赤い月が浮かぶ絵画の空が、窓という額縁に収められている。クローゼット、ベット、本棚。そして、湯気をたてる紅茶を容れたカップに、レポートが散乱した机。それだけの、必要最低限の家具。それでも、阿岡入理乃は、所持品ばかりは多い。本棚には読みもしない雑学の本でぎゅうぎゅうだし、着ない服も何着もある。特に年々書いた龍神信仰についてのレポートの束は厚くって、見直すのも大変だ。
「これじゃない…。これでもない…ああ、もう…!」
入理乃は、面倒くさい作業に、冷たげに息を吐く。こうであるのなら、もう少し整理するのであった。そして、ふと
少しだけ、こんなものに意味などないような気がして、くだらなくなり、ふとこれを書いたきっかけを思い出す。
昔から、阿岡入理乃は、幼い頃から天才だった。あらゆる才能が突出していた。しかし、阿岡入理乃は本流の子供ではない。そして、早島の伝説では、銀島龍は自ら選んだ子に才能を授ける力があるとされていた。つまり、入理のは選ばれた子であるとみなされていた。
早島の古い家の者は、呪いのように、血統と伝説を重んじる。親戚一同は入理乃のことをよく思わなかった。信仰心と嫉妬心。それが、いじめの原因。
暴力、罵詈雑言を浴びせられて、同じ家の子供から、石を食わされた。大人からは、殺されかけたことだってある。両親は見て見ぬふり。いつだって、面倒はみてくれなくて、普通の人からは賞賛されても、結果しかみないし、不気味がる。
人は、どうして自分を愛してくれないのか。他の人は、愛されているのに、どうしてなんだろう。入理乃は、昔それだけしか思ってなかった。自分をいじめる周囲の気持ちがわからなかった。だけど、愛されようと努力するうちに気がついたーーー阿岡入理乃は、そういう存在なのだと、気がついた。
阿岡入理乃は、卑下されて当然で、愛される権利なんて元からない。馬鹿で、愚かな人間の中でも、最低で最悪のもの。人間なんて、メリットがあるのとないのとでしか、自分を判断しないし、価値を見出さない。能力だけしか取り柄のない…、いいや、それさえも意味の無いのだ。元々、入理乃はそういう存在として生まれてきたのだ。
そうわかった時。人間というものを理解したことで、恐怖が薄れ、安心した。そして入理乃は、理解すれば、怖いものも怖くなくなる。わからないものがあるから、恐怖する
ということを学んだ。
故に、入理乃は、龍神信仰のことについて調べ始めた。龍神信仰は、人間の心に巣食う恐怖の元凶。だったら、それを理解すれば、怖くなくなるはずなのだ。そうして、数年の間情報を纏め、レポートを書き上げていったのだ。
「…見つからない。これじゃあ、駄目だわ…」
いつも一人でいると、独り言が増える。自分で自分に話しかけるのは、気楽なものだ。自分自身が嫌いだけど、最も怖くない。阿岡入理乃は、阿岡入理乃が一番よくわかっているのだから。対して、他の人は予測がつかない反応を示す。得体の知れないものなんて、嫌いだ。
ポケットから、グリーフシードを出す。このグリーフシードは、菊名夏音が持っていたものだ。それが、つまりは何を意味するかなんて、明晰な脳はすでに答えを出している。首から下げた袋から、指輪を取り出して、比べてみる。
魔法少女と魔女は、ある意味イコールではあるが、厳密にはイコールではない。魔法少女は人間で、魔女は化け物。阿岡入理乃が化け物に変質してない以上、彼女は魔女と同じものとは呼べない。だから、これらのソウルジェムとグリーフシードが、同時に存在できる。恐らく、入理乃が魔女になればこのグリーフシードの方も消えるだろう。全く、皮肉なのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
「………はあ、私ってやっぱこうなるんだね」
なんとなく、どうやって魔女になったか想像はついている。でも、何があったかなんて、本当のところはわからない。年を取るにつれ、理解できないものが増えていく。
魔法。魔法少女。魔女。インキュベーター。広実結。菊名夏音。東順那。全部、嫌い。大嫌いだ。どうして阿岡入理乃は、こんなものに関わってしまったのだ。魔法少女の素質があるから、といったらそれまでだけど、でもそんな素質はいらない。才能なんて、欲しくない。嫌なことばっかりだ。
でも、良かったことが二つ。船花サチと伊尾ミズハに出会えたことだ。これらだけが、入理乃を救ってくれた。彼女らは自分と同じもので、同じ感情を持っていて、共感できた。安心できる場所をくれた。絶対手放したくない。
カップを持ち、よくサチと一緒に飲んでいる紅茶を口にいれる。嗅ぎなれた甘い匂いが鼻を通り抜け、喉を通る液の熱が、じわりと胸に広がる。穏やかな気持ちのまま、入理乃は、目を閉じる。
サチは、絶対に行動しない。それがわかる。いつだってサチは入理乃を利用していた。入理乃に肝心なことや厄介なことを任せた。そうする方が合理的だから。そして、それで入理乃も構わない。合理的なのは良いことだ。
だって、自分の方が上手くやれる。下手に手を出されても困るし、優れているんだから、やる義務がある。それが一番良いことなのだ。当たり前のことを、当たり前にやるまでだ。
サチは怒っていたけど、けど大丈夫。あんなの、現状が訳がわからないから怒っただけなのだ。誰だって、わからないものは、怖い。サチもそうだっただけ。
入理乃は、立ち上がりパーカーを羽織る。フードをかぶると、その布の感触に安堵して、窓を開ける。そうして、飛び降りて、家を出ると、街に繰り出していった。
魔女を殺し、グリーフシードを得るために。
◆◇◆◇
十月十日。静かに鳥がなく早朝。肌寒さがあって、思わずベットの中でうずくまる。サチの携帯電話からは、さっきから軽快な音楽が響いている。わりとうるさくって、でも億劫で行けない。いや、行きたくない。そのまま半分起きながらも、唸りながら再度夢にダイブする。
「……うう……」
サチの普段の寝起きは、そこまで良いほうじゃない。せっかく携帯電話で目覚ましを鳴らそうが、起きない時は起きない。ほんの数年前までは、こうはいかなかった。実の両親にきっちりとした時間に起こされるものだから、つい自然に目が覚めた。それがなくなったのは、良くも悪くも、普段の生活が息苦しくなくなったからだろうか。
気が抜けて、だらしなくなったのは、本人も自覚ずみである。だが、サチはそれで良いと思う。むしろ、それこそがサチの本来の姿だ。
眠気に抗うなんて嫌なこったと、サチの思考がなくなっていく。やがて、サチは締まりのない顔で、鼻ちょうちんを作り始める。意識を底に沈めれば、そこに音は届かない。気にする必要もなく、気持ちよく眠りに浸る。
ああ、素晴らしい。眠るのは最高だ。朝の布団で、時間を気にすることなく二度寝。これに勝る幸福があるものか。
だが。そういうものは、いつだって早く終わる。一つの人影がベットに近づくと、すうと空気を取り込んで、爆発させる。
「…おい、起きろぉ!サチィ!!」
「…ぐぅ!?」
耳元で叫ばれる怒鳴り声が、頭を揺らして意識を引っ張りあげる。なんだよと眠気まなこでイライラしながら起き上がり目を開けると、サチはまずい、と顔を引き攣らせた。
「何度いえばいいんだァあ!馬鹿娘!!」
目の前には、いつの間にか船花久士。手にはしつこいくらい鳴っていた、しかし今は静かなサチの携帯電話。久士は、普段の温厚さが鳴りを潜めるくらいには、サチ以上に朝が弱い。部屋は隣同士だから、恐らく携帯電話のアラームが聞こえてしまったのだろう。それで彼を怒らせたのだ。
朝の眠気に加え、騒音への怒り。彼のボルテージはレッドラインの限界をぶっちぎっているだろう。
人生最高の幸せから、人生最悪の不幸へと叩き落とされた。その落差は、あまりにも激しい。サチは冷や汗を流しながら、ごまをする。
「お、おはようございます。本日もご機嫌麗しゅうーーー」
「ああん!?」
「ヒィい!!」
びびって萎縮する。寿命がそれだけで百年は縮んだ気がする。養父は、くまが残っている目でぎらりと睨み、青筋をたてる。その姿はまるで鬼神、あるいは閻魔大王である。魔女よりも恐ろしい。あれ、最強じゃね?うちの父親まじすげえ、なんて頭のどっかでアホみたいに思う。無駄な現実避難である。
彼は凄みのある、唸り声のような低い声音で、言い聞かせるように言う。
「何がおはようじゃ、ボケえ。チャッチャラーって、少しはましな音楽にしろい!!これだから最近の若いもんは!」
「え、怒るのそこ…。ていうか、ポップの良さはお義父さんにはわからないですよー!」
「うるせえ!!朝はクラシックと決まっている!!ポップなぞ、どこが良いんだ!」
「流行も把握してないとか、老けてるね!おじいさんじゃん。おじいさんー!!」
おじいちゃん、おじいちゃん、とはやし立てる。サチは基本的に単純である。そして調子に乗って、痛い目を見るタイプである。恐怖なんて忘れて、楽しい気分で煽る。だが、当然の流れで、ゲンコツが頭に炸裂。星が視界に飛んで消えた。
「…サチ。なにか言ったか?」
「何も言ってないですう!」
痛みに耐えながら、首を降る。しかし、暴力おやじぃ、と心の中で地団駄を踏みしめ、満足そうに携帯電話を置いて出ていく義父に、ちくしょうと、サチはさらにあっかんべーと舌を出した。
「………ああもう、酷い目にあった…!」
サチは自分の頭を撫でる。これはたんこぶができているかもしれない。
全部、これも菊名夏音のせいに違いない。こんな休みに早く起きたのだって、順那と電話をする約束をしていたからだ。だから、入理乃をおかしくさせた夏音がいなければこんなことになっていない。そう思うくらい、人のせいにしたくて堪らない。実際には、因果応報、自業自得というものだが。
あくびを一つ、ゆっくり伸びをする。サチはベットから立ち上がって、パジャマを床に散らかし、私服に着替えると、改めて携帯電話片手にベットに座る。昨日登録した東順那の番号を選択する。耳に当てると、今度は目覚ましとは別の明るいメロディーが流れる。しばらくして、それがぶつりと途切れて、代わりに明朗快活すぎる声が弾けた。
「いやっほー!!時間通りっすね、サチ!!」
「何かテンション高くね? どったの?」
「いやあ、実はさあ、朝ネットの掲示板見てたら、お父ちゃんを育てようシリーズのゲーム最新版がでるっていうから、もう嬉しくて嬉しくて!」
「…何そのシリーズ…」
お父ちゃんを育てる? そんなの意味あるのか?というかそんなことするのを見たりしたりするのって、どうなのだ? おもしろいのか? そもそもそんなゲームを考えついたのはどこの会社だ。頭狂っているように、サチには思える。
「文字どうりお父ちゃんを育てるゲームだよ。赤ん坊のお父ちゃんをね」
「はあ!? ますます何それ!?」
「ちなみに、派生作品に、赤ん坊を育てようゲームもあるよ」
「何でそっちは普通なの!?いや、そうじゃなくて、入理乃のことについてなんだけど、どうする?」
そうだ。わざわざ電話をしたのは、入理乃について話し合うためだ。くだらないことを気にしている場合じゃない。一刻も、彼女を止めなければいけないのだ。
サチは、少し神妙な顔で、自分の考えを言う。
「……私としては、まず先に入理乃がどこにいるのか知りたい。そうじゃなきゃ、話もできないし」
「でも、グリーフシードを集めてって言ったんでしょ?連絡とれないのに」
「それもそうだけど…それじゃあ、向こうから連絡してくる可能性が高い…か…」
逆にこちらから積極的に接触するのは、いけないことなのかもしれない。無駄に動きを見せない方が、返って怪しまれなくて良い場合もある。
「うん。それに、彼女の居場所はわからないけど、昨日家に帰ってるはずだと思う。さすがに、一日中外にいるわけじゃないでしょ」
「まあ…確かに…」
「だから、盗聴器に何か録音されているかも」
「…は?」
耳を疑う。盗聴器?盗聴器なんて、仕掛けたのか?どうやって?
「いつの間にやったんだよ、お前!?」
「東家に普通にあるのを、お家にお呼ばれした時にちょちょっとね」
「…いやいや、どうなってんの?お前…信じらんない、マジでやったの!?本当、テメエら従姉妹はどうなってんだ!?」
もう、驚愕しかない。頭のネジとんでいる、とは思っていたが、さらにネジだけでなく部品までどこか落としてきたみたいだ。盗聴器が普通にあるなんて有り得ないし、それを普通のノリでこっそり仕込むなんてのも有り得ない。
「……で、でも、それで情報が掴めるんなら、回収するべきか」
サチは表情にドン引きの文字を貼り付けたまま、そうとりあえず言う。この場合、グッジョブと言えるのだろうか。
「あたしにしかできない仕事だね。今日タイミング見計らって侵入するから、貴女はグリーフシードを集めててよ」
「大丈夫なの?私が回収してくるけど」
「でも、教えたところでわからないよ。それに慣れてるから。あ、最悪ピッキングでもいいけど、合鍵持ってる?ちょうだい?」
「…まあ、持っているけど」
サチは一末の不安を感じつつも、一応レプリカを渡しておこうと思い、家の近くの公園に集合場所と時間を決める。順那は気安く了承し、通信を切られる。
サチはその直後、ベットに倒れ込むと声に出さずに、叫んだ。じたばたして、思い切り愚痴を言ったあと、サチは苛立った様子で合鍵をぶんとってレプリカを作ると、部屋を出ていった。