「そんなの、無理だ」
気がつけば結は、首を振っていた。
明確な拒絶の感情からか、体温が高くなっていく。荒れ狂うほどの憤怒は拳を力一杯握らせ、彼女の目を血走らせた。
自分を愛せだのなんだの、それ程無責任な言葉があるだろうか。
広実結は、広実結を──自分を好きだと感じたことは一度たりともない。
その自己肯定感を育つのを、周りが、環境が、そして運命が許さなかった。
代わりに積み上げられたのは、無力感。味わったのは、強烈な罪悪感。己の存在に対して常に感じていたのは、嫌悪感のみだ。
忘れていたはずなのに、何故か結は不思議なほど、今まで歩いてきたその過ちをはっきりと思い出すことができる。
ユミハを好きな人と結婚をさせる代わりに、ミズハを見滝原に追放させたこと。
そのミズハが中学校でいじめを受け、引きこもりとなったこと。
そんな彼女と喧嘩し、最終的に魔女化させてしまったこと。
愛猫を殺してしまったこと。魔法少女になって、入理乃とサチと縄張り争いを起こしてしまったこと。
そうして──ミズハを捨てるために、ミズハを忘れてしまったこと。
結は何度も何度も頑張って、皆を救おうと必死になった。
だけどその度に何度も何度も失敗して、自分に失望し尽くした。
最終的には自暴自棄になって、周囲を傷つけまくった。
なんて野蛮で、なんて無能で、なんて傲慢なのだろう。
そんな自分を、嫌いにならないはずがない。そしてそのことを思い出して、ますます自己否定が進む。
この感情を捨て去るなど、無理に等しい。覆せない。それが出来るなら、罰を誰かに与えてもらおうなど望みはしない。
「無理だ。
僕には、そんな資格も権利もない。そのくらい分かれよ。この数日間、君は僕のことずっと見てただろ?」
八つ当たり気味に言い捨てる。
この少女に自分は、とても酷いことをしたのだ。
無理やり感情を押しつけて、束縛して、怖がらせて、傷つけた。だから、きっと結のことを嫌ってくれる筈。
さあ、さっきの言葉を否定してくれ。こんな無様な結など見捨ててくれ。
結は、そう瞳で夏音に訴える。
しかし──
「……見てましたよ。貴女が苦しんでいたのを、ずっとずっと。今まで、よくその絶望に耐えてきましたね」
夏音から返ってきたのは、暖かい言葉だった。
その憐憫を、結ははっきりと感じ取る。目の前にあるのは、今までに見たこともない悲哀に満ちた表情だ。
結は苦虫を噛み潰したような顔になる。
優しさなど、求めてないのだ。可哀想だと思われたくもない。それなのに、夏音はこちらの望み通り動かず、結の意に反する情動を向けてくる。身勝手だが、はっきり言ってそんな夏音がムカついて仕方がなかった。
「耐えてなんかない。忘れてただけだ」
結は低い声を出し、ゆっくりと首を振る。
この世には嫌なことが多すぎた。
普通じゃない生まれ。決められた未来。無理解な周囲。味方はとうにおらず、仲の良かった従姉妹達はいない。生まれながらの渇望は、否定されるべきものだった。
もはや希望はなく、絶望しかない。
だから、せめてすべてから目を背しらたかった。そうすれば、どうにか解放されると信じていたのだ。
事実、この二年間はお気楽そのものだった。
以前のような明るさと気軽さを取り戻し、いくらか笑えるようになった。渇望は強くなっていたけど、それに飲まれることはなかった。何より、人を信じられるようになった。
……今思えば、人生で一番楽しい期間だったかもしれない。それが続けば、いずれ自分のことを好きだと思える日もきたのだろうか。
だが、所詮そんなものは偽物の希望。絶望は、今こうして追いついてきた。
そうなることを、結は薄々分かっていたのに。
「……だから、僕は現実逃避をしていただけなんだよ。全部、捨て去っていたんだ」
「──はたして、そうでしょうか」
嘆く結に対して、ふと夏音が疑問を呈する。
それに結は一瞬だけ、頭が真っ白になる。
そんな馬鹿なことがあり得るか。あの時感じた絶望は、深く深く底が見えないものだった。忘れていなければ、無事ではない。
「な、何が……!!僕は、忘れてた!!忘れてたんだよ!!どうして、そうじゃないって言えるんだよ……!!」
結は訳が分からず、困惑のまま叫ぶ。
夏音はその姿に目を伏せて、
「……だって、忘れてるなら、死んだら無意味なんて言わないじゃないですか」
「……!?」
結は驚き、目を限界まで開かせた。
それは、いつの言葉だっただろうか。そう、あれは確か、夏音に特訓をつけてやった時に言った台詞だ。
結は夏音のことが心配で、彼女の身を守れる自信がなかった。だから、その心をあわよくば挫けさせようと思い、少しだけ意地悪のつもりであんな発言を放ってしまったのだ。つまり、過去とは何の関係もない。
……なのに、何故心がこんなにも動揺しているのだろう。意味不明で、気持ちが悪い。
「ミズハが死んで……、ずっと悲しかったんですよね?そして、あの順那が願いによって生み出したミズハを、貴女は受け入れられなかった。家主さんにとってミズハはいないも同然。だから、死んだら無意味だって思ってるんですよね?」
「……違う」
再度首を振る結。そんな彼女を、夏音もまた否定することで己の意見が正しいのだと主張する。
「違いませんよ。それに、貴女は私のソウルジェム──まあイミテーションですが、それが黒くなっていた時、焦ってくれたじゃありませんか」
そう言われた途端、特訓初日、夏音と一緒にお昼ご飯を食べていた時にあった出来事が、頭の中を過ぎる。
……確かに、あの時何故必要以上に慌てたのか。今まで慌てたことに、違和感すら感じなかった。
魔女化。ソウルジェムの真実。そんなことも、ミズハのことと一緒に、忘れていたというのに。
「ち、ちが……」
う、とまで、今度は言い切れなかった。
それは、夏音の言うことが本当なのではないか、という疑問が芽生えたからだ。
しかし、認めたくない。もし、そうだったら、今まで何をやってきたというのだ。これほど虚しいことなど、ありはしない。
いや、そもそもの話──
「忘れていようといまいと、何も変わらない。僕は、所詮薄汚ない存在で。何の価値もなく、望みもどうせなくなって、伸ばした手も誰も掴んでくれやしないんだ。……僕は、僕は──」
そこから先は唇が震えて、何も言えなかった。
その代わりのように、激情は別の矛先に宿る。
結はふと、腕を振るった。そうすることで、自分の手首を掴んでいる夏音の手を離れさせのだ。
そして、その白く細い手首を掲げると──バン!!っと渾身の力を込めて地面に叩きつけた。
それは、常人ではせいぜい打撲が出来る程度の衝撃しか出せないだろうが、しかし、そこは魔法少女である。
地面と接触した瞬間、結のその手首は根本からひしゃげた。
あまりの力の強さに、手は湾曲するどころか肉片と化して血と共に辺りに飛びちり、夏音の衣服にまでべとりと張り付いてきた。そしてその力の余波は、手首だけに留まらない。結の二の腕までも歪に折れ曲がらせ、骨を飛びださせている。その傷口からは血が垂れ続け、足元に紅の水たまりを作り出していた。
結は、それをヘラヘラヘラヘラと見つめて笑っていた。
痛い。いたい。イタイ。
熱を帯びたみたいに、とってもイタイ。でも、それが良い。自分が壊れて苦しめられるなら、それでいいのだ。
でも、そう思っている自分が異常で気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
気持ちが悪いから、壊してしまおうか。そうするのが一番良いに決まっている。
結は哄笑しながら、今にも千切れてしまいそうになっている二の腕を無理やり動かす。そうして、また地面に叩きつけようとし──
「もう良い。もう十分です」
その時、夏音の凛とした声が場に響き渡った。
結は思わずびくりと止まり、いつの間にか下がっていた顔を僅かに上げる。
夏音はその瞳に悲しみの色を灯し、こちらを見ていた。
「自傷行為なんて、しないでください。痛々しくて見ていられません」
「何で……?放っておいてよ。僕はこうなって当然!!こうして当然!!罪人に、罰を与えているだけだ!!」
「そんなもので、どうにもなりませんよ……。いくら自分で自分を傷つけようとも過去は変えられません」
「……分かってるよ!!そんなの知ってる!!どうにもならないのなんて、今更だ!!だからこそ、こうして傷つけているんじゃないか!!それなのに、なんだよ!!自分に優しくしろって言うのかよ!!冗談も大概にしろよ、こん畜生!!」
その綺麗事に、憤怒が最高潮に赤熱。その熱を怒声として汚らしく吐き出す。
そんな言葉、欲しくない。哀れみなど遅い、あまりに遅すぎる。もうこの心は凍りついている。暖かさなど、受け入れられるものか。
結だって、もちろん人並みの救いを求めはした。それを密かに期待した。
しかし、ずっと責められて踏みにじられてばっかりで、挙げ句の果てに一人ぼっちにさせられたのだ。どいつもこいつも、自分を含めて周りにはクソしかない。クソクソクソクソ、クソばかり!!
「どれだけ僕の尊厳が汚されてきたと思ってんだ!!それこそ、生まれた時から、僕が生まれる前から否定されてきたんだぞ!!自分を嫌いにならないでください?自分を傷つけないでください?
……ざけんな!!そう出来ないようにしたのは、お前らクソ野郎じゃん!!僕がこうなったのは、僕のせいじゃない!!」
しっちゃっかめっちゃかなことを言い続ける。結はまるで、子供のような癇癪を起こしていた。
夏音など、自分の過去や出自とは無関係な人間だ。こんな感情をぶつけたところで、どうしようもない。だが、怒りが止まらない。結は今、すべての事象に狂うように憤怒している。
「それともなんだ!?僕をお前がどうにかしてくれるのか!?ええ!?もう、そんなこと望んじゃいねえよ!!」
結は怒鳴ると、指を指して睨みつける。だが夏音ははっきりとした口調で、
「……そうだとしても、助けます。“私”が何のために、何十回もループしたと思ってんですか。ここできっちり、何が何でも貴女を助けます。そのために、わざわざ貴方のソウルジェムの汚れを食らって──この場所に運んだんですから」
「はぁ……?」
相変わらず言っている意味が分からず、苛立った声を出す。
そんな結に、この広大な世界を見るように言った。
その言葉の通り、結は改めて周囲の空間を観察する。
そこは、一面暗闇の世界だ。周りはすべて黒という黒で塗りつぶされ、その色彩以外に存在している色はない。
遮蔽物も一切なく、また壁もない。空と地面はどこまでも広がっていて果てがなく、ずっと歩いていても同じ景色が続いていくことだろう。
いるだけで、平衡感覚が薄れて発狂しそうな場所だった。
ただ無機質な空気のみが漂い、それを吸い込むと、違和感が肺の中に巣食う。
「ここがどうした……。何をする気だよ……」
警戒心からか、胡乱げに聞く結。夏音は両手を広げ、
「ここは、貴女がいる世界を覆う、もう一つの世界──“私”が作り上げた結界の一端です。ここには、“私”が積み上げてきたループの記憶や、貴方がいる世界の記憶が内包されている。その記憶を貴女に見せて、本当の望みを思い出してもらいます」
「本当の望み……?」
結は首を傾げる。
……思い出す?何を?
罰されること以外に、結に望みなどあるのだろうか。ミズハも順那も何もないのに。
くだらなすぎて、歯を剥き出しにして笑う。菊名夏音が、とんだ大馬鹿ものに思えてならなかった。
「何がおかしいんですか」
不快そうに眉を寄せる夏音。結はますます小馬鹿にしたように笑うと、
「わっかんないかなあ!!そんなの、どうでも良いってことだよ!!そんなことのために、僕を助けるな!!その口振り、お前が僕の魔女化を防いだんだろ!?」
「はい」
「……お前、お前はぁ!!余計なことを……、余計なことをしやがりやがってぇええええええええ!!!!」
膨れ上がる激情のまま、獣のように吠える。
そこで初めて、夏音が動揺したかのようにびくりと肩を跳ねさせた。その表情には、何故、という問いが浮かんでいた。結は哄笑しながら、わざわざそれに答えてやる。
「こんな記憶を、思いを、絶望を、思い出した状態のままにしてんじゃねえよ!!また、苦しい思いをする羽目になったじゃねえか!!これなら、魔女化した方がマシだったわ!!」
結には、絶望しかないのだ。苦しみしかないのだ。
それを自覚させらるなど、地獄の再来でしかない。気がおかしくなりそうになる。
いっそのこと、自我などなくしてしまった方が良かった。たとえ、魔女になってでも、狂うことになっても、罪を重ねることになってでも──
「──すべて、どうでも良い。すべて疲れた。何も考えたくない」
「家主さん……」
叫び終えた結は頭を抱え、がくりと力なく項垂れた。
案ずるような夏音の声も、耳に入らない。
怒りはすでに消え、代わりのように悲しみが一気に押し寄せる。それと共に、熱くなる涙腺。結は無事な方の手で顔を覆う。
「ころ、殺してくださいぃ……。頑張ったけど、これ以上は無理だよぉ。ぼ、僕はぁ、ミズハを忘れてぇ、捨てましたぁ……。順那もおかしくなっちゃって、訳分かんなくて……、頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたら良いか……、思いつきません……。僕は、罪人なんですぅ……。罰を受けなきゃいけないんですぅ……。で、でもぉ、誰も僕を救ってくれなくて……皆僕のこと見でぐれないし、酷いんですぅ……。だがら、ごんな酷いぜがい、いらない。……ひっく、……生きでたくない。……死なぜてぐだざい。お願い、じます……。がみざまぁ……」
辛くて辛くて辛くて堪らない。気力が何も湧かない。
一人ぼっちの少女は、慟哭することもなく泣き続ける。
ただ、死なせて、死なせてと懇願しながら。
彼女に降りかかった絶望は、それほど重いものだったのだ。
魔女化にあれだけ恐怖していたというのに、その感情すらもその絶望の前では搔き消える。
それは、すべてを奪い、広実結に死だけを望ませる。
その様子は、ひたすらに哀れだった。本人の望むように、いっそ終わらせてやるのが慈悲であろう。
だが──
「死なせませんし、殺しません。私は、無理やりにでも貴女を助けます」
夏音は、その慈悲を与えなかった。苦しそうに、だが冷徹に、ただ救うと言ってのけた。
結は涙でぐしゃぐしゃになった顔に失望の色を宿らせる。
「どうして……」
「そうするのが、“私”の──私の役割なんです。……それを抜きにしても、貴女には生きていて欲しいんです。それだけが、今の私に残されたものなんです」
夏音の瞳の絶望が、一段と深みを増した。
結は泣くのも忘れて、はっとなる。
──恐怖。それが、背筋を凍りつかせていた。
夏音の眼球に宿る闇は、ただの執着などではない。もはや、怨念や狂気と言い表すべき何かである。
そして、そういった感情を持っている夏音を、果たして普通の少女と呼べるだろうか。
──魔女。
その存在が、思い浮かぶ。
途端におかしくなって、結は身をよじって前のめりになり、バンバンと怪我のない方の手で地面を叩く。
「ア、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!
魔女が、僕を助ける!?おか、おかしい!!フフフフフ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
まさか嫌悪している対象から、救うという言葉が飛び出るとは。これほど滑稽なことがあるか。
あり得なさすぎて、とち狂っている!!
「……おかしいのはどっちですか。あと私一応魔女じゃないんですが。どっちかっていうと、“私”の方が魔女なんですが」
「どうでも良いよ。だいたい、そこまで代わりないじゃない」
「────」
夏音が、唇の端を噛み締める。自分でもそう思っていることを突かれたためだろう。
せせら笑う。その黒々とした喜びは、ミズハを捨てようと思った時に湧き上がったものと同一の感情だ。
結は固有魔法を発動。
肉体の状態が巻戻り、ビデオの逆再生のように損傷した腕が元に戻っていく。そうして、ぴちゃぴちゃと水たまりの血を跳ねさせながら立ち上がると、完全再現された手に剣鉈を召喚し、それを夏音に向ける。
「……殺してくれないなら、君なんていらない。魔女に、助けられるものか──君を殺して、自害してやる!!」
「そうですか。ならば私は──それを、阻止します」
同じように立ち上がる夏音。その手に紅のハルバード、ブラッドを握りしめ、悲痛そうに刃を向けた。
結の口角が、ニヤリと上がる──同時に両者は腕を振るい、鉈とハルバードがぶつかって、火花が舞った。