水底の恋唄   作:鎌井太刀

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 マギレコでさやかちゃんが実装するという。
 ならば書かねばならぬと思った(使命感)。


★第一話 あたしを一人にしないで

◇◆◇◆◇

 

 

「んーっ、いい天気!」

 

 中学での終業式も終わり、春休みに相応しい麗らかな陽射しを浴びていると、わけもなく心が弾んでくる。

 つい最近まで寒さに身を縮めていた反動もあるのか、どうにも舞い上がってしまう気分が抑え切れずにいた。

 

 春は様々な始まりを告げる季節だ。

 休み明けには私立見滝原中学の二学年に進級する事になる『美樹さやか』も、この春休み中に新たな一歩を踏み出すべく、とある一つの目標を立てていた。

 他人から見れば取るに足らない小さな一歩かもしれないが、少女にとってそれは途方もなく大きな前進。

 

 それは想い人である『上条恭介』に告白する事。

 ごく普通の女子学生である美樹さやかは、そんなごく普通の恋をしていた。

 

「……あいつ、喜んでくれるかな?」

 

 想い人である彼の尊敬している演奏者のコンサートが、偶然にもこの見滝原市の近場で開催される事を知り、これぞ天祐とばかりに彼を誘ったのが春休み前の事。

 

 人もまばらになった放課後の教室で、大した事じゃない風を装って誘ったものの、内心では「断られたらどうしよう」と不安で一杯だった。

 そんなさやかのドキドキなど露知らず、意中の彼は実にあっさりと頷いてくれたものだ。

 勿論断られなくて安心したし、嬉しくもあるのだが……少しは照れるなり何なりと『特別な反応』が欲しいというのが正直な乙女心だった。

 

 さやかの想い人は知る人ぞ知る天才ヴァイオリン奏者として、将来有望な天才少年だと周囲からは評価されている。

 少女にとっては幼い頃から憧れの存在であり、同時に幼馴染としてただの友人以上の好意を長年抱いてきた存在でもあった。

 

 さやかにとって今回のコンサートは紛れもなくデートのつもりだが、恐らく彼の方にそんな意識は全くないのだろう。

 気負いなく了承した彼の態度から、さやかもそれは重々承知している。気安い幼馴染と一緒にコンサートに行くなど、それこそ何度もしている事なのだから。

 

 それが少女としてはちょっとばかり悔しいが、今日こそ幼馴染の意地に賭けても振り向かせてやるつもりだ。

 

 勿論普段とは違う意外性を狙って、遊園地など他のデートスポットに誘う手もあるにはあったが、音楽バカの彼のことだ。ヴァイオリンの稽古だなんだと断られていた可能性が高い。

 

 ……というか、それで去年は失敗していた。

 恋する乙女として、同じ轍を踏むような真似はするまいと涙を呑んだのも良い思い出だ。

 

(……うん、ちょっと強がった。あの時は結構凹んだわー)

 

 普通の少女なら愛想を尽かしてもおかしくなかったが、さやかは諦めの悪さには自信があった。

 

 良い言い方をすれば一途であり、悪い言い方をすれば頑固者。

 そんな少女の恋は未だ挫ける事無く続いている。

 

 だから確実に彼が食いつくであろう今回のコンサートは、さやかにとって絶好の機会だった。 

 この日の為に用意したお気に入りの勝負服を着て、鏡の前で何度もおかしな所がないかチェックする。

 

(『可愛い』とか、褒めてくれるかな……って、あの唐変木にそんな甲斐性ないないっ!)

 

 顔を真っ赤にして、さやかは思い浮かべた妄想を払うように首をぶんぶんと振る。

 ちなみに妄想の中の想い人が、恋する乙女補正によりかなり美化されていたのは最早お約束だろう。

 

 準備は万端。気合いも十分。

 敵は難攻不落の朴念仁なれども、こちとら十年以上かけて攻略してきた幼馴染様だ。

 

 どんな鉄壁の要塞だろうが落としてみせる。

 足がかりとなる橋頭堡も十分。後は一気果敢に本丸を攻め落とすのみ。

 

(いざ、出陣!)

 

 気分は正に合戦前の戦国武将。

 恋する乙女の前には、どんな障害もなにするものぞ。

 無敵に素敵な気分でさやかは待ち合わせ場所へ向かうのだった。

 

 

 

 

 だが待ち合わせ場所である駅前の広場で、さやかは早くも無敵なはずの気分が徐々に萎れていくのを感じていた。

 

「……恭介、遅いなぁ。これは減点ものだぞー」

 

 などと口ではおどけて見せるが、さやかの表情は不安で曇っていた。

 さやかの方も待ち合わせ時間より早く来過ぎたかもしれないが、それでも男子たるもの時間前に到着するのがマナーというものではなかろうか。

 

 仮に教室で「女の子待たせる男子ってどう思う?」などとクラスメイトに質問されたら、即座に「サイテー」の一言で切って捨てるのだが、現実とは儘ならないものだ。

 

 少女の幼馴染は確かに天才なのかも知れないが、その分バカなのである。

 音楽バカ、ヴァイオリンバカで、それ以外の事では結構杜撰なのだ。

 

 付き合う事になる子は絶対に苦労するだろう。

 それが分かっていてなおずっと想い続けているのは、惚れた弱みという奴だろうか。

 

(自分でもバカだなぁって、分かってるんだけどさ)

 

 何かに夢中な彼の姿が眩しく思えてしまうのだから。

 それは幼い頃、ヴァイオリンを弾く彼の姿に目を奪われたあの日からずっと変わらない。

 

(……まぁ、そういうとこがカッコ良くもあるんだけど)

 

 などと少女は内心で惚気ていた。

 そんな風に気を紛らわしている間も、予定時刻が刻々と迫っていく度に、さやかの胸中は不安で圧し潰されそうだった。

 何度も携帯で時間を確認し、メールも送ったものの返信は未だになし。

 

 こういう所が杜撰なのだ。

 大方電源を入れ忘れているか、携帯を携帯していない可能性すらある。

 

「あ、やっときた」

 

 そわそわしながら待っていると、予定時刻ピッタリになってようやく待ち人の姿が見えた。

 交差点向こうのバス停に降りた彼の姿を見つけ、さやかは小走りで彼の元へと向かう。

 

 丁度赤信号に切り替わった所だったので、横断歩道を挟んで彼と対面する形になった。

 

「こらー! 遅いぞー!」

 

 口では怒りながらも笑顔で手を振ると、彼も申し訳なさそうな顔で「ごめん」と手を挙げて応えた。

 

 遅刻は頂けないが、しつこく怒って狭量な女だと思われたくもない。

 それに今日は大事な日なのだ。あんまり遅れると緻密に練ったスケジュールに支障が出るかもしれない。

 

(あーもうっ、早く青に変わってってば!)

 

 ようやく信号が青に変わると、さやかは待ち切れないとばかりに駆け出した。

 

 一歩、二歩。

 彼もまたさやかの元へと歩いてくる。

 

 徐々に二人の距離が縮まる。

 この日ばかりは横断歩道の距離が長く感じられた。

 

 ――危ない!

 

 後方で誰かが悲鳴を上げた。

 さやかは思わず足を止める。

 

 振り返ろうとする直前、焦ったような彼の声が聞こえた。

 

 ――さやか!

 

 見れば血相を変えて叫ぶ彼の姿が。

 彼の唇がやけにゆっくりと動いて見える。

 

 逃、げ、て――――。

 

 不意に、側方から言い様のない圧力を感じた。

 それは危険を察知する警鐘だったのかも知れない。

 

 けれどもそれは、最早後の祭りだった。

 

 

 車が、

 

 

        目の前に、

 

 

 ――――なに、コレ。

 

 

 時が止まる。

 

 

        ノイズ。

 

 

 音と衝撃。

 遠くから鳴らされるクラクションと無数の悲鳴。

 

 

 ノイズノイズノイズ。 

 

 

 視界が砂嵐のように点滅する。

 音が、意識が、急速に遠ざかっていく。

 

『さやかぁああ!』

 

 最後に、彼の声が聞こえた気がした。

 自身の状況をどこか遠い舞台の出来事のように感じながら、美樹さやかの意識はプツリと呆気なく沈んでいく。

 

 

 

 幸せな現実(ユメ)が終わる。

 目覚めた時には悪夢(ゲンジツ)が待ち受けるとも知らないままに、さやかは生死の境を彷徨う事になる。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 さやかの意識が戻ったのは、事故から実に半年もの月日が過ぎた頃だった。

 春はとうに終わり、暦は秋も深まる十月へと移り替わってしまっている。

 

 だがさやかにとって、そんな時間の経過など些末な問題でしかなかった。

 それよりも致命的な問題がさやかの身に起こっていたのだから。

 

 

 ――さやかの目の前には、肉塊の化け物がいた。

 

 

メga醒芽他■Ne(目が覚めたのね)Dぉこカ犯詩Na■頃はNaイ(どこかおかしな所はない)?』

 

 肉塊の化け物はその悍ましい体を震わせ、耳障りな鳴き声をさやかに聞かせる。

 

「うわああああああああああああああああ!!??」

 

 さやかが目覚めた先の世界は、狂ってしまっていた。

 

 否、狂ってしまったのはさやか自身なのだろう。

 あるいは目覚めなければ、まだ救われたであろうに。

 

 開けた視界に映った『ソレ』を直視してしまったさやかは、冗談ではなく心臓が止まりかけた。

 訳も分からないままに絶叫し、錯乱し、狂乱した。

 

()Do鵜↓乃(どうしたの)!? 駄胃■ョゥ撫(だいじょうぶ)!?』

 

 そこに居たのは、正真正銘の化け物だった。

 この世の醜悪を極めた様なその姿。生命への冒涜としか思えない造形。

 

 肉塊の化け物としか形容できない、それ以上の言葉で表したくもない化け物。

 少女にとってそれは、最早刺激が強すぎるなどという次元ではなかった。

 

 やがて判明する事になるが、さやかの五感は全て狂い、快と不快が反転していた。

 狂気に犯された認識の下、輝いて見えた世界は突如として臓物色に変わり果てる。

 

 肉塊の化け物に見えていたのは、信じられない事に<人間>だった。

 分泌物塗れの身体はあたかも体の裏側を剥き出しにしたかのように脈動し、顔らしき場所には蚯蚓の様な繊毛がびっしりと覆われている。

 そこから発せられる声は、虫の鳴き声のようなキチキチとした不快な音に聞こえた。

 

 清潔なはずの病室のベッドでさえ、さやかには生物の内蔵に包まれている様に感じられてしまう。

 生臭く生温かな臓物の中にいるような、生理的に受け入れがたい空間。

 

 気の休まる場所などどこにもなく、眠りすらも満足に取らせてはくれなかった。

 さやかにとって現実が悪夢そのものとなり、目が覚めて肉塊達が蠢く様を見る度に、救いようのない現状に絶望する。

 

(……これは、夢だ。とびっきりの悪い夢だ。

 だから神様お願い、早く目覚めさせて)

 

 パニックを起こし、いつの間にか気絶して、目が覚めても状況は何一つ変わらなかった。

 そうしている内にさやかは、徐々にではあったがこの現状に慣れていった。慣れるしかなかった。

 

(あたしはあの時、事故で死んじゃったんだ。だからここは死後の世界、地獄ってわけ)

 

 特に地獄へ行くような悪いことをした覚えはないし、こんな仕打ちをされる謂れもない。

 神様とやらがいるのであれば、そいつもまた随分な真似をしてくれたものだ。死ねばいいのに。

 

 発狂の一歩手前まで追い込まれ、それでも辛うじてさやかは落ち着きを取り戻し始めていた。

 現実逃避にも似た驚異的な適応能力で、さやかは表面上だけは平静を装うことができるようになったのだ。

 

 思いの外、人間という存在は適応する生き物らしい。

 たった数日でさやかは肉塊の化け物に一々悲鳴を上げなくなった。

 

 まぁ錯乱するたびに薬で強制的に鎮静化されていれば、嫌でも落ち着かざるを得ないというものか。

 パブロフの犬ではないが、薬の影響もあって現実感の乏しいまま、辛うじて現状を認識することはできるようになった。

 

 さやかの目に映っているこの肉塊の化け物達は、信じられない事にどうやら本物の人間であるらしい。

 虫がキチキチ鳴くような不快な音を必死に我慢して聞き取った所、あの日事故に遭ったさやかは意識不明の重体で、この見滝原総合病院に緊急入院したらしい。

 

 それから生死の境を彷徨っていたとの事だが、事故から半年が経った現在、奇跡的に目覚めて今に至ると聞かされる。

 

(こんなのが奇跡? ……冗談でしょ?)

 

 目覚めなければ良かったとさえ思う。

 まだ『意識を失っている間、君は異星人に誘拐されて知らない惑星に来たのだ』と説明された方がよっぽどマシだろう。

 少なくとも、自分の正気を疑わずに済むのだから。

 

 それとなく視界がおかしいことを告げ、念の為と精密検査を受けたが、結果はすべて『異常なし』。

 肉塊に体の隅々まで診察されるという拷問をクリアしてなお、得られたのはそんな救いのない結果だけだった。

 

 異常が分かるのであれば、あるいは治療できるかもしれない。少なくともその可能性に縋ることはできる。

 だが今のさやかの状態が『健常』であると太鼓判を押す肉塊の医師達を、どうすれば信じられるのだろう。

 

 挙句の果てに、どうも事故に遭った事で精神的にナーバスになっていると思われたらしく、カウンセリングを勧められる始末だ。

 

 それでも打ち明けた方が良いのだろうと最初は考えた。

 元々さやかの根は真面目な性分だったし、隠し事が得意な性質でもない。

 

 だが肉塊の姿をした医師に全てを打ち明けるのは、どうしようもなく恐怖だった。

 実は異星人がさやかを騙しているのかもしれない。人間のフリをしているのかもしれない。

 だからそれに気付いてしまったさやかに襲い掛かってくるのではないかという、根拠も何もない妄想が脳裏を過ぎる。

 

 さらに言えば、もし打ち明けても治らなかったとしたら? 

 その可能性は高いように思えた。あれだけの精密検査を受けてなお異常が見られなかったという事実がそれを裏付けている。 

 

 それにこの病院は国内でも最先端の医療設備が整っており、地元でも有名だった。

 ここで何一つわからないのであれば、果たしてどこへ行けばいいと言うのか。

 

 懊悩の末、さやかは医師を名乗る肉塊に期待するのを止めた。

 結局治療できないのであれば、これ以上騒いでも見当違いの対処をされるのが目に見えている。

 

 最悪のケースとしては鉄格子の付いた病院に隔離されるか、あるいはモルモット扱いをされるか。

 中学生のさやかですら、その程度の想像はなんとなく見当が付けられた。

 

 それからのさやかは、頭を空っぽにして絶望と諦念に身を委ね、現状に適応しようと努力した。

 人間とは慣れる生き物だ。だから大丈夫。そのうちきっと元に戻るから……なんて、自分でも信じていない奇跡を願った。

 

 そうして表面上は落ち着いたさやかの元に、お見舞いと称して幾人かの親しい友人達がやってきた。

 

 ――当然のように肉塊の姿で。

 

 一々悲鳴を上げるような事はなくなったとはいえ、好き好んで直視したい物でもない。

 おまけに肉塊を見分けるような特殊な技能は、未だに習得できていなかった。 

 

「……ごめん、あんた誰だっけ?」

()Maド加だ夜ォ(まどかだよぉ)

 

(これが……こんなのが『まどか』なの? ――ふざけないでよ、バケモノがッ!)

 

 『鹿目まどか』は、美樹さやかの親友だ。

 小学五年生からの付き合いで、自分に自信がないのか、気が弱くて引っ込み思案なところはあるけど、辛い時には必ず傍にいてくれる。

 そんな他人の痛みが分かる優しい少女だ。

 

 それがこんな――醜悪な肉塊であるわけがない。

 

磋Yあ禍チゃン(さやかちゃん)Maダ張誌ワるぃ嚥蚊Nぁ(まだ調子悪いのかな)?』

 

 肉塊が蠢く度に血管が気色悪く脈動する。

 口を開くたびに胃液のような酸っぱい臭いがし、飛ばされた唾がジュゥっと小さな煙を上げてベッドに付着する。

 

 この冒涜的な醜い肉塊が、あのまどかだなんて……馬鹿にするにもほどがある。

 頭部に巻かれた膿んだ腸が、彼女が良くしていたリボンのつもりなのか。

 

(見てるだけで気分悪い。あたしの親友を穢すんじゃないわよ)

 

 それでもさやかは、なけなしの理性で辛うじて笑顔を形作る。

 おかしいのはさやかの認識であり、目の前の肉塊は正真正銘まどかなのだ。恐らくは。

 

 確信は得られなかったが、記憶にある心優しい親友を傷付けるわけにはいかない。

 そうやって、肉塊相手に笑顔を浮かべる自分に吐き気がした。

 

(あたし今、最高にバカみたい)

 

 親友の次は想い人も見舞いにきた。

 覚悟していたとはいえ、彼が肉塊になった姿を見るのは堪えた。

 

 なにやらごちゃごちゃ言っていたが、肉塊の言葉を真面目に聞き取ろうとすると頭がおかしくなってしまう。

 黒板を引っ掻く音や、発泡スチロールが擦れ合うような音を長々と聞きたいと思う人間などいないだろう。

 ましてや肉塊の声はそれらよりも不快に感じてしまうのだから、もうどうしようもない。

 

 だから肉塊の言葉は半分以上聞き流していた。 

 そんな傍目からはかなり失礼な態度だろうにも関わらず、肉塊はさやかに尋ねる。

 

ナ煮蚊ボKu似(なにか僕に)溺ル殊ッ手あ留Ka名(できる事ってあるかな)?』

「……あんたに、できること?」

Soウ(そう)

「だったら、あたしを一人にして」

 

 さやかは相手の顔も見ずに言い放った。

 正直、傍にいられるだけで汚臭が漂ってきて気持ち悪い。

 面と向かって会話するなんて、どんな拷問だ。化け物が口を開くたびに吐きそうになるのに。

 

 百年の恋も冷める? 

 そもそもさやかは、目の前の肉塊と想い人が同じだとは断じて認めていなかった。

 

 肉塊の化け物が彼に成りすましている可能性も否定できない。

 たとえそれが、目の前の現実からの逃避だったとしても。

 

御mEン(ごめん)ボ苦蛇まダ津他かナ(僕邪魔だったかな)?』

(邪魔かって? ……そんなの、当たり前じゃない)

 

 無言のままのさやかをどう思ったのか、肉塊はそのままズルズルと病室を出て行った。

 罪悪感だとか後悔だとか、そういう物を思う余裕はなかった。

 

 ただ肉塊が消えてくれたことに安堵した。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 退院が近づいてきたある日、さやかは自身がもう限界であることを悟った。

 認識の狂いが一時のもので、そのうち回復するだろうという淡い希望はとうに潰えている。

 むしろ日毎に悪化している有様で、五感は完全に狂ったままだ。

 

 だが神様はどこまでも残酷らしい。

 数時間程前、肉塊(まどか)に強引に誘われて渋々屋上に行くと、そこにはヴァイオリンらしき臓物塗れの楽器を持った肉塊(恭介)がいた。

 

 その他にも、たくさんの肉塊共が勢揃いしていた。

 病院の関係者や、さやかの両親もそこにはいるようだ。

 

 正直に言って、さやかは吐き出さなかった自分を褒めてやりたかった。

 それほど目の前の光景は悪夢そのものだった。肉塊共が並んでこちらを見つめてくる姿は直視に堪えられない。

 

 目を伏せるさやかに肉塊(恭介)が何事かを言い、その音楽に対する冒涜としか思えない楽器を自らの肉に埋め込む。

 恐らくは普通に構えているのだろうが、さやかにはヴァイオリンを穢された様にしか思えなかった。

 

 

 ――そして奏でられるのは、耳を塞ぎたくなるようなノイズだった。

 

 

 音とは、ここまで人間の精神を攻撃できるものなのかと愕然とする。

 所々で彼の面影を感じさせるその演奏は、さやかにとって宝物のような思い出を踏み躙り、過去の記憶すらも塗り潰そうとしていた。

 

 さやかの目から涙が零れ落ちた。

 大好きだったはずの彼の演奏が、今ではただただ不快な騒音でしかなくなってしまった。

 

(あたしの思い出を……お願いだから、これ以上穢さないでよ……)

 

娑ゃKa血椰ん(さやかちゃん)

 

 恐らくだが心配してくれているのだろう肉塊(まどか)がさやかの手を取る。

 

 ぬめりとした感触に思わず払いのけたくなるが、恐らくこれは、この虐めとしか思えない茶番は、退院祝いのサプライズという奴なのだろう。

 今のさやかにとっては憎しみさえ覚えるほど、不要な気遣いだったが。

 

 ならばここで不審な態度をとれば退院が長引くかもしれないと、小心者の自分が囁いた。

 そんな常識に最早なんの価値もなかったが、目の前にいる大勢の肉塊達を不快にさせるのもまた恐怖だった。

 

 だからさやかは、必死に笑う。

 内心では無数の罵倒を巻き散らし、目の前にいる肉塊共を本当のミンチにできたらどんなにスッキリするか考えながら。

 

 

 ――流した涙は、嬉し涙だと誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

(……もう、無理だよ。死ぬしかないじゃん)

 

 その日の晩、美樹さやかは自殺を決意した。

 

 死ねば、この悪夢のような世界から抜け出せるかもしれない。

 あの眩しい日常へと戻れるかもしれない。

 

 そして目覚めて「ひどい夢だった」と胸を撫で下ろして、話のネタとして笑い話にしてしまえばいい。

 

 都合の良い妄想だって分かっている。

 それでもさやかは、この悪夢のような現実からの解放を心から望んだ。

 

 時刻は既に深夜だったが、衝動のままにさやかは屋上に出る。

 実際に自殺できるかどうかなんて最早どうでもいい。とにかく何かしなければいけないという衝動に突き動かされていた。

 

 屋上に広がる臓物色の世界は、相変わらず気味の悪い夜空の中に血腫のような赤黒い月を孕んでいる。

 降り注ぐ紅色の月光を浴びるように――両手を広げて舞い踊る<少女>の姿があった。

 

「…………え?」

 

 我知らず驚きの声が漏れる。

 さやかは初め、目の前の光景が己の幻覚ではないかと疑った。

 

 何故なら目の前の少女は、事故から目覚めて以来初めて目にする『人間』の姿をしていたからだ。

 肉塊のバケモノ達に囲まれて、ついには幻覚まで見始めるほど参ってしまっていたらしい。

 

 だがそれならそれで構わない。

 この狂った世界で、よりさやかが狂ってしまったのだとしたら、一周回ってそれは正常だという事にはならないだろうか?

 

 そんなバカな事を考えてしまうくらい、少女の存在は衝撃的だった。

 

「……?」

 

 さやかの存在に気付いたのか、少女が振り返る。

 白いワンピース姿の、さやかよりも少し年下くらいの少女だ。

 

(うわ、すげー美少女……)

 

 緑がかった髪は光の反射で青くも見える不思議な色合いで、その白磁のような肌とすっきりとした鼻梁は少女に非現実的なほどの美しさを与えていた。

 もしも童話のように「世界で一番美しいのは誰?」と尋ねられたら、今の自分ならば迷うことなく目の前の少女だと答えるだろう。

 

「……っ!」

 

 少女は突然現れたさやかに驚いたのか、その顔に怯えを浮かべると逃げるように距離をとった。

 冷静に考えれば屋上にある唯一の出入り口はさやかの体が塞いでいるのだから、逃げ場はないはずだったが、さやかはその非現実的な少女がふっと消えてしまうのではないかという恐怖に駆られた。

 

 少女の背に翼が生えて空を飛んで逃げたとしても、今のさやかならば驚かないだろう。

 むしろ、実際にそうなるかもしれない可能性を真剣に恐れてすらいた。

 

 さやかにとって少女は正に、この地獄の様な世界に突如現れた天使そのものだった。

 

「お願い待って! 行かないで……!」

 

 ようやく見つけたのだ。

 この醜く汚い世界でやっと見つけた、心から美しいと思える存在。

 それが目の前からいなくなってしまう。

 

「あたしを、一人にしないでよぉ!」

 

 絶望の中でようやく見つけた希望を失うことは、さやかには耐えられなかった。

 追いかけるも、ここしばらく寝たきりの生活をしていたせいか足が縺れて転んでしまう。

 半年もの月日は、さやかの足腰をひどく弱らせていた。

 

(こんな事なら、リハビリもっと頑張っとくんだった……!)

 

 などと後悔するものの、先程まで死のうとしていた自分に頑張る理由などなかったのだから、この結果も必然というべきだろう。

 立ち上がる事すら忘れるほど動転し、さやかは幼子のように泣き喚いてしまう。

 

 少女にしてみれば、意味が分からないだろう。

 気持ち悪いと思われてしまったに違いない。

 

 傍から見ればどう見ても病んだ、頭のおかしな人間にしか思えない。

 

 それでもさやかには取り繕う事ができない。

 今まで必死に抑え込んできた感情が少女を前にして爆発してしまい、みっともなく取り乱してしまう。

 

(あたし、何してんだろ……こんなんじゃ、嫌われたってしょうがないよ……っ)

 

 壁の向こうに隠れた少女が、半分だけ顔を出してさやかの様子を窺っている。

 寝癖のように跳ねた髪が動物の耳のように上下に揺れていた。

 

「……おねーさんは、わたしが怖くないの?」

 

 その見当違いとも言える少女の問いかけに、さやかは我に返って首を傾げる。

 

「え? な、なんで? すっごく可愛くて、綺麗だよ……? あたし、事故に遭ってから頭おかしくなっちゃったみたいで、周りが全部バケモノに見えちゃって。

 大好きだった親友も、アイツの事も……みんなみんな、気持ち悪いって思えちゃって! あたしの方がおかしいって、間違ってるってわかってる! でも、無理だよ! 自分の気持ちに嘘ついて笑っても、あたしはアイツ等を人間だってどうしても思えない!!」

 

 誰が肉塊のバケモノ相手に友情を育めるだろうか。

 ましてや愛情など、生理的嫌悪感の塊のようなあの肉塊相手に抱けるようなら、そいつは狂人だ。断言しても良い、狂ってる。

 

 否定するならば、そこらの汚物に向かって愛を語って見せるが良い。

 その汚物の正体が実はあなたの前世からの恋人で運命で結ばれた想い人で今世の掛け替えのない人だと知ってなお愛せる存在が、果たしてどれほどいるものか。

 蛙の王子様に口付けできるようなお姫様でも、汚物相手に口付けはするまい。したところで特殊性癖か頭の心配をされるだけで、愛の証明には欠片もならないのがいっそう度し難い。

 

 目の前の肉塊が親友だから、想い人だからと必死に自己暗示を掛けても、五感の訴える強烈な不快感は少女のか弱い抵抗など容易く粉砕する。

 以前の自分が抱いていた想いが、価値観が、肉塊と接する度に変質していく。

 

 そんな地獄の中で、ようやく出会えた奇跡のような存在。

 

「初めてだったんだ。あなたみたいな綺麗な子に会えたのは……」 

 

 美樹さやかは普通の少女だ。だからこれは何もおかしな事ではない。

 結局のところ、さやかはどこまでも真面目だった。

 真面目だったから、限界を超えて擦り切れるまで頑張ってしまったのだ。

 

「だから、お願い。あたしの傍に居て……それだけで、あたしは……」

 

 ――救われるから。

 

 もう、それ以上は何も望まないから。

 だからどうか、遠くへ行かないでほしい。傍にいてほしい。

 

 それだけがさやかの切実な望みだった。

 嗚咽交じりに自らの事情を話すさやかに興味を惹かれたのか、少女は小動物のように恐る恐る近づいてくる。

 

「……おねーさんは、泣き虫なんだね?」

 

 よしよし、と少女の手が躊躇いがちにさやかの頭を撫でた。

 

 温かな手。優しい感触。鼻腔をくすぐる花の様な香り。

 粘液塗れでもなく、緑色でもなく、魚の腐ったような臭いもしない。

 

 そんな当たり前の事実が、狂おしいまでに嬉しかった。

 

 さやかは感極まって少女に抱き着く。

 きゃっと少女は短い驚きの悲鳴を上げたが、縋るように震えるさやかの頭を見下ろすと「……仕方ないなぁ」と慈母のように優しく撫でた。

 

 少女の腕の中で、さやかは赤ん坊に戻ったかのように泣いた。

 

「……いいよ、()()が一緒にいてあげる」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 ――この日、美樹さやかは地獄のような世界で、天使のような女の子と出会った。

 

 

 

 少女は『沙紀(さき)』と名乗った。

 二人の出会いが世界を変えてしまう事を、今はまだ誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




〇あとがき
Q.作者は、さやかの事が嫌いなのかい?
A.いいえ、大好きです(真顔)

Q.沙紀ってなんぞ、沙耶じゃないん?
A.似て非なるナニカです(目逸らし)。

Q.沙耶の唄の主人公と症状微妙に違くない?
A.似て非なるナニカです()。さやかちゃんルナティックもーど。
 ちなみに、もしもさやかが症状を打ち明けていたとしても作中医療技術では完治不可能(無慈悲)。

Q.奇跡も魔法も、あるのかい?
A.それは勿論あだjふぁdjksl【作者は狂気に犯された】

Q.SANチェックの準備いる?
A.本作は純愛物なので【その目はガラス玉のようであり、どこか人形じみた印象を与えた。その身にまとう気配はこの世ならざざざざjだ;ぃjp――――――――いあ! いあ!】

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