になるんだ。そうしなければきっと、せっかく手に入れたこの爽やかな時間を、課題の消化には使えなくなってしまう。

 

 だからこいつにわずかでも隙が生まれたら、俺は一目散に駆け出そうと思う。それまでは適当に相槌でも打ってればいいや。

 

「おっはー!」

「おはよう」

 

 君にさようならを言いたい。

 俺の気を知ってか知らずか、例の同級生(?)がしゃべり始めた。同級生だよな……? 同級生に分類されるはずだ……。

 

「あのさぁ……お前、もう構内で寝ないのか!?」

「ああ。寝るわけないだろ。眠くないんだから」

「寝ろよ寝ろよ〜」

『寝ないよ』と 何度言えば わかるのか  矢車

 

 なんでお前は、この俺に寝てほしがるんだ?

 俺の幸せそうな寝顔でも見たいのか? ヘンタイか? 寝顔のみを求めるタイプのヘンタイなのか?

 

「とにかく、俺はもう大学の構内で寝る予定なんてないから」

 

 ここまで、俺は大したことを何も言っていないのに、俺の知り合いらしい男はたぶん怒り出した。

 

「ふざけんじゃねえよ、お前これどうしてくれんだよ! ふざけんな!」

「アナタは語彙(ごい)力を基礎から鍛え直してくださいわよ」

 

 あいつは声だけ迫真で文句を垂れながら、スマホの画面を俺に見せつけてきた。俺にこれを読めとでも言いたいのか?

 

「何だよ。……えーっと、何これ。『クッソ汚い寝顔撮ってみたパート114』……?」

「お前の寝顔は面白いってそれ一番言われてるから」

「何これ!? 俺知らない!」

 

 なんで俺の寝顔を勝手にネット配信してんだ貴様は! 肖像権主張するぞゴルァ!

 

「せめて本人に言えよ! そして許可取れよ! お前にこんな許可なんてやらないけど」

「イワナ……言わなかった?」

「俺は一言も聞いてないだろ! いい加減にしろ!」

 

 きっと俺は、この件についてひとつとして知らされてないはずだ。札のせいで記憶が曖昧だから、いまいち確証は持てないけど。

 それに寝顔の配信くらいは別に構わないけど、ひでえ寝顔の配信は許せない。今の俺が知らない、過去の俺とはいえ、お嫁に行けなくなる危険を冒すとわかっていたら、アイツにこんな許可を与えるわけないじゃないわよ!

 

「そういうわけでその動画消せわよ」

「こっちの事情も考えてよ」

「俺が悪いの!? 理不尽!!」

 

 配信で儲けたいなら自力でなんとかしろよ。……っていうかよく見たら、動画の再生数もたったの八百十回じゃねぇか! 配信のシステムは知らないけど、一分の視聴で一円儲かると仮定しても、コイツが手にする金額は雀の涙だろう。

 

「ンだよ。俺がいなくても、お前はどっちみち売れてねェじゃンか」

「しょうがないね」

「なんでちょっと励ますような口調なの!? お前の蒔いた種にお前が水を与えて全滅させただけだろ!」

 

 あと、俺の肩に手を置くなよ。

 あーあ、俺だってこんなやつの相手をしてる場合じゃないのに。もう、いっそのこと、相手が油断しているとかいないとか忘れて、さっさとこいつから逃げようかな。

 

 それに、きっと不意なんか突かなくても、俺はこいつを振り切れるっぽいしなぁ……。

 

 だって、ホームレス生活をしていた頃の俺は、全財産をリュックに入れて持ち運んでいた。そのおかげで、もやしみたいな俺の身体においても、脚力だけはそこそこ強い。それだけではなく、全然使ってない上半身が無駄に軽いおかげで、現在の脚力が全盛期より多少弱くなっていたとしても、以前と同様に爆発的な加速が見込めるだろう。風だ、俺は風になるんだ。

 

「じゃあな。これでも俺は、あと四時間以内に、来週提出するレポートをまとめなきゃいけないんだ。分かるか? 授業開始時刻の十時までだ。よって、お前に構ってる暇など––––」

「あ、おい待てぃ」

「なんだい、江戸っ子かい」

 

 おっと、あたしも江戸っ子みたいになっちまったね。こいつぁ一本取られたよ。……まぁ、取られたっていっても、それは目の前の変人に、じゃなくて札に、なんですがね。取られたのも一本じゃなくて記憶だし。それに記憶を奪われたといっても、その代わりに新しい人格とか記憶とかを札からもらったから、僕らはそれを「プラマイゼロ」と呼ぶのだろう……。

 

 それに、今はかようなことよりも––––。

 

「––––でさぁ、なんで我輩が待たねばならんの?」

「俺も仲間に入れてくれよ〜」

「え? まさかお前……自分でレポートを……?」

「当たり前だよなあ?」

 

 これでは俺の収入が減ってしまう……! いや、余計なレポートを作らなくていい分だけ、むしろ自由時間が増えるからいいのか……?

 それにここ何ヶ月かのアパート生活では、もうびっくりするくらい生活費が浮いている。家賃が五百円でも住める、食費が0円でも生きられる。まさにそんじょそこらの地縛霊より浮いていると言っても過言ではない。この前なんて、笑いが止まらなさすぎて職質されたからな。

 

 そんな生活のおかげで、もし俺がレポートの売買を廃業して収入が多少減ってしまっても、月に数千円の貯金が貯まり続ける状況は変わらない。

 

「……本当に自力でレポート書くのか?」

「当たり前だよなあ?」

「うん、確かに当たり前なんだけど。学びたいことのために大学来て、それで課題を真面目にこなすのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど。まさかお前の口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかったからびっくりしたッスよ。お前でもたまには真面目に生きるんッスね〜」

「まぁ、多少はね?」

 

 もしかして温暖化か何かの影響で、この男の頭もおかしくなったッスか? ならば今日は雪でも降るかもしれない。いや、たとえコイツが平常運転でも、今の時期なら降雪は十分にありえるッス!

 

「しからば共に()こうぞ。永劫に続くレポート(みち)を!」

「ありがとナス!」

 

 何だよ、『レポート道』って。

 

「えーっと行き先は……図書館だったよな?」

「おっす、お願いしま〜す」

 

 あ、そうだ。ちょっと唐突だけど、ついでに気になったことも訊いておこう。

 

「あのさ。別に大した用事じゃないんだけど、お前の名前ってなんだっけ?」

「え、それは……」

「忘れててゴメン!」

「悲しいなぁ……」

 

 目の前の男が、目に見えて落胆してしまった。こうなったら、いっそのこと真実を打ち明けてしまおうか……?

 

「……こんなこと言ったら困惑すると思って黙ってたけど、実は俺、ひょんなことから記憶喪失になりやすい体質っていうか、アレになったんだ」

「おっ、大丈夫か大丈夫か?」

 

 変なニンゲンが、今度はものすごい勢いで心配し始めた。「ひょんなこと」の正体を気にしてないから、たぶんかなりテンパっているのではないだろうか。

 やっぱり心配させすぎたかも……。もしや記憶力のことはもう少し煙に巻いた方が良かったのかな……?

 

 そうだ。こんな時はもっと衝撃的なことを言ってしまえば、記憶喪失程度の問題は上書きされるはずだ。

 

「……まあ、でもあれだな。もし記憶喪失にならなくても、きっと俺はお前の生きた証なんて忘れてるだろうけどな」

「人間のクズがこの野郎……」

 

 加減って難しい。

 

「……すまねえでゲス、ちょっと言い過ぎたでゲス」

「頭に来ますよ〜」

「とにかくごめん! 名前忘れたこととか調子乗ったことは二、三回まで謝るから、どうかお前の名を教えてくれ!」

 

 俺は手のひらと手のひら同士を「スリスリスリィィィ!!」と擦り合わせながら頼んだ。乾布摩擦は熱い、という教訓を俺は得た。

 

「教えてくれよ、貴様の魂を!」

「しょうがねえなあ」

「ありがとう……それしか言う言葉が見つからない」

「二十四歳、学生です」

「年齢と肩書きじゃねえよ名前だよ!!」

 

 そしてナチュラルにサバを読むなよ。なんだコイツ。

 

 しかし、どうやらコイツのふざけた一言は冗談だったらしく、コイツはすぐに(まこと)の名を明かしてくれた。

 

「悔い改めて。俺の名は斉根(さいね)、斉根富貴(とみたか)だ。あっ、いや。やっぱ富貴、斉根富貴だ」

「小技でカッコ良く言い直すなよ。……それにしても、なかなか変わった名前だな––––」

 

 そういえば、例のオッサンの記憶にも、苗字がサイなんとかさんとかいう人がいたよな。あれは確か……オッサンの奥さんになった人だっけ? それにしても、お互いにあんなのを選ぶなんて、ずいぶんと物好きな者共もいたもんだ。

 

 もっとも、目の前にいるこいつもサイなんとかさんだからといって、別にどうというわけじゃないけどな。例のサイなんとかさんとコイツの間に、何かしらの関係があるとは思えないし。

 だって仮にサイなんとかさんの苗字を「斉藤」だけに絞ったとしても、この市内には膨大な人数の斉藤さんがいるんだからな。

 

 ついでに、コイツがムーちゃんの弟である、という可能性にいたっては皆無だ。

 

 なぜなら、大学近くの図書館で調べたところによると、オッサンの思い出に登場した銀行では、今までに発生した強盗事件はたった一件。それは、十三年ほど前にオッサンが死を迎えたアレだからだ。

 そして十三年前の斉根は若くとも六歳。だから、斉根がオッサンの子供であると仮定するならば、オッサンが生きていた時点で、斉根は小学校に就学する前のちびっ子でなくてはいけない。

 

 しかしオッサンの記憶が正しければ、当時のオッサンとサイなんとかさんの間に生まれた子供は、ちっちゃい女の子であるムーちゃんしかいない。これにより斉根が性転換でもしない限り、「斉根=オッサンの子供説」は否定される。

 

「えーっと……。何だっけ?」

「名だよ名」

「おっと、そうだったな」

「記憶喪失は不便。はっきり分かんだね」

「せやで」

 

 俺の記憶が蘇ると共に、俺の心にはカッスカスに薄い罪悪感も蘇った。

 

「どんな理由があるにしろ、忘れてしまって申し訳なかった。これからはあまり忘れないように気をつけるよ。えーっと、タカシ……?」

斉根(さいね)富貴(とみたか)だ」

「そうそれ! いやー、惜しかったな」

「微塵も惜しくねえよ! 『()()()か合ってねぇから!」

()()()か……。だいたい合ってんじゃん」

「あのさあ……」

 

 細かいことを気にするやつだな。もしかしてこの男は理系なのか? うん、間違っちゃいないよな。経済学部って、書類上は文系ということになっているけど、結構な頻度で計算とかしなきゃいけないから、実質的には理系みたいなもんだし。

 

 そんなことを考えていたら、タカシ(?)が俺の肩をバシバシ叩いてきた。

 

「ちょっとアンタ! 急に肩叩いてなんなのよっ! あまり馴れ馴れしくしないでよねっ!」

「ふぁっ!? 多重人格!?」

 

 おっとっと。危ねーな。俺の魂に混ざった、別の魂の存在が、タカシにバレそう。誤魔化さなきゃっ!

 

「まあまあ。そんなことより、早くレポート作ろうぜ」

「ところで俺の名は?」

「たぶん斉根富貴だろ?」

「もっと確信を持っちくり〜」

 

 なんだこの抜き打ちテスト。そしてなんだお前の言葉選び。だがうまく誤魔化せたようだ。

 

 よかったよかった。めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、そうだ。お前が『斉根富貴』の四文字を脳に刻み込むまで、これから毎日、俺の名を364364回ほど聞かせ––––」

「何はともあれ、改めてよろしくな」

「はい、よろしくぅ!」

 

 ◇

 

「西さん、二次試験も近いし、勉強はこれくらいで切り上げて、今はもう早く寝た方がいいんじゃないかな」

「え? ……じゃあ、あと一問だけ!」

「二問ほど前にも同じこと言ってた……よね?」

「そうだっけ?」

「たぶん……」

 

 俺のポケットに仕舞った野蛮な札は、本日も元気に思い出を吸っているようだ。

 

 ごめんね、西さん。本当のところ、アパートの外では札を持つ必要はあまりないんだけど、今日も持ってきちゃった……。てへっ♡

 でもさ、ついうっかり札を持たないままアパートに足を踏み入れると、実はめちゃくちゃ危ないらしいんだ。だから命が惜ければ、この札を肌身離さず身につけないといけないらしいんだ。アパート目前で札の存在を忘れてしまっても大丈夫なようにね。

 

 それに、この札は思い出を吸う力ならそれなりにあるけど、知識とかを吸う力はほとんどないらしいんだ。

 だから西さんが必死で勉強した内容には、あまり悪影響を及ぼさないらしいよ。

 

 ……って、何の話だっけ?

 

 えっと……。

 

 ……ん? おい、八時じゃん!!

 

 西さんに勉強を教えるのは、夜の七時半までのはずなのに!

 

「ってなワケで、今日の勉強はもう終わりにしましょう。受験生はお風呂に入って大人しく寝なさいよ」

「え? ……でも……」

「テスト前に欲張って勉強しても、当日に実力を発揮できなきゃ意味ないでしょ」

「うーん……」

「それともたった数十分の勉強時間を得るために、三百日以上も積み重ねた努力を捨てるつもりかい? お嬢ちゃん」

「はぁ……分かったよ、今日の勉強は終わりにすればいいんでしょ……!」

「そうだよ」

 

 西さんは少しだけ残念そうな顔をしながら、ノートや過去問などを片付け始めた。

 

 ……さて、それじゃ、俺も帰るかな。

 

 壁の時計を再び確認すると、バイトの終了時刻を三十分以上も過ぎていた。本当ならこれは、時間外手当を請求しないといけない事態だ。

 

 ……だけど、まあ、別にいいか。今思い出したけど、バイトの終了予定時刻になってから俺が選んだ行動は、西さんを急かすか、西さんを待つかのどっちかだった。だから勉強は全然教えてなかった。つまり手当の対象外だ。

 札め……! また俺の記憶を奪いやがったな……! オッサンが成仏した暁には、ブタさんのエサに混ぜてやる……!

 

「それじゃ、西さん、一年間お疲れ様。勉強を教え始めた当時はどうなることかと思ったけど、これまでよく頑張っ––––」

「急にどうしたの?」

「激励だよ、激励」

 

 普段はこんなことやらないけど、最後くらいはこういうことしてもいいじゃん。

 

「そうじゃなくて。試験は明後日なのに、なんで今日?」

「え……。だって俺が家庭教師として教えるのは、今日が最後だったから……?」

「……そうだっけ?」

 

 忘れてんのかい。大切なスケジュール忘れてんのかい。俺も一瞬忘れかけたけどな。

 

「おかしいな。俺は確かに言った気がするんだけど。言ってなかったっけ? ……言ってなかったかも」

「矢車君って、最近忘れっぽいよね」

 

 君もね。そして札のことは本当にごめんなさいね。俺の命ある限り、西さんに謝り続けたいとすら感じるね。

 

「西さん。詳しくは言えないっぽいけど、色々とごめん」

「ん? なんで矢車君が謝るの?」

 

 俺のせいで札の被害を拡散させているからだよ。いや、拡散っていうか、思い出の吸収だけど。いや、拡散か? いや、吸収か? 一体どっちなんだ? 拡散か?

 

 とにかく、こういう出来事が起こると、思い出が消失したら不便だと痛感するね。

 

「では若人(わこうど)よ、次は入学式で逢おうぞ」

「うん……。じゃあね……?」

 

 どこか釈然としていない受験生を残して、俺は部屋を出た。札のことはきっとバレないだろう。たとえ今は彼女の心に微かな違和感が生まれようとも、「小さな違和感」程度の思い出は、札がジャンジャン吸い取ってしまうからだ。少なくとも、俺の場合はそうだと言われている。

 これでは札の効力があまりに強すぎて、少々怖いかもしれない。今の俺にとって札は、オッサンよりもむしろ札に強い恐怖を感じると言っても過言ではない。「0」と「0.001」は違う。

 

 扉を閉めて玄関へ向かう途中、西さんのお母さんが居間で夕食をとっているのを見かけた。

 珍しい。この人は仕事の都合上、この時間帯に帰宅することがほとんどない。だからバイト中に会えるのは、サバンナでヒョウのハンティングシーンに出くわすくらい難易度が高いと思っていた。

 

 会ったついでだ。挨拶でもしておこう。

 

「こんばんは〜」

「こんばんは。えーっと……火ダルマ君?」

 

 燃やすな。

 

矢車(ヤグルマ)ですね」

 

 「ルマ」しか合ってない。それなら「昼間」とかでもいいはずだ。わざわざ火炎を用いてまで、汚物を消毒しないで欲しい誰が汚物だ。

 

 俺の気持ちを分かっているのかいないのか、西母は小首を傾げた。この人はきっと、こういった古い習慣が身体に染み付いているのだろう。

 この子の前世は、付喪神(つくもがみ)か何かに違いないわよ。西さんの前世が底なし沼の(ヌシ)っぽいから、まったく釣り合ってない親子だわよ。

 

「え〜、ホントにぃ〜?」

「なんで俺がわざわざ嘘つくと思ったんですか……」

「じゃあさ、そーゆー君は私の名前分かるの?」

 

 話のすり替えはやめてくれよ。「こんなものに流される俺など、現世に実在しちゃいない」と(自称で)(うた)われた俺だぜ?

 

優樹(ゆうき)さんですよね」

 

 流されるとしたら、それは他人の魂が原因だ。略して札悪だ。

 

「バレたか」

「隠す気だったんですか……」

 

 西母こと優樹さんは、「フフフ」と楽しそうな笑みを浮かべた。笑いの沸点がドライアイス並みに低いな。この人は氷点下でも笑いそうだ。それは人としてどうなのだろうと、俺は疑問に思わざるを得ないね。

 笑い方や沸点といい、変人のベクトルといい、一般的に、この母親は娘とあまり似てないとされている。

 

「それはそうと、この一年近く、娘の勉強を見てくれてどうもありがとう。あの娘に聞いたんだけど、模試の成績もずいぶんと上がったみたいね」

はい? それは彼女––––紫苑(シオン)さん––––が努力を重ねた結果のようです。ぼくはそこまで(だい)それたことをしていないようですがねぇ

 

 実際、俺の身体にオッサンを憑依させるまでは、俺の教え方が結構下手だったらしいし。加えて、一時期は俺の寝不足もヒドかったし。その上、オッサンを憑依させてからは物忘れが悪化しているし。うん、よくわかんないけど、これも札が悪いに違いない。

 

 まあ、俺はまったく悪くない。とまでは言わないけどさ。

 はいはい、俺も悪いんでしょ。わぁーってますよ、俺が(わる)うございましたねぇー。

 

 余談だが、「紫苑」は西さんの下の名前だ。贅沢な名だね。

 

「何にしろ、数式嫌いだったうちの娘が、あれだけ楽しそうにしているのは矢車君のおかげじゃないかな?」

「ん……? 『数式嫌い』……?」

 

 そうなの……? 別に西さんが勉強中に楽しそうな顔をしている訳じゃないけど、少なくとも数式を嫌ってるようには見えないような……?

 

「あら、知らなかった? 去年の紫苑は、『方程式』と名のつくものを想像しただけでも、すぐムカムカするんだけど」

「そうなんですね? 初めて聞きました」

 

 ついでに、大人が「ムカムカ」とか言っているのも初めて聞いた。

 

「えっ……? でも矢車君が最初にうちに来た日に、娘が『計算は嫌だけど、今年からは死ぬ気で頑張ります』って言ってたような……?」

「そ、そそそそういえばそうでしたね!! 最近は寝不足気味のせいか、ついうっかりしてたようです!! そう!! 寝不足のせいで!!」

「ならいいんだけど……」

 

 危ない危ない。記憶の件がバレかねないところだった。

 

「あと、よく考えたら紫苑さんは数学とか物理とかがめちゃくちゃ苦手だったし! それなら数式嫌いになるのも当たり前ですよね!! いやあー、さっきの俺は、なんで気がつかなかったんだろうなあー!! 記憶の混濁って本当に怖いなあー!! じゃなくて、本っ当に具合悪いなー!!」

「矢車君の体調がそんなに大変なら、もう早く帰って寝なきゃいけないんじゃないかな?」

「そうですよね! 大学だって、明日からちょうど鎖国体制に突入するんだから、こういう時に休んどかないと損ですよね!」

 

 よし、俺が思い出を忘れてたことは、このまま寝不足のせいにすれば誤魔化せそうだ。こうしなければ、受験生とその父兄諸君に不安を与えない。だから勉強を教えることだけでなく、札関係の隠し事も俺の任務だと思える。俺にはそんな心もある。

 

「ってなワケで、一刻も早く寝たい俺はそろそろ帰りますね!」

「それじゃ、またね〜」

「はい! 失礼しました!」

 

 言い終えると、俺は足早にその場を去った。

 玄関のドアを閉めた直後、緊張の糸が切れると同時に、俺の口からは自然と息が漏れた。

 

 やっぱり、思い出が奪われるのは怖い。忘れたくないことや、忘れてはいけないものまで思い出せなくなるのは嫌だ。

 だからこそ、あの札が受験生に少しでも悪影響を及ぼさないか、とても心配になる。

 

 アパートの住人達は「大丈夫だぁ」とか言ってるけど、その言葉を本当に信じていいのか、俺にはまだよく分からない。

 

 この間、今みたいな感じで不安に思った俺が、先住民達に札の危険性やらなんやらを聞いて回ったところ、そのうちの一人は言っていた。「心配すんな。全身麻酔とかも仕組みは解明されてないけど、安心して手術受けるだろ? なら札も大丈夫だ。たぶんな」と。メカニズム未解明なのかよ全身麻酔。怖えな。

 

 別の一人も教えてくれた。「大丈夫(でぇじょぶ)大丈夫(でぇじょぶ)! アパートさ住んで(なげ)(もん)は、最初(ハナ)っから札に強き耐性を持つ(もの)しか生き(なが)らえないのだ」と。札の影響メッチャ受け取るやないかい。他人の魂混ざりすぎや……。

 

 色々聞いて回ったら、危険性とかは頭で考えてもなんやよう分からんけども、札が知識を吸い取らんっちゅうんは心で理解できたわ。

 

 ––––札は知識を奪う能力が極端に低い。

 この特性を踏まえ、俺は聞き込みの際に入手した一言一句を頭の中で反復しまくって、これらの情報を知識として思い出せるまで記憶に定着させた。だから今も、当時の会話を思い出せている。

 

 だが不安は残る。札が受験生に与える悪影響が微少だとしても、その影響力がゼロでなければ、万が一ということもありうる。

 

 たとえ札やらオッサンやらのおかげで俺の説明力が上がり、結果的に西さんの勉強がはかどった、という面があったとしても、札のせいで不合格になってしまったらと思うと、俺は心の底から恐怖を感じる。

 

 いくら俺が、日々のバイト先にあの札を持ち込むようなヤベェ人間でも、西さんが積み重ねた努力は出来る限り報われてほしいと思う。だって、札のせいで忘れた思い出も多いとはいえ、彼女が必死で勉強する姿を、俺は十二分に知っているはずだから。

 

 あの努力が報われるか、それとも合格があと一年先延ばしになるか。すべては明後日の試験で決まる。

 どうか来年度は、家庭教師と生徒という関係ではなく、ただの先輩と後輩として、西さんに会いたいものだ。

 

 ◇

 

 試験当日になった。

 今日が大事な一日だと思うと、オッサンの声がアパートに響くよりも早く、俺は目が覚めてしまった。

 

 時計を確認すると朝の五時。今は二月なので、まだ夜は明けてない。ニワトリことオッサンの奏でる迷惑なラップ音は、いつも夜明け前に鳴き始めるから、きっとあと一時間もすればこの部屋は騒がしくなるだろう。

 ならばうるさくなるその前に、課題に着手するほかあるまい。俺は公園時代から苦楽を共にしているデカいリュックを開け、急いで課題に取りかかった。にしてもこのリュック、マジでデカいな。ニホンザルの数匹は入れられそうだ。

 

 おっと、危ない。札のせいで意識をかき乱されたな。集中、集中。

 

 しばらくすると、今度はオッサンのせいで俺の集中力が途切れた。これほど大きな音を立てても許されるのは、お(まわ)りさんを呼ぶ時と愛を叫ぶ時と雨乞いをする時だけだ、と俺はオッサンを糾弾(きゅうだん)したい。もっとも、俺が何かしら叫んでも、ヤツは三歩ほど歩いたら忘れるだろうから言わないけど。

 ……おっと、お巡りさんと雨乞いだけじゃなく、山頂で「ヤッホー」と叫ぶ時と、法廷で異議を唱える時もあったか。オッサンだけでなく、俺も色々と忘れていたようだ。なんてサイテーな札だ。

 

 さて、そんなことより、オッサンの音が収まるまで、散歩に出掛けるのも良いかもしれないな。

 

 そういえば、俺が()くまでここの住人達は誰一人として教えてくれなかったけど、実は俺以外の住人達は、ここでの生活に慣れすぎて、ラップ音程度なら全然気にならないらしい。ヤツの声を、住人のある者はそよ風、ある者はむしろ子守唄、ある者は秋の風物詩に例えているほどだ。スズムシか? スズムシのことか? もしくは肥えた馬の(いなな)きか? あるいは哀しげに鳴く鹿の尻声(しりごえ)か? オッサンという存在は馬と鹿に例えられる、ということだろうか。

 

 そういった事情もあって、俺が今アパートを脱出し、寂しいと死ぬオッサンが他の部屋に侵入しても、住人達には轟音の被害が及ばないらしい。

 ただ、筋肉の強い先輩からはそれでも、「朝食までには帰って来てくれよ。だってあんなのと一緒に食事出来る人間は、あんたを除くとこのアパートにたった四人しかいないんだから」とお願いされてるから、俺が外出可能なのはせいぜい一時間くらいだ。あと四人もいるのかよ。なんだこの魔窟(まくつ)。アマゾン川か?

 

 俺が玄関を開けると、アパート近くの道路にいる真っ黒な誰かが、この魔窟の前をトコトコ歩いているのが見えた。この付近を歩行で横断する時点で、すでに勇者かバッキャローだ。

 

 だけどまさかこのアパートの敷地内に入ることは……来るのか。

 お前さんはこんなところに用事でもあるのかい? なんだ、肝試しか? ホラーな生き物なら豊富に取り揃えていますよ。と、俺が内心呟いたのもつかの間。三十メートルほど先にいるその誰かさんが、二階に立つ俺の存在に気づいた。

 

 そして驚いたことに、俺とバッチリ目が合ったその人は、なんとあの西さんだった。だから真っ黒だったのか。

 

「あれー? 矢車君ー? ()()()()()()で何してるのー?」

「住んでるだけなのに侮辱された!!」

 

 西さんのくせに声がデカイ。もし今が面接中なら、114514点は減点されてるところだ。

 それに、いきなり「こんなところ」とか言わないでほしい。個々の住人が口にするならともかく、住んでない人はそんな発言をしないでほしい。

 

「ごめーん! ついうっかり本音がでちゃったよー!」

 

 さっきと同じくらい遠くから、謝罪の言葉が聞こえた。西さんよ。そこに立ち止まるんじゃないよ。人々が眠ってる早朝なんだから、こっち来て小声でしゃべれよ。歩いて来い。俺も室内から離脱する程度には近づくからさ。

 

 しかし俺の願いとは裏腹に、西さんはチンタラ()を進めている。

 仕方ねぇな、俺が二階から降りるか、跳ぶの怖いけど。さっきの君は珍しく、素直に謝罪したから、そのご褒美を……。

 

「……って、謝ってない!!」

「あ、バレた?」

「大学生をみくびるな!!」

 

 彼女は試験前にも関わらず、とてもリラックスしているようだ。それ自体はとても良い傾向だと思う。だけど歩いて来い。おせーよ西。ペンギンの遠足かよ。もっと(ちこ)う寄れ。あ、でもこの建物、わりと傾いてるから気をつけてね。

 

 西さんが低速で移動している間に、俺は覚悟を決めて、跳躍という名の飛び降りをした。毎回怖いなコレ。

 

「それで、西さんはこんなところに何の用? 探検なら諦めんだな。うん。ここに財宝なんてないし、あっても絶滅してるんだな。うん」

「違うよ。なんていうのか……合格祈願……みたいなものかな?」

「それなら最寄りの神社に行こっか。この近所には、ファンキーな神主がいる、えげつねェ神社があるらしいよ」

 

 実はこのアパートで使われている札は、そこの神主によって製造されたものだ、と住人達は漏らしていた。今現在、ほぼ一日中に渡って、札を身に付けている俺には分かる。あれほどの不可思議な術を操る者が住まうのであれば、そこはきっと名のある神社なのだろう。まあ、俺は行ったことがないから、どこにあるのかすら知らないけどね。そもそも、近所にあるという情報自体が疑わしい説だって、俺の中限定で流れてるからね。

 

「うん? 『近所』って、もしかしてあの全国的に有名な神社?」

 

 俺の無知が露見した。

 

「言っとくけど、そんな暇はないよ?」

「ふーん。そんなことより、この敷地から脱出しよう。ここは良くない土地だ」

「えー?」

 

 西さんはこの期に及んでだだをこねるようだ。

 だけどね、このアパートに近づくと健康に悪いかもよ。ここの敷地に足を踏み入れるだけでも、身体を(むしば)まれそうな気がしないでもなくはないし。

 

 それに、ここには君を合格に導いてくれる神様などいない。

 いるのは数多(あまた)の変人と、お下品な地縛霊のオッサ––––––––。

 

 

 その刹那。

 俺の中に混じった、誰かの魂が、唐突に思考を開始した。

 

 西さんはなぜこのアパートにやって来たのだろう。

 その理由はここに住みたいから、ではない。西さんがもし本当に住みたいなら、今はっきりとそう言えばいい。普段の西さんならそうするだろう。

 

 では、住む気もないのに、こんなボロアパートに訪れる人間とは誰か。

 しかも大学入試当日、という人生における重要な場面の、その直前。その時に、わざわざ時間を()いてまでこのアパートに近づこうとする人間とは誰か。

 

 ––––その人は十中八九、このアパートと何らかの関係があるはずだ。それも、生半可なものではなく、相当の。

 

 

 苗字に由来するあだ名が、「サイ」であった場合、由来となったその苗字は何か。

 

 ––––可能性を甘く見積もっても、「斎藤」である期待値は決して高くない。

 

 なぜなら、あだ名の多くは、その人間が持つ、特徴的な個性から付けられるからだ。

 そして、かなりありふれた苗字である「斎藤」が、ほぼその原型を留めたまま、あだ名として使用される可能性は低いだろう。

 

 では、「サイ」というあだ名の由来になりうる、かつ、それほどありふれていない苗字とは、具体的に何か。

 

 ––––例えば斉木、才場、そして苗字を音読みした場合も含めると、西。

 

 

 加えて、オッサンが亡くなったのは三月。その時点で、ムーちゃんは小学校に上がる直前だった。そしてオッサンの死は、今からだいたい十三年近く前に発生した強盗事件が、致命的な引き金となった。すなわち––––。

 

 ––––仮にムーちゃんが現役で進学していれば、彼女の学年は、現時点で俺と同じ大学一年生。

 

 さらに、西さんは去年の大学受験で合格出来ず、現在は一浪している。つまり––––。

 

 ––––もし西さんが現役で合格していれば、彼女の学年は、現時点で俺と同じ大学一年生。

 

 

 それらの断片的な思考はどれも、西さんとムーちゃんが同一人物である可能性を指し示していた。




 今更ですが、練習用小説のボツ構想載せます。


☆タイトル
 『首を長くして』(仮題)

☆あらすじ
 デュラハンの子孫である半田君は、頭がすぐに外れる高校生。秘密を隠すために体育祭をサボってたら、屋上で首を外しているところを同級生に見られちゃった!
 だけど秘密を知った子はろくろ首の子孫で……?

☆ボツ理由
・日常系は物語の終着点が曖昧であるため、完結させる時期を作者の都合で決めやすい。言い換えると、作者が執筆に飽きてしまえば、多少中途半端でも物語を素早く終わらせることが可能だ。
 しかしせっかく練習するのであれば、個人的にはあまり逃げ道を作りたくなかった。

・物語の中盤あたりで、執筆意欲の湧きそうな展開を思いつかなかった。

・この作品は物語の特性上、好かれやすい登場人物と、嫌われにくい登場人物ばかりを使わなくてはならない。しかしこれは、キャラクターの魅せ方などの点で、私の身につけたい課題とは少々違っていた。

☆一言
 現在の作品を執筆していて思うのは、魅力を伝えやすく読み手に好かれやすいキャラの大切さです。
 事故物件の方では、好かれにくい人物や嫌われやすい人物ばかりを登場させましたが、これは結果的に自分の首を絞めてしまうと最近気が付きました。
 狂気が目立つタイプの奇人を過半数にしてしまうと、思ったよりも魅せ方が窮屈になります。
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