◇◆◇◆◇
さやかから同行の許可を貰ったまどかは、一人で前を歩くさやかの後ろに続いていた。
彼女の歩くペースはまどかの物よりもずっと早く、その歩みに以前のさやかならばあったであろうまどかへの気遣いは一切見られなかった。
同行した初めの方は、まどかも何度か話しかけてみたのだが、何を言ってもさやかからは煩わしげな短い言葉しか返って来ず、いつしか沈黙が二人の間を支配していた。
(――でも、初めてさやかちゃんの方から歩み寄ってくれた)
事故から目覚めて以来一方的に拒絶し続けていたさやかが、どういった心境の変化か、まどかの同行を許してくれたのだ。
その事実はあまりにも小さな一歩だったが、まどかには希望の様に思えた。
(それに本当に体調が悪そうだし、あまり話しかけるのも迷惑だよね)
さやかの険悪な態度を無理矢理好意的に解釈すると、まどかは彼女を見守るように、時々小走りになりながらもその背中に付いていった。
道中は特に問題らしい問題もなく、平日の昼間を制服姿で出歩く二人を見咎める者もおらず、無事にさやかの家まで到着する事が出来た。
そしてさやかの家を視界に収めると、まどかは騙し絵を見ているような、奇妙な違和感を覚えてしまう。
(あれ? なにか、雰囲気が以前と変わったような……)
見掛けは何も変わっていない。手入れされた庭もそのままだ。
さやかの部屋がある所にはカーテンが閉められており、中を覗けないようになっているが、特におかしいというほどでもない。
もしもこの時、微かに漂う
けれども人々の生活臭の中に紛れ込んだその臭いに、まどかはついぞ気付くことができなかった。
内心で首を傾げるまどかに、さやかは平坦な声で告げる。
「うちにあがってよ。お茶くらいは出すからさ」
感情の籠もっていないその言葉は、決められた台詞を読み上げているような、どこか硬質な響きが宿っていた。
「え、でも……」
「いいから」
遠慮するまどかに、有無を言わせない勢いでさやかは家の中へと誘う。
以前のさやかならば、そこに親しげな笑みを浮かべていたはずだが、今の彼女からはどこまでも冷たい眼差ししか感じられなかった。
さやかの行為とそこから受け取る感情の齟齬に、まどかは言い様のない不安を感じてしまう。
けれどもまどかには、ここでさやかの誘いを断る事など出来なかった。
(さやかちゃんを見捨てない……一人にしないって、決めたんだから)
まどかは意を決して、さやかの家の中へと入っていった。
◇◆◇◆◇
家に上がると、まどかの記憶と殆ど変わらない光景が出迎えた。
以前にお邪魔したのはもう半年以上も前の事だったが、そうそう内装などは変わらないのだろう。
だが全く同じとも思えなかった。
目に見える物は同じでも、そこに漂う空気は最早別物だ。
以前は親友の様に明るく賑やかな雰囲気があったのだが、いまそこに漂っている物はどこか陰鬱としており、微かに果物が腐ったような甘い匂いがしていた。
「それじゃ、お茶とか用意するから、先にあたしの部屋で待っててよ。
そんなさやかの言葉に首を傾げるものの、まどかは言われた通りに見知った親友の部屋へと向かい、その扉の前までやってきた。
だがドアノブに触れた瞬間、ぴりっとした何かがまどかの手に走る。
「いたっ……せ、静電気かな?」
もう一度恐る恐る触れると今度は何事もなく、まどかは意を決してノブを回してドアを開けた。
一面の赤色が、まどかの目の前に広がっていた。
惨劇を思わせる赤、赤、赤。
シンナーの臭いが微かに残っている事から、これが血液などではなく、単なる塗料によるものだという事は理解できる。
だが壁に、棚に、机に、果てはカーテンやベッドに至るまで、何を思ったのか偏執的に塗り潰された赤色の光景は、鳥肌が立つほどの狂気を見る者に感じさせた。
よく見れば所々変色しているのだが、それがよりいっそう臓物を思わせるコントラストを演出している。
だがそんな狂った演出家の技巧など、唯一の観客であるまどかにとってはどうでもよく、幼児退行を起こしたような拙い呟きしか喉から出てこなかった。
「えっ……あ、え……?」
部屋の内装自体はまどかの記憶と殆ど変わっていない。
けれどもその色が、血を思わせる赤に染まった狂気が、まどかの知るそれを別次元の物へと変貌させていた。
正常な精神を持つ者ならば忌避し、嫌悪してしかるべき狂った空間を前に、まどかは親友の精神が遙か遠くへ行ってしまった事を、目の前にある事実によって確信してしまう。
(に、逃げ……逃げなきゃ!)
事ここに至り、ようやくまどかは明確な命の危機を感じ取った。
本能の命じるままに、踵を返してこの狂気的な空間から遠ざかろうとする。
だがまどかの両足は、まどかの意志に反して、何者かに操られたかのように部屋の中へ向かって歩き出していた。
(え、なんで……何で足が、言うこと聞いてくれないの!?)
頭では逃げたいと思っているのに、まどかの足はそれを裏切り赤い部屋の中へと進んでいく。
まどかが部屋に入ると、扉は独りでに閉められ――その鍵は固く閉ざされた。
◇◆◇◆◇
『――終わったよ、さやか。もうこっちに来ていいよ』
扉が閉められてしばらくした後、沙紀からのテレパシーがさやかの元へ届いた。
『沙紀、終わったの? 大丈夫だった?』
『うん、特に問題はないかな』
リビングでずっと待機していたさやかは、沙紀の言葉にほっと安堵の息を吐いた。
沙紀の事を信頼しているとは言え、さやかよりも華奢な少女の身を案じてしまうのは仕方のないことだ。
おまけに短時間とは言え、あの肉塊と二人きりにさせてしまうというのも、さやかにとっては苦痛だった。
沙紀にどうしても必要な事だと説得されても、こればかりは今でも納得しきれていない。
肉塊に襲われてはいないか、本当に大丈夫なのか、沙紀が苦笑混じりに『もう、大丈夫だって。さやかは心配性だなぁ』というテレパシーを送ってくるほどに、さやかは気が気ではなかった。
さやかは若干焦りを感じながら自室の扉を開けると、まず模様替えした部屋の色彩が目に映る。
目に優しい緑色と、さやかの好きな青色が随所に施されたこの空間は、沙紀との楽しい共同作業の成果だった。
特に沙紀の色使いは芸術的ですらあり、部屋の中に綺麗な星空を描いてくれた。
臓物塗れにしか見えなかった部屋が美しく塗り潰されていく様は、さやかに爽快な気分を味わわせた。
もしも
そんな沙紀と二人の城の中に、見慣れない人影があった。
見ればベッドの上に、かつて親友だった少女<鹿目まどか>が人の姿で横たわっていた。
「まど……か?」
一糸纏わぬ姿で、さやかの知る<鹿目まどか>がそこにいる。
その事実を前に驚きで硬直するさやかに、沙紀は期待と不安を混ぜた顔で尋ねる。
「ねぇさやか、この子が
「うん、まどかに……まどかに見える。でも、本当に……まどかなの?」
さやかは恐る恐るまどかへと近づく。
その目は茫洋としており、体も小さく震えているが、確かにまどかだった。
さやかは懐かしい親友に声を掛ける。
「まどか……あたしだよ、さやかだよ。あたしの事わかる?」
「……さ……や、か……?」
「っ、うん、うん! そうだよまどか!」
弱々しい声だが、自分の名を呼ぶ親友の声をさやかが聞き間違えるはずがない。
目の前にいるのは、確かにさやかの親友である<鹿目まどか>だった。
この地獄のような狂気的な世界で、再び巡り会えた無二の親友。
気付けばさやかは、まどかを力強く抱き締めていた。
守りたいと思える少女だった。傍に居て安心できる少女だった。
美樹さやかにとって<鹿目まどか>は日常の象徴であり、陽だまりのような存在だった。
「――最初はやっぱり<お料理>でも作ろうかなって思ったんだけど、この子とちょっとだけお話してね。
この子もさやかの事、本当に大切に想ってるんだってわかったから……沙紀がその願いを叶えてあげたの」
さやかを一人ぼっちにさせたくないという願い。
それは確かに叶えられたのだ。
――たとえその代償が、どれほど残酷であろうとも。
沙紀は期待に顔を輝かせて、さやかに尋ねる。
「最初はぎこちないかもしれないけど、徐々に慣れてくはずだから、そのうちお話もできると思うな。
……どうかな、さやかは喜んでくれる? 沙紀からのプレゼント」
沙紀の言っていた「さやかの喜ぶこと」というのは、この事だったのだ。
沙紀の無邪気な笑みに、さやかは泣きそうな顔を浮かべる。
「……ありがとう。すごい……最高のプレゼントだよ!
沙紀は本当に、あたしの天使だね!」
さやかは、沙紀に対する感謝の気持ちが止まることなく溢れていた。
命を救ってくれた。
その温もりを惜しみなく与えてくれた。
さやかに笑顔を、喜びを思い出させてくれた。
狂気に囚われたさやかに手を差し伸べてくれた。
そんな沙紀に対する感謝を今すぐ形に出来ないことが悔しく、そんなさやかの背中から沙紀がいつものように抱き着いた。
「……これからは、三人で楽しく暮らせるね。あ、でもまどかは二番目だからね! ちゃんと沙紀の事も見てくれないと嫌だよ!」
「あはっ、そんなの当たり前じゃん。沙紀のためならあたし、なんだって出来る気がするんだ」
沙紀の言葉は、さやかにとって最早神からの啓示に等しい。
尊く、眩しく、それ以上に彼女への愛しさが胸から込み上げてくる。
沙紀の為なら一度は逃げ出した<アレ>ですら、今なら立ち向かえる気がした。
さやかは、さやかの天使と親友の二人を抱きしめ、この狂った世界で目覚めさせた神様へ初めて感謝を捧げる。
やはりさやかは、間違っていなかった。
狂ってなんかいなかった。
――あの肉塊共は、やっぱり人間なんかじゃなかったのだ。
こうしてまどかに再び出会えた事がその証明。
恐らくさやかが事故で眠っている間に、あの肉塊共が世界を侵略し、その身に取り込んでいたのだ。
そうして捕食した人間の記憶を読みとって、人間に成り代わって日常を過ごしていた。
生死の境を彷徨っていたさやかは運良く捕食されず、そのまま目覚めてしまったのだ。
きっと死体と勘違いでもされたのだろう。
さやかが目覚めた時には既に肉塊共による侵略も完了しており、唯一の人間であるはずのさやかが、奇しくも肉塊共の世界に紛れ込んでしまった。
そう考えれば、全てに説明が付けられる。
沙紀が天使であることも、きっと肉塊共からさやかを救済するために来てくれたのだ。
――そんな<妄想>を、さやかは現実の物として認識していた。
(やっぱり沙紀は、あたしの<希望>だ。
この子を守る為なら、あたしは何にだってなれる。
痛みも、恐怖も、この子を失う事に比べれば――なんてことないよ)
さやかは、この身の全てを捧げても<
◇◆◇◆◇
日常とは異なる境界の中。
魔女の結界の最奥で、主である<魔女>の断末魔が響き渡る。
それが途絶えるのと同時に、魔女が展開していた結界は蜃気楼のように消え、後には
それを拾うのは勿論、魔女を討伐した魔法少女だ。
「ふぅ……今日の所はこれで終わりにしましょうか」
変身を解除すると、そこには制服姿の少女がいた。
金の髪を左右でロール状に纏めており、手にしたソウルジェムはオレンジ色に輝いている。
彼女――『巴マミ』は見滝原に住むベテランの魔法少女だ。
幼い頃に交通事故に遭い、命を繋ぐために魔法少女の契約を結んだ。
それから今日に至るまで日夜魔女と戦い続けきた経歴を持つ。
今日も一人で魔女を倒し終え、自宅のアパートへと戻る。
するとそこにはマミの友人であり、マミを魔法少女へと変えた魔法の使者『キュゥべえ』が待ち構えていた。
彼の来訪は特に珍しい事でもなかったので、マミは気安い笑みを浮かべて目の前の小さな友人を歓迎する。
「あら、今日はどうしたの? お夕飯はこれから用意するから、もうしばらく時間が掛かるわよ?」
彼の体は白い体毛で覆われており、一見すると猫のようにも見えるが、耳から伸びる触覚のような毛と背中に描かれた赤い丸のような文様が、未知の生命体であることを示していた。
魔法少女達のマスコットとしては違和感のない姿をしており、キュゥべえはその薄紅色の瞳でマミを見上げる。
「今日はマミに頼み事があって来たんだ」
「え、頼み事? 珍しいわね……あなたがそんな事を言うなんて」
普段は用済みになったグリーフシードの回収や、近場で起こった異変の報告など、基本的に魔法少女のサポートのみで、その行動まで干渉する事は希だった。
「今回ばかりは緊急事態なんだ。これまで巧妙に隠れていたみたいだけど、ようやくその存在を観測できた。……この宇宙にまでアレがやってくるなんて、想定外もいいところだよ」
言葉の最後の方は若干愚痴るような響きを持っていた。
これもかなり珍しい事で、普段のキュゥべえは冷静というか無感動というか、とにかく感情の起伏が少ないのだ。
もちろん喜びもするし悲しむこともあるのは知っているが、マミはふとした瞬間、キュゥべえに言い様のない違和感を覚えてしまうのだ。
――この子、人間の感情が理解できてないのかしら。
とはいえ互いに違う存在である以上、まったく同じであるはずもない。
同じ人間ですら価値観の違いですれ違うと言うのに、生き物として異なれば尚更だろう。
脳裏に赤い魔法少女の姿を思い浮かべながら、マミはキュゥべえの有り様に理解を示す。
それに今では、大切なパートナーとして信頼していた。
そんなマミの小さな相棒は告げる。
「この街に、途轍もなく危険な生命体が紛れ込んでいる。マミにはそれを倒して欲しいんだ。
それも可能な限り早く――でないと、取り返しの付かないことになる」
その脅かすような言葉に、マミは疑問を覚える。
「危険な生命体……それって魔女とは違うのかしら?」
「全然違うよ。比べ物にもならない。
魔女は呪いを振りまくが、あれが成長すれば冗談ではなくこの星が終わる。
少なくとも地表にある既存の文明全てが変質を強いられ、元の姿を保てなくなるだろう」
「冗談……ってわけじゃないのよね」
彼の話はスケールが大きすぎて今一つピンと来なかった。
魔女の脅威から人々を守る為日夜戦い続けてはいるが、急に世界の終わりを告げられてもそれを実感する事は難しい。
とはいえ魔女以上の驚異と分かってしまえば、見滝原を守る魔法少女として、その頼みを引き受けないわけにもいかないだろう。
だが、それには不安要素も多かった。
「そんな怪物相手に、私一人で勝てるのかしら?」
「マミなら十分に可能だろう。あれも今はまだ幼体のようだし、魔女を相手にするのと比べれば楽に倒せるはずだよ」
その言葉を聞いて、マミが少し拍子抜けしたのも事実だ。
使い魔も成長すれば魔女に至る。つまり件の怪物も今はまだ使い魔の様な状態で、成長すれば世界を終わらせるほどの怪物へ進化するという事なのだろう。
「だったら急がなくちゃね。この街にそんな化け物がいるなんて、ぞっとしないもの」
帰宅早々再び外を探し回ろうとするマミに、キュゥべえは忠告した。
「気をつけて、マミ――あれは君達人類にとって天敵足り得る存在だ」
「……ええ、気を付けるわ。この街の平和は、私が守らなくちゃ」
マミは凛とした表情を浮かべると、キュゥべえから知らされた詳細な情報を元に、<怪物>退治へと向かう。
「……いざとなれば、この星からの撤退も視野に入れるべきかな。アレの感染力は驚異的だ。孵化してしまえば僕達でも手が付けられない。
念のため他の魔法少女達にも声を掛けるべきだろう。せっかくここまで育てた星なんだ。今更捨てるというのも勿体ないからね」
――魔法少女の