◇◆◇◆◇
教室から立ち去った親友の後を追って、まどかは学校の廊下を急ぎ足で駆けていた。
途中、視界の端で窓の外に制服姿を見かけて立ち止まる。
注視すると、探し人である美樹さやかの姿がそこにはあった。
(もしかしてさやかちゃん、このまま帰っちゃうつもりなの?)
さやかは保健室に近寄りもせず、下駄箱から靴を履いて真っ直ぐ帰宅している様子だった。
その両手には何も持っておらず手ぶらであり、ふらつきながら歩く姿は見る者に亡者を思わせる。
まどかは一瞬、教室に戻ってさやかの鞄を持って来ようかとも考えたが、このままさやかの姿を見失ってしまえば、二度と会えないような、そんな不吉な予感があった。
ただでさえ今のさやかはまともな状態とは言い難い。
吐いてしまうほど体調が悪いことは明白であるし、その精神状態についても事故から目覚めて以来様子がおかしなままだ。
そんな彼女が真っ直ぐに帰宅できるのか、途中で事故に遭ったりはしないか、そんな事を考えてしまい、まどかにはこのまま自分も付いて行った方が良いように思えた。
そしてまどかもまた靴に履き替えて、そのままさやかの後を追うのだった。
(……たとえ嫌われても、さやかちゃんを一人になんかさせたくない!)
そんな優しさによる選択が、<鹿目まどか>の運命を決定してしまうとも知らずに。
◇◆◇◆◇
さやかは疲弊した精神状態でも、辛うじて靴に履き替える程度の思考能力は残っていた。
というよりも、本能的に少しでも頑丈な装備でいたかった。校内でも出来ることなら履き替えたりなどせず、そのままでいたかったくらいだ。
どうせどこもかしこも穢らわしい腐肉が転がっており、綺麗だとか汚いだとかを気にするような次元にはないのだから。
(鞄、教室に置き忘れた……でもアレがいる場所になんか、絶対戻れないよ……)
幸い、財布や家の鍵などは所持している。
鞄に入っているのは教科書や文房具の類なので、わざわざ取りに戻る必要もないだろう。
アレが存在すると知った以上、最早まともに授業を受けられるとも思えない。
(……やっぱり、最初から無理な話だったのかな。今更<まとも>を演じるだなんて)
今の時間なら既に、三十四体の
虫が威嚇するようなキチキチとした鳴き声を聞き取り、生物の皮で出来たような黒板に綴られた異界の文字としか思えない歪んだ文字列を書き写しているのだろう。
ただ授業を受ける。
自分にはそんな事すら最早不可能なのだと、考えるまでもなくさやかには分かってしまった。
(文字すら読めなくなってるってのは……流石に致命的過ぎるよね)
本やネットの情報などの活字は辛うじて読めるのだが、少しでも癖があると駄目になる。特に肉筆が致命的だった。
同じ文字であるはずなのに、さやかの目には全部が違う形に見えてしまう。これでは解読のしようもない。
『――さやか、聞こえる?』
早く沙紀に会いたい一心で歩を進めるさやかの耳に、突如待ち望んでいた少女の声が聞こえてくる。
(あー……ついに幻聴まで聞こえ始めちゃったか。どこまでおかしくなれば気が済むんだか。
でもたとえ幻聴でも、沙紀の声が聞こえるってのはちょっと嬉しいかも……)
などと末期的な思考をするさやかだったが、幻と思っていた沙紀の声がそれを否定する。
『あれ? なにか勘違いしてる? あのね、さやか。これは思念波を脳に――って細かい説明はいいか。
簡単にいえば<テレパシー>ってやつだよ。今まで一度も使ったことなかったから、すっかり忘れてたんだけどね。
さやかの様子が心配で、魔法関連で何か使えそうな物ないかなって
「え……じゃあ本当に沙紀なの?」
『そうだよ、驚いた?』
沙紀から伝えられる無邪気な声が、さやかの耳に心地よく聞こえる。
今日はあまりにも多く肉塊共の鳴き声を耳にし過ぎた。
病院よりもさらに騒々しく、さやかの鼓膜をカリカリと引っ掻くかの如き不快な音波を休む事なく聞かされ続けていた。
だからこそ沙紀の声はいっそう美しく聞こえ、思わず涙が出てくるほどの安心感をさやかに与えてくれた。
「沙紀はいつだって、あたしを助けてくれるね。
……本当にナイスタイミングだったよ、沙紀」
『えへへ、なら良かった。……あ、あとこれ口に出さなくても通じるから。心の中で伝えたいって思った事が相手に伝わるんだよ』
試しに沙紀の言葉の通りに、さやかは心の中で呼びかけてみる。
『……これで聞こえるの? なんかすげー便利だわー』
『でしょでしょ? ちょっと回線を独立させるのに手間取ったけど、まぁ理論も分かってるし、見本もあるから思ったより簡単だったよ』
『へ~、何だかよく分かんないけど、やっぱり沙紀はすごいなぁ』
沙紀が賢い事は十分に知っていたが、ここまでの物を見せられると最早天才という次元にすらない異才の領域だろう。
なにをどうやったのかはさっぱり分からないが、沙紀のしたことが途轍もないことだけは、さやかにも理解できた。
(やっぱり沙紀って、実は天使なんじゃない?)
今度は伝えるつもりのない思考をしてみたが、ちゃんと制御できているようだ。
いつもの沙紀ならば、きっと照れ隠しに可愛らしい反応を見せてくれるはずだ。
そう思い至ってしまえば、さやかに我慢するという選択肢はなかった。
『やっぱり沙紀って、実は天使なんじゃない?』
今度こそちゃんと真っ直ぐに伝える。
するとテレパシーの向こう側で、沙紀が照れているのが分かった。
心と心が繋がっている実感に、さやかの穴だらけになっていた精神が満たされていく。
『も、もう……さやかってば。いい加減<天使>って言うのはやめよう? 聞いてるこっちが恥ずかしいよ』
『えー、いいじゃん。沙紀はかわいい、だから沙紀は天使。うん、証明終了ってね』
『あはっ、なにその滅茶苦茶な証明。全然理屈になってないよ。
でも……うん、さやかが沙紀の事を<天使>って呼んでくれるなら、沙紀ももっと頑張るね』
向こう側で腕まくりをしているような、そんな気合いの入った沙紀の声を聞いて、さやかは思わず慌ててしまう。
『いやいやいやっ、沙紀はこれ以上頑張らなくていいから! ただでさえ完璧美少女なんだから、これ以上頑張られるとあたしの立場がなくなっちゃうよ!』
『うふふっ、別にいいんじゃないかな。あれだよ、さやかはわたしの嫁になるのだーって事で』
『あたしの真似かよぉ』
あたしの、わたしの――と、どっちが嫁になるのかという言い争いは、両方が互いの嫁になるという奇天烈な結論に落ち着いた。
いつしかさやかの死にそうだった顔には、生気が戻っていた。
『それでそっちは大丈夫? さやかをいじめる悪い奴がいたら教えてね。沙紀がやっつけてあげるんだから!』
『……ぁ』
瞬間、さやかは教室に現れた<アレ>を思い出してしまう。
普通の肉塊共とは桁違いに冒涜的な存在。
病院でも一度も見かけなかった。恐らくは肉塊共の上位種だとか進化系だとか、そういった忌まわしい存在だと予想できる。
『ごめん、沙紀。実は――』
あの悍ましい化け物の存在を、さやかは沙紀に伝えようとする。
――だが突如、さやかの背後から不快な物音が聞こえた。
ぶちゅっぶちゅっと、膿を潰すかのような
『
振り返ったさやかに、肉塊特有のキチキチとした不快な鳴き声が掛けられる。
沙紀との会話で幸せに浸っていた気分が、一瞬で台無しになってしまった。
「――――は?」
さやかは殺意の籠った視線を肉塊に送った。
沙紀との楽しい時間を奪う侵略者に、さやかはどうしようもなく苛立つ。
もし手にバットか何か持っていたならば、それで殴りかかっていたかもしれない。
『
さやかの鋭い眼光にも怯まずに、肉塊は意味の分からない雑音を延々と垂れ流している。
(どこまで……どこまであたしを苦しめれば気が済むのさ)
沙紀の助けによって一時的に持ち直したはずの精神が、肉塊と対面するだけで再び均衡を崩し始める。
思わず怒鳴り散らして追い払おうとするさやかだったが、その前に沙紀のテレパシーが届いた。
『――ねえ、その子うちに招待してあげようよ』
「え? コレを?」
沙紀のその予想外の提案に、さやかは思わず疑問を口に出してしまっていた。
案の定、突如意味不明の言動をしたさやかに気付いた肉塊が蠢き始める。
『
「……ちょっと黙ってて」
(いまは沙紀と話してるんだから……お願いだから、黙れよ)
一応さやかの言葉は通じているのか、肉塊はぶるぶると震えているものの、運良く静かになってくれた。
今朝の出来事から、さやかはこの程度では肉塊も実力行使に出てこない事を理解していた。
さやかは気を取り直して、沙紀にテレパシーで尋ねる。
『いいの? こんなの連れてっちゃって。危なくない?』
『うん、その子が<まどか>なんでしょ? だったらわたしに良い考えがあるの』
『でもなぁ……』
沙紀は何やら自信がある様子だったが、何をするのかさっぱり分からないさやかにしてみれば、沙紀を危険に晒す行為は避けたかった。
躊躇うさやかに、沙紀は向こう側で胸を張るように告げる。
『大丈夫だよ。いざとなれば沙紀がなんとかするから。それにきっとさやかも喜んでくれると思うな』
『あたしが喜ぶって、一体なにをするつもりなのさ』
『内緒っ! それじゃあ家まで来たら誘導させるから、さやかは――』
上機嫌な様子で、沙紀は細かな指示を下した。
そんなに難しい内容でもなかったので、さやか自身は特に気負うようなものでもなかった。
(まぁ沙紀がそう言うなら、別にいいけどさ)
他ならぬ沙紀の言葉だ。
さやかにとって悪い事には、決してならないだろう。
沙紀の傍に肉塊を近寄らせたくなどないが、普段我が儘一つ言わない沙紀の初めての頼み事だ。
さやかが叶えてあげたいと思うのも仕方のない事だった。
そうして方針が決まると、さやかは一方的に無視していた肉塊と初めてまともに対峙した。
<アレ>を見た後だからか、ただの肉塊程度ならさやかも辛うじて我慢できるようになっていた。
「――じゃあ、あたしの家まで付いてきてよ」
『っ、
肉塊が気持ち悪く脈動し、さやかの提案に頷く。
きっとまたさやかが驚くような事だろう。
だからさやかは、どこかプレゼントを待つ子供のような気分を味わいながら、後ろに
◇◆◇◆◇
さやかとのテレパシーを終えると、沙紀は一人呟く。
「うーん……キョースケよりも、まどかの方が邪魔っぽいなぁ」
さやかの部屋の中で、沙紀はさやかの匂いの残るベッドの上に転がりながら、その思考を回転させる。
<鹿目まどか>の事については、さやか自身から聞いていた。
かつてのさやかの一番の親友で、とても大切な少女だったと。
初めてまどか達の話を聞いた時は、想い人であるという上条恭介の方を注意していたのだが、沙紀にとって真のライバルはどうやらもう片方の人物だったらしい。
「……わたしのさやかに手を出す気なら、きちんと
さやかには一度も見せた事のない、冷酷な表情を沙紀は浮かべる。
その冷たい笑みは、沙紀の恋路の障害になり得る邪魔者達へと向けられていた。
「さやかもきっと喜んでくれるよね。だってもう一度
……沙紀の事、褒めてくれるかな?」
沙紀の頭を撫でてくれるだろうか。
ありがとうって、抱きしめてくれるだろうか。
さやかの喜ぶ笑顔を想像するだけで、沙紀は未知の喜びを知った。
この感情がきっと<幸福>なのだと沙紀は思考する。
だがこれを恋だと名付けるのは、まだ時期尚早のようにも沙紀には思えた。
(ようやく、本当にようやく見つけた、沙紀だけの――)
ここまで気の遠くなるほど長い旅路だった。
幾つもの世界を渡り、時代を超え、ようやく出会えた奇跡の様な存在。
父の言っていた事は、確かに間違いではなかったのだろう。
無限の宇宙にある無数の
けれども挫けそうになる度に、沙紀はあの物語を思い出した。
自らを産んでくれた母と、愛してくれた父の恋物語だ。
その輝きに魅せられた『沙紀』と言う個体は、種族的に見れば母に負けず劣らずのイレギュラーな存在に違いない。
だけど沙紀は、この選択を後悔したくなかった。
自分の様な存在が、夢を見るのはおかしいのだろうか。
憧れを持ってはいけないのだろうか。
そんな迷いに、歩みを止めそうになる事も多々あった。
世界中から迫害され続け、命の危機に陥った事も数えきれないほどだ。
そうした旅路の果てに、ようやく手にしたこの奇跡の様な出会い。
沙紀は決して、無駄にするつもりはなかった。
「えへへ……沙紀、がんばるからね」
臓物色に輝く狂気の世界の中で、幼い少女は一人顔を綻ばせる。
それは恋する乙女に相応しい、花咲くような笑みだった。
沙紀は『テレパシー』を覚えた。異界の生物の思念を受け取ったあなたはSANチェック(1/1d6)。
無差別に垂れ流した場合、一帯が精神汚染でひどいことになりますが、沙紀は優しい女の子なのでそんなひどいことはしません(発狂)