喧嘩をする二人を描きたかって言うのが本音なのは内緒ですよ?
「ねぇちーちゃん」
「なに」
「結婚しよー」
「…………」
そろそろ大学生活も折り返しつつある、ある休日の昼下がりだった。いつものようにチトの家に上がりこんでいたユーリが、ベッドの上でだらりとしながら言い放った言葉に対し、チトは大きくため息を吐いて返事をする。
「またそれか。もう何度目だと思ってるんだ」
「えーっと、一昨日も言って、その前の日も言って先週もだから……四回目?」
「これで十四回目だバカ」
「あれ、そうだっけ」
「そうだよ」
ぴしゃりといい放つと、チトは机に向き直って課題を再開する。最近はいつもこうだ。なにかとあれば家でも学校でも結婚しよう結婚しよう。ところかまわず言うから周りの目が痛くてたまったものではない。
「なんでそんなに結婚したいんだ」
「えー。だってちーちゃん頭いいし、家事できるし頼れるし」
「至って普通だ。ユーがガサツすぎなだけ」
「努力はしてるんだけどねー」
ゴロゴロとベッドで寝返るユーリ。チトはそんな幼馴染のだらしない姿を予想してもう一度振り返ってみる。ああ、予想通りのだらしない格好でベッドのシーツをしわくちゃにしていた。しかも服が乱れておへそまでばっちり見えている。
「だらしない……せめてシーツは元に戻してよ」
「あーい」
「ったく、こんなだらしないのと結婚したら毎日大変だよ」
ぼそりと呟き、チトは今度こそ課題に戻る。明日提出しなければならないのに、同じ授業を受けているはずのユーリは全くの手つかずだと聞いた。今日も一緒に課題をやろうという話で家に来たというのに、招いてみれば眠そうな顔で上がりこみ、ベッドへ直行。今に至る。夕べ一体何をしていたんだか。
気づくとユーリは寝息を立てていた。それも結構豪快な。これは相当疲れているときの寝入りだとチトは知っている。昨日遅くまで何かをしていたのだろうか?
(……ま、いっか)
*
結局、ユーリはぐーすかとチトのベッドの上で眠ってしまい、見かねたチトはユーリの鞄から課題を取りだして中身を見てみる。どうせ真っ白なレジュメプリントが出てくるのだろうと思っていた。
「……え?」
しかし、予想と打って変わってユーリのプリントはきっちりと埋められていた。そんなばかなとチトは思わず名前の記入欄を見てみる。間違いなく、ユーリの名前が書かれていた。筆跡も同じだ。
「しっかりできてるのに」
なぜ、わざわざ課題をやろうと言ってここに来たのだろうか。チトはユーリの意図が全く読めなかった。注意深く目を通してみると、適当に記入しているというわけではなく、しっかりと回答を記入し、論述に関してはそれなりに理にかなった内容が書かれていた。
「んぅ……」
すると、ユーリがちょうどいいタイミングで目を覚ます。チトはユーリに近づいて問いかけた。
「ユー、課題ちゃんとできてるじゃん。何で一緒にしようって来たのさ」
ユーリはごしごしと目をこすり、大きな欠伸をしながら答えた。
「ちーちゃんが構ってくれないから」
「え?」
構ってくれない? どういうことだ。自分の中では大して変わったような気はしないのに。先週の平日だって一緒に学校に行ったし、ご飯だって一緒だったし、帰るときも一緒だった。だからユーリの結婚発言だって何回言ったかだって覚えているのだ。
「……もういいよ。ごめんね、邪魔して」
ユーリはそう言うと立ち上がり、足早に玄関の方へと向かっていく。何が何だか分からないチトは一瞬出遅れ、慌ててユーリを追いかける。
「ま、待って! ユー待ってよ!」
もう遅かった。一瞬でばたんと扉が閉じ、その音でユーリが拒絶していることが理解できた。伸ばした手は虚空を漂い、力なく垂れ下がる。今まで経験したことのないユーリの拒絶に、チトはなす術がなかった。
コチコチと時計の針が時を刻む。その音がやたらと大きく聞こえて、妙に虚しかった。
*
次の日。チトは学校へと足を向けていたが、言い表せない不安に苛まれていた。昨日のユーリの後姿が何度も頭の中をリピートしてしっかり眠れなかったからだ。
何か悪いことをしたのだろうか。一体自分は何をしてしまったのだろうか。そんなことを考えながら歩いていると、いつもユーリと待ち合わせている場所に辿り着いた。
「……っあ」
ユーリはそこにいた。電柱に背中を預けてチトを見ている。しかし目が合って間もなく、ユーリはスタスタと先に歩きだし、チトは慌てて追いかける。
「ユ、ユー!」
どうにか呼び止めようとするが、思いの外ユーリの歩く速度が早く、チトは走って横に並ぼうとする。
「待ってよ、ユーってば!」
ようやく手が届きそうな距離にまで追いつき、チトはユーリの手を掴もうとする。だが、まるでそれが見えているかのようにユーリは腕を振り上げ、ひらり回避する。
「ちょっ」
空を掴んだせいでチトは少しよろけ、足首が曲がる。しまった、捻った。視界がぐらりと曲がり、自分がバランスを失って重力に引かれていくのが手に取るように分かる。危ない、怖い。チトは転倒を覚悟する。
しかし構えていた痛みは来ることはなく、代わりに柔らかい腕に抱かれる感触が体を包んだ。恐る恐る目を開けると、ユーリの顔が目の前いっぱいに広がっていた。そこで自分がユーリに抱きかかえられる形で助けられたのだと察した。
「ぁ……ありが、と」
「来て」
「え?」
「ちーちゃん来て」
ユーリはチトを立たせると、手を引いて歩きだす。何が何だかわからないチトはそのまま引きずられる形でユーリに連れていかれる。待て、いったいどこに行くんだ?
少ししてチトは自分が来た道を戻っていることに気が付いた。ユーリはチトの家へと向かっているのだ。でも何のために? ますますわからない。
ユーリはまっすぐチトの家に到着すると、チトから預かっていた合鍵を使ってドアを開け、部屋に入る。ベッドの前でようやく停止し、チトは荒い呼吸をどうにか整えようと息を吸う。
刹那、視界が大きく揺らぐ。急展開の連続で思考も呼吸も追いつかないチトは、声にならない悲鳴を上げる。
「っか、はぐっ!?」
気づけばベッドの上に放り込まれていた。そしてユーリがぬっと顔を近づける。脳に酸素が回らないチトはついに思考ができなくなり、恐怖と困惑と期待感とが混じり合い、熱暴走した感情が涙となって目尻から流れ落ちた。
「ユー……怖いよ……」
「……」
「わからないよ……」
「……」
「何か……言ってよ」
「……やだ」
今日、初めて聞いたユーリの声。チトは返事が帰ってきた事が嬉しい一方で、その声色が本当に怒っている声だったから不安のどん底につき落とされた。
「……ごめんね」
わからない。わからないから謝るしかない。怒っているのは事実だから。チトにはそれしかできない。子供のように、謝るしかなかった。
「何が」
「わからないよ……ユー、わからない」
「じゃあ許さない」
「ごめんってば……教えてよ、わからないよ」
「……じゃあ教えてあげる」
ユーリはこつんと額をくっつけ、チトの目をじっと見る。視界に広がる青い瞳。その中に写る怯えた顔の自分。そしてその自分の中に写るユーリの瞳が永遠と続いていた。
「私がちーちゃんに結婚しようって言った回数、覚えてる?」
「え……」
「答えて」
「……じゅ、十四回」
「うん、そう言ってたね。でも違う」
「……ぇ?」
「本当は四十一回だよ」
突然何を言っているんだ? チトはもう癇癪を起したくてたまらなかった。それがなんだ、なんだって言うんだ。そんな回数の違いのためだけにお前は怒っているのか。
「怒ってる。これだけじゃないけど」
「いみ、わかんない……」
「まだわからない? ちーちゃん、私のこと前より構ってくれなくなってるって。私の話したこと、全部覚えなくなってるって。前はしっかり覚えていたのに」
ユーリは顔を離し、ベッドに倒れ込むチトの瞳を見降ろし続ける。
「ねぇ、私たち最後に映画を見に行ったの、いつだったか言える?」
「え……と、先月、だっけ」
「先月は行ってない。二月前。じゃあ私が先週作ったご飯覚えてる?」
「さ、鯖の煮付け……」
「それは先々週。先週はさんまの塩焼き。じゃあ一昨日はテスト終わったらどこに遊びに行こうって話してた?」
「…………覚えて、ない」
「ほら」
ユーリはチトの手首を強く握る。心なしか、震えているようだった。
「覚えていない」
「…………」
「ちーちゃん、私怖いんだよ」
怒りと恐怖が混じった声だった。こんなユーリの声を聞くのは初めてだ。
「私たちずっと一緒だよね。私もちーちゃんもお互いが居ればそれでいいって思ってる。でも、最近のちーちゃんは一緒に居るのに居ない。私の事を見ていない。どんどん離れていく。ずっと一緒だったのに。このまま二人で一緒にいることも減っていって、いつかちーちゃんが私のこと忘れちゃうんじゃないかって。だから怖いんだよ。お願いだから離れないでよ」
ようやく、ユーリは話してくれた。チトはその言葉で最近の自分をもう一度ゆっくりと思いだしてみる。確かに一緒には居たと思う。だけど、その時ユーリとどんな会話をしたのか、あまり覚えていない気がする。いや、覚えていなかった。
「もっと私のこと見てよ、離れないでよ……」
ぎゅむ、と掴む手の力が強くなる。ああ、ユーリはこんなにも不安に思っていたのか。そうだ、自分もユーリが突然構ってこなくなったらどう思うか。不安に思うに違いない。ずっと一緒にいるからいつも変わらない彼女に安心しきっていたのかもしれない。
けど。だからこそである。
チト怒りのマントルが刺激されて、一気に噴火した。
「……勝手なことばかり」
「…………え?」
「私の気も知らないで……私がどんな思いで、どんな思いで今を生きてるか知らない癖に!」
チトは声を荒げる。反撃が来ると思っていなかったのだろう、ユーリはハトが豆鉄砲を食らった顔をしている。その隙をついて、チトは上体を思いきり起こし、ユーリを睨みつける。
「確かにユーリに構ってやれなかったと思う、お前と一緒にいることを少し適当にしてたと思う。でもそれは全部お前のためだって、何で分からないんだ! お前とずっと一緒にいるために、勉強して、就職先探して、お前を養っていけるくらいにならないと行けないんだよ!」
そう。すべてはユーリのためなのだ。ユーリと添い遂げるために、生涯を共に生きるために、ここ最近勉強や就活などで走り回っていたのだ。
「お前は卒業したら旅に行きたいんだろう、遠くに行ってみたいんだろう! それも全然いいと思う。でも、それでも帰る場所がないと困るだろ!」
激情に身を任せた声は部屋に響き続ける。
「だからお前が困ったとき、いつでも帰れる場所を作ろうって思ってたんだ。ていうか、旅に出たら会えないだろ。むしろお前が私から離れようとしてるじゃないか、自分勝手ばっかり!」
「先のことなんてどうでもいい!」
ユーリが反撃に入る。
「私は、ちーちゃんと今を精一杯一緒にいたい。過去も未来もいらない、今しかほしくない!」
「少し先のことを考えてお前は不安に思ったんだろ、先のことなんてどうでもいいなんて、嘘ばっかだ!」
「違うよ! そんなんじゃない!」
「じゃあなんだ!? ユー、言ってみろ!」
きっ、と歯を食いしばったユーリは、再び無理矢理チトをベッドに押し倒す。チトは思わず目を閉じるが、頬に温かいものがたれ落ちてゆっくりと開いた。
ユーリは、泣いていた。
「……わかんないよ、もう」
「…………」
「どうして自分がそう思ったのか、もう……」
チトはいつの間にか自由になっていた右手を上げ、ユーリの頬を優しく撫でて涙を拭ってやる。しかし、次から次へと涙が溢れてくる。
「本当は、本当は私のためだって、何となく分かってたのに。それでも私の事忘れちゃったらって思うと怖くて……でも、せめてちーちゃんと結婚できたら、離れなくて済むんじゃないかって……」
ぽたり、ぽたりと涙が降り注ぐ。ああ、こんなにも私の事を思っていてくれていたなんて。彼女の起こした癇癪も、自分勝手なわがままも。
全て、チトのためなのだ。
「……ユー」
子犬に呼びかけるかのような優しい声でチトはユーリの首に手を回す。そのままぐいと引き寄せ、唇を塞いだ。
ユーリの唇は震えていた。感情が入り交じり、どうしたらいいのか分からず怯えているようだった。チトはユーリが落ち着くように、何度も何度も唇を重ねる。
次第に、ユーリの体の強張りが消えていく。そう、それでいい。落ち着いて。私に全部任せていいから。
コチコチと時計の音が部屋を包み、時折乙女たちの吐息が部屋に溶けて消え、混ざりあった唾液の音が華を添える。
貪るように二人は唇を啄む。次第にチトは呼吸が追いつかなくなり、呼吸しようと口を開くと、ユーリが口を塞いでそれを阻む。今度はユーリが呼吸しようと口を開くと、お返しだと今度はチトが塞いで阻む
その繰り返しで脳への酸素供給が追いつかなくなり、視界がチカチカしてくる。それでも二人は唇を離さない。それどころかよりお互いを締め上げる勢いで強く抱きしめる。窒息しつつあることで、脳が死を錯覚し、二人に快楽を与える。もっと、もっと欲しい。
『……はぁっ』
長い長い口づけが終わり、二人はようやく深呼吸をすることができた。視界はまだチカチカとしており、意識が朦朧とする。それでも、チトとユーリは互いの手を離すことはしなかった。
「……ちーちゃん、ごめん。私、おかしかったよね」
少し冷静になったユーリは、俯きながらそう言った。チトはぎゅう、と手を強く握る。
「私の方こそごめん。ユーの気持ちに気付いてやれなくて」
「ううん、私が勝手だったから」
「ユーを不安にさせたのは私だ。だから私が悪いんだよ」
「そんなこと言わないでよ。ちーちゃんは頑張ってたのに、私が……——っ!?」
チトは再びユーリに口づける。このまま自由にしておくとずっと自分のせいだと言い続けるに違いないからだ。
「んっ、んぅ……っは」
唇を離す。目線の先に切なそうなユーリの顔は、チトの中の全ての理性を破壊するには十分だった。
がぶっ。チトはユーリの首に甘噛みする。
「ひゃぁっ!?」
ユーリの悲鳴が部屋に響く。ああ、いい声だ。そこまで自分が悪いと思っているのなら、こちらにも考えがあるぞ。チトは言葉に出さず、ユーリの首筋に舌を這わせ、逆に押し倒してやった。
「ちー、ちゃっ、やめっ……ぅう」
くすぐったさと喉元を支配された快楽がユーリの頭を溶かしていく。そうだな、お前は首を責められると弱いんだよ。あーだこーだ言うなら黙らせてやる。
ああ。楽しい。いつもからかわれるから、こんな反応をするユーリがたまらなく愛しい。
「ほらどうした、まだ言うか?」
ついつい挑発的な声になってしまう。ベッドに押し込まれ、涙を浮かべるユーリは悔しそうにチトを見る。ああ、いい顔だ。もっと見たい。
次はどうしてやろうか。昔の事も全部含めた憂さ晴らしをしてやると思考を巡らせる。
だが、その思考こそ、チトの最大の隙だった。
「わっ!?」
一瞬だった。ユーリが体を持ち上げてチトに組み付く。やられた、こいつまさか!?
チトが次に自分がなにされるのかを想像し、事実その通りにされた。
「んんっ!」
ユーリが耳たぶを唇で挟み込んだのだ。チトがユーリの弱点を知っているのなら、逆もまたしかりだった。
「この……っ、ユー! まっ、てぇ……」
はむはむと耳たぶをなぶられ、体がゾクゾクと震え上がる。なんとか抵抗しなくては。そう思っていた矢先、唇が離れ、ユーリは舌を出して耳をペロリと一周すると、耳の中に舌を入れた。
「っひゃあっ!!?」
チトの威勢があっという間に消えてなくなる。だめだ、体を使わせたらこいつに敵わない。ここまでされたら獅子に喉元を噛みつかれたのと等しく抵抗できない。あっという間にチトは骨抜きにされてしまった。
じゅるじゅると鼓膜の近くで響く音。ユーリが好き放題チトの耳を支配している。この感覚がたまらなく悔しい。いつもそうだ、自分が攻めていても、いつの間にかユーリに主導権を奪われる。
だらり、とチトの腕が垂れ下がる。完全降伏のサイン。ユーリはそれを見て顔を離して満足げな顔で言った。
「私の勝ち」
*
「あーあ。授業サボっちゃったね」
部屋の中に西日が差し込み、二人は布団にくるまりながらぼんやりとテレビを見ていると、ユーリがそう言った。窓の外から家路につく子供の声とカラスの声が聞こえて、一日の終わりを告げている。チトは空っぽな声で返事をした。
「お陰で課題がパーだ」
「まぁ、なんとかなるよ」
何を根拠に。そう思うチトだったが、事実ユーリは高校受験も大学受験も全て危なかったのに、全てなんとかしてきたのだ。
「お前のその能力、私にもくれよ」
「一つの生き物になれたらあげられるかもね」
「また漫画やテレビの受け売りか?」
「ばれたー」
「ったく……」
チトはリモコンを取り出すと、テレビの電源を落とす。部屋は再び静かになり、時計の音だけが部屋に響く。
その合間合間に、チトはユーリの心臓の音を感じとる。どくん、どくんと脈打つ彼女の胸はとても暖かかった。
「ねぇ、ちーちゃん」
「ん?」
「結婚しよ?」
「……うん」
了