キュゥべえがやってきたのは、食べ終わってから一時間としなかった。その頃にはちょうど身支度も終えていた夏音と結(といっても結の場合、少しまだ寝ぼけまなこであるが)は、マンションを出て早島神社へと向かった。
数分で辿り着いた早島神社は、平日であるためか人は疎らであった。そしてその殆どが老人の夫妻だったり、一人だったりした。
その目には、熱心な信仰心は宿っていなかった。彼ら彼女らは、ただ気まぐれに神頼みをしに来た、一般的な市民だった。
しかし結は警戒するように、或いは何か目的の者を探すように辺りを見渡す。特に念入りに顔をチェックしているようで、そのせいで彼女の目は半分睨むように細められていた。
「どうしたんだい、結。誰か探しているようだけど」
それを夏音の肩にいるキュゥべえは不思議に思ったのか、結に質問する。すると、彼女は一瞬キュゥべえを恨めしげに見ると、気まずそうに視線を逸らすと、
「な、何でもない……」
「……そうは見えないけど」
「う……。何というかその……、ほら、ここって早島神社だからさ……」
その口調は、やけに歯切れが悪い。夏音はその抽象的な物言いに妙なものを感じて、素直に首を傾げた。
「……えーとね……」
結は更に困った顔になる。出かかっているものを、何と言葉で表したら良いか分からない様子で、思わずといった様に苦笑する。
「昨日のこともあるし、君の提案に乗らない訳にはいかなかったしさ、でも──」
「そこの方、もしや結様ですか?」
背後から声をかけられ、びびった様に結は固まった。全身から、苦いオーラが出ている。緊張したのか、表情はいつの間にか険しいものになっていた。
後ろを向けば、そこには着物姿の老婆がいた。見るからに頭が硬そうで、どこか古臭い時代の空気を身に纏っている。まるで明治の時の写真の一部分をくり抜いて、それを無理やり令和の時代の写真に張っつけた様だ。
「……結、様?」
夏音は、着物姿の老婆を奇妙に思った。
初めて、リアルに“様”呼びをする人がいるなんて、とてもではないが、信じられなかった。ますますこの人物が時代錯誤に感じる。
「……久しぶり。こんなとこで会うなんて、偶然だね」
結は朗らかな笑みを老婆に向けた。しかしその目は驚くほど、何の感情も篭っていないように見えた。
「久しぶりでございます。本当に、本当に……。それに、この様な方まで……」
「な、何かありましたか……?」
いきなり俯いて老婆が涙ぐむので、夏音は思わず慌てて話しかけた。しかし、顔を上げた老婆は暗い表情ではなく、微笑みを浮かべていた。
「いえ、私感動したのです。まさか、貴女みたいな若い方が信者だったとは」
「……え?」
何か盛大に勘違いされ、無意識に夏音は驚きのあまり声を出した。どうしてそう思ったのか、皆目検討もつかない。はっきり言って、彼女は何を言っているのだろうと、勘繰ってしまった。
一方でキュゥべえは赤い瞳で、じっと老婆を見つめた。相変わらずビー玉のようなそれらは、まったく動かない。
「ち、違います。私は──」
『ごめん、話を合わせて』
戸惑いながらも否定しようとしたところで、結がテレパシーを送ってきて、夏音はすんでのところで黙った。
ちらりと視線で問えば、結は僅かに返事として老婆を見た。そうして、うんざりとした顔を僅かにする。どうやら、彼女はこの老婆の相当面倒なところを知っているらしい。そんな様子を見せられれば、夏音も付き合うしかなかった。
「……何かおかしなところでも?結様と一緒にここに居られるということは、信者以外にいないのではないですか?結様がまさか信者の方以外と仲良くされるなんてあり得ないことですから」
心底当然の様に老婆はそう言う。
しかし、その理屈は明らかに滅茶苦茶で、一方的に決めつけている。そこにどうしても歪みが存在していて、夏音は老婆に対して嫌なものを感じた。
「……どこもおかしなとこなんてないよ。それに、この子は僕の目から見ても、とても敬虔なんだ。そんなの、万が一でもあり得ないよ」
「そうですか。ご立派な心を持っておられるのですね。流石は結様のご友人でいらっしゃる」
またも感動したのか、頷きながら老婆は夏音を褒める。しかし、夏音はそんなものは、元来持っていない。戸惑って、微妙な思いになった。
「感心します。一般の人は、信仰を忘れていますから。近頃は一族の中の若いものでさえ、責務を果たそうとしませんし……」
「責務……?」
その言葉に普通ではない何かを感じて、夏音は恐る恐る聞き返す。老婆はそんな夏音のことに気づいていないのか、まるで困ったように、溜息をつきながら答えた。
「ええ。知っていると思いますが、我ら一族は龍神様を讃えるための存在。その教えを守ることこそが、責務なのです。その中の一つに、家を重視する考えがありまして」
「家……、ですか?」
「はい。我々はその教えにより、この広美一族の血統を代々守っていかなければいけないのです。そして時々、他の特定の家と婚姻し、関係を保っているのですが……」
「……!!」
驚いて言葉を失った。
古臭い、とは感じていたが、まさかそんなことをしていたなんて、思いもよらなかった。改めてこの老婆には異質さというか、薄ら気味の悪いものを感じる。
「何故それを嫌がるのでしょうね」
「……」
夏音は本気で老婆の言っていることが理解できなかった。そんなの当たり前なのに、何故彼女はそれをおかしいと思わないのだろう。むしろ、不思議がる方がおかしい。
教えを守ろうとすることは立派だが、だからといって、好きでもない相手との結婚は大抵の人は良い思いはしないだろう。そもそも、血統を維持するという考え自体が今の時代の考えとは離れすぎている。それを不快に思う者がいるのは、当然と言えば当然だろう。
「……本当に、どうしてだろうね」
結は平坦に声で言った。夏音は結のその様子に、どこか白けたような印象を抱いて、はっとした。
「結様も教えを守ることこそが、大切だと思われますよね?」
「そうだね。ごめん、……僕達、用事があって忙しいから。それじゃあね」
結はそう強引に切り上げて、無理矢理夏音の腕を握ると、その場を離れていった。
速足になって結は歩き続ける。そうして人気のない場所にくると、ベンチがあるところを探す。そこの前に来ると、夏音をぱっと離した。
彼女の姿は、どこか痛々しい。荒い呼吸が、その口から発せられた。
「家主さん……」
夏音には、結の事情はよく分からない。けれど今の老婆との会話や今の様子から、相当心が乱れていることが分かる。
あまりにも時代遅れな考え方。そして、先程聞いた、教えが絶対なのだという思想。その異常なものを、夏音は到底守りたいとは思えなかった。
夏音でさえ嫌悪感を感じるのだ。それらに幼い頃から触れてきたであろう結は、一体今までどんな思いを抱いてきたのだろうか。家の規則を嫌がったりしていたことから、良い思いをしていないことは明白だ。わざわざ一人暮らしをしているのも、一族と一緒に居たくないためなのかもしれない。
『キュゥべえ……何であのお婆さんはあんなことを、平然と話せるんですか?有り得ないですよ……』
夏音は、堪え切れずテレパシーでキュゥべえに語りかける。この気持ちを留めておくことが、夏音には出来なかった。
『……でも彼女達はそれを当たり前だと、根拠もなく信じている。昔から広美一族はそうだよ。そしてそれに反発する者も多かった。昔の素質ある一族の女の子達は、そういったものから逃れるために、契約することがほとんどだった』
『……何故、そんなことを信じられるんですか?神様なんて、どうせ居ないんじゃないんですか?居たとしても、願いを叶えるなんて眉唾ものじゃないですか』
キュゥべえと出会った時も、願いが叶うなんて信じられなかった。それを世代を超えて長い間信じるなんて、無理なような気がしてならない。
『だとしても、昔からそう言われているなら、それが真実なのだと捉えるのが、信仰じゃないのかい?』
『だからって──』
…と、そこで。ふと、結は呼吸を落ち着かせると、夏音の方を向いた。唐突に口角を上げる。瞳が細められ、三日月のようになった。
夏音は思わず、没落の魔女の結界内での彼女の姿を思い出す。彼女の異常性を思い出し、何となく気分が悪くなってくる。
「……気持ち悪い、気味が悪いって思った?」
ゆっくりと、絡みつくような口調で尋ねる。夏音は冷や汗をかきながら、ぶんぶんと首を振った。
「い……いや、そんなことは全然思っていません…」
「無理しなくても良いんだよ?僕らが──僕が気持ち悪いんだってことは、分かってるんだから。むしろ、そう思ってくれて構わないんだよ?」
結はにっこりとしながら言った。
夏音はそれが言葉通りの意味なのか、反対にそう思って欲しくないという意味なのか、判別できなかった。
だって、先程まで動揺していたのに、突然笑顔になったのだ。しかも結は何がそんなに嬉しいのか、本当に喜ばしげに微笑んでいる。
結の真意が、夏音には掴めなかった。その感情の動きは、とても考えられない、あり得ない感情の動き方だった。夏音は、結に大きな違和感を感じた。
「僕のことなんか、本当に軽蔑して構わないからね、ね?」
「……何で、家主さんを軽蔑しなきゃいけないんですか?」
夏音はぽつりと心の声を漏らした。結は表情を崩し、戸惑ったように困惑した。
「……え?」
「はっきりと言います。私には、家主さんを軽蔑することは不可能です。ですから、そんなことは出来ません」
結はこんな見ず知らずの自分に、とても良くしてくれている。マンションの一室に住ませてくれているし、心配したり、助けてくれたり、特訓までしてくれた。……そして、昨日の魔女の戦闘の後、元に戻って錯乱していた時にも、励ましてくれた。
そんな結を馬鹿にすることは間違っている。もちろん、あの変な老婆と同じ一族の一員という理由で、気持ち悪いと思いたくない。それは、気持ち悪いと思う正当な理由にはならない。
「……家主さん。恩のある人を、そんなことで軽蔑したくありません」
「……夏音は本当に真面目だね」
キュゥべえが褒めているのか、貶しているのか分からない調子の声で言った。夏音はそれに思わずむっとして、ちょっと不貞腐れた。
「……」
結はしばし、夏音の言葉に黙った。どうやら罰が悪いらしい。
「……そっか。ごめんね」
やがて彼女は小さな声で謝る。目尻には、涙があった。
「ごめんね。夏音ちゃん。……お嬢様の魔女の時、僕は君に怖い思いをさせたよね。あの時も、前も、今も……ずっと自分のことを、君に押し付けて……。すごく……自分勝手だった。自分のことしか見えてなかった。……押し付けずには居られなかったんだ。君は、僕のこと知らなかったから……」
「家主さん……?」
「何言ってるか、まるで分からないよね。けど、謝らせて欲しいんだ。ごめん。今みたいなこと、もうしないから」
すまなさそうに結は謝罪する。本当に、すまなさそうに。
夏音は少しだけ、きょとんとなった。結がこのタイミングでそんなことを謝ってきて、驚いてしまったのだ。
しかし、次の瞬間嬉しくなった。結がちゃんとそのことを自覚していたのもそうだが、こうして謝ったことで、彼女の人柄がとても優しいのだということが、何となく伝わってきた。
「……私の方こそ、面倒もいっぱいかけて、嫌なことも考えてました……。だから、すいません」
彼女のことを恐れていたし、嫌っていた。結に対して、色んな良くない感情を抱いていた。本当に、酷いことをしていたと思う。それは、こちらも謝らなければならないだろう。
「……じゃあ、お互い様だね」
結は、へらっと笑った。先程の笑みと違い、それは幾ばくか明るいもののように思えた。