水底の恋唄   作:鎌井太刀

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第三話 さやかは狂ってなんかないよ

◇◆◇◆◇

 

 

 何もかもが臓物色に変わり果てた世界で、さやかは『沙紀』と出会った。

 沙紀は全てが狂う前ですら見た事がないほど、美しい少女だった。

 

 彼女と出会えた事で、さやかは初めてまともに呼吸できた気さえする。

 この腐臭に満ちた世界で、彼女の周囲だけが浄化されているかのよう。

 

 明らかにさやかよりも年下の少女の前で、さやかは散々泣き喚いてしまい、これ以上ないほどみっともない姿を晒してしまった。

 

 けれども沙紀は、その間ずっと離れる事なく傍にいてくれた。

 さやかの願った通りに。

 

「……ごめん、ごめんね。いきなりこんな、わけわかんない事に巻き込んじゃって」

「ううん、そんなこと気にしなくても大丈夫だよ」

 

 さやかの声は泣き過ぎて鼻声になっていた。

 そんなさやかの頭を、小さな子にするように沙紀の手が優しく撫でる。

 

 沙紀はさやかを怖がるでも、迷惑そうに顔を歪めるでもなく、どこまでも優しい微笑みを浮かべていた。

 

 客観的に見れば、さやかの行為は情緒不安定の者が錯乱しているだけにしか見えなかっただろう。

 迷惑以外の何者でもなく、常人ならば逃げて当然だ。

 

 今もこうして傍に居てくれるだけで、さやかにしてみれば奇跡の様に思えた。

 

(目の前に肉塊の化け物じゃない、本当の<人間>がいる……あたしは、一人じゃないんだ)

 

 さやかはもう、目の前の少女を失う事に耐えられない。

 自分でも沙紀に依存し始めている事に気付いている。

 

 あまりにも急激な変化だが、それも仕方のない事だろう。

 この世界で肉塊以外のまともな<人間>を見つけたのは、沙紀が初めてだったのだから。

 

 どこを見ても、何を感じても、あるのは正気を削るほど冒涜的な肉塊と汚物ばかり。

 醜悪な肉塊共を必要以上に刺激しないよう神経を擦り減らし、そんな肉塊に紛れ目立たないように息を殺す毎日。

 

 耳障りな鳴き声も、鼻が曲がる臭気も、さやかの精神をやすりの様に常時削り続けていた。

 出された病院食は血生臭く吐き気を催し、夢の中ですら肉塊共が悪夢の住人として跳梁跋扈している。

 

 もはや壊れるか狂うしかない極限状態の中で、唯一出会った<人間の少女>である沙紀の存在は、砂漠で見つけたオアシスよりも尊く、さやかの壊死寸前だった心を救ってくれたのだ。

 

 さやかにとって救世主でもある沙紀は、鈴の転がるような綺麗な声でさやかに尋ねる。

 

「おねーさんのお名前はなんていうの?」

 

 その問いに、さやかはしどろもどろに自らの名を答えた。

 目の前の彼女にどんな態度で話せばいいのか、さやかには分からない。

 

 さやかにとって沙紀は、あらゆる意味で特別な存在過ぎた。

 この世界で初めて出会えた人間であり、さやかの願いに応えてくれた恩人でもある。それは命の恩だ。沙紀があの場にいるだけで、さやかの命は救われていた。

 

 あの時沙紀と出会っていなければ、さやかは確実に自殺していただろう。

 沙紀は年下のようだが、さやかにとっては命の恩人であり、さらに言えば天使のように美しい少女だ。

 

 さやかとは住む世界が違うように感じられてしまい、どんな調子で話せばいいのか分からなかった。

 

(あたし、前はどんな顔して話してたっけ?)

 

 一方、さやかの名前を聞いた沙紀は、口の中で反芻するように音の響きを確かめていた。

 その音の連なりに、何か特別な意味を見出すかのように。

 

「さやか……うん、とっても良い名前だね! 素敵な響き。

 ねっ、おねーさんのこと<さやか>って呼んでも良いかな? あと、わたしのことは<沙紀>って呼んでね!」

「う、うん。いい……ですよ?」

「? なんで敬語なの?」

 

 きょとんと首を傾げる沙紀に、さやかは戸惑いながらも正直に答える。

 

「だってあな――沙紀って、天使みたいな子だから、あたしなんかがタメ口利いても」「あはははっ!」

 

 いいのかな、と続けようとしたさやかの言葉を遮るように、沙紀は心底おかしいとばかりに笑っていた。

 その目尻から涙を浮かべるほど笑う沙紀を、さやかはぽかんと見つめる。

 

(そんなにおもしろい事言ったかな?)

 

 何が彼女の琴線に触れたのかさっぱり分からない。

 そんなさやかの様子を見て、沙紀はさらに笑う。

 

「ご、ごめ……ごめんね。でも、さやかが悪いんだよ? わたしに向かって<天使>だなんていうから」

「え、変かな? 沙紀みたいな美少女、あたし初めて見たし」

 

 紅色の夜空の下で見る彼女は神秘的ですらあったが、こうして年相応に笑う彼女を見ていると、沙紀がとても身近な女の子に思えた。

 

「……さやかって、とってもユニークな人なんだね」

「それって褒めてるの?」

「内緒!」

 

 つん、とそっぽを向いた彼女の頬は少し赤くなっていた。

 

(褒められ慣れてないのかな? こんなに美少女なのに)

 

 気付けば、さやかは普通に沙紀と話せるようになっていた。

 久しぶりに肉塊以外と会話できたせいか、随分と懐かしい気分になってしまう。

 

 人は人との関わりの中で『自分』というキャラクターを獲得していく。自分がどういう性格で、どんな考えをしているのか。

 鏡がなければ自分の姿を見れないように、他者の存在がなければ己の内面すら映し出す事ができない。

 

 肉塊共と接している内に忘れかけていたそれを、さやかは沙紀のお陰で思い出すことができた。

 

(あたし、もっと沙紀と話したい)

 

 それは精神が求める飢餓感にも似た欲求だった。

 幸い、さやかが誘うと沙紀も「いいよ、沙紀もさやかといっぱいお喋りしたい」と快く頷いてくれた。

 

 それならばと、場所を屋上からさやかの病室へと移す事にした。

 季節柄夜風が冷たく感じられたし、他に行ける場所の選択肢もなかった。

 

 屋内の通路は相変わらず、生き物の腸内を思わせる赤とピンクの極彩色で蠢いている。

 壁際に張り付いている、神経のような細かい糸が無数に走るプレートを順次確認する。

 

 やがてさやかの部屋番号が書かれている物を確認すると、不気味な脈動をする扉を開け、赤いインクをぶちまけたような病室へと戻った。

 

 こんな人間が住む場所とは思えない部屋の中で眠るという行為自体、さやかにとって日々の苦行の一つだった。

 当然のように安眠などできるはずもなく、悪夢に苛まれるのも最早慣れたものだ。

 

 さやかの後ろをちょこんと付いてきていた沙紀が、興味深そうに室内を見渡す。

 

「へぇ、ここがさやかの病室なんだね。個室って事はさやかの家って結構お金持ちさん?」

「あはは……うちは代々由緒正しき小市民の家系だよ」

 

 確かにさやかの家は両親が共働きという事もあり、それなりに裕福ではあるもののごく普通の中流家庭に過ぎない。

 

 それに個室である一番の原因は、他の患者がいるとさやかが落ち着けないからだった。最初は意識不明の昏睡状態であり、目覚めてからは情緒不安定で、とてもではないが他の患者と一緒にはできない状態だった。

 

 いま考えてみてもぞっとする。

 他の肉塊(患者)と一緒の部屋で眠るなんて、最早精神的な拷問に等しい。

 もしそうなっていたら、ストレスのあまりさやかはもっと早く限界を迎えていたに違いない。

 沙紀とこうして会話する事もできなかっただろう。

 

 沙紀との会話は、誰にも見られたくなかった。

 他の肉塊共に沙紀が見つかればどうなるのか、想像もしたくない。

 さやかは直感的に、肉塊共と天使(沙紀)が相容れない事を理解していた。

 

 何の間違いかさやかは肉塊共に紛れ込んでしまっているが、沙紀に万が一があれば、さやかにとってそれは最早世界の終わりに等しいのだから。

 

(冗談じゃない……沙紀は、あたしが守るんだ)

 

 その点においても、この地獄のような現状の中で個室が与えられている事は、数少ない救いではあった。不幸中の僅かな幸いというべき物だが。

 壁も厚いし、夜中に秘密のお喋りをする場所としては打ってつけだ。

 

 

 二人はぶよぶよとしたベッドの上に腰を落ち着かせた。

 些末な不快感などいまはどうでもいい。さやかは沙紀だけを視界にいれ、沙紀の事だけを考える。

 

 さやかは自身の事を知って貰おうと、沙紀にこれまでの事を説明した。

 事故の影響で世界が臓物まみれに、人が肉塊の化け物に見えること。

 自殺を決意し、そして沙紀に出会った事までも全て。

 

「……そうなんだ。さやかも――これも、運命なのかな」

 

 沙紀の呟いた声は小さく、ほとんど聞き取れなかった。

 なんて言ったのか聞き返そうとするさやかだったが、それよりも早く沙紀が満面の笑顔でさやかの手を握る。

 

「さやかみたいな人に会えて、すごく嬉しい。

 ――ねぇさやか、沙紀と友達になってくれるかな?」

「!? も、もちろんだよ!」

 

 望外の事態に、さやかはつい食いつくように頷いてしまう。

 沙紀の提案は願ってもない事だった。

 

 沙紀と友達になれる――『また会える』。

 いまのさやかにとって、それ以上の幸せはなかった。

 

「で、でもいいの? あたしみたいな頭おかしいのと友達になっちゃって」

「さやかは、おかしくなんかないよ」

 

 でも……と顔を曇らせるさやかに、沙紀は力強く断言する。

 その吸い込まれそうなほど凛とした眼差しを向けて。

 

「わたしが保証する。さやかはとっても優しい子だもん。

 こんなに傷ついてるのに、誰も傷つけたくないって頑張ってきたんでしょ?」

 

 肉塊共の為などではなく、さやかの記憶にある優しいみんなの為に、これまで必死に仮面を被ってきた。

 その誰にも理解されない、理解できないさやかの努力を、沙紀だけが認めてくれた。

 

 

「だから、さやかは狂ってなんかないよ。

 狂ってるとしたら、さやかを傷つけるこの世界の方が狂ってるんだよ」

 

 

 その言葉は、甘い雫のようにさやかの胸に染み入った。

 

「沙紀……あり、がと……っ」

 

 言葉を詰まらせるさやかの背中を、沙紀の小さな手が撫でる。

 

 その心地よさのせいだろうか。さやかの瞼が重くなっていく。

 過度の緊張とストレスに晒され、さらには日頃の睡眠不足も重なったのかもしれない。

 さやかの意識は自らを守る為に、そのブレーカーを落とそうとしていた。

 

 そんなさやかの様子に気付いたのか、沙紀は自然な誘導でさやかをベッドへと寝かし付けた。

 

「このまま眠ちゃっていいよ。また会いに来るから」

 

 そう囁くように告げると、沙紀の手が離れていく。

 だが眠りに落ちそうな中でも、沙紀が立ち去る気配を見せた事で、さやかの手が無意識に沙紀のワンピースの裾を掴んで引き留めてしまっていた。

 

「ぁ……」

 

 まるで病気で心細くなった幼子のような行為に、さやかは自分自身でも驚いていた。

 

「さやかは甘えん坊だね」

 

 からかうような沙紀の言葉に、さやかの顔が真っ赤になる。

 それでも手を離せないさやかに、沙紀はその手を自らの両手で包み込んだ。

 

「それじゃあ、さやかが眠るまでの間、手を握っててあげようか?」

「…………お、おねがいします」

 

 恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で「お願い」したさやかの耳に、沙紀のくすくすとした笑い声が耳朶を擽るように聞こえた。

 

 いつもならば生肉に包まれたかのような不快感の中、腐臭で脳味噌まで腐りそうになりながら、気絶するように意識を失っていた。

 

 だが今は違う。

 ただ沙紀に手を握られているだけで、暖かな日溜まりの中にいるような、今はもう遠い記憶の中にしかなかった穏やかな気持ちになれた。

 

「おやすみなさい、さやか」

 

 沙紀に見守られ、さやかは事故から目覚めて以来、初めて深い眠りへと落ちていく。

 

 目元に濃い隈が残った寝顔は、非常にあどけなく。

 彼女が未だ十四歳の少女でしかないことを明示していた。

 

 

 

 

 

 

 

「……沙紀の旅も、ようやく終わるのかな?

 ねぇ、さやか。あなたがわたしの……ううん。まだわかんないよね?」

 

 そう呟く沙紀の瞳は、不安に揺れていた。

 

「――良い夢が見られますように」

 

 紅色の月が浮かぶ狂気の世界で沙紀が祈りを捧げる。

 その祈りは異界の唄となって、夜空に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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