何かかが降り立ったような、そんな僅かな物音が聞こえた。
照明はまだ明るかったので、結はその正体が何であるのか、はっきりと認識することができた。
締め切ったカーテンに、窓の向こうにいるだろう、小さな猫のような動物のシルエットが映っていたのである。
「キュゥべえ……?」
今は深夜だ。起きている(明日のことを気にし過ぎて、眠る気になれなかった)自分が言うのも何だが、いくらなんでもこの時間帯に来るなんて、普通ではない。来るとしたら、明日の朝頃の筈だ。
何かキュゥべえには、今の時間でしかやれない用事があるのだろう。そしてこの部屋に来たということは、夏音ではなく自分と話がしたいということに違いない。
それが何であるのか、結にはさっぱり分からない。だからこそ、彼女は大きな恐怖を感じた。
勘は自分でも鋭い方だと思う。その勘は、何かとてつもないことが起こることを、さっきから結に警告し続けている。
今すぐキュゥべえを殺せ。さもなくば、後戻りが出来なくなる。
頭の中を、そんな言葉が無茶苦茶に暴れ回っている。延髄がそのまま食い破られそうな錯覚を覚えるほどに。
でも、そこから一歩も動けない。それどころか、僅かな動作さえ何もできなかった。
緊張のあまり、体が固まってしまっているのだ。
それは今まで魔女の戦闘の時でさえ、味わったことがない経験だった。
結は当然、激しく戸惑う。完全に彼女の思考は、こんがらがっていた。
(これは……、一体何?僕はどうしてしまったんだ?)
キュゥべえに対して、吐き気を伴う拒絶感が湧いてくる。そのせいか、酷く気分が悪い。
体温も上昇し、全身を嫌な汗が伝う。
何故か目はキュゥべえ以外から動かせなくなっていて、手は自然と震えていた。
『こんばんは、広実結。今宵は、宴にぴったりの良い夜ね』
頭に響くその声は、キュゥべえの、あの少年のような声ではなかった。少女の、恐ろしく冷たい声。知ってる人物の、知っている声だった。
それを理解した瞬間──結は体が固まっている状態から解放された。
本能的に魔法少女へと変身する。そして次には、鉈をキュゥべえ目掛けて投擲していた。
しかしそれは、窓に到達することさえ出来なかった。シルエットの前に大きな紙が現れ、鉈に覆い被さり、地に組み伏せたからだ。
『……君、キュゥべえじゃなくて入理乃ちゃんだね?』
新たに呼び出した鉈を構え、そのシルエットを睨みつけながら念話で問う。
すると、案外あっさりと声の主は自分が入理乃であることを認めた。
『そうよ。キュゥべえを殺してね、その死体に私の魔力を込めた紙を入れて操ってるの』
『……そういうの好きだものね』
入理乃は昔からやたらと魔法の道具を考案し、試作していた。
そうして入理乃は小細工を沢山用意して、対立時には結を散々苦しめてきたものだ。
それは撤去されず罠として残っていたり、時として土地に多大な影響を及ぼしたりして、今でもその後が自分のテリトリーには随所に残っている。
しかしそれはもはや懐かしい過去だった。平穏な日々を送るうちに、忘れつつあったのだ。
それが今……、再びこうして仕掛けられるとは。……分かっていても、正直思うところがある。
『ということは、……僕達のことを、ずっと監視していたんだね』
最近会っていたキュゥべえは、全部入理乃が操っていたに違いない。
キュゥべえは信用ならないが、かといって関わらない訳にはいかない存在だ。だからキュゥべえは、結達に容易に近づけることができる。
そうやって入理乃は、結達を観察していたのだろう。自分にとって有理に事が運ぶように。
……しまった、と後悔する。入理乃のことを詳しく知っていたのだ。もう少し彼女の行動を予測して、警戒していれば良かった。そうしたら、こんなことにはならなかった。
入理乃達への対策は全部キュゥべえに伝えてはいないが、入理乃には関係ない。僅かな情報と結達の行動から、彼女はある程度答えにまで行き着いてしまう。
これでは、すべて筒抜けになってしまったも同然だ。もう揃えた手札は、使い道になりやしない。
しかし入理乃の行動は、不可解だ。
どうしてそんなことをわざわざ言うのだろうか。黙っていれば、断然有利に事は運ぶはずだ。
おかしな点はまだまだある。
操られていない、本来のキュゥべえは一体どうしたというのだろう。
個体が殺されて、それを操って本人のふりをされているのだ。これはキュゥべえ側も看過できない行動に違いない。ここで何もしないのはおかしい。
(まずいことになった……)
まったく入理乃の意図が読めない。何をしてくるのか、分からない。
もしかしたらこの間も、何か仕掛けをしていても不思議ではない。
……ここはもう危険だ。この場から一刻も逃げなければ。
(でも僕が真っ先に逃げる訳にはいかない。……夏音ちゃんから先に逃がそう。僕が時間稼ぎをしないと)
夏音には、かなり迷惑をかけた。
自分の都合で、怯えさせて、気分を悪くして。それにあわよくば、ずっとそのままの状態で、無理矢理にでも側にいさせるつもりだった。
だがそれは、ただの我儘だ。自分の罪を他人に押し付けて、救われようなんて……、あまりにも虫が良すぎる。一番やっちゃいけないことだった。
どれだけ不快だっただろう。こんな気持ち悪い自分となんて、居たくないに違いない。きっと逃げ出したかった筈だ。
でも彼女に行き場なんてなかった。仕方なく、ここに居るしかなかったのだ。
……それを利用しようとした結は、なんと愚かしいのか。もはや言葉では言い表せない。
だから、せめて夏音は守らなければならない。傷つけたものとして、そのくらいの責任はある。
結はさっそく夏音へテレパシーを送ろうと、思考を彼女へ届けようとする。
しかしその直前、
『……私ね、“記憶”を取り戻したの。すべてを思い出したわ』
『……え?』
そんなことを言われ、呆然となった。
『な、何言ってるの?』
結は思わず、顔を引きつらせた。何でか知らないけれど、悪寒がより一層強くなった。
誰か、自分を助けて欲しい。この場に居たくない。この子の言うことなんて、聞いていたくない。
『今まで私は、その記憶を魔法の紙に封じることで忘れてた。そして封印したことさえも、忘れてた。けれどね、ずっとその紙を、首に下げた袋に入れて肌身離さず持ち歩いてたの……。何か異常があった時に思い出さなきゃいけないってことは、無意識に感じてたから』
夏音という異分子の出現。それは紛れも無い、異常。
だから入理乃は、真っ先に記憶を取り戻したのだ。夏音に対抗するために。
『お陰ですぐに思い出せたわ……。でも、思い出して分かったけれど、忘れてたのは私だけじゃなかったわ。結も、記憶を忘れてる。ミズハさんが復活したっていう記憶を、私に封印してくれと言ったのよ。それで私もこんがらがっていたから、二人で記憶を封じたの』
言った覚えなんてない。言うはずがない。
それにミズハが復活した……?何のことを言っているのか、結は理解ができない。
『懐かしいわ。互いに記憶を封じるには、互いの力が不可欠だった。それを条件に、見返りとして私達は境界線を作ったり、テリトリーを半分にしたり、色々分け合ったものね。そういうのがなければ、信頼し合う事が出来なかったから』
『そ、それは違う……。そんなことのために、取り決めをしたんじゃ──』
『でも、真実はそうなのよ』
冷酷なまでに、入理乃は言い放つ。結の希望は……、容赦なく斬り伏せられた。
『……今思えば、何で忘れようとしていたのかしら。何で偽物なんだって拒絶したのかしら。ミズハさんは間違いなくミズハさんだったのに……』
後悔しているような声だった。そして彼女は心の底から自分の行いを恥じるかのように、最後は黙り込んだ。
『……私は、皆許せないのよね。私も、夏音ちゃんも、船花ちゃんも、全部ぜーんぶ。もちろん貴女も許せない、結』
結は唇を噛みしめる。
その怒りは、正当なものだった。だから甘んじて受けるしかない。言い訳なんて許されてはいないのだから。
『どうして、貴女までも忘れようなんて言ってきたの?大切じゃなかったの?もしかして、利用価値がなくなったの?どうせ何かメリットがあったから仲良くしてたんでしょう?』
『……あの子と僕を馬鹿にしてるの?ふざけないで』
入理乃のあまりの言い草に怒りを覚え、怒気を含ませた声で反論する。
本当に結はミズハを愛していたし、ミズハもまた結のことを愛してくれた。そこには一切、打算的な考えなんてない。ただ絆のみが存在していた。
……確かに今は、その絆はないのかもしれない。けれど、大切なものだった。それを否定されたのは、幾らなんでも許せない。
『嘘つき。何綺麗事言ってんのよ。私知ってるもの。人間は皆そうなのよ。人間はね、他者に対してメリットしか見てないの。利用価値があるから、他者と付き合ってるの』
『……!?』
その考えに、つい驚いてしまった。
入理乃は相方を何よりも大切に思っていた。それは本物の気持ちで、サチも入理乃を誇りに感じていた。両者には強固な信頼の原則繋がりがあったのだ。
しかしそれを入理乃自ら、違うと言いのけたのだ。
『き、極端過ぎるよ。そういう人がいるのは事実だけど、でも皆そうじゃない。純粋に信じ合っている人もいる。君達もそうなんじゃ──』
『違うに決まってんでしょぉ!嘘つき嘘つき嘘つきぃ!!』
突然入理乃が大声でテレパシーを送ってきて、びくりと肩を跳ねさせた。
その後も入理乃は気にせず、感情任せに続ける。
『船花ちゃんは、私にメリットがあるから付き合ってたんだ!そうじゃなきゃ仲良くしてくれないんだ!皆そうだったもん!私に近づく子は、私を打算的な目で見てきたし、大人だって自分のことしか考えてない!私が優秀だから自慢してるだけよ!いらなくなったら、ぽーいって捨てて、無関心!誰も……私なんて見てもくれないのよぉ!!だから、船花ちゃんも私を捨てるんだ!!ミズハさんしか、私を頼りにしてくれないんだ!!そうに決まってるんだよぉぉぉぉぉ!!!!』
入理乃は泣いているのか、かなり激しい声で癇癪を起こす。その様はまさに小さな子供だ。
結も流石に唖然としてしまって、言葉も出なかった。
いつもおどおどしていたが、こんな風になることはなかった。本当にあの入理乃と同一人物とは思えない。
『……』
やがて落ち着いたのか、入理乃は無言になった。
結は少しほっとした。頭の中を大声でわんわん叫ばれていたので、かなりきつかったのだ。
『……私にはもう、ミズハさんしかいないの。分かる?私はね、船花ちゃんにとってはもういらない子なのよ。捨てたられたの、私は』
自分に言い聞かせるためなのか、かなり早口だった。
結は入理乃に憐憫の感情を抱いた。彼女の声は、其れ程までに痛ましいものだった。
『……何でそんなこと思うの?君は、相方を信じてたんでしょう?』
入理乃は数秒だけ黙った。しかしその時間は、それよりももっともっと長い時間のように感じられた。
『信じてた。でもあの子は裏切った。私を頼ってたのに、頼らなくなっちゃった。……私に対するメリットがなくなったんだ。私は邪魔になったんだ。うふ、うふふふ。うひひひ。…………』
自虐的に笑った後、また少しだけ沈黙。重苦しい空気が、部屋を満たした。
(……あのサチちゃんが?あの子はそういった子じゃないのに……)
サチの思いを結はよく知っている。そんな彼女からしてみれば、入理乃の言っていることは、すべて有り得ないことだ。
サチは決して、メリットがなくなったからといって、人を切り捨てたりなんてしない。むしろ彼女は、何があったか知らないが、それを恐れていた。そして入理乃を一生懸命信じようとしていた。
だから……、これは明らかに何かの誤解だ。
『サチちゃんは君を捨てない筈だよ。どうして三年も一緒だった相方を信じれないの?君が思っているより、人はメリットだけで繋がってるものじゃない。……もっと人を信じてよ』
『……ふん。そっちこそ私以上にミズハさんを捨てたくせに、人を信じろなんてよく言えたわね』
『ぼ、僕は捨ててなんか……』
『捨てたわよ。……その自覚がないって言うんなら、私が思い出させてあげる。サチちゃんの持ってきたグリーフシードのお陰で、仕掛けも完成してるし』
『!?』
瞬間、あらゆる負の感情が、結の中から湧き出た。
その感情で、叫びそうになる。しかし口から出るのは、声にならない掠れた息だけだった。
(や、やめて。それだけは……)
何が起こるか、容易に想像できた。
だから、怖い。思い出すのが怖い。
ミズハのことなんか、考えたくない。罪を見せつけないで欲しい。
(僕は──)
「魔女になんかなりたくない!だからやめろ!やめて!」
ついに結は頭を抱えて絶叫した。
しかし入理乃はざまあみろと言うように、結を罵倒する。
『死ね!消えろ、私の前に二度と姿を見せるな!!本当に訳わかんない!!何でそんなに狂ってるの!?意味不明すぎるわよ!!そんな存在、排除してやる……!!奪われる前に、奪ってやるんだから!!そのまま記憶の幻覚の中で絶望して魔女になれ、結ぇええええええ!!!』
キュゥべえの瞳が、ぎらりと金色に煌めいた。
刹那魔力の波動が発せられ、部屋全体を包み込む。それに合わせて、視界が回転を始めた。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
奈落に落ちてくみたいに、その渦に結も飲み込まれていく。
そして気がついた時には、もう──