以前の内容と少し違っているのでご注意ください。
過去と未来
幼い頃の記憶だが、はっきりとあの時のことを、菊名夏音は覚えている。
ちょうど幼稚園に入ったころ。
両親は既に忙しく働いていて、夏音はよく兄である高紀に面倒を見てもらった。遊んでもらったし、寝る時には絵本を読んでもらった。兄は夏音にとってもう一人の親だった。
兄はよく散歩に連れて行ってくれた。
いつも同じコースを歩いていたけれど、いろんなことを話してくれて、全然飽きなかった。色んな発見に満ち溢れていて、何より大好きな兄と一緒にいれば、どんなことでも楽しかったのだ。
そうしてその日も手を引かれ、いつものように歩いていたら、ふと目の前で、老女が通りかかった。
彼女は荷物を重そうに持っていて、よろよろと倒れそうな様子。
しかし誰一人手助けしようとしない。道行く人は一瞥もしないで先に進んでいく。兄一人を除いては。
兄は優しく老女に話しかけると、荷物をすべて持ってあげて、夏音に謝ってから彼女の目的の場所まで一緒について行った。
そして、老女は兄にお礼を言ったのだ。
――ありがとうございます。ありがとうございます。
本当に心の底から感謝しているように。
それが、兄がいかに立派なのかを知ったきっかけだった。
その後も、彼が人を助けるところをいくつも見た。周りから慕われ、好かれ、時には逆に人に助けられながら兄は本当に楽しそうにまた人を助けるのだ。
夏音は不思議に思って、どうしてそんなに人を助けるのかと兄に聞いた。
すると兄は自分のためだ、自分のエゴのためだと答えた。
人が嬉しそうにするのを見るのが好きで、それが生きがいで、思いを返してもらうのが好きだ、とさらに兄は言った。
夏音は、そんな風に思えないと感じた。
だって、夏音は兄のように純粋でもなければ善人でもない。
――彼女には妬みの気持ちがある。
自分より弱っている奴を助ければ優越感が生まれるけど、逆に上の立場の奴を助けても惨めになる。
――自身を優先したい気持ちがある。
我が身が可愛い。大変な思いをしてまで、厄介ごとに首を突っ込みたくない。
――人を信じられない心がある。
皆、兄さんを優先するのに。何かしたところで、思いが帰ってくる訳がない。
それでも。
夏音は、彼のようになりたいと思ったのだ。
兄の行動は夏音に多大な影響を与えた。いつしか彼女は兄を尊敬するようになり、彼のような真面目なしっかりとした少女となった。
そして人に寄り添えるような少女になった。
そうあれるように兄の真似をした。
そんな彼女を、兄もまた愛して“くれていた筈で”……。
だからこれからもずっと、兄は兄のままでーーそう信じていたのに。
……なのに、どうして?
――どうして、私の目の前からいなくなるの、兄さん。
◆◇◆◇
菊名夏音は魔法少女になった。
光ある一般の世界から、闇夜のような魔女の世界へと足を踏み入れた。
その人生は明るいものから黒いものへと変化した。
――夜の帳は落ちた。
夏音は魔法少女として、巡る時間を旅し続けなければならない。
劇場の幕が上がることで、舞台は始まるのだ。果てのない劇が、終わりのない物語が、これから紡がれることになる。
踊り疲れても休むことはできないし、歌い疲れても声を止めることは許されないだろう。
そのうち一人一人と演技に飽きて、観客はいなくなっていく。
でも演劇は終わらないから、演者は誰もいない観客を前に演技をし続けるしかない。踊っても歌っても、誰も見てくれないし響いてくれない。
忘れ去られまいと、ついには叫んで訴えても、そもそもの話気づいてもらえないのだ。
だからこそ。
苦痛は永遠。
孤独も永遠。
痛みも永遠。
それは演者にとって、地獄と同義。
そう、その演劇は地獄である。
決して抜け出すことはできない煉獄。
繰り返すということは、そのループに閉じ込められるということ。つまり時間の檻に閉じ込められるということを意味する。抜け出すという行為事態が許されない。
スタートはゴールに結び付けられて、終演はないのだ。
『ねえ。ならば結論は一つしかないでしょう。菊名夏音。私はもうね、私しかいないのよ』
――舞台の上に立つ、黒くシルエットが塗られた少女が笑っている。
そこは、何処かの劇場だった。
少女の視線が、客席に座る菊名夏音の瞳を縫い止めるように射抜いている。
一体、どういうことなのかさっぱり分からない。
私には私しかいない?
そんな言葉を聞いていると、何だか酷くざわざわとした気持ちになって、妙な気分になる。
と、腕を組んで考えたところで、袖が学校の制服のそれとは違うことに気付いた。
今更だが、自分の格好が普段とは異なることを自覚する。
夏音はすぐさま確認するように全身の格好を見て、しばし困惑し、思わず少女に問いかけた。
「あの、貴女……私のこの姿、何か知っていたりするの?」
『……あれ? 覚えてないの?』
「……ああ、言われてみればそうだった。私はあのとき、彼と契約したんだったね」
ここに来てやっと、夏音は思い出してきた。
キュゥべえに願いを捧げたことを。
そして時間を遡ったことを。
すると、この姿は自身の魔法少女としての姿なのか。
立ち上がり、改めて全身を眺めてみる。
肩だしの黒の長袖を着用し、紫の手袋。
赤いコルセットが胴を締め、服の裾には同色の十字の宝石が輝く。
被っている帽子には菊の花飾りがついており、下はスカートやズボンなどはなく前垂れを垂らしているだけ。靴はブーツだった。
そんな服装であったので、思わず夏音は慌てて座り直した。
こうすれば椅子の影で、下半身が見えないはずだ。
少女はくすくすと笑い、改めて名を名乗った。
『“私”はクリスティーヌ。打ち捨てられたプリマドンナの、クリスティーヌだよ』
「ふうん……そうなんだ。貴女、“クリスティーヌ”っていうんだ。じゃあ、クリスでいいかな?」
『え? クリス?』
「私、結構人にあだ名をつけるんだ。まあ、思い付いたらなんだけどね。なんだかあだ名をつけたら、親しくなれそうな気がするんだよ。でももし嫌なら普通に名前呼びでも……」
『――いいや。クリスで良い。それで良い』
少女は首を振って、名前で呼ぶことを拒否をした。
むしろ、それを嫌がっているようであった。
夏音は内心、首をかしげながら、
「じゃあそう呼ぶよ。クリスがそう望むのならば」
『ありがとう。……ところで。そういえばだけど、貴女、私を不審に思わないの? どー見ても怪しくない?』
「確かに。何故私は貴女を不信に思わないんだろう」
普通、こんな少女がいれば困惑するであろうし、第一自分が魔法少女になったことも不気味だ。
だが、まるで以前からの顔馴染みのように話せていたし、そこにいるのが当たり前のような感覚でいた。
そしてその事に何の疑問も抱かない。
『そっか。無意識でも、覚えているんだね。そういうところは、やっぱり私ってことなのかな?』
「? ハァ? 何言ってんの。私は貴女じゃないでしょ。さっきから訳分からないことばっかり言わないでくれる?」
流石に馬鹿にされたような気分になって、夏音は少しだけ悪態をつく。
身内のような気やすさで、遠慮がない分、言葉には棘があった。
だが、相手は馬鹿にしたように、呆れるのだ。
『まったく。我ながら困ったものね。その目の前のことから逃げ続ける癖は。うん……そうやって、いつまで知らないフリをするつもり?』
「……何が」
『本当は気付いているでしょって話。自分が何者なのか。どうして“魔法少女”になったのかさ。まさか――偽りこそが真実とか言わないでしょうね?』
「……偽り?」
夏音はボソリと呟く。
偽り。
……偽り。
――偽りだと?
……何が偽りだというのだ。
(嫌な響き……)
夏音はイラつきで眉を顰める。
「違うよ」
いつの間にか、彼女は不意に、無意識に、答えていた。
「私はクリスティーヌじゃないし、他の私のようにはなりはしないの。だから、私は私のままに、これからもずっと、生きていくのよ。そのために大切な記憶なんてのは捨てたの。私は貴女から逃げ切ってやるんだから」
『……そう。そのために、自分じゃない偽物の自分を演じることにするんだ。全部から、逃げて、逃げて。怖いのね、その使命も、痛みも』
「……」
『だけどね。どんなに自分じゃない自分になっても。結局私は私よ。塵芥のプリマドンナ、菊名夏音。兄さんのいない可哀想な私』
「違う!」
ついに夏音は絶叫した。
「私は兄さんのいない夏音じゃない! 普通の人生を持っていたんだ! 学校にも通った! 友達もいた! 家族からも愛されていた! 私はただの、“早島に住む”――ッ!」
そこで強烈な違和感に口を噤んだ。
何かを取りこぼしている気がした。
一番重要な何かを……。
(ッ――、ムカつく。何なのよこれ)
脳髄の奥が、ズキズキ、破裂するように痛い。
少女が言う通り、何もかもが間違っているような気がして、でもそれが不愉快で。
自分は、こんなにも普通であることを望んでいただろうか。
いいや。
(むしろ兄さんよりも、誰よりも特別に――人に必要とされる神様みたいな存在になりたくて――)
「ぐ……、……ッゥ!」
夏音は頭を抱えて、痛みに顔を顰める。
ナニモ、ナニモワカラナイ。
けれども黒塗りの少女は尚もおかしそうで。
『もう。私を拒否するからそうなるのよ。ま、今のうちに悩んでおきなさいな。いずれ分かるよ。そう焦らなくてもね』
「……? いずれ分かるって……? てか、気になってたんだけど、そもそもここ何処なの? 何で私はこんなところに?」
それは、今更の疑問だった。
願いが叶えられたのならば、自分はあの“二人に会った”あの日に戻っているはずなのに。この劇場にいるはずがない。
(なのに、私はどうしてここにいるの――?)
『……ハハ……認識したくもないのね。分かるよ。でももう無理だし、戻れないということを、理解するはめになるの』
「……、戻れないということを、理解するはめになる?」
『もう一度繰り返すね。菊名夏音。私はもうね、私しかいないのよ』
少女は最初に言ったことを、もう一度口にした。
泣きそうな声で、しかしどうしてだか少し笑ってしまいそうなくらい、滑稽な声のように思えた。心の中で失笑が広がっていくのが分かる。
『もう無駄だよ? “あの子達と仲良くしたいなんてこと”は』
「ちょっと待ってよ。何でそんなことが言えるの? 初めて会った貴女にそれを言れたくないんだけど」
少なくとも、夏音だけはこの思いを否定してはいけない。
本気なのだ。
この思いはきっと間違いない。菊名夏音はそう信じている。
『馬鹿じゃないの? 本気?』
「だって誓ったもの。今度こそ私は彼女達と仲良くする。あんな結末は、認められない」
『そう。ああ、眩しいな。懐かしいなあ』
その時ふと、黒い少女が目を細めた気がした。
顔など見えないというのに。
その途端、夏音の中で先程の反発が消えて、嘘みたいに少女に駆け寄って抱きしめたくなった。
垣間見えた孤独な冬のような心を、春のような暖かなものに変えてあげればと思ったのだ。
「ッ――」
そして、実際に席から立ち上がると、舞台の元にまでやってきた。
しかし、そこから体を動かすことができない。電気を流されたみたいに、痺れが全身に広がっている。苦痛に表情を歪めると、少女は始めて驚いたように息を飲んだのだ。
『どうして? まさか、私のこと心配なの?』
「うん。だって、貴女が寂しそうだから。一人にさせたくないの」
そんな少女を放っておくのは良心が痛くなるからしたくないのだ。
そして兄の真似をしたいという欲求が自分にはある。兄は優しく、敬愛すべき人物。自分は彼のような人物になりたいと、常日頃思っているのだから、これくらいは当然の行動だ。
そう伝えれば、尚更に少女は辛そうに肩を震わせる。
『ほんっと――猿真似のくせに。反吐が出る程優しいじゃない。けれど、安心してね。いずれ、すぐ会えるから』
「そんなのどうして、わかるの?」
『決まってるよ。私は私だから。本質からちゃんと目を逸らさないで』
そうやって、彼女は手を招いて、
『私は待ってる。さ×、×あ、×い×おいで。××××××。×あ、さ×、お×で―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――おいで』
――だって私は、貴女しかいないのだから。