水底の恋唄   作:鎌井太刀

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第四話 わたしは恋を知りたいの

◇◆◇◆◇

 

 

 

 沙紀と出会ってからのさやかは、それまで塞ぎ込んでいたのが嘘のように……とまではいかないが、以前の様な明るい雰囲気を時折見せるようになっていた。

 周囲の者達はそれを例の「サプライズイベント」の成果だと思っている様子だったが、さやかにしてみれば勘違いも甚だしい。

 

 肉塊共の醜悪な茶番に巻き込まれ、吐き出さなかっただけ上出来なくらいに最悪なイベントだった。さやかが自殺を決意する程に。

 そんな崖っぷちまで追い込まれたさやかに元気が戻ったというなら、それはやはり沙紀と出会えたからだろう。

 

(沙紀のお陰で、あたしはまだ頑張れる)

 

 あの日以来、夜になると病室に沙紀が訪ねて来てくれるようになった。

 

 夜になれば沙紀と会える。

 そう思うだけで、この地獄のような一日を頑張れる。

 肉塊共の撒き散らす狂気に呑まれそうになるのを耐えられた。

 

 沙紀と二人で交わすやり取りの一つ一つが、さやかにとっての生きる希望だった。

 

 沙紀はとても聞き上手で、さやかの話を熱心に聞いてくれた。

 親友だったまどかや、想い人だった恭介の事も、つい話してしまっていた。

 

 意外にも沙紀は恋バナに興味があるらしく、気付けばさやかの恋愛模様は根ほり葉ほり聞き出されてしまっていた。

 とはいえそれも、今では遠い出来事でしかないのだが。

 

(……あたし、どうして恭介が好きだったんだろう?)

 

 かつては、彼の弾くヴァイオリンが好きだった。

 だけど記憶にある彼の演奏は既に汚染され、どうあがいても昔日の憧憬を思い出せない。幼き頃奏でられた演奏は、果たして何という演目だったのか。

 

 かつては、彼の喜ぶ顔が好きだった。

 さやかはレアなCDを見つけてはそれを彼によく渡していた。

 大体は貸し出しで、何か祝い事があればそのままプレゼントしていた。今にして思えば我ながら中々に都合の良い女だった。

 

 かつては、彼の演奏する姿が好きだった。

 だが今ではもう冒涜的な肉塊へと変わり果てている。

 先日も肉塊(恭介)が狂気的な演奏をしたのは、さやかの脳裏に呪いのように焼き付いていた。

 

 人が人を好きになるのに理由はいらないという。

 けれどもそれは、相手が同じ人間だからこそ通じる理屈だ。

 

 あの肉塊を好きになれる理由が欠片も見あたらない。あるはずがない。

 存在の全てが嫌悪の対象である肉塊を相手に、好意的になれる要素は何一つ見い出せなかった。

 

「さやかはキョースケのこと、いまでも好きなの?」

「……わかんないよ」

 

 この狂った世界にいる肉塊(恭介)は論外だが、さやかの思い出の中の恭介ですら、いまとなってはよくわからなくなってしまっていた。

 まだ目覚めて一月も経っていないはずなのに、もう何年も昔の事のように思えてしまう。

 

「……ごめんね」

「え、なんで沙紀が謝るのさ?」

「無神経な事聞いちゃったかなって。キョースケにさやかの事とられちゃうんじゃないかなって、心配になっちゃったの」

 

 そういって申し訳なさそうに沙紀は顔を伏せた。

 嫉妬、なのだろうか? 大人びた所のある沙紀の可愛らしい様子に、さやかは思わず笑みを浮かべる。

 

「あははっ、あたしは沙紀のさやかちゃんですよーってね。

 いまのあたしには、沙紀だけが希望なんだ。だから心配になる必要なんかないんだよ」

「……さやかは、沙紀のもの?」

「うんうん。そして沙紀はあたしの嫁になるのだー」

「きゃーっ」

 

 冗談めかしてさやかは沙紀に抱きついた。わしゃわしゃと頭を撫でると、沙紀も笑いながら悲鳴を上げる。

 外側に跳ねるような癖の付いた沙紀の髪は、予想以上に撫で心地が良く、近くで嗅ぐといい匂いがした。

 

(――って、髪の毛の匂いとか変態かっ)

 

 などとさやかは己に突っ込むものの、この不快な世界で沙紀の全てが癒しである事に変わりはない。

 以前から親しい者相手にスキンシップする事もあるさやかだったが、沙紀が相手ではそのタガが外れそうになるのを自覚する。

 

(ちょっとは自重しないと……沙紀に嫌われたら終わりだからね)

 

 抱きしめた沙紀をほどほどに解放すると、今度は沙紀の方からさやかに抱きついてきた。

 

「……やっぱり、キョースケになんか渡したくないかな。だってキョースケの事話すさやか、悲しい顔してるもん。そんな悪い奴にさやかの事は渡せないよ」

「沙紀……」

 

 以前のさやかならば、恭介の事を庇っていただろう。彼の素晴らしさについて語って聞かせただろう。

 

 だが今のさやかの口からそんな言葉は一欠片も出てこない。

 あの肉塊(恭介)を弁護する言葉など一つもなく、あるのは嫌悪と罵倒の言葉のみ。

 

(あたしの為に怒ってくれるんだ……嬉しいな)

 

 だから沙紀の言葉を聞いて、さやかは喜びしか感じられなかった。

 

 

 

 そして勿論さやかの話だけではなく、沙紀の話もたくさん聞いた。

 なぜ沙紀のような少女が、夜の病院に一人でいたのか。

 こうしてさやかに会いに来てくれるのか。

 

 沙紀は語る。

 その夢見がちとも思える理由を。

 

「沙紀はね、沙紀だけの王子様を見つけるために、ずっと旅をしているの」

「…………はい?」

 

 そのあまりと言えばあんまりな理由に、さやかは思わず口をぽかんと開けてしまう。

 

「あ、今絶対バカにしたでしょ。さやかってばひどいんだから」

「え、いや、ごめんごめん。でもすごくメルヘン? ってか乙女な理由でさ。正直かなり意外だわ」

「そうかな? 沙紀にとってはかなり真面目な理由なんだよ? 今のさやかなら、わかるんじゃないかな」

 

 言われてはっとする。

 確かに沙紀と話しているとあたかも日常に回帰したかのような錯覚を起こすが、世界は変わらず狂気に包まれている。

 

 慣れることなどできないと思っていた汚く醜悪な空間も、沙紀が目の前にいれば忘れることができた。

 もし沙紀がいなければ、さやかはどこまでも狂気に落ちていっただろう。

 その精神が跡形もなく壊れるまで。

 

 だけど沙紀は、話を聞くに長い間ずっと旅をしているのだと言う。

 この臭く汚く穢らわしい世界の中、一人でずっと。

 

 こんなにも幼い少女だというのに。  

 そんな少女が愛してくれる誰かを求める事は、ごく当たり前の事のように思えた。

 

「……沙紀も、あたしと同じなの?」

「似たような立場ではあるのかな? 沙紀はこの世界のイレギュラーだから、ずっと独りぼっちだったの。こうして誰かと会話するのも実は久しぶり」

 

 さやかは褒められ慣れていなかった沙紀の様子を思い出す。

 今では慣れてきたが、さやかとのスキンシップも最初はぎこちなかった。

 人と触れ合うことに慣れていない猫のように、怯えて体を強ばらせていたのだろう。

 

「まぁ、寂しくなったら患者さんとかに悪戯しちゃったりするんだけどね。夜中に驚かせるのって結構面白いよ」

「こらこら」

 

 てへぺろと悪戯っぽく舌を出す沙紀に、さやかは「危ないことしちゃダメだよ」と窘めた。

 『悪いことをしちゃダメ』ではなく、肉塊(患者)達に何かされてからでは遅いのだと、どこまでも沙紀の身を案じていた。

 

「うん、もうしないよ。だってもう、今はさやかがいるんだもん。

 パパ以外とこんなに楽しいお喋りができるなんて、夢みたい」

 

 沙紀にそう言って貰えるのは凄く嬉しかったが、沙紀の言葉で気になる単語があった。

 

「……パパって、沙紀のお父さん?」

「うん、沙紀のパパ。世界で一番のパパなんだよ」

 

 そう言って嬉しそうに笑う沙紀はとても可愛らしかったが、さやかの胸にちくりとした痛みが走る。

 なるほど、恭介の事を聞いていた沙紀はこんな気持ちだったのかもしれない。

 

(あたしって、こんなに嫉妬深かったんだ)

 

 沙紀が自分以外の誰かについて嬉しそうに語るだけで、さやかの心は苛立ちを覚えてしまう。たとえそれが沙紀の大切な父親であっても、彼女の笑顔を独り占めしたい欲望に駆られてしまう。

 

 そんな内心を自覚しながら、けれども嫌われないように押し殺してさやかは沙紀の父親について尋ねた。

 

「沙紀のパパさんは、いまどうしてるの?」

「たぶん今も元気にしてるんじゃないかな。すごく遠い場所にいるけど、それだけは信じてるの」

 

 曖昧な言い方だが、ずっと一人で旅をしていたという沙紀の言葉を信じれば、どうにも沙紀が家出少女のように思えてしまう。

 

「沙紀のパパは、沙紀が旅してることを承知してるの?」

「……うん、そうだよ。でもね、最初はもの凄く反対されたの。<それ>は無謀なんじゃないかって。奇跡に等しい確率だって。

 パパと一緒にいれば安全だし、ずっと幸せに暮らせるからって。

 最後は認めてくれたんだけど……たぶん今でも心配させちゃってるんだろうなぁ」

 

 それは親ならば当然の感情に思えた。

 子供には安全な場所に居て欲しいし、沙紀のような少女が親の庇護下にいるのは自然な事だろう。

 ましてや危険な旅をさせたがる親などいない。それが沙紀のような美しい少女ならば尚更だろう。

 

 さやかが沙紀の親の立場だったら、絶対に認めない自信がある。

 

「でもね、わたしは知りたいの。

 ママが知った感情を――<恋>を」

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「恋?」

 

 さやかは思わず聞き返していた。

 

 沙紀は言う。

 母親の知った感情――<恋>を知りたいのだと。

 

「沙紀はね、世界中でたった一人……わたしだけを見てくれる。そんな人を探してるの」

 

 それが旅する理由なのだと沙紀は語った。

 

「色んな場所を旅してるとね、時折挫けそうになる事もあるの。

 そんな時決まって思い出すの。パパから聞いた恋の物語」

 

 唄うように、沙紀は切なげに目を細めて語り続ける。

 その姿がどこか神聖な物のように思え、さやかは神妙に沙紀の話へ耳を傾けた。

 

 それは一つの恋物語だった。

 

「パパも、ママから聞いたらしいの――砂漠に咲いたタンポポの花のお話を」

 

 

 

 風に乗って旅するタンポポの種。

 その中の一粒だけが、何の間違いか砂漠の中までやってきました。

 

 外は焦がすように暑く、柔らかな土も、命を育む水もそこにはありません。

 そんな中、タンポポの種は思います。

 

 

 ――わたしが頑張って花を咲かせても、きっと無駄に終わる。

 

 

 だからこのまま砂の中で朽ちていこうと。

 そんな風に諦めていた種の前に、一人の旅人が現れます。

 

 

 ――君の咲かせる綺麗な花が見たいんだ。

 

 

 旅人の言葉は非常に嬉しいものでしたが、種は否定します。

 

 

 ――わたしはそんなに綺麗じゃないよ。どこにでもあるタンポポの種。きっとあなたを喜ばせられない。

 

 

 それにここには、土も、水もない。

 この枯れた大地で芽を出すことはできないと種は言います。

 

 

 ――ならば、僕が土を運ぼう。水を注ごう。だからお願いだ。どうかこの乾いた大地に咲いてはくれないか。

 

 

 旅人はその言葉の通りに、昼に夜にと勤勉に、種が望むだけの物を与えてくれます。

 焦がすような太陽は、旅人がその体で影を作り、冷たい夜は寄り添って暖めてくれました。

 

 

 ――なんでそこまでしてくれるの?

 

 ――僕が、君に恋をしたからさ。

 

 

 旅人はきっと狂っていたのでしょう。

 この乾いた大地に取り残された旅人は、ありふれたタンポポの種に恋をしていたのです。

 

 ですが種は喜びました。

 この世界でたった一人でも、自分を見ていてくれる。

 愛してくれている。

 

 そんな旅人のために、自分だけができる事をしようと――種はついに諦める事をやめました。

 殻を破り、旅人の運んだ柔らかな土に根を延ばし、注がれた水を飲んで芽を伸ばします。

 

 そうして遂に咲かせた花は、砂漠に咲いた一輪のタンポポの花は、喜ぶ旅人に告げました。

 

 

 ――わたしを愛してくれたあなたに、一面の花畑をあげます。

 

 

 かつて種だった花はそう言うと、花弁を散らし無数の綿毛と種子を風に乗せました。

 種子達は砂漠中に広がり、いつしかそれは見渡す限りの花畑へと変わります。

 

 かつて砂漠だったとは思えないほど綺麗な世界が広がる中、旅人の足下には彼が愛した唯一の花が枯れていました。

 

 

 ――僕には君だけがいれば、それだけで十分だったのに。

 

 

 一粒のタンポポの種が遺してくれた花畑の中で、旅人は今でも愛する者への唄を歌い続けています。  

 

 

 

 

 

「――このお話を聞いたから、沙紀は恋に興味を持ったの。これがママから受け継がれた物語。

 それを知るのが(沙耶)旅人(郁紀)の娘である種子(沙紀)の使命なの」

 

 語られた一つの恋物語の余韻の中で、沙紀は静かに言葉を紡ぐ。

 

「ママはね、わたしを産んで死んじゃったんだって。わたしを産めば死んじゃうって分かってたのに、それでもママは、パパに『この世界は綺麗なんだよ』って伝えるために、わたしを産んでくれたの。

 そしてわたしが生まれて、ママは【世界の一部】になっちゃったんだけど、その時のママは最後まで笑顔で、とっても綺麗だったって……そう教えてくれた時のパパ、ちょっと寂しそうだった」

 

 さやかは言葉が出てこなかった。

 沙紀の両親の話を聞いて、その愛の深さに圧倒されていた。

 そうして生まれて来た沙紀の存在が奇跡のように思え、あまりの尊さに胸が切なくなる。

 

「素敵な……本当に素敵なパパとママなんだね。沙紀のご両親は」

「うん、世界一のパパとママだよ」

 

 『あたしも一度、ご挨拶したいな』という言葉は、辛うじて呑み込んだ。

 沙紀の母親は既に亡くなっている様子だし、たとえ沙紀の父親だとしても沙紀と同じだとは限らない。

 

 さやかの狂った目では肉塊の化け物に見えてしまうかもしれない。

 それは沙紀の両親に対するひどい侮辱の様に思えたし、そのせいで沙紀に嫌われてしまったらと考えると、恐怖がさやかの言葉を封じてしまう。

 

「そして見つけたのが、さやかなんだよ」

「えっ……」

 

 真っ直ぐに見つめられ、さやかの心臓がどきりと高鳴る。

 そんなさやかに、沙紀は悪戯っぽく目を細めて笑った。

 

「……なーんちゃって! 残念だけど、女の子は王子様にはなれないんだよ?」

「あ、あたしは別に、残念なんかじゃ……」

 

(まぁ沙紀が相手なら……って冷静になれあたし!?)

 

 自分はノーマルだったはずだ。

 だけど今一度冷静になってしまえば、現状肉塊相手に恋愛できる気がしないし、考えただけで吐きそうになる。

 

 となれば、もしもこの世界でさやかが恋愛するならば、それは沙紀一択ということになる。

 

(確かに沙紀は可愛いし美人だし賢いしすっげえ優しい完璧美少女だけど! パパさん娘さんをあたしに下さいって土下座するレベルだけど! ……あれ? もしかしてアリなのでわ――いやいやいやいやっ)

 

 さやかの内心はパニックになり、思考が無限ループに陥ってしまう。

 頭を抱えて「ぐぬぉおお……」と知恵熱が出そうなほど悩むさやかを、くすくすと楽しそうに沙紀が見ていた。

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり女の子は、王子様にはなれないよね?」

 

 だから、寂し気に小さく呟かれたその言葉はさやかの耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




Q.沙紀のお相手って、さやかちゃんでFA?
A.残念、さやかちゃんでした!(むしろご褒美)

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