十月十一の午前八時、夏音は朝早くからキッチンに立って、食事の準備をしていた。
夏音の両親は、仕事が生きがいという人間である。そのため、子供よりも仕事に打ち込むことが多かったように思う。朝から早く仕事に行き、夜遅くまで帰ってくるのは、夏音にとって当たり前のことだった。
当然、そうなってくると、両親が食事を作っている時間はない。だから夏音達兄妹は、自分達で自炊する必要があった。
おかげで、ある程度のメニューなら夏音は作れるようになった。味は普通だし、腕も普通だが、作れるようになったことに、夏音は内心両親に感謝していた。
二つの器にスープをそれぞれ注ぐ。次に二つの皿にチャーハンを盛り付ける。メニューはたったこれだけだが、朝食なので充分だろう。むしろ、重たくない方が良いに違いない。
「あぁ〜…」
呻き声を上げながら、奥から結がやってきた。髪は寝癖などもなく、服装もきちんとしたものだが、朝が弱い彼女のことだ。身支度を済ませても、顔はまだまだぼんやりとしている。欠伸が止まらないらしく、彼女は大きく口を開けては、また噛み殺すのを繰り返していた。
やがて結は夏音に気がつき、ようやくといった感じで料理に目をやった。そして寝ぼけた様子で、ありがとうと礼を言って、自分の分のスプーンと料理を運んでいった。その足取りはふらふらとしていて、見ているだけで冷や冷やしてくる。
夏音は苦笑しながら、彼女が無事に皿を割らずテーブルに乗せたことを確認すると、自分の分とスプーンをテーブルにまで持ってきて座った。
いただきますと挨拶をしてから、スプーンでスープを掬い、口にまで運ぶ。いつも通りの、いつもの味だ。 普通に不味くなく、かといって特別美味い訳でもない平凡な味。
しかしそれが今の夏音にとって、一番安心する味だった。結の普段メニュー(彼女は辛いものが好きらしい)も不味くはないのだが、あまりにも味が濃ゆいのでちょっと辟易としていた。だからか、何も思わないような自分の味付けが、いつも以上に胸に染み渡った。
それに、兄が好んでくれた味でもある。夏音は自然と、幼い頃に初めて作った料理を兄に食べてもらい、褒めてもらったことを思い起こした。内側が次第に暖かくなる。本当に、とても良い思い出だ。
「っ…」
思い出という言葉が浮かんだことで、昨日のキュゥべえの言っていたことが、耳朶の中で幻聴として再現される。スプーンを動かす手が止まった。暖かいものは、いつの間にか苦いものに変わっていた。
それを察したのか。結が途端心配そうな顔になって、病人に気分を伺うように夏音に尋ねた。
「どうしたの?もしかして、昨日のことで何か…?」
「…何でもありません」
本当は何でもなくない。この身がばらばらに張り裂けそうな程苦しい。
夏音はキュゥべえを疎ましく感じた。確証もないことを突然言われても、困るだけだ。ただでさえ、入理乃のことに集中しなければならないのに、混乱するようなことをしないで欲しい。
苛立ちのせいか、思考はまるでサチのように少々荒々しくなっていて、キュゥべえを少々ぶっ飛ばしてやりたいと、これまたサチと似たようなことを夏音は考える。
しかしそうすることは、果てしなく無得な行為であり、無駄なことであり、無益な時間を浪費するだけである。それでも夏音の理性じゃない部分は、そのことに全然納得できておらず、一度でも良いからと望まずにはいられない。勿論実際に行動する気はないが、夏音は前の時間軸でキュゥべえに苛立っていたサチの気持ちが、改めて分かった気がした。
「気にしなくて良いよ。そうと決まったわけじゃないし、ね?」
何でもないと言ったにも関わらず、結は声をかけた。夏音にはその気遣いが逆にきつかったが、同時に嬉しくもあった。
ずっと感じていた結への恐怖は、いつの間にか気づかぬうちに溶け始めていた。魔女を倒したものの、自身が何者か分からなくなった時に、励ましてくれたからだろう。それがどれだけ有り難かったか、言うまでもない。夏音の心は、本の僅かだが開きかけていた。
「はい、ありがとうございます」
「…僕も、あり得ないと思っている。そんな事は、起こり得ないと思っている」
「………」
しかし、仮にキュゥべえの言っていることが事実ならば。夏音はどうすれば良いのだろう。本当は、思い出した方が良いのかもしれない。
だってたった思い出すだけで“力”が手に入るんだから。すべてを覆せるとまではいかないが、けれど手っ取り早く強くなれる。対抗手段もできるし、魔女も倒せる。キュゥべえに同意するのも癪だが、確かにメリットだらけだ。
“力”があれば、何でも出来るのだ。人を救うことができる。兄みたいになれる。かっこよくなれる。すごくなれる。“力”とは、それだけで特別なのだ。特別なものは、選ばれたものであるということ。選ばれたものは、夏音の理想に他ならない。
逆に“力”が何も出来ないし、何も変えられない。“力”がないものは愚か者だし、軟弱者だ。笑い者だ。演劇で言えば、プリマドンナにも及ばない脇役。いや、それにすらなれない者。“力”がないなど、まるで塵芥ではないか。
そこまで考えたところで、夏音はチャーハンを口に含む。舌が味を感知する。パラパラというよりも、どこか水分を含んだ感触。チャーハンの出来は、スープと比べればあまり良くないらしい。
ーー私は、何てことを思っている。まるで認めているようじゃないか。記憶を封印したという、馬鹿みたいな冗談を。
夏音は肯定していたそれを改めて否定する。そうして心の中で自分ごと一緒に、キュゥべえを嘲笑した。
「…家主さん、昨日のしーちゃん…船花サチについて、どう思いますか?明らかに様子がおかしくありませんでしたか?」
「確かに、僕もサチちゃんはおかしいと思ったね。どこか彼女らしくなかった」
結も夏音に同意する。どうやら二人揃って、サチの昨日の言動には違和感を感じていたらしい。
何せああ見えてサチは、入理乃のことを非常に大切にしていたのだ。粗雑に接しながらも(それにしても問題ばかりであるが)、サチは入理乃をちゃんとしたコンビの相方として扱っている。
夏音がサチの家に突如現れた時にも、彼女は夏音を捕まえてから入理乃にそのことを伝え、助言を求めていた。サチは一人で勝手に行動しようとはしていなかった。
だが、昨日の場合は何故か違った。入理乃の意見を聞かずに、サチは独断で共闘をしようとした。しかも、入理乃のことを聞けば、明らかに不機嫌そうに眉を潜めたのだ。多分本人は気づいていないだろうが。
「…ところで、しーちゃんって呼んじゃっていいの?サチちゃんのこと」
ふと、訝しがるように夏音を見つめながら、結が質問する。それに夏音は首を傾げた。
「何故ですか?」
「いや…、その…。そのあだ名で呼ぶの、何とも思わないの?嫌じゃないの?夏音ちゃんの立場からしたら、呼びたくないあだ名じゃないの?」
「え…?」
夏音はさらに首を傾げた。きょとんとした顔になってしまう。まるで言っている意味が分からない。
「夏音ちゃん…、君はやっぱりーー」
結は夏音の様子に、絶句したように顔を歪めた。しかし言いかけたところで結ははっとしたらしく、慌てたように表情筋を無理やり上げて、力のない愛想笑いを浮かべた。
「ご、ごめんね。ちょっと変なことを考えちゃった。心配しなくて良いから」
「そう…、ですか…?」
しかしそんな風には見えない。少し、夏音は結が心配になった。昨日は、良くも悪くも色んなことが起こり過ぎた。しかも順那のこともあるし、結はもしかしたらそれを引きずっているのかもしれない。
夏音としても、順那のことは衝撃だった。まさか、彼女が魔法少女の対立に関わってくるなんて思わなかった。普通、一般人が魔法少女の争いに関わるなんて、あるはずがないのに。
正直電話越しで話せたのはとても嬉しかったが、魔法少女に関わるのはこれ以上やめてほしい。友人として、せめて危険がない場所で平穏に過ごして欲しいと願わずにはいられない。もし巻き込まれて死んでしまったらと思うと、恐怖で体が震えてくる。
「…意外と話がややこしくなってきたましたよね…」
「そうなんだよね…」
「現状をちょっと整理しないといけませんね」
「うん。じゃないと、ちょっと混乱しそう」
それに、今のうちにやっとかないと色々やばいし、と結が言う。夏音もその言葉に頷く。
「まずこの早島では、僕とサチちゃん達が縄張り争いをしていた。そして早島を壁のような結界で二分し、それぞれを自分の縄張りにすることとなった。壁を互いに無断で超えないという条件で」
他にも魔女を融通したり、グリーフシードをそのままにしたりといったことが二年間行われた。その期間、早島の魔法少女達はグリーフシード不足に悩ませらるという厳しい状況に立たされたが、特に波風は起きなかった。
「だけど私のせいで、その均衡は崩れた…」
「僕も同罪みたいなもんだよ。僕も責任は取る。…とにかく、僕が夏音ちゃんを助けるために、サチちゃん達の縄張りのところに入ったことで、条件を破ることになってしまった。そして五日後に話し合いをしようということになった」
「今日は四日目。つまり明日に話し合い…」
夏音は何だか、重たい石を飲み込んだような心地になった。その石は、段々と体内の中で重くなって、このまま動けなくなってしまいそうだ。
だが、この時のために夏音と結は何も考えてない訳ではなかった。特訓の後には、必ず話し合いについてどのように振る舞うか、どのようなことを発言するか、二人で頭を悩ませた。しかしそれらが果たして意味を成すのかは、まったくの未知数だった。
「僕らの目標は三つだ。一つ目は以前のように早島を二分し、それぞれの縄張りにすること。これが、一番綺麗な形だからね」
しかし、これは達成する望みはかなり薄い。夏音達がこんなことをお願いしたところで、当然素直に承諾するはずがない。夏音がサチ達と同じ立場だったら、多分頷かないだろう。
「だから、自分達でこちらのペナルティを用意するんですよね?」
「うん。一ヶ月に一度、ある一定量のグリーフシードを納めることにする」
そうすれば、グリーフシードの獲得量が変動し、サチ達がグリーフシードを多く持ち、結が少ないグリーフシードを所持することになる。力関係は逆転し、結はサチ達に逆らえなくなるだろう。自分達で提示するペナルティとしては、かなり不利なものだ。
「その他のペナルティも飲もう。あんまり不利なものは、流石に反論しなきゃいけないけどね」
「いざとなったら…、しーちゃんと共闘したことを前面に押し出しますか?」
脅し、という形にはなるが、効果は少しはあるかもしれない。サチが死にそうになったところを助けたと言えば、入理乃も反論はしずらくなるだろう。あまりに不利な条件では、最悪の場合夏音達は死んでしまうかもしれない。相方の命の恩人を粗末にするのは、心苦しいことのはずだ。
「…どうだろう。危険なカードだと思うし、サチちゃんだって、共闘しなければ魔女を倒せていなかったことを痛感はしていると思うけど…」
「…しかも独断で動いたということは、リノとは何かあったということです。もしかしたら、そのことで不仲になっているのかもしれません」
「何かあった、ねえ…」
うーん、と考える二人。すぐに結が苦々しい顔で、
「まさか順那のせいなんじゃないの?あの子が首を突っ込んだから、喧嘩になったとか…」
「ありそうですね…」
可能性としては、非常に高い。どうして順那がこんな時に首を突っ込んできたのか結局聞きそびれてしまったが、魔法少女のことは知っていたのだ。キュゥべえから何か聞いて、それがきっかけでサチと接触したのかもしれない。
「…あの子のことは、もうどうでも良い。けど、これはチャンスなんじゃないの?サチちゃんを上手く引き込めば、入理乃ちゃんも強くは出れない。二つ目の目標は、何をするか分からない入理乃ちゃんをどうにかすることだし、三つ目の目標は、僕と君の安全と自由を確保することだもん」
この二つの目標は、ある意味連結している。二つ目の目標が果たされなければ、三つ目の目標も達成することは不可能なのだ。入理乃がもしどうにもならなければ、また夏音は監禁状態になるだろうし、結も下手をすれば、大変なことになりかねない。
しかも、サチが目の前にいる状態で入理乃が襲いかかるなんてことはないだろうが、その分結局何をしてくるのか分からないから、対策の立てようがないのだ。二人に奥の手がない訳でもないが、それが通用するのかは分からない。
それに、夏音の安全を確保する方法が、まだ目処が立っていないのだ。夏音はこの早島ではイレギュラーな存在だ。だからこそ、監禁されていたのである。そのまま自由になるなんてことはあり得ない。
「…あの、私の安全の確保の件なんですが、どうしても駄目なんですか?」
「ああ、あれのこと?」
それは夏音が三日前にアイデアだった。一つ目の目標を達成するために考えた、自らペナルティを与えるよう進言するという方法と同じように、夏音が自身に呪いをかけるように提案する、というものだ。
さらに呪いの内容は、二人に決めてもらい、また解除できないような仕掛けを施してもらう。これならば夏音はサチ達にとって脅威ではなくなる。拘束力は十分だ。
「…何度も言っているけど、駄目だよ。あまりにも、相手に判断を委ねすぎだと思う」
だが、拘束力が強すぎる。これでは、入理乃の好きなようにされてしまう。言葉では別のことを言っておき、違う強力な呪いをかけることさえも可能なのだ。結は危険すぎると、断固として首を縦に振らない。
「だけど…」
そもそも、夏音がループしてきたのは、あの前の時間軸での結末を変えること。最低でも、船の魔女をどうにかしなければならない。
船のような魔女は、本当に謎の存在だった。様々な種類の魔女を育て、研究していた結に聞いても、まったく知らなかった。つまりは、外からやってきたものか、突然変異を起こしたであろう新種という可能性が高い。
だが、今のままでは自由に調べることができない。こんなところでもたついている訳にはいかないのだ。解決できるのなら、さっさと解決したいというのが夏音の本音だった。それがいかに危険だろうが、夏音は構いはしなかった。
「はあ、どうしたものか…。君がそこまで頑固とは」
結は呆れ返ったまま、スープを掬って飲んだ。それが最後のスープだった。チャーハンも、すでに彼女の胃袋の中に落ちていて、皿には米一粒もない。
「ご馳走様でした」
行儀良く手を合わせてから、彼女は持っていくねと、台所の方まで食器を持っていった。
「……」
夏音も残りわずかなチャーハンを食べる。それで、朝食は完全になくなった。